→『リヴァイアサン』
→『偶然の音楽』『ルル・オン・ザ・ブリッジ』
→『スモーク』『ブルー・イン・ザ・フェイス』
・前にも書いたが山間部の難視聴地域で民放の映りが悪いから、テレビはほとんどBSしか見ないのだが、最近一つだけ、見たいと思っているCMがある。沢口靖子が出るタンスにゴンだ。といって、あの豊乳が目的ではないし、それが本物か偽物か見極めたいわけでもない。最後に彼女がつぶやく「アー、アホクサ」のひとことが気に入っている。それに、清純派の美人女優だった彼女のイメチェンぶりがおもしろいからだ。
・民放テレビを見ない理由にはもうひとつ、関西弁と違って面白みのない標準語がある。それはとりわけCMに顕著だ。僕は最近流行の語尾上げにはほとんど反応しないことにしているが、そうしながら、関西弁の「〜、な」という念押しには抵抗なくうなずいていた自分を思い出す。両方とも、話したことばの判断の一部を相手にゆだねる言い方だが、語尾上げの方が遠慮深そうに聞こえる分だけ同意しかねる気がしてしまうのに、「な」の方は押しつけがましい気がするぶんだけ、こちらにぐっと近寄ってくるような距離の近さを感じてしまう。悪くするとなれなれしさや図々しさになってしまうのだが、例えば「ボケ」や「ツッコミ」といったやりとりの工夫がそこに生き生きとした、笑いを誘うような世界をつくりだす。
・大学で担当している講義で「恥や恥ずかしい経験」について書いてもらった。「恥」は「罪」に対応する意識で、一種の社会的制裁なのだが、学生の書いたものはそれではなく、単純な失敗談とそこで感じた「恥ずかしさ」がほとんどだった。「階段でこけた」「電車の扉が目の前で閉まった」「ヒト間違いをした」「ジッパーがはずれているのに気がつかなかった」………。
・そういうときに次にする行為は、一つは極力なかったことにしたいという願望に基づくものであり、もうひとつは笑いへの転化、つまり笑われることを笑わせることに変えることだろう。どちらも恥ずかしさをうち消すためにする行動だが、後者の方がより積極的なのはいうまでもない。そして学生たちの反応にあったのは圧倒的に前者だった。
・沢口靖子は、自分に付与されてきたイメージからすれば、キンチョーのCMに恥ずかしさを感じているはずだ。けっして自分からこんなCMを作ろうと思ったわけではない。スタッフにその気にさせられたのかもしれない。キンチョーのHPにはこのCMのエピソードが載せられていた。
撮影当日、スタジオ入りした沢口さんは、もうすでに役に成りきっていて、『和製マライア・キャリーよ。』と、ご満悦でした。1テイク撮るたびに監督さんが『拍手!』と言って、沢口さんをのせていきます。そのたびにスタッフ全員が拍手を送るので、沢口さんの“陶酔の表情”が大変自然なものになったのです。また、でき上がったCMがイヤらしくならなかったのは、『豊満な沢口さんを綺麗に撮りたい。』という、監督のねらいがあったからです。
・野茂が二度目のノーヒット・ノーランをやった。ボストン・レッドソックスに移籍して最初の試合。大学の研究室でReal Playerの実況放送を聞いていて、鳥肌が立ってしまった。本当にすごいことをやる人だ。僕はますます好きになっった。
・いつものことながら、今年のキャンプ報道も腹が立つものだった。「イチロー」「シンジョー」ばかりで野茂のノの字もない。BS放送もシアトル・マリナーズ中心で他の選手の試合を中継する予定の話はほとんどない。メディアがみせる相変わらずの現金さやミーハーさにここ数ヶ月、本当に腹が立っていた。だから、野茂の快投は、「ざまー見ろ!」と叫びたくなるほどうれしかった。
・ノーヒット・ノーラン達成の瞬間はBSでも中継があったようだ。しかし、番組欄にあったのはマリナーズの試合で、そのゲームが終わった後で、きりかわったようだ。野茂の試合は録画で夜ということになっていたが、実はこれも、後から追加変更されたものだった。野茂のファンがつくるサイトでは、今年は野茂の試合が見られそうもない、という話がよく出ていた。NHKの視聴料不払い運動をやろうとか、NHKに抗議のメールをだそうとか、書き込みをした人たちは一様にNHKに腹を立てていた。BS放送の普及に果たした野茂の力をNHKはどう考えているのか?そもそもメジャー・リーグに日本人の目を向けさせたのは誰だったのか?野茂はまだ現役でがんばっているじゃないか!そんな抗議に慌てたのか、野茂の初戦が録画で放送されることになった。NHKは抗議のメールのすべてに返事を出したようだ。
・もちろん、そんな態度はNHKだけではない。民放テレビのスポーツ・ニュースもスポーツ新聞にも、野茂の様子が紹介されることはほとんどなかった。メジャー・リーグではもう過去の人。メディアの態度は、明らかにそのようなものだったし、たまに取り上げられれば、調子が悪いということばかりだった。掲示板には、そんな少ない記事を丹念にさがして、今日は何新聞がいいとか、だめとか書き込みをする熱心なマニアもいた。僕は本当に、ファンの一途さ、ひたむきさに感心したし、ひとつの方向、ひとつの話題に一丸となって同調するメディアの姿勢にうんざりした。
・もっとも、インターネットで情報を集めれば、野茂の様子は知ることができたし、けっして調子が悪いわけではないこともわかった。初球をストライクからはいることを心がける。とにかく腕を振り抜くように投げる。今年の課題はこれで、練習試合の結果は特に気にしていない。野茂のことばはいつも決まっていた。キャンプから結果を求められた去年とは違って、監督もピッチング・コーチも信頼してくれている。日本人の取材陣も数人だったようだから、じっくりマイ・ペースで調整できたのだろうと思う。
・野茂は今年7年目になる。ドジャーズでの3年間とは対照的に4年目から去年までは苦労の連続だった。肘の故障、トレード、解雇、マイナー落ち、そしてここ2年は弱小球団での投球。寡黙な口からは苦労話はほとんど聞けないが、僕にとっては後半の3年間の方がずっと興味がある。スポーツ・ジャーナリストには、そこを追いかけている人はいないのだろうか。だとすると、まったくもったいない話だ。
・もちろん、イチローに期待する気持ちはわからないではない。あるいは新庄の性格や行動にも興味を惹かれるものがある。しかし、それだけになってしまうところが、何とも救いがないほどだめなのだ。で、野茂がノーヒット・ノーランをやると、また途端に派手に騒ぎ出す。野茂はといえば、「プレイ・オフまでがんばるだけです。」と、相変わらずのぶっきらぼうのコメントでおしまい。それは「目先のことでそんなに一喜一憂するなよ」という彼の隠れたメッセージなのかもしれないが、残念ながら日本のメディアには、そこに自戒の念を感じるようなデリケートさはまったくない。
・録画でテレビ中継を見ていて感じたのは、終盤になってからの観客の反応だった。尻上がりに調子をあげる野茂は連続して三振を取った。そうすると、味方の攻撃なのに、観客は三振を期待する拍手をした。8回、9回はもう完全に記録への期待でいっぱい。ゲームが終わったときには歓呼の声で満たされた。何しろボルチモアでは、長い歴史の中ではじめての出来事だったのである。野茂は、そんな観客の反応に、「もうひとつ新しい野球の見方があることを知った」と言った。日本でだったら、汚いヤジやものをグラウンドに投げ込む事態になっていたかもしれない。
・彼が見せてくれるパフォーマンスから、日本人や日本の社会の「おかしさ」を発見することがよくある。日本から外に出て、外から見つめることではじめて気づく日本人や日本社会のもつ「おかしさ」。野茂が一番強く自覚していて、示したいのは、たぶんそこなのだと思うが、そんなことをに気づいているのは、メディアの中には誰一人いないようだ。世界に通用するパーソナリティは、今、政治や経済ではもちろんなく、音楽でもない、スポーツ選手によってつくられようとしている。僕は何よりそこのところに関心がある。
・去年の3月に越してから1年がすぎた。あっという間の、という感じだが、季節の変化は本当にドラマチックだった。一年たったらもうそのくり返しで新鮮さは薄れるのではと思ったが、ちょっと前にもびっくりするようなことがあった。
・今年は雪が多くて、つい最近まで、家のまわりにはたくさん残っていた。それが消え始めて、押しつぶされた枯れ葉や枝が顔を出すと、秋に見た風景が戻ったように感じたのだが、よーく目を凝らしてみると、緑が少しある。玄関のバルコニーの脇にあったチューリップの芽が出てきていたのだ。雪が溶けるのをじっと待って、溶けたらすぐに発芽。その生命力に感心してしまった。その後の暖かさで、チューリップは順調に成長しているから、赤や黄の花を今年も楽しめそうだ。
・そんなことがあるから、庭に出ると地面に顔をつけるようにして緑をさがす。そうすると蕗の薹が一つ二つ。あっと思って積み始めると、あるはあるは、たちまちザルにいっぱいになってしまうほどだった。さっそく今年はじめての野草の天ぷら。独特の苦みが去年味わった春を思い出させてくれた。
・春が来て、夏になって、秋、そして冬。同じことのくり返しのようだが、1年ですべてがわかってしまうわけではない。そのことに気がついたら、今年もまたそれぞれの季節を新鮮に味わえそうな気になってきた。季節感はただ暑いとか寒いとかいうだけではない。当たり前のことをもうずいぶん長い間忘れていた気がする。
・などと書いて、数日経ったら、また雪が降った。朝起きたら一面銀世界で、そのまま夜まで降り続いた。さすがに春の雪は湿っていて、見る見る積もるということはないが、それでも20cmを越えるほどになった。季節の変化がドラマチックなのは1年という長い時間の中だけではない。1週間前には河口湖でも最高気温が20度近くになって、薪割りをしていると汗ばむほどだったし、東京ではサクラがあっという間に満開になった。そして今日は一日中零下である。10cmほどにのびたチューリップや蕗の薹もさぞびっくりしているだろう。とはいえ、このあたりの植物は本当に強いから、人間みたいに風邪などは引いたりはしない。それに、僕のように、数日間の暖かさに、もう春だと早合点することもないだろう。僕は今日、バイクでツーリングをするつもりでいたのだが、結局どこへも行かず、雪景色を見ながら、木工をした。
・最近、木工の腕がずいぶん上がったと我ながら感心する。スプーン、フォーク、孫の手、灰皿、ペーパー・ナイフ、靴べら等など、身の回りの小道具や台所で使う道具はほとんど僕の手製のものになった。来客は誰でも驚いてほしがるから、得意になって何でもあげてしまう。「これ売れますよ」などと言われると、もう有頂天だが、「いくらで買う?」と聞くと「500円、いや300円ぐらいかな」で、ちょっとがっかり。
・手際よく作れるようになったとはいえ、ひとつのものをつくるのに1時間や2時間はかかるから、そんな値段では売る気にはならない。しかしスプーンひとつに1000円以上の値をつけたら、ほとんど売れないだろう。
・木工に使っているのはもっぱら白樺だが、先日、去年と同じ湖畔でまた2本、伐採された木を見つけた。追手門学院大学を卒業した後、この春鍼灸師の国家試験に合格した木本君が大阪から遊びに来たので、一緒に車に乗せて、その木を取りに行った。鋸で2mほどに切って車に積んで持ち帰ったのだが、彼はかなりばてたようだ。おかげで、僕は楽をしたし、当分材料に困ることもなくなった。
・僕の住んでいる土地には昔から有名な紬がある。寒くて長い冬に、女性たちが家の中で機を織る。そうやって長い時間を過ごし、また糧を得てきた。最近ではほとんどやらなくなってしまったようだが、冬というのはそんなふうにじっとして手仕事をするしかない季節、あるいは手仕事をしたくなる時間なのかもしれない。
・僕のカミさんも、5月からの各地のフェアに向けて作品をせっせとつくった。地元はもちろん、陶器をもって東京や松本、あるいは駒ヶ根あたりに行くようだ。ついでに僕の木工品も持っていってもらおうかな。しかし、新学期が始まると、今ほど作る時間はとれないから、来客のために残しておこうか。
・p.s.何人かの人にご心配をかけましたが、「スポーツ社会学会」のシンポジウムでの発表は無事終わりました。一回こっきりの発表ではもったいないので、内容を文章化しようかと考えています。
・ ダスティン・ホフマンの映画をBSで続けて見た。『真夜中のカウボーイ』と『トッツィー』だ。両方とも何度か見ているが、懐かしかったので、ついついまた見てしまった。彼の映画を最初に見たのは『卒業』だが、ぼくの記憶に残る映画のなかにはダスティン・ホフマンが主演したものが少なくない。『レニー・ブルース』『クレーマー・クレーマー』………。
・どの映画も、今見直してみれば、特に印象深い内容というほどのものではない気がする。それがどうして、記憶に鮮明に残っているかというと、やっぱり同時代観なのかな、と思う。彼は僕より少し年上だが、彼の演じた役柄は、いつでも僕にとっては同一化しやすいものだった。たとえば『卒業』は大学生の時に見たし、『クレーマー・クレーマー』を見たときには、僕にも同じぐらいの年齢の子どもがいた。それにもう一つは、タイムリーな社会的なテーマ。『レニー・ブルース』はアメリカに実在した漫談家だが、政治的な発言や性的なことばを吐いて、何度も警察に捕まった。そういう権力に屈せず信念を貫く姿をうまく演じていた。
・『卒業』は今見れば、どうということのない青春恋愛映画だが、大人たちとの対立や、教会での結婚式から恋人を奪い取るラスト・シーンは、当時はショッキングなシーンだった。そういえば僕が昔書いた本に次のような文章があった。
・ この映画が作られた時代は、社会のあり方、人間や人間関係のあり方について、若者を中心に、既成のものを疑い、新しいものを模索しようという動きがさかんに出されるような状況にあった。
・主人公が扉を押さえるために使ったつっかい棒は、教会の十字架だった。彼はそれで、花嫁の父や母、それにフィアンセから彼女を奪いかえす。親の希望通りに生きてきた素直な優等生は、そこでひとつの儀式を破ることで、親の手から自らを離し、古い自己との別れ、つまり『卒業』というもうひとつの儀式を経験する。この映画は、新しい世代の新しい主張の成就をロマンチックに歌いあげることで、この時代の若者の心や行動を代弁することに成功したと言えるだろう。(『ライフスタイルの社会学』世界思想社)
・いや本当に、ロマンチックな映画だが、それにリアリティを感じて見たのだから、ロマンチックな時代だったとつくづく思う。今はそもそも、儀式が儀式として成立しないのが当たり前になってしまったのだから………。
・で、『トッツィ』を改めて見て感じたのも、それがつくられた時代の意識と現代との違いだった。この映画は売れない俳優が女装してテレビのコメディ・ドラマのオーディションを受けるというもので、彼(彼女)は合格して、一躍番組の人気者になる。あとはそこで仲良くなった女優(ジェシカ・ラング)に恋心をもったり、その父親から迫られたりといった話だが、これも今から思えば、どうということはない。しかし、ゲイやレズといったホモセクシャルが話題になり、その社会的な公認の主張などがされていた時代に、そのような風潮に対して普通の人たちが感じた違和感やとまどいを中心にうまく描き出した映画だった。
・と、ダスティン・ホフマンの映画を見ながら、思わず、時代をさかのぼって思い返してしまったが、そうすると、たまらなく『クレーマー・クレーマー』が見たくなった。離婚に際して子どもはどっちにゆだねるのが適当か。映画では男の子は父親になつき、父親もまた食事の世話や学校の送り迎えにがんばったが、「父親には子どもを育てる能力がない」という判断が裁判所で出された。見ていてずいぶん腹を立てたのを覚えている。僕の子育てはもう終わって、今は卒業生が時折連れてくる子どもにおじいちゃんのように思われる歳になった。仲良く子育てをしているカップルにほほえましさを感じるが、時代の流れを強く知らされるのは幼児虐待や子育て放棄のニュースの方である。「ゲームをしていてじゃまだから蹴った」などという父親のことばを聞くと、ぞっとしてしまう。
・ロマンチックがリアルに感じられた時代が妙に懐かしくなってしまった。(2001.03.26)