2004年12月14日火曜日

デブラ・ウィンガーを探して

 

・ここのところ落ち着いて映画を見る暇がなかった。学生の書いた文章が山のようにあって、読みたい本も後回しの毎日で、当然たまるストレスの発散や運動不足の解消には、もっぱら外に出て薪割や倒木集めに精出した。しかし、卒論が一段落したところで、しばらく忘れていたWowowの雑誌を開けると、前から見たいと思っていた映画がいくつも目についた。「8マイル」「デブラ・ウィンガーを探して」「フル・フロンタル」「くたばれハリウッド!」、あるいは「エンジェルス・イン・アメリカ」などなど。
・「8マイル」はラップ・ミュージシャンのエミネムが自ら主演する自伝物語だ。ラップはアメリカのスラム街から若い世代の黒人の主張として始まった。エミネムは白人ではじめて成功したラッパーで、肌が白いから偽物と言われたりするのだが、映画を見ると、彼の生い立ちは黒人達よりも貧しく悲惨だったようだ。R&Bをロックンロールに変えたエルビス・プレスリーに重なる話でおもしろかった。聴いていてもことばがわからないラップにはいまひとつ馴染めないのだが、映画を見てバトルがどういうものなのかよくわかった。8マイルはデトロイトに住む白人と黒人の距離で、エミネムはそこを飛び越えて大ブレイクしたというわけだ。
・「デブラ・ウィンガーを探して」「くたばれ!ハリウッド」「フル・フロンタル」はハリウッドをテーマにしていて、前2作はドキュメントだ。どの作品にも共通しているのは、華やかな世界の裏話とスターやプロデューサーの浮沈と内面の苦悩である。
・「くたばれ!ハリウッド!」は斜陽のパラマウント映画を再生させたプロデューサーであるR.エヴァンスの物語だ。「ゴッド・ファーザー」「ある愛の歌」「チャイナタウン」「ローズマリーの赤ちゃん」などをヒットさせたエヴァンスは「ある愛の歌」のヒロインであったアリ・マッグローと結婚する。飛ぶ鳥を落とす勢いの70年代、そして凋落の80年代。「フル・フロンタル」はソダバーグが監督している。彼は「セックスと嘘とビデオテープ」でデビューしているが、「フル・フロンタル」はドキュメントタッチで現代のハリウッドを描きだしている。解雇、浮気、恋愛と肌の色の違い。
・しかし、一番おもしろいと思ったのは「デブラ・ウィンガーを探して」だった。なじみの女優達がたくさん出てきて、監督した女優のロザンナ・アークエットのインタビューを受ける。彼女たちが話すのは、結婚、子育て、あるいは離婚の経験と、それによって味わった女優という仕事に対する迷いや悩みである。
・ハリウッド女優に望まれるのは何よりセックス・アピールで、それは若さの代名詞でもある。だから30代になり、40代が近くなれば、依頼される仕事は少なくなる。といって、地味な母親役には気乗りがしない。またこの年齢になれば、結婚や出産、そして子育てといった役割を実生活で担うようになって、仕事と家庭生活の板挟みに苦慮することにもなる。
・たしかに映画の中では、30、40代は中途半端かもしれない。50代、60代になれば、それなりに年輪を重ねた重厚な演技や枯れた役割が要求される。主演でちやほやされた人たちには地味な脇役は気が進まないだろう。長く生き残るかどうかの節目にあたる年代なのだろうと思う。
・しかし、ここでも問題はジェンダーにあるようだ。中年世代でも男であれば、それなりの主演映画に出るチャンスはいくつもある。しかし女には少ない。だから、老年世代になれば、存在感のあるスターは圧倒的に男優ということになる。映画がまだまだ男中心に作られている証拠で、年齢に相応した役柄で女優が映画に出演するためには、女のプロデューサーや監督、そして脚本家の登場が望まれるのだという。
・とはいえ、現実には、ハリウッド映画はますます若い世代、あるいは子供向けの作品を作る傾向にある。中年の女が抱える問題をテーマにした映画がハリウッドで可能なのだろうか。この映画に登場した女優達は口を合わせて、テレビドラマへの出演に拒絶反応を示した。アメリカでは相変わらず、テレビ俳優は二流なのだろうか。その作品の質はともかくとして、日本とは異なる状況だと思った。

2004年12月7日火曜日

冬の収穫

 

・今年の冬は暖かい。とはいえ、12月になったら、最低気温が零下になった。広葉樹は大半が葉を落として、山の色は茶色に変わった。風が冷たくなり、空気が乾いてくると、空は抜けるように青くなる。夜には満天の星屑だ。通勤の朝は真っ青な空を見て車に乗り、夜、帰宅すると星空を見上げる。ちょっと前までは朝霧が立ちこめていたが、それも今はない。

forest38-1.jpegforest38-2.jpeg


・富士山は10月には冠雪があり、今では上の4割ほどが白くなっている。その冠雪し始めたばかりの頃に、御殿場口から車で行ける太郎坊まで登ってみた。江戸時代に噴火した宝永山が左にあって、この角度からの富士山は美しくない。頂上の幅も広いから、ここまであがると台形のようになってしまう。残念ながら駿河湾も霞んでよく見えなかった。

・週末になると家から見えるすぐ近くの山でハングライダーが飛んでいる。前から気になっていたから、そこまで登って見ることにした。上まで林道があると思って出かけたのだが、途中で出会った猟師さんに道がちがうといわれてしまった。しかし、尾根伝いに真っ直ぐ登れば行けるというので、道があるようなないような尾根を真っ直ぐ登った。木がびっちりで鬱蒼としているから、頂上はいつまでたっても見えない。ほぼ直線の登り坂にくたびれて、途中で何度もあきらめかけた。けれども、引き返すのもシャクだから、何とかがんばって頂上まで。平日でハングライダーをする人はいなかったが、眺めは素晴らしかった。残念ながら雲が出ていて富士山は見えなかったが、雲の様子はなかなかのものだった。

forest38-3.jpegforest38-3.jpegforest38-4.jpegforest38-5.jpeg


・毎年のことながら、紅葉の季節が終わると観光客の姿は少なくなる。もっとも、11月28日にあった河口湖マラソンには8000人の参加者があったそうだ。今年で29回目。湖畔道路一周が20キロだから二周する。毎年見に湖畔まで出かけているが、参加者が増えて、今年はランナーの切れ目なしに二周目のトップがやってきた。もう人数的に限界だという気がする。仮装ランナーが少なくておもしろさも今一つだった。

・今年の薪ストーブの焚きはじめは11月の中旬だった。まだそれほど寒くはなかったが待ちきれない気持で火を入れた。家全体がじわっと暖まるいい感じだが、木は貴重品でむだ使いはできない。そう思っていたら、湖畔で思わぬ大量の収穫があった。新しくできたトンネル近くに荒れ放題の空き家がある。その入り口にきれいに長さを揃えた木が一山。その他に長いままの木が10本ほど。本当にヨダレもので、さっそく車に積み込んですでに5往復ほどした。

・全部の木を手に入れれば、おそらく二冬分はたっぷりある。しかし、チェーンソーで切り刻まなければならないし、太い幹の部分は、車に入れるのも大変だ。持ち主に断ったわけではないから、何となく気が引ける。もっとも誰のものなのかはよくわからない。そんなわけで、時間を見つけてはすこしずつ運ぼうと思っている。

2004年12月1日水曜日

柏木博『「しきり」の文化論』

 

sikiri.jpg・「しきり」は、それほど頻繁に使われることばではない。「しきり」「しきりなおし」など、相撲用語といってもいいかもしれない。しかし「しきる」は人間にとって、あらゆる意味で本質的なものである。
・「わたし」と「あなた」、「私」と「公」、家の内と外、市境、県境、国境。現在、過去、未来。昨日、今日、明日。あるいは一日、一時間、一分一秒。私たちは空間や時間をしきり、そこに違いをつけ、流れや関係を自覚する。それではじめて、形も大きさも長さもはっきりする。その意味では「しきり」は人間学や文化論の基本的なテーマだと言ってもいい。
・住居にはかならず、壁があり、屋根があり、窓があり、また扉がある。家の外には庭があり、庭の周囲には塀が張りめぐらされる。その仕組みはもちろん自然環境に影響される。暑いところでは風通しよく、寒いところでは逆に、冷気を遮断するように作られる。けれども、住まいの形はそれだけで決まるわけではない。
・アメリカの郊外住宅には塀はめったに見られない。対照的に日本の住居にはかならず塀が巡らされる。それを開放的と閉鎖的という国民性の違いとして見るのはあまりに単純だろう。外に対してはっきりした「しきり」をつくらないのは、「私」と「公」の区別がはっきりしているからで、日本の住居に塀が欠かせないのは、それがはっきりしていないせいではないかと著者は指摘する。
・もちろん、違いはそれで説明しつくされるわけではない。アメリカの郊外住宅は、郵便番号によって人種や学歴、あるいは収入がわかるほどに区分けされているのだという。しかも、近隣の人を招いてのホーム・パーティも盛んなようだ。どこの誰かわからない怪しい人影を警戒する必要は、事前に取りのぞかれているというわけである。一方で日本はというと、地縁・血縁の関係が崩れて都市化した住宅環境には、新しい自発的な関係が生まれにくかった。
・住居は「私」と「公」を区別する。しかし、日本における住宅やそこに持ちこまれた家財道具の変容は、「私」空間をさらに細分化する「しきり」にもなった。リビングと寝室の区分け、子ども部屋、そしてそれぞれに置かれたテレビと電話、あるいはパーソナル・コンピュータとケータイ電話。日本人の生活の仕方とそこに生まれた「しきり」をあらためてみつめると、戦後の日本人が家族内個人主義をめざして突っ走ってきたことがよくわかる。
・個人主義は「私」と「公」を区別するだけの考え方ではない。むしろ、そこを前提にした上での人間関係の持ち方や、「公」に対する姿勢や行動にこそ力点がおかれるべきものである。著者は、現在の日本人の「しきり」の作り方に、他人を配慮しない個人主義を感じとり、新しい住居の発想や、ホーム・パーティの流行なども紹介している。たしかに「しきり」に対する無自覚さと、それがもたらした問題を考え直す必要があるのだと思う。

(この書評は『賃金実務』11月号に掲載したものです)

2004年11月24日水曜日

早川義夫『言う者は知らず 知る者は言わず』

 

hayakawa2.jpg・早川義夫は本屋の店主で、時折、朝日新聞の書評欄で本の紹介をしている人だが、もともとはミュージシャンで、「ジャックス」というロックバンドの歌手だった。その「からっぽの世界」を聴いたのは、ぼくが浪人中の頃だったから、もう35年以上も前のことになる。タクトという今で言うインディーズからでた45回転のドーナツ盤でB面は「いい娘だね」。僕がはじめて聴いた、日本人によるまともなロック音楽だった。場所は忘れたが、予備校の授業をさぼってコンサートにも行った。そのときの「かっこいいー」という印象がいまだに残っている。その早川義夫の初アルバムは「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」。
・「ジャックス」はすぐに解散してしまったが、しばらくして早川義夫の作った「サルビアの花」がヒットした。歌っていたのは岩淵リリ。石川セリ(井上揚水の奥さん)の歌った「八月の濡れた砂」とともに、僕にとっては数少ない記憶にのこる日本の歌である。ちなみに「八月の濡れた砂」は藤田敏八が監督した日活ロマンポルノで高校生を主人公にした青春映画だった。そのとき不良っぽい高校生で出演していた村野武範は、今はテレビ東京で温泉やうまい店を訪ねる番組のレポーターをしていて、僕はよく見ている。
・歌をやめたと思っていた早川義夫が歌っていると聞いたのは、数年前のことだった。どうせ昔の歌ばかりだろうと関心ももたなかったが、つい最近、新しいアルバムが出ていることを知った。で、何枚か買ってみた。声がずいぶん変わった印象を受けたが、じっくり聴かせるいい歌がいくつもあった。
・ライブの2枚組み「言う者は知らず 知る者は言わず」では「からっぽの世界」や「いい娘だね」などから、最近作ったものまで26曲も歌っている。

hayakawa1.jpg 歌を歌うのが 歌だとは限らない
感動するのが 音楽なんだ
勇気をもらう一言 汚れを落とす涙
日常で歌うことが 何よりもステキ
僕は何をするために 生まれて来たのだろう
何度も落ち込みながらも 僕は僕になってゆく
夜空に放つ大きな花 身体に響く音楽
何の野心もなく 終わりに向かって歩く 「音楽」

・音楽に理屈などいらない。批評などはたくさんだ。この「音楽」や「批評家は何を生みだしているのでしょうか」といった歌を聴くと、何も言えないような気になってしまう。何せアルバムのタイトルは「言う者は知らず知る者は言わず」なのだ。確かにそのとおりで、よくわからずに知ったかぶりやしたり顔をする輩が多すぎる。もっとも、彼は本屋の店主でもあったから、歌詞には理屈っぽいところもある。だから、ただ聴いて感動するだけではなく、ついつい考えてひとこといいたくなってしまう。
・僕が一番おもしろいと思った歌は援助交際を題材にした「パパ」だ。この手の問題で、女の子の声は聞けても、「おじさん」の言い分は聞いたことがない。しらを切る。発覚すれば平謝りで、弁解の余地すらない。だから意外な新鮮さがある。「パパ」に歌われている心情は正直で何とも切ない。

父親の振りをして/二人で腕を組む
少年のような恥じらいと/老人のようないやらしさと
仕方ないさ 好きだもの/いつまでも恋人

早川義夫の公式サイトは今年作られたばかりだが、何本かのコラムと日記が載っている。「パパ」のモデルは中川五郎なのか?、などと思わせる文章があるが、砂浜で犬と黒鳥が映っている写真はなかなかいい。

2004年11月16日火曜日

Love on line

・大学院の授業でアーロン・ベンゼブの"Love on line, Emotion on the Internet"を読みはじめている。ベンゼブはイスラエル人で他に"The Subtlety of Emotions"という著書がある。"Love on line"はネット恋愛を材料にしている。気の合う相手をチャットなどでみつけ、主に文字のやりとりで恋人関係になる。当然、二人の間には文字を使った性的な関係もできる。最愛の人、もっとも信頼できる人、そしてエクスタシーをもたらしてくれる人。ネットではそんな人や関係がたやすく見つけられるという。下衆の好奇心をくすぐる話だが、なぜそんな関係がたやすくできるのかという疑問は立派にメディア論の材料でもある。

気に入った人、いいな、と思った人にどうやって近づくか。相手とコミュニケーションをするか。そのきっかけを見つけることや、親しくなるプロセスをうまく作りあげることは、日常の直接的な関係のなかではなかなか難しい。あたりまえの話だ。だからこそ、信頼できる友だちや人生のパートナーとなる相手を見つけることに真剣になる。そして、真剣になればなるほど、その関係がうまくいかずに壊れてしまったりもする。 


ところが、ネットではそれが簡単のようだ。まず、気の合う相手をさがす選択肢が無数にある。興味対象が一緒、ものの考え方感じ方が共通する。要するに波長が合う相手を見つけることは、ネット上では難しくない。しかもそうやって出会った相手とは、波長が合うところだけでつきあえばいい。自分が誰であるかをあかす必要がないし、外見の良し悪しや表現(表情、仕草、ことばづかい等々)の巧拙を気にする必要もない。もっとも、文章力は大事な要素になるだろう。


匿名のままで親しくなる。それは、社会的な体裁など考えずにホンネでつきあえる関係をつくりだす可能性をもつし、また、反対にまったくのフィクションの世界も創造させる。たがいに交差する部分、共感し合う感情は一点だから、そのようにしてつくりだされた関係や世界は、何の障害もわだかまりもなく、まっしぐらに突き進む。想像の世界でありながらまた現実の相手とする相互性をもった世界。ベンゼブはそれを「想像の中の相互的革命」だという。


確かにネットにはそんな魅力がある。けれども容易で安直な分、壊れやすいしリセットもしやすい。日常から浮きあがった半分想像上の世界なんだという自覚を忘れると、ドラッグのように中毒にもなりやすい。恋愛関係が簡単に成立するということは、その他の感情、たとえば喜びや楽しさも共有しやすいが、また怒りや哀しみも簡単に増幅させてしまうことにもなる。誹謗中傷、あるいはネット荒らしが日常茶飯事になっていることをみれば、それは明らかだろう。当然、そこには詐欺や悪徳商法がつけこむ隙もたくさんあるということになる。自殺志願者が集まって集団自殺を実行する。そんなことが社会問題化したりもするのである。


そんなことまで含めて、ネットのメディア論的特徴を考えるのは興味深いテーマだと思う。その材料としての「ネット恋愛」なのだが、読みはじめてすぐに不満を持ってしまった。ネットのメディア的特性は、かなりの部分で電話(携帯)と重なるし、文字のやりとりということで言えば手紙とも共通する。あるいはテレビとの違いは何なのか、といったことも考えてしまう。


もっとも、そんな不満はこの本にかぎらない。この手のコミュニケーション論やメディア論には、コンピュータを使ったコミュニケーション(CMC)を直接的なそれ(face to face)と比較しながら検証するという方法がある。僕はこれには前から不満を感じていて、直接的な関係のなかにある多様で複雑な問題をほとんど無視してしまうから、分析が薄っぺらなものになってしまうと思い続けている。この本でも、ネット恋愛(on line)とそれ以外のもの(off line)という乱暴な分け方をしていて、それが何ともおおざっぱな印象を与えてしまう。
しかし、だからこそ、そこを批判的に読む必要があるとも言える。学生にハッパをかけて、300ページ近いこの本を、今学期中に読んでしまうつもりである。

Love Online: Emotions on the Internet (English Edition) by [Aaron Ben-Ze'ev]


2004年11月9日火曜日

何でブッシュなの?

 

・米国の大統領選挙でブッシュが勝ってしまった。この4年間に彼がやってきたこと、招いてしまったことを考えると、これからの4年間にいったいどんなことがおこるのか、空恐ろしい気がしてしまう。何としてもケリーに勝ってほしかった、というよりはブッシュに負けて欲しかった。そんな思いで選挙の結果を注視していたのだが、結果には、腹が立つというより、暗澹たる思いである。
・米国の大統領は米国だけのものではない。世界中に大きな影響を与え、世界を動かす存在であることを如実に示したのは他ならぬブッシュだ。だから、米国以外の国の人たちは利害関係を持つ企業家や投資家や政治家をのぞけば、ほとんどブッシュの再選に反対だった。にもかかわらず、アメリカ人の過半数が彼を支持したのだから、本当に信じられない気がする。
・9.11の恐怖から逃れられないという気持ちはわからないでもない。けれども、その恐怖心が何倍にも増幅して、アフガニスタンやイラクを滅茶苦茶にしてしまったことに、アメリカ人はどれだけの自覚をしているのだろうか。イラクでの状況がベトナム戦争の再現であり、泥沼化してどうしようもない状況を招くだけであるのは、開戦前からわかっていたことである。少なくとも、米国の外にいれば、簡単に予測がつくことだった。それがわからないアメリカ人の多さに愕然としたが、それが現実化した現在でも、なお、力で抑えつけようとするブッシュを支持してしまう。
・これはもう、米国を好きとか嫌いとかいうレベルの話ではない。状況を判断することができずに感情的に暴走する怪物を、いったい誰が、どんなふうにして抑えることができるのか。大統領選挙の結果には、そんな絶望的な気持がつきまとう。
・もちろん、ブッシュに反対し、ケリーを支持した人の数も多い。その意味では、米国ははっきりとした意見の違いで大きく二分されたと言える。各州の勝ち負けの状況を記した地図を見ると、東海岸と西海岸、それにシカゴ周辺がケリー支持で、南部と中西部はブッシュ。リベラルと保守がきれいに色分けされた様子と、その対立の大きさは、60年代を思い出させるほどである。
・そういえば、僕はブッシュの顔を見るたびに、『イージーライダー』の最後のシーンで、理由もなく二人の主人公を撃ち殺すトラックを運転する農夫を思い出す。奇妙な外見が気に入らないという理由だけでにやにやしながら発砲する。その表情がそっくりなのだ。もっとも、南部や西部の人たちにとっては、東部の気取った連中にはやっぱり嫌悪感をもつようで、前回のゴアの敗戦は、何よりそれが一番の原因だったとも言われている。けれども、それが投票行動を左右した一番の理由だとすれば、やっぱり内向きで世界の現状を見ていないといわざるを得ない。
・敵と味方、善と悪をはっきりさせ、多様性を認めず、自分の信念を強調する。ブッシュの単細胞さ、身勝手さは独裁者の性格そのものだが、しかし、ブッシュにはヒトラーがもっていたようなカリスマ性はない。演説も話にならないくらいへたくそだ。アホづらをし、とんちんかんな発言をして、相手を失笑させる。大統領になるまでにほとんど外国に行ったことがなかったというから、世界に対する関心もほとんどなかったのだろうと思う。しかし、そこが愛嬌になって親近感を持つ人がいたりする。米国大統領の権限の大きさ、強さと、それを選ぶ判断基準の些末さ、いい加減さ。
・そんなブッシュがまた大統領になって、これから4年間、世界を動かしていく。日本はというと、小泉がその提灯持ちをして、素直にしたがうのだ。取り返しのつかないことにならなければいいが………。今はただ、それだけを願うのみだ。

2004年11月2日火曜日

井上俊『武道の誕生』吉川弘文館

 

budo.jpg・アテネ・オリンピックで、日本はメダル・ラッシュに盛りあがった。一番の稼ぎ頭は柔道で、青い柔道着に違和感をもったとはいえ、選手の活躍があらためてお家芸であることを認識させもした。今回はその柔道についてである。
・柔道は日本の国技だが、その歴史は古くはない。というよりは明治から大正にかけて確立された、きわめて近代的なスポーツである。『武道の誕生』を読むと、その成立の過程がよくわかる。
・「柔道」は武術や武芸の一つとしてあった「柔術」をもとにしている。「術」を「道」に変えたのは嘉納治五郎で、彼は、各地に散財する諸流派を統合し、技の分類や段級制、あるいは試合のルールや審判制度を規定して理論的に体系化させた。しかも嘉納はそれを国内で確立させるだけでなく、同時に国際化させることも考えた。彼は日本人最初の国際オリンピック委員でもあった。
・この本ではそんな柔道の発展を、「伝統の発明」と「和魂洋才」という二つのキーワードを使って解きあかしている。
・伝統とは昔からあって現在に伝えらたもののことである。けれども、伝統といわれるものごとをよく見ると、そこには現在に合うように工夫された部分があるし、忘れ去られたものの再生であったり、場合によっては、新しく作られたものであることも少なくない。
・江戸から明治にかわって武芸や武術はその必要性を奪われた。食うに困った武士が見せ物として演じたりしたから、文明開化にあわない野蛮なものとしてあつかわれた。嘉納治五郎は、そこに「近代スポーツ」という性格を付与し、同時に伝統的なものを「道」として特徴づけようとした。それは日本人にとって受けいれられやすいものであったが、また欧米の人たちにとっても、ジャポニズムという魅力のひとつになった。スタイルを洋風にして、そこに和風の精神を注入する。「和魂洋才」によって「伝統」という名の新しいスポーツが「発明」されたのである。
・「柔道」は「剣道」もふくめて教育にとりいれられ、やがて軍国主義化の波のなかでスポーツよりは精神を鍛える手段に変質する。それは「没我献身」や「滅私奉公」といった自己放棄と国家への忠誠をたたき込むイデオロギーという性格を色濃いものにした。
・柔道は戦後になると再び、スポーツとしての側面を強くする。身体と同時に精神を鍛えるものであることが強調されたが、それは柔道にかぎることではなかった。メジャーリーグが身近になって、「精神野球」の特異さがあからさまになったことはその好例だろう。
・もっとも、オリンピックはますます商業主義化して、メダル候補選手のほとんどに強力なスポンサーがつくようになった。ドーピングで身体を改造させても強くなりたいという傾向も問題化している。こんなスポーツの現状にあって、「精神」とはいったい何だろうか。「精神」と「身体」と「金」。それは柔道だけの問題ではないようである。

(この書評は『賃金実務』10月号に掲載したものです)