2004年4月27日火曜日

ウィルス、ジャンク、新研究室

 一時減少したジャンク・メールが、最近また多くなった。拒否のできないもの、返送や転送でやってくるものが多いから、受けとると同時に中身をあけずにまとめて削除している。同じもののくりかえしがほとんどだし、ウィルス・メールもたくさんあって、うっかりあけるわけにはいかない。ウィルス・メールの量には何度か波があって、多い日には数十通、ジャンク・メールも合わせると150を超えるような日もある。「サーバーからも削除」して「ゴミ箱に移動」、さらに「ゴミ箱をからにする」。こんな作業を日に何度もやらなければならない。


こんな状態だから、題名が英語やアルファベットのものはまったく中身を確認しないで捨ててしまっている。ひょっとするとおもしろいメールがあるのかもしれないが、いちいち確認する気にもならない。とはいえ、ジャンク・メールの増加とは反比例して、パーソナルなメールが海外から来ることは少なくなっていた。留学生からの相談も全くなくなったし、僕が持っているレコードを譲ってくれといった依頼もなくなっていた。そういえば、国内の他大学の学生からのメールもめっきり減った。卒論を作成する秋から暮れにかけては毎年何通も相談が舞いこんでいたのだがここ数年は、それもほとんどなくなった。

国内、海外を問わす、レポートを書くための文献探しなどは、ほかにあてにできるサイトがいくつもできたからなのかもしれない。ゼミの学生だけで手一杯なのに、とぶつぶつ言いながら相談に乗っていたのに、何も来ないと何となくさみしい。そんな気もしないではないが、院生がどんどん溜まってきて、今年は博論作成予定者が前期で1名、後期で3名、修論作成予定者が3名もいる。それに学部の4年生が10名。秋から暮れにかけていったいどういう状況になるか、などと想像しただけでぞっとしてしまう。

また研究室の引っ越しをした。東経大に来てから3つめの部屋。引っ越しは面倒だが、広くなることと、眺めが良くなることが魅力だった。最初に入った部屋から次に1.5倍になり、そして2倍になった。ずいぶんゆったりできる。部屋の真ん中に書架を置いて、二つに区切ったから、ゼミや院の授業もやりやすくなった。建物自体も変わって、今度の研究棟は傾斜地に建っている。ちょうど目の高さに森があって、夜には府中の町の夜景がきれいだ。遠くには富士山も一望できる。引っ越し時には、ちょうど窓いっぱいに桜が満開だった。これまでの部屋ではブラインドを落としっぱなしにしていたが、今度は部屋にいるときにはあげて、窓も開けるようにしている。今は風がさわやかで気持ちがいい。


管財課の人たちと何人かの院生にはずいぶんしんどい作業をしてもらった。本や書類がリンゴ箱で100箱、それに机や戸棚、テーブル、たくさんの椅子。さらには何台ものパソコンを運んでもらった。引っ越し先の研究棟は、どういうわけかエレベーターが各階の中間にあってきわめて使いにくい。しかも間の悪いことに定期点検にぶつかってしまった。

話をメールにもどそう。今、もっとも利用しているのは、学内でのやりとりだ。教務課(院)や学務課(学部)、教員同士、そして学生。レポートやレジュメはもうほとんどメールでの提出になった。大学には各教員に配られる必要な書類や届いた手紙などを投函するメール・ボックスがある。大学に出校するとまず、この棚を確認して書類や手紙を持ちかえるが、ネットのメールもほとんどこれと同じ役目をする場になってきた。そのような意味でいえば、メールはますます閉じた世界で使用されるものになったといえるかもしれない。

ところが、一方でジャンク・メールやウィルス・メールの山である。メールは郵便とは違って、不特定少数の人からパーソナルな便りがやってくる。そこがおもしろかったのだが、外からやってくるのはビジネスを意図したジャンクメールといたずら目的のウィルス・メールばかり。だからメールをチェックする楽しみはだんだん失せてしまってきている。不特定少数の人たちとの新しいコミュニケーション・ツール。メールにはこんな可能性を持ったのだが、それは普及期の一時的な現象に過ぎなかったのかもしれない。だんだんそんな感じがしてきている。

もっとも、『日本のポピュラー文化を学ぶ人のために(仮題)』(世界思想社)を作成中で、執筆者相互のやりとりをする掲示板を作ったから、その確認や書き込みが忙しくなりそうだ。これは一般に公開していないが、おもしろい話題や本の宣伝になりそうなことは紹介しようと思っている。

2004年4月20日火曜日

身内と世間、イラクの人質事件について

 

・イラクで誘拐された3人が帰ってきた。命があってよかったと思う。事件の一報がはいってから解放されるまでの経過については、事件そのものはもちろん、それを伝えるメディアのやり方、3人の家族や友人たちの態度や発言、小泉首相や政府関係者の対応の仕方、そしてもちろん、さまざまな人の声などなど、ずいぶん興味深いものがあった。
・事件が伝えられるとすぐに、家族や友人たちがテレビに出はじめた。東京の北海道事務所に置かれた会見場からの中継が各局からひっきりなしに放送された。わずか2日で自衛隊の撤退を求める署名が15万人分も集まった。特に興味深かったのは、3人の親や兄弟の発言だった。「自衛隊はまともなことをしていない。小泉さんは決断すべきだ」「弟は生半可の気持でイラクへ行ったのではない」「撤退を考えない、というのでは助かる見込みがない」。

・こういった発言に対しては、それを支持する以上に、反対する声が多かったようだ。大きな状況を考えない家族のエゴ。勝手な行動をしたのだから、殺されても仕方がない。高遠さんのHPには批判や中傷が集中して、掲示板は1時間で閉鎖されたそうだ。家族の家にも相当数の中傷電話がかかったようで、こういうときに湧き出る匿名の誹謗中傷というのは、インターネットや携帯の普及で、ますます強いものになっているようだ。
・しかし、僕が何よりすごいと思ったのは、メディアに積極的に出て発言する家族や友人たちの行動だった。テレビの取材に応じて、日本の国内に対してというよりは、イラクに向けて、あるいは世界中に向けて、自分の子どもや姉や弟が、イラクでこれまで何をしてきたのか、今回、何をしに行こうとしたのかを訴え、家族や友人がどれほど心配しているかを伝えた。そうすると、そのニュースはまたたく間にイラクに届き、アルジャジーラやそのほかの放送局が取り上げ、また欧米のメディアでも放送された。「娘はイラクを愛していました。娘を解放してください」。おそらく、このような声は映像とともに、誘拐犯にも届いたはずである。

・自衛隊を撤退させないと早々と宣言した政府も、もちろん、積極的に対応した。しかし、官房長官の会見はいつでも、「情報収集につとめている」ばかりで、具体的なものはほとんどなかった。人質を解放するというニュースが報じられたときにも、その理由は3人がイラクのために活動している人たちであること、家族が心配していることであって、政府が交渉した結果ではないことが明らかになった。
・人質が解放されたのは1週間後で、その間、政府がどう動いたのかはいまだによくわからない。犯人を説得して解放に一役買ったのは、イスラム教スンニー派の聖職者クバイシ師で、彼の姿は3人の解放の瞬間はもちろん、フランス人ジャーナリストの解放の場にも現れている。その彼が日本政府に対して不快感をあらわにした。「われわれの努力を日本人の多くが評価してくれている。しかし、日本政府はそうではないようだ。」
・ところが、大臣や自民党、公明党の議員、あるいは外務省の官僚たちは、そんな外交交渉のまずさは棚に上げて、人質にされた人たちの自己責任ばかりを強調して、かかった費用を請求すべきだといった発言を噴出させた。善意の気持ではあっても迷惑な行為、イラク支援は自衛隊の仕事で、もはや民間人の手を出すことではない、といった主張だ。しかし、これは何ともおかしな発言である。

・高遠さんは自衛隊がイラクに行くずっと前からバクダッドのストリート・チルドレンの世話をしていて、今回もその資金を調達するために一時的に日本に帰ってきたにすぎない。彼女はもちろん、自衛隊の支援など望んでいないし、自衛隊がしていることは比較的治安の安定しているサモアで医療と給水の活動をしているだけなのである。高遠さんがやらなければ、バクダッドのストリート・チルドレンの面倒は誰が見るのだろうか。彼女の活動はすでに「善意」などということばでは説明できないものになっているはずなのである。
・あるいはフリー・ジャーナリストの郡山さんも活動を続けるためにイラクに残りたいと考えていた。彼らのような人たちがすべてイラクから退去してしまったら、いったい誰が、イラクの状況を世界に伝えるのだろうか。彼や彼女たちは、危険を十分承知した上で、それでも活動を続けたいと考えている。それに対して、控えた方がいいのではないかと進言することはともかく、無謀だとか自己責任をとらせてやれといった言い方には、了見の狭さを感じざるを得ない。

・このような批判が噴出していることについて、アメリカのパウエル国務長官は、ヒーローである彼らに、日本人は敬意を払うべきだ、という発言をした。これが日本の政府に自衛隊の派遣を要請した当事者の意見であることを考慮すれば、個人の行動に対する考え方の違いはいっそうはっきりする。
・解放された3人を迎えに家族がドバイに迎えに行った。「迷惑をかけたことをお詫びし、心配してくれた人たちにお礼を言えと言ってやります。」日本に戻る前に、政治家や政府の役人はもちろん、無数の人たちに反感を持たれないように、あいさつの準備をというわけだ。これはもちろん、家族の人たちが、自分の発言に対するさまざまな反応から学んだことでもある。日本人の社会は相変わらず「世間」という村社会。お上には従順で、お世話になりましたと素直に感謝をする。そういう態度をとらなければ、たちまち批判の的にされてしまうか、あるいは村八分だ。
・「身内」は「世間」に対する隠れ家だが、「世間」に立ち向かって盾になるほどの強さはない。だから家族は「世間」に対して誠意を込めてお詫びし、感謝するわけだが、今回の事件と被害者家族の行動の仕方には、今までとは違う「身内」のあり方を垣間見た気がした。「身内」が結束して「世間」に訴える。その「世間」とは狭い日本の社会だが、他方でその声はイラクはもちろん、世界中に届き、そしてまた日本の「世間」に帰ってくる。ここからはっきり映し出されるのは、閉鎖的で、横並び的で、しかもお上に従順なきわめて特殊な関係である。たとえば外務省の幹部は「特殊な環境にいて、世間の感覚がまだ分かっていないのではないか」と冷ややかに言い放ったそうである。「世間」が日本に限定された狭い感覚であることを自覚した上での発言なのだろうか。

2004年4月13日火曜日

"Gracias A La Vida"

 

・ 「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」(人生よありがとう)を作ったのはビオレータ・パラ。チリを代表するシンガー・ソング・ライターで1967年に自殺をしている。チリ民謡の研究者として、歌手として、また多くの歌をつくった人として名高いが、何より取りざたされるのは「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」の作者ということだ。
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人生よありがとう こんなにたくさん私にくれて
人生は私に笑いをくれた 涙をくくれた
こうして私はしあわせと不幸を見分ける
私の歌を形づくる二つのものを
私の歌は同時にあなた方の歌
私個人の歌であるとともにみんなの歌
人生よありがとう(濱田滋郎訳)

hara1.jpeg・パラの作った「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」は歌詞のとおり、チリの人々にとって忘れられない歌になる。1970年にチリにはじめて社会主義のアジェンデ政権が誕生したとき、多くのミュージシャンがそれを支援する運動をした。それは「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動と呼ばれた。その代表はパラの歌に共鳴して歌い始めたビクトル・ハラで、チェ・ゲバラを歌った「姿現すもの」や「耕す者への祈り」といった歌をつくって、社会や政治の変革に音楽が力をもつことを実践した。ちょうど、アメリカやヨーロッパ、そして日本にプロテスト・フォークやロック音楽の嵐が吹き荒れていた頃だ。
・しかし、アジェンデ政権は軍事クーデターによって倒される。1973年9月11日(ニューヨークの惨事と同じ日)。鉱山の国有化や大農場の解体といった改革に反対する勢力の巻き返しによるものだが、裏で糸を引いていたのはアメリカのニクソン大統領だと言われている。チリは銅の輸出国だが、アメリカが備蓄していた銅を大量に放出して価格を暴落させたためにチリの経済が破綻したからだ。アジェンデ大統領が殺害され、ピノチェトを大統領にした軍事政権が成立する。
・軍事政権はアジェンデ政権を支えた勢力を激しく弾圧して、多くの人々を殺害したが、その中にはビクトル・ハラもいた。殺されていく人、それを見守る人、そして投獄された人たちが口にしたのは「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」だった。(八木啓代『禁じられた歌-ビクトル・ハラはなぜ死んだか』晶文社)
・NHKのBSが2003年9月に「世紀を刻んだ歌 人生よありがとう」を放送した。ビオレータ・パラ、ビクトル・ハラ、ピノチェト軍事政権下での弾圧を「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」を中心にして追いかけていて、なかなか見ごたえがあった。抵抗運動をして生きながらえた人、家族や友人を失った人たちが、「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」をどんな思いで歌ったか。で、さっそくCDを集めたのだが、パラの歌はシンプルで、当時の時代状況と重ねあわせて聴くと、あらためて、素朴な歌い方がもつ訴える力を感じざるを得ない。

sosa1.jpeg・番組では、この歌をその後に歌いついでいった人たちも紹介していた。そのなかでメルセデス・ソーサという歌手が気になったのだが、CDを聴いてその歌唱力のすごさに圧倒された。アルゼンチンの歌手だが、アンデス山脈の麓に生まれインディオの血を受け継いでいる。1935年生まれというからもう70歳近くになる。僕が買ったのは、1991年に出されたものと、2003年に出されたもので、どちらもブエノスアイレスでのライブ盤だ。「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」は91年のCDで歌われている。軍事政権下の圧制に苦しんだのはアルゼンチンでも同じだが、2003年のライブに入っている「いつの日か来る歌」は、迫害を受けながら抵抗したビクトル・エレディアの作だそうだ。
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軽い歌を私にひとつください
パンをひとかけら
その日その日の闘いを
だってこの人生がなくて生きていくのは
わたしにはできないことだから(高場将美訳)

・アジェンデ政権と軍事クーデターについては、五木寛之が『戒厳令の夜』( 新潮社、1976年)を書いている。福岡から始まって内戦のスペイン、占領下のパリ、そして戒厳令下のチリと展開する壮大な物語で、ピカソやカザルスなど美術や音楽を話題にして読む者を引っ張り込んでしまう小説で、僕は今でもこれが彼の最高傑作だと思っている。ちなみにこの小説は映画化されていて樋口可南子のデビュー作で、同志社大学のキャンパスが映し出されてもいて、今でも印象深い映画の一つになっている。

2004年4月5日月曜日

岩渕功一編著『グローバル・プリズム』平凡社


iwabuti1.jpeg・韓国の映画やテレビドラマが人気になっている。韓国でも日本の映画や漫画やテレビドラマが受け入れられるようになった。このような文化的な交流はワールド・カップ前後からだ。日本人はずっと欧米を向いて、その動向に注目してきたが、やっと日常のレベルで、アジアへの関心をもちはじめてきた。
・もっとも、アジアの人びとの日本の文化への関心は、以前から高い。たとえば、漫画や音楽は台湾や香港、そして中国の若い世代に強く支持されてきた。日本ではあまり注目されていないが、『グローバル・プリズム』はそんなアジアに浸透する日本のポピュラー文化について調査をし、興味深い考察をしている。この本が注目するのはテレビのトレンディドラマである。
・日本のテレビドラマは、衛星放送やケーブルテレビでのわずかの放映を除けば、アジアでは正規に見ることはできない。しかし、トレンディドラマは、ビデオでもDVDでもないVCDという媒体によって海賊版として売られてきた。安価でパソコンでも見られるという利点が普及の理由のようだ。開発したのは日本の家電メーカーだが、なぜか日本では普及していない。またテレビ局も、不法性を主張こそすれ、自社製作のドラマを商品として積極的にアジアに売ろうとはしなかった。
・なぜ、日本のトレンディドラマがアジアに受け入れられたのか。この本の中で注目しているのは「リアリティ」ということばである。若い世代は自国のドラマに古くささや田舎臭さや貧しさを見てしまう。日本のトレンディドラマは、それとは対照的に都会的で豊かで新しい。彼や彼女たちは、そこに自分の夢を託し憧れるが、それは手に届かない世界ではなく、自分たちが近い将来に手にするはずの「リアリティ」のある世界にほかならない。韓国、台湾、香港、中国………。トレンディドラマは経済大国としての日本の風景や生活や若者の行動を目の当たりにできる格好の材料なのである。
・もちろん、このような現象にはさまざまな批判やとまどいもある。日本に支配された経験をもつ世代には、それは新たな文化侵略として映る。ハリウッド映画やマクドナルドに象徴されるアメリカの文化戦略にはそれほどの抵抗を見せないのに、日本の文化には拒絶反応を示す。こんな傾向は程度の違いこそあれ、どこの国でも一様にみられたようだ。
・ところが、若い世代はアメリカよりは日本の文化にこそ、親近感をもち、将来の自分の姿を投影させる。侵略ではなく積極的に取り込んで実現させようとする姿勢がある。韓国は日本の文化の輸入を制限してきたが、今、日本に輸入されはじめているテレビドラマは、海賊版で出回った日本のトレンディドラマをまねてつくりだされたものだ。
・『グローバル・プリズム』は日本人の他に韓国、台湾、香港、そして中国人の執筆者によって書かれている。日本の文化がそれぞれの国にどんな影響を与えたのか。それを解明するこのような集団研究のあり方には、内容以上に新しい文化交流の可能性を見ることができる。

2004年3月29日月曜日

春の湖

 

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・今年の春は早かった。2月の中旬過ぎから寒さが緩みはじめて、3月になったら霞がかかりはじめた。こうなると、過ごしやすいが景色はダメ。何より空の青さが薄れてしまう。もっとも、湖の水も温んでいるから、カヤックにはちょうどいい。 ・そんなわけで、来客があった3月中旬に、西湖で今年の漕ぎはじめをした。一緒に楽しんだのは、世界思想社の中川大一さんと、関東学院大学の伊藤明己さん。前日東経大で「日本のポピュラー文学を学ぶ人のために」(仮題)のミーティングをして、そのまま車でお連れしたのだ。

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・中川さんは大学時代に探検部に所属して、カヤックで紀伊半島一周に挑戦したことがあるそうだ。潮岬で断念したと言うが、それでもずいぶんがんばったものだと思う。だから西湖でのカヤックなどは物足りないかと思ったら、大きな富士山と空中で旋回する鳶に感激したようだ。 ・彼は今バードウォッチングをはじめていて、早朝には家のまわりで鳥も探して回った。僕と伊藤さんも彼につきあって望遠鏡で小鳥を追った。シジュウカラ、ヒヨドリ。家の窓からでも楽しめる鳥しか見つからなかったが、早朝の散歩は僕も久しぶりで気持ちが良かった。その後、庭でジョービタキとミヤマホウジロを見かけた。

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・これでもうすっかり春、と思っていたら、卒業式のあった22日に大雪が降った。朝はまだ降っていなかったのでとりあえず大学には行ったが、JHのHPが速度規制、チェーン規制と立て続けに出しはじめたので、昼前には慌てて帰途についた。何しろ雪では何度もえらい目に遭っている。卒業生に会えなかったのは残念だし、彼や彼女たちもがっかりしたことだろうと思う。また、暇なときに顔を出してください。

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2004年3月22日月曜日

春の房総半島

 大学の授業は1月の中旬で終わる。しかし、忙しいのはそれからで、修士論文の審査、卒論集の作成、学部の入試、院の入試と3月中旬まで続いた。そのあいだに、博論や修論の相談が入るから、本当に休む暇がないほどだった。おかげで、自分の研究などはまったくできずにほったらかしたままだ。
そんな忙しさが一段落した3月中旬に房総半島をドライブした。先端の館山で一泊しての小旅行。今年は暖冬で河口湖にいても物足りない冬を過ごしたが、それでも一足も二足も早い春の訪れを体験したのは心地よかった。


家を出てから中央高速を河口湖から国立・府中。これはいつも通い慣れたルート。ここから府中街道を川崎に向かったのだが、これが渋滞。河口湖から府中までの高速が一時間(100km)なのに府中から川崎までが2時間(50km)。東京の道路はだから走りたくない。などとぶつぶつ言いながら川崎へ。
アクアラインへのアクセス道路はまだ工事中だ。工場が並ぶ風景とあわせて何とも殺風景だが、羽田が近いから飛行機の離着陸が間近に見えた。アクアラインに入ると一気に海底へ下る。下り放しでどこまで下がるのかと思っていたら明かりが見えてきてびっくり。完全に目の錯覚で、登り坂までが下っているように感じられてしまった。

アクアラインは中間に「海ほたる」という休憩施設があって、そこから木更津までは橋になっている。「海ほたる」からは東京湾が一望できるが、スモッグで今ひとつはっきりしなかった。河口湖にいると、どこに行っても空が青くないと感じてしまう。



木更津からは海外沿いの道を南に走って、鋸山にロープウェイで登った。確かに石を切り出した後が鋸のようにギザギザしている。しかし、房総半島の山は丘のようになだらかで、山という感じがしない。海も静かで穏やか。ぽかぽか陽気でいかにも温暖の地そのものだった。


海岸線の断層が斜めに走っている。関東大震災の時にできたらしい。縞模様が美しい。宿からは夕焼けの富士山が見えた。東京湾は狭いが、富士山はやっぱり大きい。夕食は金目鯛など地魚の盛り合わせ。美味!

2004年3月15日月曜日

セディク・バルマク『アフガン・零年』


セディク・バルマクの『アフガン・零年』はNHKとの共同製作による、一人の少女の物語だ。旧ソ連のアフガニスタン侵攻以来、20年以上も戦乱が続く国の現実を、少女の運命を通して描きだしている。この映画は、2004年の「ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞」のほか、2003年のカンヌ国際映画祭では「カメラドール特別賞」「 CICAE賞」「ジュニア審査員最優秀作品賞」をとり、さらに釜山、ニューデリー、ロンドン、バリャドリッドなどで開催された国際映画祭でも受賞している。僕はこの映画をNHKのBSで見たが、続けて放送した映画の製作過程のドキュメントとあわせて、アフガニスタンの現状について思い知らされた気がした。


映画の主人公は母と祖母と暮らす13歳の少女だ。しかし、タリバン政権下では働くのは男と決められているから、女3人の暮らしは成り立たない。少女は髪を切って男の子になりすまして仕事を得る。ところが、他の少年たちと一緒に招集されたタリバンの宗教学校で女であることがばれてしまう。井戸に吊される罰、初潮、宗教裁判………。話の残酷さ、悲惨さはもちろんだが、瓦礫と土埃だけの風景もまた異様で、まるで地獄絵を見ているような感じだった。


ドキュメント・タッチで迫真力のあるこの映画は、それだけで完成された一つの作品だ。けれども、僕は、同時に見た製作過程の方によりいっそうの興味を覚えた。主人公の少女を演じるのは「マリナ」という。監督がストリート・チルドレンの中から見つけてきた。内戦で足が不自由な父親に変わって5歳から物乞いなどをして一家を支えてきたという。その少女は美しいが、その目はまた何とも哀しげで絶望している。

私は、主人公の少女を探して3400人の少女達と会いました。そして、ある日路上で一人の物乞いの女の子と出会ったのです。「お恵みください」そう言った少女の目には深い悲しみが宿っていました。それがマリナでした。(監督のことば)
マリナは学校に通ったことがない。だからセリフはその都度、監督が口移しで覚えさせる。笑わないマリナに冗談を言い、なかなかとれない顔の緊張をほぐそうとする。ところが泣くシーンでは、悲しかったことを思い出してごらんと言うと、彼女の目からは大粒の涙があふれ出る。母親をくりかえし呼んで泣く井戸に吊されるシーンの説明はなかったが、おそらく恐怖感から自然に出たものだと思う。製作過程のドキュメントを見ていると、マリナが演技をしたシーンなどは一つもなかったことがよくわかる。彼女にとって映画に映されたシーンは、自分の日常の一こまの再現にすぎなかったのである。


この映画の撮影期間中、彼女とその家族には食べ物や燃料が配給され、撮影後には家族が半年以上暮らせる出演料が渡された。物乞い以外で得たはじめての収入、カメラの前に立つというはじめての経験。ドキュメントは最後に1年後のマリナを映し出した。施設で勉強する彼女は将来、女優になりたいという。アフガニスタンを代表する女優になって欲しいと思うし、そうなる才能や魅力にあふれている少女だと思った。


この種の映画を見て思うのは、極限状況で生きる人たちにとって何より大事なのが、その日の食べ物だということだ。『戦場のピアニスト』はまさに、どう食いつないで生き延びたかがストーリーの骨格だった。そんなに大事なことも、飽食の時代には、忘れたり軽視されがちになる。人は3日も食べなければ、途端に空腹感に苦しみ飢え始めるのに、そういう状況にならなければ、本気で考えることもない。「人はパンのみに生きるにあらず」とは満ち足りた人間の言うセリフで、『アフガン・零年』を見ると

、「人は食うために生きている」ということをもっと大事にしないといけないと思った。
今年のアカデミー賞は『ロード・オブ・ザ・リング』が総なめしたが、『アフガン・零年』は候補にも挙がらなかった。娯楽一辺倒の姿勢が批判されたりもしたようだ。しかし、賞を取るかどうかという以前に、僕はこの映画をアメリカ人はもっともっと見るべきだと思う。ベトナム、ユーゴスラビア、アフガニスタン、そしてイラクと、アメリカが介入した戦争のためにいったいどれだけの人が肉親を失い、飢えに苦しみ、将来を台無しにされたか。マリナにはアメリカのいう「正義」などまったく無意味なものなのである。数日後にあったアメリカの州兵がイラクに派兵されるドキュメントを見て、特にそう思った。