2001年10月15日月曜日

BSディジタル放送について

  • 何度も書いているが、山間部のわが家ではテレビの地上波の映りがきわめて悪い。アホくさいバラエティや遊戯会のようなドラマは見る気もないから、ケーブルも契約しないままだ。それで十分と思っていたのだが、新聞に載るBS放送欄が気になってもいた。時折興味のある番組が載っていて、見たいな、と思うことがあったからだ。
  • 実はBSディジタル放送がはじまったときにチューナーを買おうかなと思った。しかし、値段が高いし、たいした番組もなさそうなのでもう少し待つことにしたのだ。それから一年、電気屋でたまたま見かけたら、チューナーが6万円台になっていた。パラボラ・アンテナは今のままでいいというし、Wowowが3チャンネルに増えて、視聴料はあまり変わらないという。夏休みの後半にはいったところで、家でテレビをつける時間が多いのに、見たいものがないと感じていた時期だった。
  • ところが、買ってすぐに見たのがニューヨークの貿易センタービルへの旅客機突撃だった。夜中のニュースはBSでも、民放の地上波と同じものを流していた。新しいリモコンを片手に、ぼくは明け方まで見続けてしまった。そのあとも、ニュースを中心によく見たから4、5日すると目が痛くなった。
  • BSデジタルは電話回線を使った双方向のやりとりをうたい文句にしている。クイズ番組への参加や通販程度のもので、各チャンネルに登録しなければならないから、今のところやる気はない。ラジオやデータ放送などのチャンネルもかなりあって、充実していけば、インターネットと同じような使い方ができる可能性をもっているようだが、これも可能性であって、今のところはほとんど役に立ちそうにない。民放はそれぞれ3チャンネルずつ確保しているのだが、聴取料を取るNHKとWowow以外にはそれぞれ別番組をやっているところもほとんどない。
  • 思ったように普及しないから、あまり力を入れない。中味が貧弱だから、いつまでたっても注目されない。そんな停滞状態のように思えるが、番組の中にはおもしろいもの、意欲的な試みもある。たとえば長時間のインタビュー番組や地味だけどじっくり時間をかけて作ったドキュメンタリー番組、あるいは、昔の番組の再放送などがある。しかし、全体としていえば、何をしたらいいのかわからない感じだし、それほど本気で取り組んでいるふうでもない。
  • 一方、衛星放送にはCS放送もあって、こちらはたくさんあるチャンネルに一つひとつ視聴料が必要だ。各チャンネルは専門特化していて、ニュース、映画、音楽、スポーツ、アダルトと盛りだくさんのようだ。もっとも、経営的にはスカイ・パーフェクトがほとんど独占状態で、ぼくはマードックが好きではないからこれからも見るつもりはない。
  • BSは現在アナログとディジタルの二本立ての放送をしている。数年後にアナログが廃止されれば、さらにディジタル・チャンネルは増えるだろうと思う。そうなると、BSとCSあわせて、見ることができるチャンネルは数百にもなるし、地上波がディジタル化されれば、さらに多くなる。一体誰がどんな理由で、一つひとつのチャンネルを選択するのだろうか。
  • 多くの人にとってテレビは、見たいから見るよりは、生活習慣の一部としてとか、日常会話の材料として見るという意識の方が強いようだ。だからチャンネルが増えても、相変わらず、20%とか30%といった数の人たちが同じ時間に同じ番組を見る。この習慣や指向は頑なで、なかなか変わりそうにない気がする。
  • 衛星放送は今のところ、技術的な進化だけが目立っている。中味、つまりソフトの開発はまだまだ手探り状態といったところだ。だから、衛星放送がテレビの主体になれるかどうかは、視聴者の視聴行動を変えるかどうかにかかっている。けれどもそれはまた、魅力のある内容を先行させなければどうしようもないことでもある。
  • 課題はいろいろあると思う。お金もそうだが、知恵を絞ったり、若い素材や新鮮なアイデアを工夫する必要がある。何より、実験の場として考える発想が大事だろう。そんな意識をもって見ると、残念ながら、あまり期待できそうにない気もする。とはいえ、わが家では、きれいな画面で見られるチャンネルが増えたから、しばらくはそれだけでも十分である。
  • 2001年10月8日月曜日

    庭田茂吉『現象学と見えないもの』(晃洋書房)

  • この本は、ぼくにとっては思い出ふかいものだ。庭田さんは同志社大学の哲学の先生で、ぼくとは30年のつきあいになる。今年亡くなった桐田克利さんたちと一緒によく酒を飲んだり、議論をしたり、それにちょっと勉強会もした。それぞれに、恋愛のこと、結婚のこと、子どものこと、そして仕事のことなどで悩ましたり、悩まされたりもした。庭田さんはその私生活では、仲間内では一番のトラブル・メーカーで、もういい加減にしろとみんなからあきれられることも多かった。しかしそれだけに、会えばいつでも彼の話題でもりあがった。
  • 庭田さんは青森出身で、寺山修司に似たしゃべり方をする。深刻な問題を抱えこんだときでも、その独特の口調で、おもしろい話にしてしまう。ぼくの周辺では希有のストーリー・テラーで、ぼくは小説家になったらいいのにとずっと思ってきた。実際彼の人生は、波瀾万丈で、ぼくに才能があったら、彼をモデルに小説を書きたいほどである。もちろんそれができたとしたらスタイルはコミカルなものになる。
  • 『現象学と見えないもの』は彼の博士論文で、その完成には就職の成否がかかっていた。数年前のことだ。あきらめずによく頑張るな、と半ば感心、半ば呆れながら、うまくいくとイイねという月並みな激励をした覚えがある。書きあげたら、プリントしてくれないかと言われて、おやすいご用と引き受けた。そうしたら、完成したという連絡のかわりに、パソコンのハードディスクが壊れて、書いたものが消えてしまったと電話をしてきた。「バック・アップは?途中で印刷したものは?」と聞いたが何もない。途方に暮れた様子で、人ごとながら、ぼくもぞっとしてしまった。しかし、彼は気を取り直して、記憶をたよりに書き直すと言った。ドジの多い人だが、へこたれない人なのである。
  • できあがったという連絡がはいったのはそれから半年後で、ぼくの家で数日かかって提出用の博士論文を作成した。で、博士号をめでたく取得して、就職も決まった。めでたしめでたし。といいたいところだが、ぼくはその中味をまるで読んでいない。印刷の際には読む余裕などなかったのだが、何とも難しそうで、読んでみたいという気にもならなかった。しかし、それが本になって、ぼくのところに送られてきた。あとがきには、作成過程のいきさつとぼくに対するお礼の文がある。これは、気をいれて読まねばと思った。
  • この本の内容は、簡単に言えばメルロ・ポンティの仕事をミシェル・アンリに依拠してとらえ直したものだ。コギトの問題、他者の問題、身体の問題………。メルロ・ポンティは庭田さんが大学院生になり始めのころから読んでいたものだから、一冊にまとまるのに25年以上を費やしたということになる。会うたびに、こんな話は聞いていたような気がする。しかもいつでもわかったような、わからないような理解しかできなくて、しかもいつでもそのままで、関心があるようなないような気持ちのままに放置してきた。それだけに、四半世紀にわたってひとつのテーマを追いかけるその持続力としつこさにはまったく脱帽という感じだ。
  • デカルトの「我思う、ゆえに我在り」はきわめて有名なことばだ。で通説としては、「私」という存在は「私が私のことを思う」ところから自覚されるものということになっている。存在する「私」と、その「私」を思う「私」。ぼくはもう、それをアプリオリにして十分自我論も他者論も関係論もできるのでと考えてしまうのだが、哲学では、そう簡単には済ませられないようだ。
  • 「在る私」と「思う私」という二つの「私」を考えると、次々に「思う私を思う私」と続けざるを得なくなる。「無限背進に陥りかねない意識の生の逆説的な根本的特性との出会い」というわけだ。その難問をどう打開するか。もう一人の自分を自覚することなしに思う。「自分が思っていることを脱自の隔たりを置くことなしに、直接的に無媒介的にそれ自身において知る。」わかったようなわからないような。まるで禅問答のように感じてしまうが、出てくることばには興味深いものも多い。「無言のコギトと語られたコギト」「自己への配慮と自己の認識」………。読み終わるまでにはまだまだかかりそうだが、本来、読むことは書くことに負けないほどの努力を必要とするものなのだから、数ヶ月かかるのは当たり前なのかもしれない。気をいれて持続させなければ………。
  • 2001年10月1日月曜日

    ムササビ、その後


    forest11-1.jpeg・ムササビは今も屋根裏にいる。しかも数週間前から、僕が寝ている部屋に移動してきた。朝4時半に帰宅するから、どうしてもその足音で目が覚める。しかも、爪とぎなのかガリガリ始めるから、寝ていられない。そのうるささに我慢がならず、杖で天井をついたりしても、いっこうにやめようとしない。頭に来て、この「ムサ公!」などと怒鳴りながら、壁や天井を叩く。そんなことが数回あった後、住んでいる気配がしなくなった。
    ・そうなると、家出でもしたのかと心配になったりするから、いやになってしまう。で、数日後にまたごそごそしてほっとする。3カ月も一緒にいると、知らず知らずのうちに同居が当たり前になってしまっているのだ。よくしたもので、ガリガリやってもたいして気にならなくなった。ムササビは雨の日でも出勤する。台風の時は行かないだろうと思ったが、やっぱり明け方に帰ってきた。いったいどこで何をしてくるのだろうと、これも気になる。

    forest11-2.jpeg・せっかくつくった巣箱が見向きもされないので、作り直すことにした。さっそくパートナーが河口湖町にある「山梨県環境科学研究所」にメールを出すと、そこの小口さんが直接訪ねてきてくれた。彼は小学校の先生で一時的に研究所に派遣されているのだという。で、家や周囲の木を見て回ったのだが、後で巣箱やムササビについての資料をメールで送ってくれた。
    ・そのあと台風やテロ事件でずるずるとほったらかしにしていたのだが、久しぶりに晴れた日に朝から巣箱づくりにとりかかった。前のよりも縦長にして入り口の穴をなるべくうえにつける。穴から入って、すとんと落ちるような構造をムササビは好むようだ。そして中には、杉の木の皮を敷いておく。ついでに余った皮で周囲を覆うことにした。これで木の隙間から雨漏りすることもない。一日仕事だったがずいぶん豪華な巣になった。これなら気に入ってくれるだろうと思うが、さてどうだろうか。後はどの木にくくりつけるかだ。

    forest11-3.jpeg・今年の夏は雨が少なくて河口湖の水も減って岸辺が増えたから、そこにテントを張る人も多かった。しかし台風がものすごい雨を降らせて、ふだんは水のなかった近くの川もものすごい勢いで流れた。だから台風がすぎた直後に湖まで行ってみると、いつもカヤックを組み立てていたところも水没して、泥流で色が変わってしまっていた。当然、湖には釣り客も水上スキーも遊覧船もない。本当に久しぶりの富士山だが、その姿を見る人は湖畔には誰もいない。雨上がりの日差しは強く。風はなま暖かいというよりは蒸し暑かった。


    forest11-4.jpeg
    ・今年の気候のせいなのかわからないが、猿の群が山を下りていて、周辺の畑がずいぶん荒らされているようだ。別荘地区の管理人さんは、丹精込めてはじめて作ったカボチャをイノシシに全部食べられてしまったという。栗やクルミが実をつけているが、山の食べ物は減っているのかもしれない。
    ・台風一過で久しぶりに北の御坂山系が夕焼けになった。今までに見たことがないほどきれいな色に染まった。空気が澄んで、しかも湿気があったせいだろうか。しばらくすると季節は確実に秋になった。真っ青な空。気温も下がって、明け方には10度を切るようになった。ストーブで薪を燃やすのもそろそろ必要になりそうだ。
    forest11-5.jpeg・カヤックに乗る回数は少なくなった。雨の日はだめだし、風が強い日も避ける。温度が下がったから、夕方ではなく日中の陽の出ている日を選ぶ。そうすると、なかなかいける時が見つからない。とはいえ、気温はこれからどんどん下がるから、へたをしたらまた来年の夏ということになってしまう。T シャツ一枚が、長袖になった。そろそろウィンドウブレーカーも必要になる。セーターやダウンを着てもやるつもりだったが、はや億劫になりはじめている。(2001.10.01)

    2001年9月24日月曜日

    テロと音楽の力


  • 9月22日の朝に新聞を見たら、テロ事件の追悼番組があることに気がついた。午前10時から2時間。大物スターが出演としか書いていないから、大した期待もしないでテレビをつけた。そうしたら、ブルース・スプリングスティーンからはじまって、U2、スティービー・ワンダー、スティング、ビリー・ジョエル、ポール・サイモン、シェリル・クロウ、パール・ジャム、トム・ペティとつぎつぎ出てきてびっくりした。何より驚いたのはニールヤングが「イマジン」を歌ったこと。不意にだったこともあるが、ジーンとしてしまった。
  • 僕はジョン・レノンは好きだが、それは彼の声やメロディにであって、歌詞に感心したことはなかった。彼の発想は少年の心のままで、それがいいとされるのだが、もうちょっと世の中も人間も複雑だよ、といいたくなってしまうものが多い。しかし、追悼番組ではそのことばが群を抜いて説得力があるように感じられた。
    国がないと想像してみる
    難しいことじゃない
    そのために殺すことも死ぬこともなくなるじゃないか
    それから宗教もないとしたら
    みんなが平和に生活できると思わないか "Imagine"
  • 僕はこの歌詞を聞いて、ブッシュ大統領のことばを連想した。「悪」を許さない正義の戦いをする。自由と民主主義を守るために。まるで「スター・トレック」のカーク船長のようで、その単純さにあきれるが、アメリカ人の90%が支持しているとなると、底知れない恐ろしさを感じてしまう。だからこそ、一見もっともらしい単純な発想には、それとは対照的な子どものナイーブな発想が力をもつ。ニール・ヤングの歌う「イマジン」には強いメッセージがこもっていたように思う。
  • 番組には、映画俳優たちがたくさん出ていて、その人たちが短いメッセージをしたり、カンパの電話に応対したりしていた。それはそれで華やかだが、やっぱりこういうときには歌の力にはかなわないと思った。
  • しかし、いずれにせよ、こういう番組がすぐにつくられ、四大ネットで同時放送されるのを目の当たりにすると、アメリカの強大さを、政治や経済や軍事ばかりでなく文化の面においても痛感させられてしまう。テロ事件の後でくりかえし聞かされるのは、アメリカ人の不屈の精神、力の確認、自尊心の自覚等々で、そのたびに彼らの傲慢さにうんざりするけれども、実は、共感できるところも同じ気質に起因しているから、僕の態度はいつでも両義的になってしまう。
  • 同じ日の朝日新聞で坂本龍一がテロ事件について書いている。彼はニューヨークに住んでいて、当日の様子を実際に見たそうだが、そこから訴える、報復の無意味さ、あるいはさらに起こる悲惨さへの警告には説得力があると思った。彼はまた最後に、次のように書いている。
    生存の可能性が少なくなった72時間を過ぎたころ、街に歌が聞こえ出した。ダウンタウンのユニオンスクエアで若者たちが「イエスタデイ」を歌っているのを聞いて、なぜかほんの少し心が緩んだ。しかし、ぼくの中で大きな葛藤が渦巻いていた。歌は諦めとともにやってきたからだ。
  • 坂本はこの経験から、傷ついた者を前にして、音楽が何もできないのではという疑問をもったようだ。そうなのかもしれないと思う。けれどもまた、そうでもないだろうとも思う。追悼番組の「イマジン」にジーンとしたぼくは、この番組が呼びかけた、被害者へのカンパに協力しようかと思った。今度の事件でぼくはもちろん、全然傷ついてはいない。そうすると歌にできるのは、無関係な者に苦しみや悲しみを想像させることぐらいだということになる。歌や音楽の力にははるかにおよばない文章などを書いている者にとっては、それでも相当なものだと思う。坂本龍一が音楽の無力さに苦しむというなら、いったい書くことの意味はどこにあるのだろうか。
  • 2001年9月17日月曜日

    Bob Dylan "Love and Theft", Radiohead "Amnesiac"

    ・ディランのアルバムがまた出た。ついこの間"Bob Dylan Live 1961-2000"のレビューを書いたばかりなのにと思ったら、今度は全くのニュー・アルバム。グラミー賞を取った"Time out of MInd"から4年ぶりだそうである。とてもそんなにたっているとは思えない。たぶん、それだけディランの最近の活動は活発なんだろうと、勝手に解釈した。そういえば、その4年のあいだに1966年の幻のライブ"The Royal Albert Hall Concert"も発売されているのだ。ちなみに、編集版もあわせると、これが50枚目のアルバムらしい。

    ・で、さっそく聞いてみたら、なかなかいい。楽しいサウンド。リラックスした歌い方。プレスリーのようなロックンロール、ジャズのスタンダード・ナンバーのような、あるいはカントリー、ブルース、そしてハードロックと、やりたいことを自由気ままにやったという感じだ。それで、決してバラバラではなく、ひとつのトーンになっている。『セルフポートレート』を思い出させるが、曲はほとんどオリジナルで、歌詞も相変わらずいい。

    一歩一歩、わたしは足を踏み外すことなく歩き続ける
    きみがこの先、生きられる日は限られているし、このわたしだってそうだ
    時間だけが積み重ねられていき、私たちはもがき苦しみながらも
    何とかやっていく
    誰も彼もが閉じこめられ、逃げ場所はどこにもない

    わたしは田舎で育ち、都会で仕事をしてきた
    スーツケースをおろして腰を落ち着けて以来
    面倒ごとにずっと巻きこまれっぱなし("Mississippi" 訳:中川五郎)

    ・ディランの声は年々太く、低くなっている。歌も重たく沈んでいるようなものが多かったから、あまり好きではなかったのだが、このアルバムの声には認識を新たにさせられた気がした。歴史的な出来事や人物、あるいは物語をとりあげる歌詞からいっても、歌うストーリー・テラーといったところで、その役割を自在にこなしている。ただし、ほそく刈り込んだ髭だけはいただけない。ダリを意識しているのかもしれないが、全然似合わない。

    夏のそよ風の中 急に突風が舞う
    風が風にたてつくなんて
    まったくばかげているとしか思えないこともある

    近所のお年寄りたちは 自分よりも年下の人間たちと
    ときどき仲が悪くなることがある
    でも若いか、年をとっているかなんて大したことはない
    結局どうでもよくなってしまうんだ("Floater"訳:中川五郎)

    ・ディランの自在さと対照的なのがラジオヘッド。"Kid A"のごちゃ混ぜのサウンドに、方向を見失っている印象をもったが、それから1年もたたないうちにまたもう一枚、 "Amnesiac"がでた。こちらの方が少しはまとまりが感じられてましかなと思うが、立て続けに出したところとあわせて、聴いていて受けとるのは混乱と分裂、迷いといったものだ。Amnesiacは記憶喪失者のことで、歌詞にも迷いの表現が多い。

    僕は間違っていたんだ
    僕は間違っていた
    光がやってくるのを見たって誓ったことだ

    よく考えてた
    ずっと考えてた
    未来なんて全然のこされていないんだって
    そう考えてたんだ("I might be wrong") 


    ・新しいサウンドやメッセージをもったミュージシャンは誰もが光り輝いている。それが閃光のように突き抜けていって、やがて壁に突き当たる。そして乱反射。もう40年もポピュラー音楽につきあって来て、何度も見た軌跡だ。そこで消えてしまう者もいれば、新しい方向を見つけてまた光を放つ人もいる。ディランはそんな過程を何度もくりかえしてきて、また何回目かの新しい光を放ちはじめている。ラジオヘッドはたぶん、今が最初の壁で、懸命になって乗り越えたり、隙間を探そうとしているのだ。僕は"Kid A"も"Amnesiac"好きになれそうにないが、ラジオヘッドの道筋には関心がある。ぼくがロック音楽から聴き取るのは、何よりミュージシャンが表現する人生のプロセスなのだから。 (2001.09.17)

    2001年9月10日月曜日

    ブルース・ウィリスの映画

  • まだ、ポール・オースターについて考えている。そろそろ締め切りが気になりはじめたし、大学ももうすぐはじまってしまう。例によって、胃の調子が悪い。このパターンを何とか乗り越えたいのだが、今回もやっぱり駄目。書きたいテーマや材料はたくさんある。しかし、一本の線上にならべると、その大半ははずれていってしまう。逆に、新たに調べたり考えたりしなければならないことが浮上してくる。で、また小説の読み直し。原稿は遅々として進まない………。ため息つきながらWowowで映画を見る。
  • オースターは『スモーク』から映画にかかわりはじめた。『ルル・オン・ザ・ブリッジ』では監督と脚本を手がけたが、小説と映画のちがいを適格に言いあてている。
    私が書くとき、つねに頭のなかで最上位を占めているのは物語だ。すべてのことは物語に奉仕させなければと思っている。エレガントな描写、気を惹くディテール、等々のいわゆる「名文」も、私が書こうとしていることに本当に関連していなければ、消えてもらうしかない。声がすべてだ。『空腹の技法』
  • 小説はなにより物語。登場人物や場面の細かな描写は、読者の想像力にゆだねればいい。オースターがとるこのような原則は、小説の源流である、神話や昔話から引き継がれているものだ。そして、映画はまったく異なる原則の上に成り立っているという。つまり、映画にあってはディテールこそが大事ということになる。配役、セット、ロケ、天候等々、すべての条件を整えて、それではじめて「スタート」となるのである。
  • たしかに、そうだ。僕にとって見たい映画の基準は、監督か役者。誰が作ったかと同じくらい「誰が出ているか」が決め手になる。ロバート・デ・ニーロ、ダスティン・ホフマン、ジャック・ニコルソン、ショーン・コネリー、デンゼル・ワシントン、ニコラス・ケイジ、ダイアン・キートン、スーザン・サランドーン、シャロン・ストーン、ジュリア・ロバーツ………。
  • 最近つづけて、ブルース・ウィリスの映画を見た。『シックス・センス』『ストリート・オブ・ラブ』『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』。彼は『ダイ・ハード』で売り出したハードボイルドもののスターだが、シリアスなものもコミカルなものもこなす役者である。ハンサムではないし、頑健な肉体の持ち主でもない。禿頭でジャガイモのような顔。どこにスターの要素があるかという外見だが、不思議と魅力がある。
  • 決して強くはないのに生き残る。顔つきからして喜劇的な雰囲気があるから、コミカルな演技ははまり役だが、その個性はシリアス・ドラマでも生かされている。たとえば『シックス・センス』。『AI』でも大活躍の子役H・J・オスメントととの競演で、精神的に病んだ子どものカウンセリングをするという役どころだ。
  • オスメントはデリケートな心をもった少年をうまく演じている。というよりは彼の個性そのもので登場している。ブルースはその少年に不器用に接触するカウンセラーだが、決して意気込んでいない、力の抜けた演技が、少年とは対照的でいい。弛緩したブルースとこわばったオスメント。その少年のこわばりが次第に溶けてきて、彼の心のなかが明らかになっていく。物語はそういうことなのだが、注目させられるのは話の展開以上に二人の表情やからだのうごきである。
  • 役者のなかには、いつでも同じ顔で登場というタイプがある。それはそれで気に入れば好きだが、やっぱり飽きてくる。たとえばニコラス・ケイジ。あるいはいかにも演じているなと感じさせる人もいる。たとえばデ・ニーロやジャック・ニコルソン。そのうまさに感心することもあるが、時にやりすぎが鼻につくこともある。そこへいくとブルースは、自然体だ。役にはまっているようでいて、どこかでずれてもいる。演技をしているようで、また素のままのようにも見える。
  • 映画にスターが不可欠であるのはハリウッドが考案した戦略だが、しかし、やっぱり映画は脚本や監督以上に。配役がその作品の善し悪しを判断するものだ。ブルース・ウィリスの映画を見ているとつくづくそんな思いを強くする。そういえば、オースターの映画にはハーベイ・カイテルが欠かせない。だから僕はオースターの小説を読むときでも知らず知らずハーベイを思い浮かべてしまう。これは僕の想像力を妨げる要因で、邪魔だから消えてくれ、と言いたくなることがある。
  • 2001年9月3日月曜日

    NTT はなくなるべきだと思う

  • 僕のパートナーが今年から携帯を使いはじめた。電源はほとんどオフ状態で、たまに出かけるときだけもち歩く。メールの転送などもセットしているのだが、最近やたらに出会い系サイトなどのジャンク・メールが届くという。NTTは着信にお金を取るから、もうそのたびに腹を立てていて、携帯のアドレスを変えた。
  • ジャンク・メールに対する苦情は、まずは差出人に向けられるべきものだろう。男女の殺傷事件などで話題になっているこんな時期に、メールを無数に出しまくる出会い系サイトには、強い非難が向けられて当然だ。いったい何を考えているのか、と思う。けれども、それで収入を得ているNTTはなぜ知らん顔なんだろう。僕はこっちの方がよっぽどおかしいと思っている。もっともこのような姿勢は、ダイヤル伝言板やダイヤルQ2が社会問題になったときから一向に変わっていない。簡単にいえば、無責任な金儲け主義。
  • だいたいNTTにはパソコン通信をはじめたときから、腹に据えかねるような思いをくり返し持たされてきた。たとえば、パソコンを電話回線につなぐのに、電話と同じ料金を払わなければならないこと。このために、パソコン通信、あるいはその後のインターネットをするのに、毎月数千円から数万円の電話料を払わなければならなくなったこと。そのような理不尽さに批判が集中して、NTTがやっと重い腰を上げて「テレホーダイ」という中途半端なサービスをはじめたこと。だから、インターネットを落ち着いて楽しむためには、夜更かしをするか、早起きをするかしなければならなかったこと。もっとも、これもいまだに変わっていない。サービス精神の欠如。
  • もちろん不満はそれですむものではない。大学でインターネットにつなぎっぱなしという環境ができて、NTTにお金を払っているのは、インターネットへのゲートの通行料だということにあらためて気がついた。インターネットは個別のネットワーク同士がそれぞれ手をつなぎあって、それが世界大のクモの巣(WWW)に成長したもので、基本的にはアクセスにお金がかからないはずなのだが、その入り口まで行くのに高額の電話料を取られる。この意味ではNTTは関所を勝手につくって通行料を徴収した幕府と同じなのである。国営企業の体質まるだし。
  • 電話回線では通信速度にかぎりがある。そこでNTTが宣伝して利用を進めたのがISDNなのだが、韓国などでは既存の回線を使ったDSLというシステムで高速の環境を普及させていて、それが日本以上にインターネットへの関心を高めている。このようなことがほんの数年前に話題になって、DSLが日本で普及しない原因がISDNを放棄したくないNTTの都合によることが明らかにされた。ISDNにすれば、工事費や使用料などにそうとうのお金を取られる。それで多少のスピード・アップをしたことに喜んでいた人も多いと思うが、何のことはない。既存の回線ではるかにスピードの速いシステムがあったのである。自らの失敗のつけを利用者に負担させて知らん顔。
  • 携帯電話でメールのやりとりやインターネット接続ができるようになって、NTTはあたかも、その開拓者のような顔をしている。しかし、パソコン通信から現在までのプロセスを見ていると、NTTはくり返し、その利己主義的な体質で、その発展や普及の障壁になってきたことがわかる。まったくいい気なものなのである。ところが、契約合戦で熱かった「マイライン」はNTTの一人勝ち。藤原紀香や松坂慶子の説得もまるで通じなかったようである。しかしこれも、NTTが努力したせいではない。手続きをしなければ自動的にNTTと契約したことになるという、ハンディキャップつきレースだったせいにすぎない。
  • あまり話題にはされないが、IT社会への対応を急ぐという国の政策にとってNTTが大きな障壁になってきたことはまちがいない。実際接続料の高さを指摘されて国が動いたのはアメリカからの外圧だったりしたのだ。電話にもインターネット接続業にも民間業者が参入して一見、競争システムになっているかのようだが、NTTの既得権益の大きさに、どこも苦戦を強いられている。もうNTTなど使いたくない。僕は何年も前からそう思っているが、他に選択しようがなかったりするから本当にしゃくにさわる。