2020年4月13日月曜日

ジョン・プラインの死

 

prine5.jpg・ジョン・プラインがコロナ・ウィルスで死んだ。感染して症状が重いことは知っていたが、死の知らせはやっぱりショックだった。入院していることを知ってから、持っているCDやYouTubeで彼の歌を聴き、インタビューなども聞きながら、回復して欲しいと願っていたが、残念だった。73歳。僕より二つ上だった。

・ジョン・プラインは日本ではあまり知られていない。ウィキペディアも日本語版には載っていない。しかし彼は今年のグラミー賞で生涯功労賞を受けているし、1991年の"The Missing Years"と2005年の"Fair & Square"で、グラミーの"Best Contemporary Folk Album"を受賞している。18枚のアルバムを出して9枚が同賞などにノミネートされているから、その実力の程は飛び抜けていたと言っていい。

・とは言え、彼は地味なミュージシャンだった。格好もつけず、驕りもせず、隠し事もしない。「つねに自然体。一人の自由な姿勢をくずさない。そして、時代の気温を親しい旋律にとどめて、ひとの体温をもつ言葉をもった歌をつくる。ほんとうに大事なものは何でもないものだ。かざらない日常の言いまわしで、なかなか言葉にならないものを歌にする。」長田弘が『アメリカの心の歌』(岩波新書)で書いた評ほどプラインを言い当てたものはない。僕はこれを読んで、それまでは興味を持たなかった多くのミュージシャンを聴くようになったが、プラインもその一人だった。ちなみに、僕はこのホームページを1996年から続けているが、最初に書いたのは、この長田弘の『アメリカの歌』だった。

John Prine.png・プラインは1998年と2013年に二度の癌手術をしている。しかし少しの中断期間はあっても、コンスタントに音楽活動はしていて、2016年 "For Better, or Worse" 、2018年 "The Tree of Forgiveness"とアルバムを出して、健在ぶりを示していた。僕はこの2枚とも、このコラムで取り上げている。亡くなったと聞いてまず聴いたのは、遺作になったアルバムの最後に収められた「僕が天国に行く時」 という曲だった。神様と握手をして、ギターをもってロックンロールをやる。酒を飲み、かわいい娘とキスをし、ショウ・ビジネスを始める。そんな歌のように今ごろは天国に着いて、この歌を実現させているのかもしれない。

・このアルバムには、すでに死んでしまった音楽仲間を歌ったものもある。そう言えばウィリー・ネルソンの最新作の "Last Man Standing"(最後の生き残り) も、すでに死んだミュージシャンをあげて、次は誰かと歌っていた。そんな気持ちは僕も同じなのかもしれない。最近このコラムで取り上げた中にも、難病に苦しむジョニ・ミッチェルのことや、引退を宣言したジョーン・バエズなどがあった。そのバエズはプラインがコロナに感染したことを聞いて、彼を励ますためにYouTubeで"Hello in There"を歌っていた。4月に来て、ライブハウスで数多くのコンサートをこなす予定だったボブ・ディランの来日も中止になった。感染したと伝えられたジャクソン・ブラウンは軽症のようだが、どうしたのだろうか。なお、ジョン・プラインの死を追悼してブランディ・カーライルも"Hello in There"を歌っている。

・プラインが感染したのは、ひょっとしたら小さな会場でのライブだったのかもしれない。最近でもそんなところでライブをやっていたようだ。日本でもライブハウスが感染のクラスターになって、行ってはいけないところの代表に上げられている。確かに密閉された空間に大勢の人が集まって、一緒に歌ったり、掛け声をかけたりするから、感染しやすい場所であることは間違いない。二度も癌の手術をしたという自分の体調を考えれば、感染を恐れて自重したらよかったのにと言いたくなるが、彼はやっぱり歌いたかったのだろうと思う。何しろ、天国に行っても歌うぞと宣言していたのだから、本望だと納得するほかはないのかもしれない。

2020年4月6日月曜日

こんな時にこそ、読みたい本

 エドワード・T.ホール『かくれた次元』みすず書房
ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン上下』岩波書店
レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』亜紀書房

新コロナウィルスによって、世界が大混乱に陥っている。感染者や死亡者の多いイタリアでは「濃厚接触」を避けて「社会距離」を取ることが法律で規制されるようになった。ハグやキスを挨拶としてすることが習慣化している人たちにとっては、簡単なことではないのかもしれないと思った。もっとも、「濃厚接触」ということばは2009年に新型インフルエンザが流行した時に使われ始めたもので、その時に「マスクと濃厚接触」という題で触れている。

hole1.jpg エドワード・T.ホールの『かくれた次元』は、人びとが取りあう距離が、その関係に応じて物理的に違っていることを説いたものである。つまり私たちが他人との間につくる距離は、その親密さの程度に応じて「密接距離」(極めて親しい)から「個体距離」「社会距離」「公衆距離」(見知らぬ他人)と分類できるというものだった。「濃厚接触」はこの分類では「密接距離」や「固体距離」にあたるが、今回の騒ぎでは「社会距離」を取れということがしきりに言われている。
ただしこれらの距離感には、人種や国民性による微妙な差異がある。この本には、パーティの場で近づきたがるイタリア人と、それに圧迫感を覚えて後ずさりするイギリス人の例を挙げ、それが外交官同士なら、国の関係にも影響してしまうといったことが冗談として語られている。
今は多くの国で、法律の規制として2m以内に近づくことが禁止されているのである。もちろん屋内の密閉された空間では、「社会距離」をとっても感染する危険性がある。だからこその「テレワーク」だが、コロナ禍をきっかけに人びとの持つ距離感が大きく変わるかもしれない。そんなことを思いながら、読み直してみた。

naomi1.jpg データの改ざんや書類の隠蔽が日常化している安倍政権下では、新コロナウィルスについての情報は全く信用できない。感染者数や死亡者の少なさには、海外からも、オリンピックのために情報操作をしているのではという疑問が上がっている。
ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』は、惨事に便乗して政治や資本が、自分に都合の良い政策や投資を行うことを、極めて多くの事例をもとに告発したものである。戦争や紛争やテロ、台風や地震などの自然災害がその好例だが、さて今回のコロナ禍はどうか。各国の政治リーダーは感染の拡大を抑えることに全力投球していると言うだろう。実際雑念があったのでは、うまくいくはずはないのである。しかし、現実には。これを利用してと考える力も少なくないはずである。
ショック・ドクトリンの信奉者たちは、社会が破壊されるほどの大惨事が発生した時にのみ、真っ白で巨大なキャンパスが手に入ると信じている。(上巻28頁)
solnit.jpg 大災害が起きた時には買い占めや暴動などが起きるが、逆に被害者を助け、支える人たちやグループが生まれ、そこに一種のユートピアが一時的に出現することがある。レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』は東日本大震災直前の2010年末に出版されていて、この欄でも取り上げたことがある。詳細はそちらに譲るが、ここでは、国家の災害対策が情報の統制や過剰な取り締まりによって、人びとの不安や恐怖心を募らせ、暴動などを生じさせる危険があることだけをあげておこう。
読み返してみて思うのは、人が集まることが規制されるコロナ禍では、人びとの間に相互扶助の気持ちが生まれ、「自生の秩序」ができる機会が極めて難しいという点である。外出や営業の自粛を求めても、そのために生じる損失を保証するとは言わない日本の政府の対応では、倒産したり、生活が困窮したりする人が大量に出現するのは明らかである。それを批判するデモや集会もできないから、ネットでということになるが、果たしてどんな動きが出てくるのだろうか。

ほかにも思いついた本はいくつもあった。しかし、ぱらぱらとめくってみて気づいたのは、伝染病の世界的蔓延を危機として取り上げたものがほとんどなかったことだった。コレラやペストなど、すでに過去のもので、人類が克服したものとして語られることはあっても、現在、あるいは未来に起こるかもしれない危機として指摘したものは見つからなかった。それだけ先例のない、予測や対処方法の見つけにくいものであることを再認識した。もっとも、気候変動による自然災害が急増しているように、新たな病原菌が続出する危険性だってありうることかもしれない。

2020年3月30日月曜日

外出自粛でネットで映画

 

・東京オリンピックが延期になった途端に感染者が急増して、都知事が都内への移動を自粛と言い始めた。何か怪しい。感染者数を意図的に操作しているのではないかと疑ってしまう。お彼岸の3連休には高速道路の渋滞が久しぶりにひどかったようだ。僕の住む河口湖でも他府県ナンバーの車が多かった。そんな状態をほったらかしにしておいて、延期決定後の態度豹変である。最初にオリンピックありき。現金の給付ではなく、観光券や牛肉券、魚券などといったニュースを耳にすると、この国は本当にもうダメなのだとつくづく思う。

amazon1.jpg ・とは言え、人ごみに出るのは極力避けて、週一回のスーパーでの買い物だけにしている。もちろん外出はほかにもしているが、それは山歩きだったり、自転車での湖一周だったりするから、ウィルス菌に感染する心配はほとんどない、だろうと思っている。で、多くなったのは午後の数時間をネットでの映画鑑賞に費やすことだった。Amazonでの映画鑑賞は今までもやっていて、目ぼしいものはほとんど見てしまっていたから、探すのにちょっと苦労をした。最初はよく知っている俳優のものということで、 マイケル・ダグラス, ロバート・デニーロ, モーガン・フリーマンが出ている『ラストベガス』を見た。誰もがもう年寄りになっていて、病気持ちやら孤独な暮らしやらをしている。悪ガキ時代の仲間が久しぶりに集まってラスベガス旅行に出かけるという話だった。そこから芋づる式に見たのは、老人が主役の映画だった。「じいさん」になった自分にとっては、おもしろいものが次々見つかった。

amazon2.jpg ・モーガン・フリーマンの『最高の人生のはじめ方』は友達の家を借りた作家が、そこで隣家の子供たちと仲よくなっていく話だった。生きる気力の萎えた老人が子供とのかかわりによって再生する。そんな話はほかにもあって、ビル・マーレイが主演する『ヴィンセントが教えてくれたこと』も、隣家に引っ越してきた母子家庭の少年との関係がテーマだった。そんなふうにして見ていくと、老人の尊厳死(『92歳のパリジェンヌ』)や認知症や癌(『ロング,ロングバケーション』)、一人暮らし(『ラッキー』)をテーマにしたものが結構あって、退屈しなかった。どんな映画も、自分だったらどうするかと言ったことを思いながら見た。さて次は何を見るか。見られる作品はたくさんあるが、つまらなくて途中でやめてしまうものも少なくない。

・コロナ・ウィルス騒ぎがなければ、今ごろはMLBが始まって、DAZNで大谷やダルビッシュや田中、そして前田や菊池の投げる試合を観ていたはずだった。今年は秋山や筒香などもいて、忙しかったはずなのに、いつ開幕になるのか未だにわからない。日本の野球もサッカーもF!も同じだから、DAZNなどスポーツ中継を売り物にするところは大変だろうと思う。ぼくもDAZNは休止していてMLBが開幕するまで再開するつもりはない。その分つまらないから、やっぱり映画ということになる。

・さてコロナ・ウィルスだが、いったいいつになったら終息するのだろうか。ヨーロッパやアメリカは大変なことになっている。今は夏のオーストラリアや赤道周辺の国でも流行しているから、暖かくなったら感染力が衰えるということはないのかもしれない。薬が開発されたとしても、インフルエンザでは毎年世界で数万人もの人が亡くなっているから、完全な終息ということはないのだろうと思う。

・いずれにしても、世界中に蔓延したウィルスによってはっきりしたのは、各国の政治的リーダーの力量や立ち位置の違いだ。ウィルスに対応するには雑念があってはいけないと警告した専門家がいた。日本のリーダーは、自らの悪行を隠すことやオリンピックありきといった雑念ばかりで行動している。安倍や小池や森を見ていると、政治家こそがウィルスだと言いたくなる。どこまで行ったらすでに感染してしまっている支持者が陰性になるのだろうか。

2020年3月23日月曜日

世界の終わりの始まりのよう

 

・WHOがパンデミック宣言をした途端に、世界中が新コロナウィルスで大騒ぎをし始めた。発生源の中国は沈静化し始めたようだが、イタリアやスペインを始めとして、ヨーロッパが感染の急増とその対策に追われている。悠長に構えていたアメリカも慌ただしくなった。急増に苦慮していた韓国は、検査体制の強化によって増加の押さえ込みに成功するかのように見える。台湾は入国管理や検査、あるいはそれに応じて起こる問題をあらかじめ想定して対応する体制を整えて、感染者数が増えないようにしてきた。世界の国々の対応はさまざまだが、日本はどうか。

・検査数は韓国とは桁違いに低い。感染者数も死亡者数も比較的少ないが、実態とはずいぶん違うのではないかと疑問を持つ人が多い。オリンピックを中止にさせないために数を少なく見せかけようとしていたのかもしれない。しかし、感染は世界中に広がって、終息がいつになるのかわからない現状では、世界中からアスリートや観客が集まるオリンピックができるはずがない。それでも関係者は口をそろえて予定通りに開催を目指すと言っている。一度始めたら止められない。そんな悪癖がまた顕著になっている。

・ドイツのメリケル首相は第二次大戦後最大の世界的な危機だと言っている。そこには感染者数や死者数の増加だけでなく、経済の世界的な混乱や人間関係やコミュニティなど、社会の崩壊といった危険性が含まれている。と言うよりは、経済や社会への影響の方が、より大きな問題であることは明らかなのである。そういう認識からは、オリンピックの開催などはもってのほかになるだろう。オリンピックは中止か延期。安倍政権にとっては、それをいつ表明するかが問題で、気にしているのは政権の延命だけなのではと言いたくなる。

・このままでは世界が終わる。そういう認識にたって発言し、行動をしている政治家がどれほどいるのだろうかと思う。温暖化による気候の変動や、プラスチックなどによる海洋汚染など、地球規模での喫緊の課題に対して本気になっている国の指導者はきわめて少ないことからも明らかだ。そもそもトランプ大統領は温暖化自体を認めていないし、石炭火力発電を推進する日本は、最悪の事例として批判されている。ここ数年の台風や大雨による大被害を受けていても目覚めないのだが、3.11と原発事故を経験したのに原発を止めないのだから、止められないという悪癖はどこまで行っても治らないのかもしれない。

・世界が終わる前に日本が終わる。日銀と年金機構が必死に支えても株価が大暴落をしている。このまま行けば経済破綻だろう。もっとも政治は森加計から桜、そして検事の定年問題とやりたい放題で、法制度も官僚組織もがたがただし、メディアにはそれを批判する力が失われている。新コロナウィルスに対する政策も支離滅裂だが、世論の半数はそれを支持していて、政権の支持も同じぐらいある。ほかに適当な人がいないからと政権を許してきたが、止められない、止めさせられない症候群は行くところまで行かなければ治らないのかもしれない。

2020年3月16日月曜日

どこにも行かずに過ごす

 

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・奄美大島と屋久島の印象が強くて、未だに余韻が残っている。写真やビデオを編集し、何冊かの本も買った。そう言えば2月の初めでも新コロナウィルスの話題は大きかったが、結構混雑した飛行機や船に乗っても、感染の不安などはほとんどなかったし、マスクをしている人も多くはなかった。特に奄美や屋久島の人たちからは、不安や警戒する様子は感じられなかった。中国や韓国からの観光客がどれほどいて、どの程度減ったのかわからないが、見かけることはほとんどなかった。もっとも、観光客自体が少なくて、どこに行っても誰もいないという感じだった。

・10日間の旅から帰るとテレビは「ダイヤモンド・プリンセス号」での集団感染で大騒ぎだった。テレビをほとんど見ていなかったせいもあるが、中国の状況も含めて、感染の拡大が本格化していることを認識した。老人ホームにいる母親のところに1度行ったが、しばらくすると、面会自粛の知らせが来た。安倍首相が唐突に全国の小中高・特別支援学校の休校を要請すると、イベントやスポーツの中止や無観客試合が続き、大騒ぎになった。

forest165-3.jpg・これでは、しばらくはどこにも出かけられない。しかしそれはあくまで人ごみの話であって、誰もいないところなら何の心配もない。というわけで、週一回程度の山歩きをしている。最初は近くの紅葉台、次は横尾山。横尾山は県境の信州峠から歩くのだが、途中で凍った急坂があって、引き返した。そして最近では三つ峠。久しぶりだったがジープが走る登山道は歩きにくくつまらなかったが、帰りに降りた木無山からの道はブナやミズナラの林が心地よかった。

forest165-4.jpg・暖かい日が多いから、自転車にも乗っている。例年と違って湖畔は閑古鳥で観光バスもほとんど見かけない。マイカーも少ないから、安心して走ることができる。富士山が世界遺産になる前は、冬はこんな感じだったな、と思い出しながら走っている。しかし、ここ数年で新しくできたホテルも多いから、地元の経済は大変なことになるだろうと思う。山梨県では2人の感染者が出ているが、河口湖周辺ではまだいない。こんな時に来ると、割安でサービスも受けられるのになー、と走りながら考えたりした。

・こんな生活だから、マスクをつけることもない。だいたい僕は強制されなければ、マスクをつけないのだが、人ごみに行けば、そういうわけにもいかないような空気になっている。WHOがマスクに予防効果はないと言っているのに、なぜ日本ではマスク着用が強制されるのだろうか。そもそも、花粉症やインフルエンザの時期でなくても、マスクをした人が多い傾向にある。これは予防ではなく、顔を隠したいからなのでは、と以前から思ってきた。天気の悪い日や夜間のサングラスと同様で、公共の場では必要以上に匿名のままでいたいのかもしれない。

・感染者が隣にいるかもしれないという不安を抱えながら生活していると、儀礼的というのではなく、本心から、他人とは無関係・無関心でいたいという気持ちが根づいてしまう。そんな不安は、パンデミックより恐ろしいなと考えている。

2020年3月9日月曜日

パニックのもとは誰ですか?

 ・新型コロナ・ウィルスによる騒ぎがパニックと言えるような状況になっています。安倍首相の唐突な小中高校の一斉休校要請がその発端です。それ以前のテレビによる過剰な報道が人々の心に不安を植えつけていて、休校要請が、そこに火をつけたと言えます。店頭からはマスクはもちろん、トイレットペーパーやティッシュー、インスタント食品や缶詰め、そして米や小麦粉までが無くなったと報道されています。

・新型コロナ・ウィルスの怖さは、その実態がまだ突き止められていないことにあります。効果的な薬もまだ見つかっていません。しかし、インフルエンザと比較して、高齢者や病気を抱える人を除けば、軽度の症状ですむ場合が多いと言われています。たとえば日本ではインフルエンザによる死亡者は、ここ数年2000人から3000人を超えるほどになっています。アメリカでは1.4万人を超えたとされていますが、昨シーズンは6万人が亡くなっています。

・インフルエンザの場合、日本では学級閉鎖の基準はなく、各自治体に任されていて、クラスの4分の1とか3分の1が休んだ場合などまちまちのようです。そして新型コロナ・ウィルスについては、10代以下の感染者がごくわずかなのが現状です。にもかかわらず、安倍首相は、小中高校の一斉休校を要請しました。しかも、春休みまでですから、実質的には1ヶ月以上の休校ということになりました。

・驚いたのは、この要請について文科省も寝耳に水だったということです。しかも、専門家から要請されたわけでもないし、相談したわけでもないというのです。首相の慌てぶりだけが目立った行動ですが、その理由には、政権の支持率の急降下や東京オリンピックの中止といった、自分の地位を脅かす要因が迫っていたことがあげられます。まさに「エリート・パニック」の典型例だといえるでしょう。テレビで生中継された会見では、彼はプロンプターを使って、官僚の作った原稿を読み、あらかじめ用意された記者の質問にも同様の返答して、その場で上がった記者やジャーナリストの手には応えず、会見を終了させました。何一つ、その場で自分で考えた言葉は発しませんでした。

・そのおかげで、学校や子供を抱える家庭、給食にかかわる業者などは大混乱のようです。乳幼児の保育所や学童保育所はそのまま、休職した親については企業に負担を求めたり、有給休暇を使えと言ったりしています。国も補助をするとはしていますが、どの程度のものなのかははっきりしていません。そして自由業や個人経営者は補助の対象外になっています。要請前に事前に対応策を考えた形跡はありませんから、ちぐはぐさばかりが目立っています。

・そもそも、日本での現在の感染者数は実態を表しているのでしょうか。韓国に比べたら、感染の有無を検査する数は1割に足りていません。検査数を韓国並にしたら、感染者数も桁違いに増えるかもしれません。それは死亡者数にも言えるでしょう。何が原因で死んだかの特定についても、今の検査実態では、十分に把握しているとは思えないからです。検査能力の低さだとしたら、なんともお粗末な実態ですが、意図的に検査数を抑えているとしたら、これは国家的な犯罪です。

・とは言え、感染者数の増加を抑えることは必要です。人々が濃厚接触をしないようにするのが一番ですが、だったらなぜ、満員電車を放置しているのでしょうか。スポーツや芸能、年中行事のイベントが次々中止になっています。仕方なしに無観客でおこなう場合も少なくありません。しかしこれは、少しでも症状のある人には参加しないよう呼びかけ、入場の場で体温のチェックをしたり、会場をいっぱいにするほど入れなかったりするなど、個々の対応に任せたらいいのではないかと思います。現に映画館やパチンコ屋が営業を停止しているという話はあまり聞きません。

・今はインフルエンザや花粉症が蔓延する季節です。くしゃみや咳が出る人が多いのは仕方がないことでしょう。しかし、それに過剰に反応して、あからさまに遠ざかったり、叱責したりする人が多いようです。仕方がない面はあると思いますが、互いを異物や汚物、あるいは危険物のように思う気持ちの蔓延は、ウィルスよりももっと怖いように感じます。社会を壊さないため、経済を壊さないために政治がすべきことはたくさんあると思いますが、その肝心の政治がすでに壊れてしまっているのは、なんとも恐ろしい気がします。

2020年3月2日月曜日

桜井哲夫『世界戦争の世紀』(平凡社)




sakurai1.jpg桜井哲夫の『世界戦争の世紀』は850頁にもなる大著である。彼は僕と職場の同僚で、僕が退職した1年後に、僕と同様に定年より2年早く辞めている。僕は辞職と同時に研究活動もやらないことにしたが、彼は、これまでの研究を仕上げる仕事に専念した。その成果が本書である。6400円もする高額な本をいただいたから、せめて紹介をするのが礼儀だろう。と思ったが、大著を読むことさえしんどくなっていて、ずいぶん時間がかかってしまった。
このテーマについては、すでに『戦争の世紀』『戦間期の思想家たち』『占領期パリの思想家たち』(いずれも平凡社新書)がある。この本はそれをまとめた形だが、内容的にも量的にも、全く新しい本だと言っていい。戦争の世紀は20世紀をさしているが、本書で扱われているのは、主に第二次世界大戦までである。また、日本やアメリカと違って、ヨーロッパでは第二次よりは第一次世界大戦の方が、その被害や意味が大きいとして、メインのテーマにしている。さらに、この二つの大戦を主としてフランスの思想家たちの考えや動向を通して描き出しているのも、この本の特徴だと言える。

人類の歴史は戦争のそれだと言っていい。しかし、この500年に限って言えば、戦死者の数の3分の2が、20世紀に集中している。その大半が二つの大戦であることは言うまでもない。1914年に始まった第一次大戦は4年3カ月続いて、855万5000人を超える死者と775万人超の行方不明者を出した。そして第二次大戦では戦死者と行方不明者の数は6千万人にも達している。もっともヨーロッパに限って言えば、戦死者や行方不明者の数は第一次大戦の方が多かったりする。そして、それまでの戦争とはやり方はもちろん、その規模の大きさが違ったことで、人々に大きな精神的な変動をもたらした。とりわけ、文学者や哲学者、そして社会科学や自然科学に携わる人たちには、その衝撃ははかりしれないほどのものだった。

第一次大戦は19世紀後半から20世紀初めにかけての科学技術の進歩やが反映された戦いだった。鉄道網の拡大、電話の普及、ラジオや映画、飛行機、そしてもちろん、毒ガス、機関銃、戦車、手榴弾、そして潜水艦などといった新しい兵器の開発である。それによって戦争の仕方がまるで変わり、戦死者を激増させたのである。諸国家がそれぞれナショナリズムを謳い、戦意高揚を宣伝する。そして実際の戦いには、これまでなかったような悲惨な状況と人々の残忍さが露呈した。
このたびの戦争において、われわれの幻滅は次の二つの意味で強く感じられた。一つは、内側に向けては道徳規範の監視人として振舞っている諸国家が、外向きに見せる道徳性の低下についての幻滅。もう一つは、個々の人々の振舞いの残忍さである。それはもっとも高度に人間的な文明に寄与する者に、そういうものがあろうとは信じられなかったような残忍さであった。(フロイト)」

この戦争を経験した者としなかった者、その後に育った者の間には大きな断絶が生まれた。そこで発言し、論争する人たちの登場が、この本の中核をなしている、ポール・ニザン、アンドレ・マルロー、ヴァルター・ベンヤミン、ジャン・ポール・サルトル、ジョルジュ・バタイユ、マルセル・モース、ハンナ・アーレント、サン=デグジュペリ等々で、その人たちが戦間期から第二次大戦に至るまでの間に、どう発言し、行動し、どんな作品を作り、どのような状況に追い込まれたかが詳細に綴られている。ヒトラーの登場とヨーロッパ支配、ユダヤ人狩りとユダヤ系知識人の運命。あるいはドゴールやチャーチルはもちろん、レーニンやトロツキー、そしてホーチミンなども登場する。当然、反戦運動の動向を語るのも忘れていない。

僕はこの本をまだ読み終えていない。読み始めてしばらくしてから中断し、その後は時々拾い読みするような読み方をしている。フロイト、ベンヤミン、アーレント、サルトルといった人たちについてのところで、知らなかったことがずいぶんたくさんあった。フランスを中心としたヨーロッパの哲学者に精通した人ならではの歴史書だと思った。もちろん、これからも時折手にして読むことになるだろう。