2015年6月29日月曜日

文系学部の存在価値

・文科省が国立大学に通達した「文系学部・大学院の廃止、定員削減」は、2013年に出された「国立大学改革プラン」に基づくものです。私立大学には直接言及していないので、国の予算を多く使う国立大学は理系に重点を置いて、文系は私立大学に任せればいいということかもしれません。しかし、この改革が、安倍首相の「学術研究よりは社会のニーズにあった実践的な職業教育」をという指示に基づくものであることを考えれば、大学そのものの危機であることは疑いないでしょう。何しろ大学は研究の場である必要はないと言っているのですから、大学の教員は研究者である以上に実践的な職業教育をする教育者であるべきだということになるのです。

・実際、このような圧力は安倍政権以前から、私立大学にも文科省の指示としてさまざまにおこなわれてきました。たとえば大学の授業は年30週を基本にしています。しかし、大学の行事もあれば祝日もあって、それより少ない数でずっとおこなわれてきました。ところが今では、この30という数字は絶対こなさなければならない数になって、祝日でも授業をやったり、夏休みが8月にずれ込んだりしているのです。授業計画であるシラバスについても事細かな指示があって、それが大学院の博士課程にまで及んでいるのが現状です。これはもう、「学術研究」つぶしを大学院にまで及ぼそうとする策略だと言うほかはないでしょう。

・他方で学部では、進学を希望する学生自身のニーズが、圧倒的に就職に役立つ技術や資格を身につけることにあるのも事実です。役に立つ授業と勉強をどう提供するか。大学は今どこも、その生存競争に勝つために、学部やカリキュラムの改革に血眼になっているのです。その主な柱は仕事に役立つキャリアと語学です。しかし多くの教員は、この要請にうまく対応できないし、対応したくもないのです。教員は同時に研究者でもありますから、講義やゼミは、今自分が関心を持って研究していることを学生に開陳する場でもありました。だから同じ名前の講義名でも担当者によって中味はまるで違うことが当たり前のことでした。ところが、そんなやり方が、学生のニーズとしてだけでなく、大学の方針、さらには文科省の要請として、できにくくなっているのです。

・大学生を取りまく状況は確かに厳しいものがあります。就職に役に立たないことに時間もお金もエネルギーも注ぎたくないと考えるのも無理はないのかもしれません。しかし、最近の学生と接していて何より気がかりなのは、無知を恥じないというよりは知らなくてもいいといった態度であったり、自分の考えを公言することをためらったり、そもそももたないで平気でいる姿勢です。だから、ゼミがゼミとして機能しなくなってもいるのですが、ここには中高で、その準備になる教育をほとんど受けていないという問題が大きいように思います。

・選挙での投票権が18歳まで引き下げられました。文科省はさっそく、高校の授業で政治的な問題を扱わないようにといった通達を出しました。考える機会を作らなければ、政治についての関心を持つことは難しいのですが、現政権にとってはそれこそが狙いなのでしょう。そして文系学部、とりわけ文学、哲学、そして社会学といった分野は、批判勢力を育てるだけの邪魔なものだと思っているのかもしれません。だからそれは学生だけでなく、そのような分野とそこで研究する教員の減少と無力化にもつながるものなのです。

・政治には無関心で、メディアの情報操作に流されやすく、企業の命令に従って従順に働く人材。国歌・国旗によって愛国心を自覚し、必要なら戦争にも行かなければと納得する国民。文系学部不要論は、何よりこのような人間を望む勢力が、権力を乱用して実現させようと画策することにほかならないのです。文学や哲学、そして社会学に無知な政治家が、今日本の社会をどれほどダメなもの、おかしなものにしようとしているか。そのことこそが文系学部の必要性を証明していると言えるでしょう。

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