1998年7月22日水曜日

"A Family Thing"

 


・アメリカを人種の坩堝の国だというのは正しくはない。サラダ・ボールなどという形容もきれいごとにすぎる。確かに、ニューヨークやロスの街を歩く人の肌の色は多様だ。映画やテレビ番組でも、あるいはバスケットボールやベース・ボールの試合でも、さまざまな人種の混在する様子をよく目にするようになった。ロックといえば白人の音楽だという常識も、とっくに通用しなくなっている。しかし、それは日常生活や人々の意識の中で、肌の色が、同時に生きる世界の違いではなくなったことを意味するものではない。
・ "A Family Thing"は南部に住む初老の白人の男が、母の遺言として、実の母が黒人であったと知らされるところから始まる。父親の浮気でできた子供であること、その黒人の母は、出産直後に死んでいること、そして異父兄弟の兄がいて、シカゴで警官をしていることなどが告げられる。もちろん、主人公の男には、黒人の血を受け継いでいることを示す特徴は、外見的には何もないから、彼にとっては母の告白は信じられないことである。
・男は黒人の兄を探しにシカゴに出かける。兄は白人の弟の存在を知っていたが、もう二度と会いたくはないと冷たく応対する。弟とはいえ、父は浮気相手の白人で、そのために母親は死んだのである。けれでも結局、ちんぴらに絡まれてけがをし、トラックを盗まれた弟を、自分の家に同居させる。家には母の姉である叔母と別居中の息子が住んでいる。地下鉄の線路に面した狭い住居。そこで奇妙な同居生活が始まる。
・ 自分の生い立ちを調べ、そこで分かった事実をもとに、アイデンティティを確立し直す。あるいは、今まで異質で無縁だと考えていた人々との関係を親密なものとして再確認する。そのような作業の前に立ちはだかる垣根を乗り越えることは決して容易ではない。何しろ主人公は、アメリカの南部で生きてきた白人で、しかももう60歳になろうとしているのだ。けれども、そこを解決しなければ、この先、生きていく道筋やはもちろん、自分自身のことがわからない。
・この映画を見ながら、正直言って、こんな映画をアメリカ人でも作るのだな、と妙な関心をしてしまった。華やかなもの、派手なもの、楽しいものは何もない、きわめて地味な映画。しかし、そのテーマは限りなく重い。この映画で扱われるような事例が一つ一つ積み重なってゆけば、たぶん、アメリカは人種問題は解決の方向にゆっくりと進むだろう。そんな印象を持たされた映画だった。
・白人の弟がアーカンソーに帰る日、黒人の兄は見送りに出て、そのままトラックに乗って故郷に帰り、母の墓を弟と探すことになる。幼い頃の話をしながら、二人が、草に埋もれた母の墓を探す。最近では滅多にないことだが、ぼくは目頭が熱くなってしまった。

1998年7月15日水曜日

平野さんの 講義ノート

 

  • 僕がホームページをつくったのも、メールをはじめたのも、きっかけは、平野さんだった。だから、ぼくは彼をパソコンの先生だと思っている。もっとも、彼にとっては、ぼくは好き勝手なことをやる扱いにくい生徒でしかない。
  • 平野さんはコンピュータを何よりその仕組みから理解しようとしている。秋葉原で部品を買い集めて、オリジナルの機械を作っているし、図形や動画などをプログラミングによって描き出すことも朝飯前のようだ。
  • ぼくにとってパソコンは便利な既製品の道具でしかない。しかも、カウンター・カルチャーの臭いがして、画像や音の処理やDTPを最初から売り物にしたマック以外には、今でもほとんど興味がない。
  • 平野さんのホームページに刺激されてHTMLをおぼえ始めたときに、彼は、これは立派なプログラミング言語で、興味がないといっていたその世界にあなたは入り込んでしまったのだと言った。そんなものかと思ったが、しかし、ぼくの関心はもっぱらホームページの中身に向けられて、HTMLはやっぱり、そのための道具にしか感じられなかった。だから、ハードの仕組みやソフトの原理は相変わらずブラックボックスのままである。この点は正直言って、かなりしゃくである。
  • しかし、内容については、英語だけでほとんど更新しない平野さんのページよりはずっと充実していると自負してきた。ところが今年の5月頃から、ゼミや講義を登録している学生向けのページができて、それが頻繁に更新されるようになった。講義ノートや質問への返答、あるいはゼミでの議論の紹介。詳しいことは是非直接アクセスして読んでほしいが、その分量や守備範囲の広さには、今さらながら驚き、あきれてしまった。
  • たとえば「比較文化講義」には、ダーウィンやライプニツ、レヴィ=ストロースの『野生の思考』、フレーザーの『金枝編』、あるいは中国演劇史の本、デュルケム、マルクス、ガーフィンケル、それにもちろんユーエンの話なども出てくる。「認識と態度」「自然と文化」「システム」「文化と個体」「時間のイメージ」「循環と祭祀」........。学生のメールなども含めて、読んでいるうちに、授業に出席しているような感じになった。
  • 平野さんはプログラミング実習の授業も担当しているようだ。で、ここでは、CPUのオーバークロッキングが話題になったりしている。クロックスピードは現在、パソコンを差別化する重要な要素になっていて、250と300では、それだけでパソコンの値段が一挙に5〜10万円もちがったりする。彼は、設定を変えることによってクロックスピード200のCPUが233になるなどという、ぼくから見れば恐ろしくなるような話を学生にしているのである。ぼくにはRAMの増設だってびくびくものの作業なのにである。
  • 大学の講義やゼミは、きわめて閉鎖的な世界となっていて、現実には今だって、大学間はもちろん、教員間でさえ、互いに何をやっているのか見えないのが常識である。教員同士は、学生を通じた話しとして互いの授業内容を知る。もちろん、論文や著書を通して誰が何を研究し、どんな講義をするのか知ることはできる。しかしなぜか、講義の内容や、やり方、ゼミの進め方について直接話をしたり見学しあったりすることはめったにない。
  • ぼくは、ホームページを作り始めてすぐに、こんな慣習に風穴をあけたり、個々の大学の垣根を取っ払ってしまう可能性があることに気づいた。その新鮮さやおもしろさが、毎週の更新を面倒に思わない一番の理由だった気がする。けれども、そんな方向でも、また平野さんに一歩先を越されてしまった。わー、すごいと思い、よーやるとあきれ、また、こんちくしょうと歯ぎしりもしてしまう。おかげで夏休みに考えることがまた一つ増えてしまった。
  • 1998年7月8日水曜日

    Radiohead "Ok Computer" "Pablo Honey"

     


    ・ロックはアイデンティティの音楽だ。それは何より自分探しのために作られ、歌われる。「アイデンティティ」の自覚には、自分自身が何者であるのか、何になりたいのか、何になれるのかといったことについて考える余地が不可欠だが、おもしろいのは、ロックの新しい流れが、実際にはアイデンティティ選択の余地など十分にない状況にいる者たちから生まれたところにある。
    ・ロックンロールが50年代後半のアメリカに生まれたとき、それを支持したのは、大学をドロップ・アウトしたビートではなく、何か自由に生きたいけれどもそれができずに街角にたむろしているブルー・カラーのティーン・エージャーたちだった。60年代のブリティッシュ・ロックの台頭を担ったのは、親の生活に少しゆとりができて、勉強したくはなかったが、アート・スクールという名の専門学校に行って遊ぶ時間を過ごせた労働者階級の若者たちだった。
    ・70年代のイギリスのパンクの背景には職がなくて暇を持て余し、鬱憤のはけ口を探し回っていた連中がいたし、レゲエはそのさらに下の階層に位置せざるを得なかったジャマイカ系イギリス人の中から生まれている。80年代に登場したヒップ・ホップ・カルチャーもその発生地はニューヨークのゲットーだった。地下鉄の落書き、ストリート・カルチャーとしてのダンス、そして、不平不満や怒りの声をリズムに乗せて主張するラップ、ディスコのDJから生まれたスクラッチ。
    ・Radioheadは90年代に登場したイギリスのグループである。ぼくはつい最近彼らの音楽を聴いて、かなり関心を持った。 Radioheadのサウンドはどこかで聞いたことがある。U2、ドアーズ(ジム・モリソン)、ピンク・フロイド、あるいはキング・クリムゾン、さらにはベルベット・アンダーグラウンドやトーキング・ヘッズ、そしてR.E.M.............。実際、次のような歌があった。

    ギターは、誰にでも引ける
    だが、誰もそれ以上になりたいとは思わない
    髪を伸ばして、僕はジム・モリソンになりたい

    ・ぼくはRadioheadの音楽に、アイデンティティの模索に必要な時間や選択肢を十分に持ちながら、そのために迷い、悩んでしまう恵まれた状況にいる若者たちのつぶやきを聞いた気がした。何でもできるが、何をやっても誰かのまね、何かの焼き直しにしかなり得ないというジレンマ。その閉塞状況を一面ではポスト・モダン的なノリで軽くやり過ごしているように見せながら、しかし同時に、その苦悩に正面からぶつかろうともしている。ぼくは彼らの音楽にそんな姿勢を感じ取ったが、若い人たちはどんな思いで聴いているのだろうか。 (1998.07.08)

    1998年7月1日水曜日

    周防正行『「Shall we dance?」アメリカを行く』(太田出版)

     

    ・『Shall we dance』を見たが、僕はおもしろいと思わなかった。竹中直人のわざとらしい演技は昔から嫌いだし、ダンス教師役の草刈民代はお人形さんみたいで気に入らなかった。日本アカデミー賞の独占は、裏を返せば、日本映画の貧困さを証明するものでしかないじゃないか。と、理由はいくつも上げられるが、実は、僕は社交ダンスが好きではないのだ。
    ・けれども、『「Shall we dance?」アメリカを行く』はおもしろかった。自分の作った映画を持ってアメリカ中を飛び回り、そこで上映会をして観客とディスカッションをする。あるいはその土地のメディアや著名なジャーナリストのインタビューを受ける。この本は、その中でこの著者が感じたこと、つまりアメリカ人にとっての日本、日本文化、そして日本映画についての知識や情報の少なさ、そのために持たれる偏見や誤解との格闘を主な内容にしている。
    ・現在、世界の映画をリードし、支配するのはアメリカである。だから日本の外に映画を持ち出そうとすれば、まず、アメリカで好評を得なければならない。実際アカデミー賞には「外国映画賞」という部門もある。さぞかしアメリカ人は世界中の映画に見慣れていてのだろうと思いたくなるが、実際には、状況はまるで違う。
    ・アメリカではずっと外国映画は英語に吹き替えられて上映されてきた。つまり、アメリカ人の観客は登場人物や舞台が日本だろうと、中国だろうとロシアだろうとアフリカだろうと、誰もがどこでも英語を話すのが普通だと考えてきた。だから、字幕を読むのはアメリカ人の多くにはいまだに面倒なことである。周防正行はそんな世界に、日本人による日本語の映画を持ち込んで、見せようとした。
    ・野茂がメジャー・リーグ4年目にもなって、いまだにインタビューを日本語でやっている。アメリカ人はそのことにかなり批判的である。アメリカで認められるためには、何より英語でのコミュニケーションをマスターしなければならない、というわけだ。もっともらしく聞こえるが、しかしアメリカ人は日本に来ると、英語が話せるというだけですぐに、英会話の職に就けたりする。何年も日本に住んで日本の大学に勤めながら、ほとんど日本語をしゃべらない、なんていう人も結構多い。要するにアメリカ人にとっては、アメリカだけが「世界」なのだと思わざるを得ない。
    ・周防正行は次はハリウッドで映画を撮るのか、という質問をくりかえし受ける。それは質問者にとっては、「Shall we dance」に対する評価の意思表示なのだが、周防には、アメリカ人の偏狭さとしか感じられない。映画はハリウッドで作られる。ハリウッドだけが映画を作る場所だというわけだ。メジャー・リーグのチャンピオンを決めるのはワールド・シリーズだが、そこには日本や韓国のチャンピオン・チームは出られない。野球やバスケット・ボールのワールド・カップをやって、アメリカが勝てない状況が生まれない限り、アメリカ人の偏狭さは、とても直りそうにない。 (1998-07-01)

    1998年6月24日水曜日

    『HANA-BI』

     

    ・ たけしの映画には暴力がつきものというけれど、一つだけほとんど暴力とは無関係な映画がある。『あの夏、いちばん静かな海』。聾唖の若いカップルの物語。湘南の海岸とサーフィン。テレビでメチャメチャやってるたけしが、こんな静かな映画を作るのかとびっくりしながら見た。
    ・『HANA-BI』には暴力と静寂さの両方がある。主人公の刑事(元)は映画の中ではほとんどしゃべらない。黙っていて、抑えきれなくなると、いきなりパンチをとばす。血飛沫が上がって、見ているだけでも痛さが伝わってくるような描き方をする。後輩の刑事のあっけない死。撃たれて下半身が動かなくなった刑事は家庭崩壊。生きる支えにとたけしは絵を描くことを勧める。その元刑事が描く絵が、映画の中では重要な役割を演ずるが、実際に描いたのはたけしである
    ・主人公の妻は岸本加世子が演じているが、彼女もほとんどしゃべらない。彼女もまた子どもを失って傷ついている。それに治る見込みのない病気にもかかっているようだ。彼女がセリフらしいことばを発するのは最後だけ、たけしに向かって「ありがとう」というところだけだ。静かさとこらえていて時折暴発する怒り。見た第一印象はそんなものだった。
    ・ビート・たけしのテレビ番組をぼくはあまり好きではない。ほとんどアドリブの悪ふざけ、悪態、毒舌。小気味よく感じることもあるが、ちょっと長く見ているとうんざりしてしまう。超売れっ子の彼がまめに映画を作りつづけている。そんなにヒットするわけではないから、テレビで稼いだ金を映画に貢いでしまっているのかもしれない。そんな彼を見ていると、息苦しくなるほど生き急いでいるように思えてしょうがない。そんな風に考えると、彼のテレビでの言動にはまた違った意味あいを見つけたくなってくる。彼は映画とテレビの両方で、いったい何を表現しようとしているのだろうか。
    ・子どもたちが突然切れて、とんでもない暴力を振るう事件が続発している。断定できるものではないが、ぼくは小さい頃から暴力はいけないと教えられて内面化した抑圧が問題なのではないかと考えている。暴力というよりは「怒り」をコントロールすべを知らないのだ。あるいは、日頃つきあう大学生たちが「友だちがほしい」といいつつ、仲良くなるきっかけをつかめないでいたり、互いに意見を言い合ったり批判をしたりすることに極端に慎重であることも気になっている。触れあうことやぶつかりあうことができないのだ。そして大人達はといえば、相変わらず、暗黙の了解が通じる社会に安住したがっている。実際には、そんな関係はすでに
    ・ビート・たけしの主張は、こんな社会の現状や、そこで何の声も上げようとしない人びとへの恫喝、あるいは暴露なのかもしれない。そのために彼はエネルギーと時間を極限まで使って、自らをさらけだそうとしている。『HANA-BI』を見てしばらくしてから、そんなことをふと考えてしまった。

    1998年6月17日水曜日

    芝山幹郎『アメリカ野球主義』(晶文社)

     

    ・ワールド・カップ中だが、僕の関心は相変わらずメジャー・リーグにある。そう、ドジャースからメッツに移った野茂のことが気がかりなのだ。気分一新、早く自信を取り戻して!! そう願って、生中継をハラハラしながら見ている。こんなふうだから、本屋で『アメリカ野球主義』というタイトルを見たときには、中身など確かめずに買ってしまった。買ってすぐ喫茶店で珈琲を飲みながら読み始めると、もう止まらない。おもしろくておもしろくて。で、家に帰ってまた読み続けて、読み終えたときには真夜中だった。
    ・何でこんなにおもしろいんだろう、と考えたら理由が二つ浮かんできた。一つは、メジャー・リーグにある逸話やユニークな選手の豊富さ。これは例えば、レイモンド・マンゴーの『大リーグなしでは生きられない』(晶文社)を読んだときにも感じたことだった。生で見たことなど一度もないメジャーの選手やゲームの話になぜかわくわくする気持ちを持ったが、それは日本の野球やその描写には一度も感じたことがないものだった。
    ・タイ・カップ、ベーブルース、シューレス・ジョー、ミッキー・マントル、ノーラン・ライアン.........。メジャー・リーグは歴史が長いのだから、伝説の人たちが多いのは当然である。けれども、逸話の提供者たちは現役プレイヤーにまで続いている。マクガイア、ケン・グリフィJr.、カール・リプケン。悪名高いところではヤンキースのストロベリー、グッテン。そこに去年の伊良部。ヤンキースといえば、オーナーのスタインブレナーもなかなかの人のようだ。もちろん、野茂についての文章は感動的だ。
    ・この本を読まなくとも、メジャー・リーガーが個性的であることはテレビでゲームを見ていればすぐわかる。しかし、もっと大きいのは情報量の少なさではないか、という感じがした。日本のプロ野球選手は巨人と阪神ばかりが注目されて、後はほとんど話題にもされない。しかも、甘やかしや揚げ足取りをしながら、もう一方で精神論や道徳論が幅をきかしすぎる。だから、ぜーんぜんおもしろくない。と僕は思う。うんざりして聞く耳すら持つ気がない。同じ調子で野茂や伊良部を追いかけるから、彼らにいつでもうんざりした顔をされてしまう。そうされながら、記者たちは自分たちのおかしさに気づかない。日本のプロ野球や選手をつまらないものにしているのは、誰よりマスコミなのである。
    ・この本のもう一つのおもしろさは、文章というかレトリックのうまさにある。芝山幹郎という人は読ませるコツを憎らしいほど心得ている。日本人のくせになぜこんなにメジャー・リーグのことに詳しいんだろう。そんなことを思いながらも、それがけっして知識のひけらかしにはなっていない。僕にもこんな文章が書けたらいいのに、読みながらちょっと嫉妬してしまった。

    1998年6月10日水曜日

    僕らの時代の青春の記録

     

    『となりに脱走兵のいた時代  ジャテック、ある市民運動の記録』
    関谷滋・坂元良江編(思想の科学社)

    soldier.jpeg「昔ヴェトナム戦争という出来事があって、日本でも当時の大学生がそのことで反対運動をしたり、さまざまな活動をした時代があったんだよ。」

    まるで昔話をするように、大学生たちに話さなければならない時代になった。このような経験は若い人たちに絶対伝わってほしいことだと思う。けれども、自分で話していると、どうしても「昔は.....、そして今は........」といったトーンになってしまう。その場は何となくシラケた雰囲気になる。だから、僕はできるだけ現実を忠実に記録したビデオを見せたり、本を読むように勧めたりしている。平和で豊かな現実がいつから、どのような過程でできあがったのか、そのことについて若い人たちが示す無頓着さは、ほっておいてはいけないと思うからだ。


    ヴェトナム戦争では兵士たちや戦闘機、そして空母などは日本の基地から直接戦場に向かった。アメリカ軍にとって、日本は補給や休息の場であり、日本にとっては経済効果の大きい出来事だった。戦争によって日本の経済が豊かになる。あるいは、同世代の人間が一方では命をかけた戦いに参加させられ、他方では、のんびりと暮らしている。そのことに対する罪悪感、正義感.......。何かをしなければ、と考えるのは、僕らの世代にとってはけっして特別な意識ではなかった。


    で、多くの大学生や予備校生や、あるいはすでに仕事に就いている者たちが、「ベトナムに平和を市民連合」(ベ平連)の活動に参加した。アメリカ兵が日本の基地から脱走して助けを求めてくる事件があって、ベ平連の中に脱走兵をサポートする「ジャテック」が作られた。始まりは空母「イントレピット」から脱走したアメリカ兵を第3国に逃がす仕事だった。


    『となりに脱走兵のいた時代』は知人の関谷滋さんが編集した「ジャテック」の運動の記録である。「イントレピット事件」に関わった彼は、当時、東京で予備校に通っていた。その、最初からの従事者である関谷さんが、すでに過去の出来事になった「ジャテック」の活動を、最終ランナーとして、丹念に調べ、まとめている。


    京都の仲間連中の間で何か集まりがあると、彼は決まって会計とか、終わった後のまとめなどを引き受けてきた。寡黙で表にでることはほとんどなかったが、彼なしには京都のベ平連は語れない。面倒なことはあいつに頼め、わからないことはあいつに聞け。関谷さんは、そんなワンパターンの頼みにも、いつでもいやがらずに応じる人だった。『となりに脱走兵のいた時代』はページ数が二段組で650を越える。たぶん、彼以外にはこんな仕事のできる人はいないし、しようと思うやつもいない。中身よりなにより、まず、そんなことに対して敬服してしまった。
    もちろん内容もなかなか面白い。僕はこの活動に直接タッチしたことはなかったが、懐かしかったし、知らないこともたくさんあった。アメリカ軍の脱走兵を助けるということは、一方では、戦争に反対する意志表示である。しかし、他方で現実には、それほど政治的でもない、時には品行もよろしくないアメリカ人の若者の面倒を何日か見るという役目をおう。その時に感じた落差を何人もの人が思い返している。今となっては一瞬の夢のような経験だが、時間を越えた、きわめてリアルな光景として感じられた。