・最近、学生の気質が変わった、という話が教員の間でたびたび持ち上がるようになった。ケースはそれぞれだが、僕にも思いあたる節がいくつかある。たとえば、大講義で苦労した「コミュニケーション論」で、学生から感想を聞く「授業アンケート」をした。試験前だったせいもあって、いつにもまして大勢の学生が出席して、席がたらないほどだった。で、アンケートを回収すると、あまった紙が大量にある。おかしいなと思って、アンケートに回答した枚数を数えると、250枚しかない。550人、いや600人近くいたはずなのにと、TI(ティーチング・アシスタント)の院生K君と顔を見あわせて頭をひねってしまった。
・出席した学生の半分以下しかアンケートに回答してくれない。しかも3分の1は用紙すら受けとらなかった。どうしてなのだろうか。「コミュニケーション論」では4回の授業中レポートを課した。だからだろうか、出席者が500を切ることは一度もなかった。もちろん、出席した学生のほとんどがレポートを書いて提出した。じっくり読む時間はないが、それでも一通り目を通したし、TIのK君にも読んでもらっておもしろいものにチェックをしてもらった。大講義だからとほったらかしにはできない、と思ったからだ。なのに、無記名だと出さなくてもいいと判断する学生が過半数もいたのだ。ずいぶん現金で、自分勝手だな、と思った。
・講義の中身は「コミュニケーション論」だから、当然、現代の人間関係の特徴について考えるもので、他人事ではなく自分のこととして受けとめるよう授業を進めた。だから、学生が書くレポートにも、それなりの自己分析や反省がこめられていた。「無関心」「孤独」「誠実さ」、そして「信頼」とは何か。そんな話をしたのだが、僕の言いたいことがどのくらい、どれほどの人に伝わったのか、と考えるとはなはだ心許ない気持になった。試験の答案では、逆に教員の顔色をうかがうような媚びた回答が目立つから、それと対照させると、現金で自分勝手という意識が一層強調されてくる。「必要となれば、相手にあわせることに懸命になるが、そうでなければ、相手かまわず自分勝手にやる」といった行動の仕方である。
・ここにはまた、「面倒くさいことは、極力回避しよう」といった行動基準もうかがえる。それは、学生と接していて、よく目にする反応でもある。課されたレポートについて、本を読むことなど面倒くさい。買うのはもちろんもったいない話だが、図書館に行って借りるのも煩わしい。だからネットでグーグルかウィキペディアということになる。同じ内容や文面のレポートを読まされる教員は、そのことで学生を叱ったりするのだが、彼や彼女たちには、どこが悪いのか今一つわからない。自分で読んだり、考えたりしなくても適当な材料が手近にあるのだから、それを使えばいいじゃないか、という発想なのである。
・要領よくやることは、もちろん、決して悪いことではない。けれども、要領だけで行動したのでは、おそらく大学では何も学ばず、何の技術も身につけずに、ただ学士の称号だけ受けとって卒業することになってしまう。知識や技術は、面倒なことを地道にやって始めて身につくものだからだ。その地道な努力を無意味に感じさせる要因は、ケータイ、ネット検索、そしてコンビニなど、学生たちの日常生活に溢れていて、しかも、どれもが便利で不可欠な道具や手段になっている。グーグルやウィキペディアでレポートを手軽に仕上げるのが、マクドナルドでハンバーガーを食べるのと同じ感覚だとしたら、どこが悪いかわからないのは無理のないことなのかもしれない。
・これが新しい学生気質だとしたら、それに、どう対応したらいいのだろうか。小うるさいじじいと思われてもしつこく指摘するか、もう好きなようにやれと突き離すか。悩ましい課題だが、幸いもうすぐ夏休み。学生のことも、大学のことも、この期間はすっかり忘れることが肝心だ。