2002年8月12日月曜日

BSデジタル放送の不満と満足


  • BSデジタルを見はじめて1年たった。見るテレビのほとんどはBSだから、チューナーを購入して正解だったと思う。ワールド・カップは幅広画面で堪能したし、映画の番組もよく見る。デジタル用のテープ・レコーダーも買ったから、きれいな画面そのままに録画できるようになったし、必要なら、パソコンに取りこむこともできるようになった。何より、見たい番組を探す選択肢が多いのは楽しい。
  • けれども、チャンネルはもっとたくさんあってもいいと思う。実際、民放には使えるチャンネルが三つあるのだが、Wowow以外はどこも一つしか使用していない。3チャンネルで別々の放送しているNHKにも、じつはもう一つ隠しチャンネルがあって、時折、別放送をしている。
  • この使われていないチャンネルで、何か別放送をしたらいいのにと思う。新しい番組を制作するのではなく、地上波ですでにやったものを再放送するとか、地上波の番組を同時放送するとかすれば、それほどのコストはかからないのではないだろうか。実際、ワールド・カップの中継では同時にやったのだし、TV東京はニュースを同時に放送したり、人気番組を週遅れで放送している。NHKがニュースを同時放送しているのは、実験放送の段階からだった。地上波の映りが悪い地域では、格段にきれいな画面で見られることになるのだから、これは、是非実現して欲しいと思っている。
  • 一番の不満は、へー、と思うような実験的な番組が全然ないこと。他チャンネル化になれば、視聴者は数百万ではなく、数万とか数千になる。それで十分にペイする番組を模索するような姿勢が見られない。地上波の番組作りの発想からちっとも抜け出せない感じだが、地上波ももうすぐデジタル化しなければならないのだから、発想を転換しないと、他チャンネルは宝の持ち腐れになってしまう。
  • もちろん、各放送局が視聴者を増やす努力をしていないわけではない。一番宣伝しているのは双方向サービスだが、これはクイズやゲームといったものがほとんどで、たわいがないからつきあう気にはならない。あるいはテレビショッピングも多いが、ぼくはテレビ番組の中でこれが一番嫌いだから、ほとんど見ない。もっとも、テレビのもつ宣伝や洗脳の力をこれほど露骨に出す番組は他にないから、研究テーマとしては面白い材料だとは思う。何しろ、テレビ局が手っ取り早く収入をあげる手段であることは、UHFなどで証明済みなのだから。
  • デジタル化がもつポイントは多様化の中の競争だが、ワールド・カップで協力態勢を組んで成功したからなのか、今度は好きな映画の投票をさせて、人気のあったものを各局がそれぞれ放送するという企画を組んだ。「BSデジタル映画祭」。この試みは選択肢を増やすいいアイデアだと思う。全局で300本の映画を放映するそうだ。おかげで、どの時間でも、どこかで映画をやっているという状態になった。だからWowowとあわせて、ついつい映画を探して見てしまうことになった。
  • 上映している映画のほとんどは、すでに見たことがあるものばかりだったが、『運動靴と赤い金魚』ははじめてでおもしろかった。イランという国はイスラム教とあわせてわからない国といわれる一つだが、映画で描かれる人間模様はものすごくよくわかる。運動靴を買ってもらえない家庭の子供がくり広げる悲喜劇。男の子と女の子の大きくて澄んだ瞳そのままに、貧しいけれど、温かい世界がある。
  • そのほかに前回Book Reviewで紹介した『いちげんさん』も放映された。昔見た「 keiko」に似た素人くさい感じの画面作りだった。場所も同じ京都だったから、どうしても重ね合わせて見てしまった。後、行き当たりばったりでみているから題名も忘れてしまったが、ロビン・ウィリアムスやブルース・ウィリス、スーザン・サランドーン。夏休みだからこそ、できるカウチポテト。でも、いい気になっているうちに、もう8月も半分過ぎてしまった。
  • 2002年8月5日月曜日

    デビット・ゾペティの作品

     

  • デビット・ゾペティは日本語で小説を書くスイス人だ。名前からもわかるようにイタリア系だが、京都に来て、同志社大学で日本文学を学んでいる。彼が学生の頃、ぼくは同志社で非常勤講師をしていたから、ひょっとしたらキャンパスですれ違っていたかもしれない。確かに同志社にはさまざまな国からの留学生がいて、ヨーロッパからの留学生も珍しくはなかった。
  •  ぼくが彼の存在に興味をもったのは「ニュース・ステーション」のレポーターとしてだった。世界中に出かけていってさまざまな取材レポートをする。その報告が日本人のものとはちがって新鮮な印象を受けた。ところがいつの間にか見かけなくなって、しばらくしたら『いちげんさん』という小説の著者として再登場してきた。「すばる文学賞」をとった作品で、外国人が日本語で書いたことが評判になった。ぼくは読もうかと思ったが、何となくその機を逸してして、忘れてしまっていた。
  • ところが、今年の春先に西湖から毛無山に登ったときに、偶然彼とすれ違った。立ち止まって、なにやらメモを書いている。それが日本語だったから、おや?と思い、どこかで見た顔だと思って、ちょっと考えて、すぐに思い出した。一緒に登ったパートナーに彼のことを話すと、彼女は興味津々で話しかけた。
  • 彼の話では、つぎの小説の取材のために何度か周辺を訪れているということだった。富士山とその周囲の自然や景観にひかれて、ここを題材にした小説を書きたいと何年か前に思い立ったのだという。家族を失った主人公の中年の男が、ここで再生する話。ぼくは面白そうだと感じたが、彼の作品を読もうと思って、まだ買ってもいないことに気がついた。これは読まねばとさっそく買ったのだが、またしばらく、時間がなくて積んだままにしてしまった。いいわけがましいが、本当に忙しい気がして、小説を読む気にならなかった。ところがまた彼のことが話題になった。『旅日記』がまた賞を取ったのだ。もうこれはどうしても読まねば、という気になった。
  • 『いちげんさん』は題名の通り、京都を舞台にしている。同志社大学に留学した主人公が盲目の女性を好きになる。淡い恋愛小説だが、小説に描かれる京都に妙な懐かしさを覚えた。出てくる地名はもちろんだし、大学の中の建物について、あるいは学生がよく行く食堂や飲み屋など、読んでいて「あー、あそこかな」と連想させるような描写が楽しかった。
  • 面白かった点がもう一つ。これはこの小説の主題といってもいいのだが、京都の排他性に対する憎しみにも似た感情だ。主人公は食事をしてもカラオケを歌っても、「外国人が和食を食べてはる」「白人が日本語で歌ってはる」と感心されたり、奇異に思われたりする。中にはそのことをしつこく問いかけて来る者がいて、そのことに強く反発する。
  • あるいは、知らん顔をしているふりをして、こちらをじっとなめるように観察する京都人特有の視線に対する違和感………。これは、何も外国人に限るものではない。よそから京都に入った者が誰でも感じる思いである。「いちげんさん」ということばには、たしかに、よそからきた奇妙なやつ、信用のできないやつという蔑視がこめられている。
  • ぼくも、この主人公と同じような経験を何度もしている。そして、京都には30年住んだが、結局「いちげんさん」のままだった。だから何の未練もなく、また関東に移り住む気にもなった。あと何年かたったら、ちょっと長い旅をしていたような感じで、京都のことを考えるのかもしれない。読みながらそんな気にもなった。
  • 『旅日記』は題名の通り、彼が旅をした記録である。テレビ番組での取材もあるが、不意に思い立ってという旅の話もある。アラスカやノルウェイといった極地への旅が好きなようだ。それはそれで面白かったが、ぼくが興味をもったのは、彼が生まれ育った土地を離れて旅立つきっかけと、日本にたどりつくまでの過程だった。
  • 高校を卒業し、徴兵の義務も果たした後、ゾペティはアメリカを旅し、日本にもやってきた。その日本体験が気に入って、ジュネーブ大学の日本語科に入学。ところが、また日本にやってきて、今度は日本の大学に入ることにする。一年間の語学と受験勉強。そのスタンスの軽さと自分に対する自信に感心してしまった。
  • 『旅日記』の受賞にさいして、彼は、外国人なのにこれだけの文章を書くという評価がいまだについてまわることにもつ違和感を口にしたようだ。確かに、『旅日記』を読むと、彼にとって、自分がどこに住んで、何語を話して、どんな仕事をするかということが、自分の自由な選択の結果であることがよくわかる。
  • おおかたの日本人は、こういう自由さにうまく対処できないから、抵抗なく受けいれることができない。ゾペティは「いちげんさん」の作家で終わらずに、2作目の『アレグリア』を書き、そして、その次の準備もしている。もうそろそろ日本語で小説を書く外国人というレッテルが剥がれてもいいのに、と思う。もちろんこれは、ゾペティではなく、私たちの問題なのである。
  • 2002年7月29日月曜日

    暑中見舞い

     

    ・今年は河口湖も例年になく蒸し暑く感じます。昼は、素麺や冷麺が食べたくなります。相変わらず、富士吉田のうどん屋巡りをしていますが、頼むのはもっぱら、冷やしうどん。店屋によって違いますが、大根おろしとわさびに天かす、それにゆでキャベツが定番です。冷たいうどんはいっそう硬くて歯ごたえがありますが、店によって微妙に感触が違うので、同じ店ではなくて新しいところに行くようにしてきました。しかし、気に入った店がいくつかできましたから、そろそろなじみの店に固定しようかと思っています。


    ・今年の土用の丑の日は20日。しかし土曜日で混雑が予想されましたから、鰻は21日に食べに行きました。河口湖駅前の川津屋さんで、ここには引っ越して以来、時折通っています。350円のうどんと違って2000円ですが、それでも東京で食べるよりは安くて、何よりおいしいです。お茶をつぎにきてはいろいろ世間話をするおばあちゃんがいて、フィリピン人のダリーさんと2歳の息子の海人(かいと)君がいます。


    ・21日の夕方に行くと「昨日は品切れになって、大変だった。予約のほかに飛び込みのお客さんがはいったから」とダリーさん。しかし21 日は客も数人。忙しいのは悪いことではないけれど、何も同じ日に苦労して食べなくてもいいのにと思ってしまいました。何しろここの鰻は、客の注文を受けてから、水槽で生きているのをつかまえ、さばいて、串にさして、蒸して、焙るのです。誰も客がいなくても、食べられるまで30分はかかります。


    ・ときどき、観光客と一緒になりますが、いつまでたっても出てこない鰻に、ソワソワ、ハラハラしている様子に出会います。電車やバスの時間を気にしているのでしょうが、鰻重が吉野屋みたいにすぐでてくると思っていたのでしょうか。もっとも、東京で鰻屋にはいっても30分はかからないように思います。おそらく最初から串にさして、蒸してあるのでしょう。しかし、これでは鰻のおいしさは半減です。ぼくは川津屋に行くときには、いつでも、家から電話で注文して出かけることにしています。これだと、ほとんど待ち時間なしで食べられます。

    forest18-1.jpeg・仕事は22日で終わりました。授業はとっくに終わっていたのですが、会議の連続、パーティ、それに研究室の引っ越しなどで、蒸し暑い東京に行くこともしばしばでした。段ボール箱をもった拍子にちょっとギックリ腰になりかかりましたが、軽くて助かりました。夏休み明けには研究室が1.5倍の広さになります。3部屋を2部屋に改造するからで、広くなるのは歓迎ですが、鍵型になるので使い方には工夫が必要になります。


    ・で、休みに入って1週間。今は翻訳の最終チェックをする毎日です。お盆までには何とか仕上げてしまおうと、がんばっているところです。直すところはほとんど表記の統一なのですが、いくつか笑ってしまうような誤訳がありました。


    ・アドルノのポピュラー音楽批判についての部分で「ブッシュマンの祭日」と訳したところがあって、アドルノが野蛮な行動の象徴として使っているのだとはやとちりしました。しかし、実は「バスマン(運転手)の休日」だったのです。ポピュラー音楽を野蛮なものと切りすてるのはアドルノがよくすることですが、ここでの意味はバスの運転手が休日にもまた、車を運転して過ごすということで、働くことと余暇を過ごすことのあいだに、何のちがいもないという主張だったのです。


    ・こういうのは、一度訳してしまうと自分では気づきにくいミスで、編集者のていねいな校正に感謝するばかりです。翻訳は夜なべ仕事で、時には眠い目をこすって一日に1段落だけやっておしまい、なんてこともよくあります。調子のいいとき、悪いときなどもあって、訳文にばらつきもでてしまいます。ミスを指摘されるのは気分のいいものではありませんが、見つけてもらわないと、後でもっと困ることになってしまいます。


    ・そんなわけで、原稿の読み直しは念入りに。そのためというのではありませんが、テラスに置く椅子を買いました。カナダ製で、組みたてなければならなかったのですが、見た瞬間に気に入って衝動買いしてしまいました。組みたててしばらくは居間に置いて使っていたのですが、大きすぎて邪魔になるので、外に出すことにしました。白木にヤスリをかけて、ニスを塗って、今はもっぱらそこに座って訳の点検作業をしています。ちなみに、この椅子の名は「ゴシップ・チェア」。二人用で、あいだに小さなテーブルがついていますから、おしゃべり好きの人が二人座ったら、いつまでも話が終わらないかもしれません。

    2002年7月22日月曜日

    Patti Smith "Land(1975-2002)"

     

    ・パティ・スミスがベスト・アルバムを出した。2枚組で30曲。ぼくはほとんどもっているのだが、ライブがかなりはいっている。で、仕方なく買ったのだが、一気に聴くと、またちがった感じがしてなかなかいい。デビューは1975年だから27年間の総括ということになる。しかし、彼女は後ろは振り返らないという。

    私は過去とファックはしない。
    いつも未来を相手にしてきたから
    私が愛撫したステージや壁が私の胸に傷をつけた
    その木に刺さった一本一本のボルトが
    丸太と同じくらい好きだった

    ・パティは積極的にライブ活動をしていて、日本にもやってくるようだ。ぼくは97年に大阪で彼女のライブを見て以来だから、行きたいのだが例によって、断念した。もっとも、去年のフジロックはWowowで見た。苗場なのに「フジ、フジ………」としきりにいう。富士山の霊験を呼び寄せているかのようだったから、「そこはフジじゃないよ。誰か教えてあげればいいのに」といいながら見た。ニール・ヤングともども、ありったけのエネルギーを振り絞るようなパフォーマンスだった。

    ・"Land"を買ってから、通勤中の車の中や、仕事部屋でボリュームを思い切り上げて、何度も聴いている。エネルギッシュでパワフルだから、ついついアクセルに力がはいって、気がつくとびっくりするようなスピードになってしまう。はっと、我にかえって足の力を抜く。魔女の誘惑………くわばらくわばらである。

    夢のなかで夢を見た
    輝きと望み
    眠りからさめても
    夢は明るい峡谷の姿をして
    私にまとわりついた
    澄んだ空気と新しく自覚する感覚
    人びとが力を取り戻した
    力をもった ("People have the power")

    ・アルバムには若死にした前夫、リチャード・ソールの写真とスーザン・ソンタグの手紙が添えられている。「ここにある声はどれも矛盾している。異なる歌が同時に響きあっている。………退屈ではない。失望もしない。女たちは生意気で、セクシーだった。あなたのおかげ。大切な友だち。音楽はどこにでも入りこむ。口の中。脇の下。股の下。音楽は飛びあがり、飛び過ぎる。………あなたはどこかに行って、また戻ってきた。あなたは歯をむき出しにする。その笑いはいまでも魅力的でたまらない。夜に戻り、あなたの生活に戻りなさい。気勢を上げ、うずくまり、飛び上がって、叫べ。征服者に向かって。」

    ・ "Land"の一枚目は、ファンがパティのために選んだもの、そして二枚目はパティがファンのために選んだもの。確かに、一枚目はヒット曲が多く、アルバムからの再録がほとんどだ。二枚目はライブやデモテープが多い。もちろんぼくは、パティが選んだ二枚目の方が好きだ。

    2002年7月15日月曜日

    佐渡の荒海

     

    sado1.jpeg・日本マスコミュニケーション学会が新潟であったから、ついでに佐渡まで足を延ばした。学会会場の新潟大学は国立だからか冷房がない。台風の影響で気温は33 度。シンポジウムの会場はうだるような暑さで、頭がもうろうとするほどだったから、9.11以降のメディア報道という興味深いテーマも、ほとんど上の空だった。新潟は暑いところだと思ったが、懇親会場に移動するバスも冷房が弱いし、懇親会場のイタリア軒ホテルも暑い。どうもいつもとはちがう異常な暑さだったようだ。
    ・新潟から佐渡に行くフェリーの港は信濃川の河口にある。日本一長い川だけあって川幅は広い。その河口から日本海に出ていくあいだ、カモメの群が見送ってくれた。彼らは客の投げるカッパエビセンが目当てで、食いしん坊のやつは佐渡島が間近になるまでついてきた。ひょっとすると、フェリーとともに毎日何往復もしているのがいるかもしれない。

    sado2.jpeg・台風が来ているから当然、天気は悪い。しかし時折、陽が差したりもする。波もそれほどでもないから、車に積んできたカヤックで海での初乗りができるかもしれない。そんなことを期待しながらフェリーでの2時間半をぼんやりと過ごした。
    ・佐渡島は北東から南西にのびる二つの大きな島がくっついた形をしている。港の両津はその島と島のあいだの平地にあって近くには湖もある。今は繋がっているが、大昔は別々の島だったのかもしれない。地形を見ながら、そんなことを勝手に考えた。北側は山が険しく、有名な金山がある。南はなだらかな山が続いている。くっついてはいるが、北と南の山並みはずいぶん景観がちがう。
    ・せっかく来たのだからと、まずは北側の山をめざして車を走らせ、金山を通り過ぎて、後は海岸沿いに南西の端の小木までひとっ走り。所々に露出している山肌は、いかにも金銀その他がとれそうな、さまざまな色の地層をしている。


    sado3.jpeg sado4.jpeg sado5.jpegsado6.jpeg


    sado7.jpeg・宿は陶芸家が体験者用にはじめたという民宿。佐渡には無名異焼という赤土を使った焼き物があるが、宿の主人は自分で佐渡の土を探して、自分で薪窯を作って、自分の作風を見つけだしたというこだわりの人だった。古い民家を移築して作った宿、大木を自分で切って作ったテーブル、あるいは巨石を積み上げた蟷螂など、なかなか面白いところだった。
    ・小木と直江津のあいだには航路がある。港には観光用のたらい船もあったから、ぼくもカヤックをと思ったのだが、たらいにのって女性たちが漁をするという場所は、ご覧のとおりの荒海。断崖の上から恨めしそうに眺めて、あきらめることにした。地元の人に、やっぱり日本海は荒々しいですね、というと、台風の影響だからで、いつもは凪状態だという応えがかえってきた。そう聞くとますます残念だが、しかし、打ち寄せる波の景色は、それはそれで見ごたえがあった。

    sado8.jpeg・近くには千石船を作った船大工の村がある。朝早起きをしてその宿根木に散歩をした。険しい断崖の入り江にある集落で、茶色い家が密集している。家の造りも独特で、装飾もある。集落の真ん中には川が流れていて両側は石畳。道の一番奥にはよく手入れされた庭のある寺。かつて栄えた村だということがよくわかった。
    ・佐渡は車を飛ばせば一日で一回りできる。しかし、一泊では何とももったいないほどいろいろなものがある。フェリーの料金も高い。しかし、もう一泊というわけにもいかないから、また来ることにして帰ることにした。
    ・「荒海や 佐渡によこたう 天の川」(芭蕉)。そういえば、泊まった夜は7月7日の七夕。あいにく夜は時折すさまじい雨が降って、空など眺める気にもならなかった。しかし、夜遅く河口湖に着くと、富士山に山小屋の明かりが点々とついていて、まるで北斗七星が下まで降りてきたようだった。空には満天の星………。

    2002年7月8日月曜日

    ラベンダーと紫陽花と蚕



  • 今年は曇り空ばかりで、すっきりしないが、夏は確実にやってきている。湖をつがいで泳ぎ、飛んでいた鴨には、いつのまにか小鴨が加わっていた。カヤックで近くまで行くと、親を挟んで、こちらの気配を伺いながら遠ざかっていく。

  • 湖畔のラベンダーは6月になると咲き始めて、末には満開。今年は早いから7月の中旬まで開催されている「ラベンダー祭」まで咲いているかどうか。しかし平日でも、会場は人で一杯。観光バスに乗った日帰りの団体さんが多い。大テントの土産物売り場は人いきれでむせかえっている。




  • この時期の河口湖町の植物にはもう一つ丹精込めたものがある。天上山の紫陽花の群生だ。天上山にはロープウエイがあって、湖畔から上まで乗って、歩いて下るとたっぷり楽しめる。自生したものではなく、町が植えたものだから、ずいぶん手間がかかっているし、世話も大変だろうと思う。手間や世話が大変なのはラベンダーも同じだが、紫陽花を見に来る人は桁違いに少ない。ラベンダー祭の団体客の喧噪にうんざりした後は、誰もいない紫陽花の山にほっとした気持ちになった。とはいえ、7月に入ってからの陽気は、異常な湿気で、山を下っていながら汗びっしょりになってしまった。



  • 今回の話題はもう一つ。家のある大石は昔から紬で有名だ。付近には桑の木がたくさん生えていて、今の季節は桑の実が採れる。真っ赤な実はプチットした感触でなかなかおいしい。紬は絹織物だが、絹は蚕が作る繭を紡いで糸にする。ちょうど今の時期、桑の葉をおなか一杯食べさせて繭作りをさせる。繭を作りおえたら熱処理して蚕はおだぶつで、後は繭を煮沸して糸を紡ぎだす。その蚕を少しもらって、家で繭玉を作らせてみた。グロテスクな蚕がつくりだす何とも繊細で美しい繭玉。そのままにしておくと、蛾に成長して繭を食い破って出てきてしまう。そこで我が家でも、オーブンで熱処理して、蚕には成仏してもらった。







  • 2002年7月1日月曜日

    携帯その後

  • 携帯を使いはじめてから3カ月がすぎた。で、どうかというと、電話はかかってこないし、メールも来ない。充電を忘れるし、持って出かけることも忘れる。もうほとんど不要品になっている。
  • もちろん、はじめから電話をするために買ったのではない。誰にも番号を教えていないし、自分からかけることもほとんどない。一番の理由は大学に届くメールのチェックで、PDA(手帳)につないで使うことが目的だった。しかし、これが何ともやっかいなことになった。
  • 授業がはじまると学生に課題を出しはじめた。メールで提出させるのだが、今年度は「書き方表現法」でDTPソフトの「PageMaker」を使うことにした。文章の練習だけでなく、それを新聞や雑誌の紙(誌)面のようにレイアウトする練習をしてもらおうと思ったからだ。
  • 文章は人に読ませるものだから、当然、書く内容や文体、あるいはことばの使い方だけでなく、見た目にも気を配る必要がある。題名をどうつけるか、どのくらいの大きさのどんな種類の文字を使うか、写真やイラストは必要かどうか、縦書き、横書き、罫線、余白と、これがなかなか大変なのである。
  • 文章論で、このようなことまで教える人は少ないが、実際に新聞や雑誌の仕事をしはじめれば、それを無視しては記事は書けない。昔のように本文や見出し、あるいは罫線などを切り張りしたり、活字を拾って版組みした時代とちがって、今はどこでも、パソコンでやっている。ジャーナリストになるのはなかなかむずかしいが、なりたいと希望する学生は少なくない。だったらやっぱり、経験させてみる必要はあると思っている。
  • そんな理由で、「書き方表現法」を担当し始めたときからこれをやりたかったのだが、これができる機種はマッキントッシュで、大学でそれが使える教室には、登録した学生を収容することはできなかった。だから、希望者だけ募って補習という形でやったりしてきたのだが、去年パソコン教室のウィンドウズが機種を入れかえたのを期に「PageMaker」をいれてくれるように要望して、今年度から授業で使えるようになった。
  • ウィンドウズは久しぶりでやりにくいこともあったが、今年は運良くTA(ティーチング・アシスタント)もつけてもらった。よくわかっている院生で、ずいぶん役に立って順調にいったから、頁のレイアウトをして印刷して提出というだけでなく、PDFにしてホームページで紹介することにした。で、ぼくのところにメールに添付して提出。
  • 受講者は30人で、毎週手順通りに作業をこなす学生は半分ほど。一週遅れが数人いて、時たま顔を出してはだいぶ遅れて提出するものがまた数人。残りは、もうあきらめたのや、最初からとるつもりのない者たち。提出された課題は研究室に戻って処理するのだが、どうしても、遅れて出す学生が毎週いる。
  • 携帯でやっかいなことになったのが、この遅れて出された課題だった。PDFのファイルは数百キロから1メガを超えるものになる。携帯で大学のサーバーにアクセスしたときにこれが届いていると、ひとつのファイルにつき10分も20分もかかってしまう。100キロを超えるものはダウンロードしないという設定にしても、どういうわけか拾ってしまう。
  • こんなことが何度かあって、メールをチェックするのは大学か自宅のパソコンだけにしたのだが、そうなると、もう携帯を使う必要はほとんどない。たまに人と会う時や、家族への連絡に時折つかうだけで、用のないものをポケットに入れておくのがだんだん面倒になってしまった。で、そのうち忘れて出かけることになり、特に困らないから、持たないのが普通になってしまった。
  • こんな経験から思うのは、<携帯>というのは必要だから持つというものではなくて、<携帯的な関係>を作りたいから必要になるし、そのような関係にはまってしまえば、もうなくてはならないものになる、ということだ。で、ぼくにはその<携帯的な関係>が必要には思えないし、面白そうにも感じられなかったということだ。
  • ついでに、PDAについても一言。アメリカでは携帯機能のついたものが売り出されているが、日本では一体型はない。いちいちコードでつなぐ面倒と遅いスピード、高い接続料金。それに老眼が進んで見えにくい画面にもちょっと嫌気がさしている。小型のノート・パソコンもまだまだ中途半端で、これと思うような道具にはなれそうもない。システム手帳にもどそうかな、などと考えたりするが、すでに半年すぎた2002年のカレンダーや日付入り予定表、あるいはメモ用紙などを買うのもあほらしい。