・アルンダティ・ロイの『民主主義のあとに生き残るものは』
は大学の同僚が訳した本である。贈呈されたもので、そのまま読まずに放っておいたのだが、強姦事件の多発といったニュースを耳にして、手にして読み始めた。題名は、3.11の地震のあった2日後に東京で予定されていて中止になった講演会の原稿だった。
・私たちは民主主義をどんなものに変えてしまったのか?民主主義の寿命が尽きたとき、いったい何が起きるのか?民主主義が空虚となり、意味を失ってしまったのはいつからなのか?民主主義を支える諸機関がなにか危険なものに変化してしまったとき、何が起きるのか?民主主義と自由市場がいまや一つの搾取する有機体に統合され、そこには最大の利益を得るという発想に支配された、薄っぺらで広がりのない想像力しかない。そんな時代に、どうすればこうしたプロセスを逆転させることができるだろうか?どうすればいったん変化してしまったものを、かつての形に戻すことが可能となるのか?(p.10)
・ロイの問いかけは、もちろんインドの現状に対するものである。しかし、それは同時にアメリカやヨーロッパ、そして日本にも向けられている。インドは今、経済成長のめざましい国として、民主主義が育ちつつある国として注目されている。けれども、彼女によれば、インドの経済成長は、「ヒンドゥー原理主義」によるイスラム教徒の迫害と、国土に眠っていた鉱物資源の多国籍企業による開発、巨大なダム建設、森林伐採を伴うもので、カースト制度の上にさらに、貧富の差を拡大させたものである。森に住んでいた先住民を追い出し、抵抗する者たちを虐殺するやり方はすさまじいものだが、その多くはメディアで報道されることもなく、また取り上げられたとしても、発展のためという理由をつけて不問に付されてしまってきたようだ。
・本書によれば、インドの経済成長は12億人の人口のうちのわずか100人の人びとにGDPの4分の1を占有させるに至っている。もちろん、このような流れに抗して多くの運動が起こってきた。独立後1980年代までは「さまざまな民衆闘争が土地改革や、封建地主から土地なし貧農への土地再配分を求めて戦われてきた」のである。それが今日では「土地や富の再配分を語ろうとすると、非民主的どころか狂気の沙汰と見なされる。」経済成長の過程で強固になった「上方蓄財システム」が裁判所や国会、そしてメディアといった民主主義を守るはずの組織に、湯水のごとくお金を使って機能不全状態にしてしまっているからだ。
・この「上方蓄財システム」からのお金の流れは、芸術活動や奨学金に向かい、多くの慈善活動にももたらされている。ロイによれば、それは、批判的な勢力を分断し、取り込んで、その力をそぐためにこそ役立っている。実際、このような手法は20世紀の初めから、アメリカにおいて巨万の富を得たフォードやロックフェラーといった財閥によって行われてきたことで、現在のインドでもきわめて有効に機能しているのだという。
・もちろん、この「上方蓄財システム」はインドに限ったものではない。同様に高い経済成長をしているブラジルやトルコでも、大規模なデモが起きている。またそれは経済成長を続けている国に限ったものではないことは、アメリカで昨年起きた「ウォール街を占拠せよ」デモにも共通したものである。そこで糾弾されたのはアメリカの富の半分がわずか400人によって占められているということだったのである。
・経済成長に自然破壊と公害が伴うことは、日本が実証済みである。しかし、そのひどさは、中国においてもインドにおいても、はるかに深刻なようだ。それは南米においてもアフリカにおいても同様のようだ。経済成長が多くの人びとを豊かにし、民主主義を発展させるのではなく、貧富の差を拡大し、権力と資本を一部の人間に持たせてしまう。本書はインドだけでなく、グローバルな規模で「上方蓄財システム」によって民主主義の崩壊が起こっていることを気づかせてくれるものである。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。