2009年9月27日日曜日

BOSEの音


・夏の間も、一枚のCDも買わなかった。だから、このコラムで紹介する CDもないのだが、Amazonで探しても、気になるものは何もない。ビートルズのリマスター盤が話題になったり、マイケル・ジャクソンが相変わらず売れていたりといった状況は、音楽の夏枯れそのものを象徴しているように思えてしまう。もうCDも溢れるほどあって、毎日聴くものに困ることもないのだが、新しいものがないと、何となく物足りない。

beck1.jpg ・ジェフ・ベックとエリック・クラプトンが2月に日本で競演をした。それにあわせてNHKが放送したジェフ・ベックのライブが気に入ったのですぐに購入した。もう60代半ばだというのに昔のままの痩せたからだで、ピックを持たずに演奏する姿に興味を持った。隣でベースを弾いていたのが孫ほども年の違う少女だった。実は、彼のCDは一枚も持っていなかった。レコードもロッド・スチュアートがヴォーカルをやっていた当時の"Truth" (1968)一枚だけだから、懐かしいと言うよりは、はじめてじっくり聴いたという感じだった。その後何枚かCDを買ったのが、最近購入したCDということになる。

・iTunesにGeniusという機能がついて、一つ曲を選ぶと類似したものを集めてくれるようになった。 iPodでは、それを使って作ったリストばかりを聴いている。だから、CDそのものは、買ってしばらくの間だけということになってしまっているのだが、そのCDを何ヶ月も買っていないから、CDをかけないことが普通になってしまった。こんな状態が続くと、音楽をCDで買う習慣も忘れてしまうかもしれないと思ったりもしている。とは言え、まだ一度もiTunes Storeで買ったことはない。

bose1.jpg ・もっとも、パートナーの工房ではCDがかかっている。しかし、そのCDプレイヤーが壊れて、新しいものを買うことになった。彼女はシンプルで安いのでいいと言ったのだが、僕は前から気になっていたBOSEのWave Music Systemを勧めた。以前に御殿場のアウトレットで聴いて、いい音が出ると思っていたからだ。コンパクトだけど他社の製品に比べると随分高いし、まったく値下げをしない。性能に自信があるのか、薄利多売を嫌っているのかわからないが、Amazon経由で買うことにした。

・注文すると数日で届いた。さっそく工房のロフトにおいて聴いてみたが、確かに音がクリアで低音が効いている。建物(鉄骨、モルタル床)のせいか音が堅い感じがする。置き場所にもよるのだろうと思って、母屋に持ってきて聴いてみた。ある程度ヴォリュームをあげると、室内によく響く気がした。しかし、壁に吊ったBOSEのスピーカーのほうがやっぱりいい。本体にはボタンが一つもない。すべてはリモコン操作だが、ヴォリューム以外に音質を調整する機能は何もない。いい音はこれ以外にないという姿勢だが、場所によって音は随分違うから、聴く者に選択する余地を持たして欲しいと感じた。

・工房の決まった場所で、同じヴォリュームで、作業の邪魔にならない程度に心地よい音楽を鳴らす。そういう意味では、悪くないと思う。

2009年9月21日月曜日

模倣とミラーニューロン

 

Tarde.jpg・「模倣」という行為は、得てして低い評価をされがちだ。コピーではなくオリジナル、偽物ではなく本物、ものまねではなくクリエイティブなものをというのが、一般的な発想だろう。しかし、人間にとってほとんどの能力は、まず「模倣」から始まるのも事実なのである。そしてその重要性は、さまざまな社会学者によって繰りかえし強調されてきた。

・たとえば、群集や公衆の分析で有名なタルドは、その『模倣の法則』のなかで、「模倣」が生殖に匹敵する社会的な反復作業だと指摘している。つまり、生殖が遺伝子情報の伝達であるように、「模倣」は社会や集団に記憶された情報の伝授だというのである。誰に習わなくても本能としてできることと、まねをし、学習をして身につけることの違いと考えたら、それは生物全般に共通した、生きるために必要なふたつの情報や能力だということはわかるだろう。そして、人間には、他の生物に比べて、圧倒的に、後天的に身につけなければならないものが多いのである。

・このことは、自分が誰であるかを確認する「アイデンティティ」ということばに注目したらよくわかる。それは何かに「同一化」することによって自分を確定させる行為であって、もともとあったものを見つけることではないのである。これはフロイトの「超自我」、G.H.ミードの「me」、そしてエリクソンの「アイデンティティ」などに共通した認識である。ただし、そうして自覚していく「私」という意識が、自分のからだ、とりわけ脳のなかのどこにあるのかということは、つい最近になるまでほとんど問題にされてこなかった。脳のどこかと考えることはあっても、それは何か神秘的な領分として、曖昧にされたままだったのである。

neuron2.jpg ・ところが、最近の脳科学のめざましい進歩が、人間の意識や能力について、脳のどこの部分のどんな働きによっておこなわれ、制御されているのか、といったことが明確になりつつある。脳のなかで情報の処理と伝達をおこなう組織は「ニューロン」と呼ばれる「神経細胞」である。その動きは、具体的には電気と化学物質によっておこなわれるから、さまざまな実験をして、その動きを突きとめれば、何をした時に脳のどの部分でどんな働きが起こるのかがわかるのである。

・「ミラーニューロン」は別名、「ものまねニューロン」と呼ばれている。他者が何かをしている時に、それを見るという行為のなかで、脳が反応する部分は、同じことを自分がする時にも同様の反応をする。それはたとえば、何かを手に持つという行為や、何かを食べるという行為など、ありとあらゆることに及ぶものである。しかも、同様の反応は猿などにも見られるが、人間は比較にならないほど強く複雑であるようだ。もっとも、発見のきっかけになったのは猿を実験した時の思わぬ結果からだった。

neuron1.jpg・「ミラーニューロン」を発見したのは、『ミラーニューロン』の著者であるイタリアのパロマ大学に所属する、ジャコモ・リゾラッティとコラド・シニガリアを中心としたチームである。もう一冊の『ミラーニューロンの発見』はアメリカのUCLAに所属するマルコ・イアコボーニが書いている。その発見の当事者たちと、研究仲間という違いがあるが、二冊の本に書かれていることはよく似ている。

・「ミラーニューロン」は人間という生き物に特に顕著に見られる脳の組織で、「模倣」という行為に大きく関連したものである。ということは、「模倣」は常識的に考えられているように低級な行為ではなく、きわめて高度な能力なのだということになる。だからこの本を読んでの教訓は、けっして「模倣」を馬鹿にしてはいけないということだろう。人間のクリエイティブな能力は、「模倣」によって獲得した土台があってはじめて発揮されるものである。そうであれば、オリジナリティへの評価は、もっと相対化して考える必要がある。

2009年9月14日月曜日

テレビの凋落

・民放テレビ局の業績が悪化しているようだ。直接的には不景気で広告収入が減ったことが原因となっている。どの局も似たようなバラエティで時間を埋めていれば、飽きられるのも当然だし、もっと大きな理由はほかにあるはずだ。そのことがわからないとすれば、惨敗した自民党と同じで、権力に安住して民意が離れてしまっていることに気づかないとしか言いようがない。

・テレビにとって一番の強敵はインターネットで、その力関係が逆転しはじめているのは明らかだ。新聞はすでに大きな影響を受けていて、ネットを前提にした上で、新聞が生きのこる道を真剣に考えはじめている。これも今さらというほど遅い対応で、新聞もテレビも自民党のおごりや怠慢ぶりを批判できる立場にはないはずなのである。

・新聞は印刷されて各戸に配達されてきた。その仕組みが収縮していくことは明らかだが、それに代わってどういう形で生きのころうとしているのだろうか。テレビはNHKと民放数社が全国をカバーして、たがいに視聴率を競ってきた。衛星放送(BS,CS)やケーブルテレビは、日本ではあくまで数局の地上波を補完する位置づけでしかない。地上波がデジタルだけになった後にできる空きチャンネルも既存の局が支配すれば、衛星放送並の位置づけでチャンネルが増えるだけのことでしかない。

・インターネットは回線で世界中をつなげたものだ。しかし、地デジであいた電波領域をつかって無線のブロードバンドも可能だと言う。アメリカではGoogleがそういった理由を主張してアメリカ政府に要求していいるそうだ。そうなれば、プロバイダーと契約してインターネットに入る必要もなくなるのだろうか。あるいはNTTやKDDなど電話の会社が支配権を巡って争うことになるのだろうか。

・ボブ・ディランが第二次大戦後にラジオから流れた曲を集めて、衛星ラジオで何度もレクチャーをした。その番組や、そこで紹介された歌が続々CD化されている。もちろん、その中身もおもしろいが、人工衛星を使ってラジオやテレビの放送が可能で、しかも巨大なネットワークではなく、小さな独立局が個性豊かな番組作りをしていることに興味を持った。新しい可能性ができた時に、それを手にしたり、つかったりする権利は、アメリカでは誰にでも平等に開かれているのが原則だ。ところが日本では、電波は国が完全に管理していて、市販されている発信器をつかったごく小規模の放送でさえ、つい最近まで認められてこなかった。これでは新しい動きは起こりようがないのである。

・受信料の不払いで業績を悪化させていたNHKの収入が回復傾向にあるようだ。お金を払ってもらうためにはいい番組作りをという姿勢が評価されたのかもしれない。確かに、民放とは比較にならないほど見応えのある番組が少なくない。地上波2局にBSを3局もっているから個々の民放と比較しても仕方がないが、全部まとめてもNHKの方が上と言えるような気がする。少なくとも我が家では、テレビを見ている時間の8割以上はNHKだ。

・テレビの視聴時間に減少傾向が見られたのは2004〜5年と言われている。毎年10分ずつ減りつづけているという統計もあるが、その大半は民放のようだ。気づいたら、誰も見てくれなくなったといったことが遅からずやってくる。そんな危機意識が画面からはまったく感じられないから、いい気なものだと思ってしまう。

2009年9月7日月曜日

Adobeに腹が立った!

・僕が一番使うソフトはアドビの”In Design"と"Photoshop"だ。"Illustrater"はあまり使わないが、CSになってからパッケージされたものにしてCS2、CS3 とアップ・デートをしてきた。"inDesign"の使い勝手は、実際、アップデートしてもほとんど変わらないから、する必要はないのだが、大学のパソコン教室(メディア工房)に合わせないと何かと不便だから、渋々おこなってきた。

・このソフトはCS2になってからネットを介してライセンスの認証登録が必要になった。2台のパソコンで使用することはできるが、それ以上の場合には、使うたびに登録の変更が要求されるのである。僕は自宅と研究室のパソコンのほかに持ち運びできるMacbookを一台もっている。出かける時には必ず携行するが、自宅でも、使う場所を自由に変えられるから、登録の変更をしては3台で使い分けてきた。

・ところが8月の中旬頃から、ライセンスの認証の登録の変更が急にできなくなった。Adobeに電話をすると、制限回数を超えたためだという。そんな注意書きはどこにもないはずなのに、もう変更はできないの一点張りでとりつく島もない。しかも、1本のソフトは2台のパソコンにだけインストールをすることが許可されていて、3台に入れるのは違反だと言う。そうではなくて、ユーザーひとりに1本ではないの?と聞き返しても、向こうが設けた規則を繰りかえすだけだ。話をしながら、だんだん腹が立ってきた。

・登録の変更が駄目だという画面がネット上にでた時に、「追加のライセンスがオンラインですぐに購入できます」という文面が出るのだが、これをクリックしてAdobeのサイトに行っても、どこでどういう手続きをすれば購入できるのかまったくわからない。そのことを問いただすと、それはアメリカだけの話で日本では駄目だという。だったら、なぜ、そんな文面を出しているのかと問いかえすと、英語の文面をただそのまま訳しているだけだと言う。もう本当に腹わたが煮えくりかえる思いだった。もちろん、アメリカではいいけど日本では駄目という理由も聞いたのだが、何の返答もなく、削るようにしますと言っただけだった。

・僕は、文章の作成をずっとDTPソフトでやってきた。1989年にマッキントッシュのSE30を買った第一の理由が"PageMaker"を使ってDTP(卓上印刷)ができることだったからだ。Aldus社をAdobe社が買収して、 ”Pagemaker"は販売されなくなり、代わって"InDesign"が売り出された。改善はいろいろされたと言うが、僕の使い方では"PageMaker" とほとんど変わっていないし、かえって、用もないものが余計について値段が高くなるばかりで、ちっともいいことはないと思ってきた。

・ソフト会社がコピーによる不正利用に苦慮している現状は、それなりに理解をしているつもりである。だから、ライセンス認証の登録そのものに反対するつもりはない。けれども、ユーザーが一本のソフトをどのように利用しているのかについて、もうちょっと融通性があってもいいと思う。20年近くにわたって使い続けているユーザーが不満に思ったり、不審に感じたりすることには、もうちょっと慎重であるべきだし、それなりの対応もすべきだろう。

・実際、もう"InDesign"を使うのはやめてしまおうかと思っているが、残念ながら、安価でシンプルで使いやすいソフトは見あたらない。当分使い続けるしかないと思うと、またいっそう、腹が立ってくる。

2009年8月31日月曜日

千客万来

 

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・ぐずついた天気でちっとも夏らしくなかったが、お盆あたりから太陽が照りつけるようになった。で、京都や東京から来客が続いた。その客を迎えるために、家のログや屋根の裏側のペンキを塗ることにした。はしごを使っても届かないところや、屋根の裏側を塗るためにJマートでローラーを買った。半信半疑だったが、これがなかなかの優れもので、いつも気になっていた白カビなどもきれいに塗ってしまうことができた。一部をきれいにすると、他との違いが目立ってくる。だから、玄関のログや屋根裏も塗った。上を見ながらの作業だから、当然、首と背中が痛い。
・京都からやってきたキミちゃんは友人の娘だが、短大を出た後ニュージーランドで暮らしていたと言う。山好きで、この後、単独で鹿島槍ヶ岳に行くと言って大きなリュックを担いでやってきた。思わず「ひとりで?」と聞いてしまったが、それは日頃接している、最近の学生とずいぶん違う印象を受けたからだ。陶芸を体験し、自転車で河口湖も西湖も走り回った。

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・そして、後半は、大学院の学生、OBたち。『カルチュラルスタディーズを学ぶ人のために』(クリス・ロジェク著、世界思想社)の出版パーティを我が家でやり、編集を担当していただいた川瀬さんも京都からおいでくださった。庭でのバーベキューは4時頃から始まり、夜中まで続いた。パートナーや子どもを連れてきた人もいて、家では収容しきれないので、テントで寝てもらった。歌を歌う人、せっせと食べる人、アルコールのだめな人、底なしで飲みたい人、それぞれに、たき火と冷気を楽しんだ。
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・翌日は西湖に出かけて、カヤックと自転車。ゆったり漕いで爽快な気分を味わった人もあり、転覆しかけるハプニングに奇声を上げた人もあり。西湖一周10km のサイクリングでは、日差しが強くて、みんな久しぶりに筋肉を使い汗だくになった。残念ながら富士山は雲に隠れていて姿を見せなかったが、澄んだ湖と樹海の風景を満喫したようだった。その後は富士吉田の名物「うどん」を食べに行って、富士急ハイランドのバス停で「さようなら」。やれやれ、楽しかったけど、疲れた!。 ・この1週間に訪ねてきた人は12人。パーティに参加できない三浦さんがカップルで陶芸体験にやってきた。早起きをして午前中に体験教室をすませたから、お昼は、かき揚げ天ぷらとうどんをご馳走した。にぎやかさが過ぎ去って久しぶりに静かになった晩は、夜更けに13度にまで下がって寒いほどになった。夏もこれで終わり。あれこれ仕事も山積みだ。

2009年8月21日金曜日

友人の死

 

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・関大の木村洋二さんが亡くなった。肺ガンで寝耳に水の話しだった。同年代というだけでなく、彼とは若い頃からつきあいがあって、ある意味では、一番影響を受けた人だったし、非常勤をはじめ、ぼくの就職先をいろいろ心配してくれる優しい人だった。昨年の秋に東北大学で開催された「日本社会学会」で会ったときには、いつもながらの元気さで、一緒に飲みながら、よく笑っていたことを思うと、未だに信じられない気がしてしまう。

・木村さんは亀岡の山奥に住んで、そこから大阪まで通っていた。最初にバイクで訪ねたときには、急斜面に数軒の集落と段々畑がある風景に驚いたが、すっかり気に入って、その後、何度もお邪魔した。付近を歩いて、生えているキノコの名前を言いながら、食べられるものをとって、おみやげにしてくれた。もう30年近くも前の話だ。ぼくが田舎暮らしを本気になって考えたのは、彼との出会いがきっかけだったと言っていい。

・山奥に住むには車が欠かせない。彼は4輪駆動のスバル・レオーネを絶賛して、乗るならこれと力説したから、ぼくもその気になって、しばらくして、レガシーのワゴンを購入した。子ども達とあちこちキャンプをして回ったり、北海道をはじめ国中を走り回って、今では彼以上のスバリストになってしまっている。職場への通勤ももちろんレガシーで、片道100キロの道のりを往復して10年になる。

・高らかに笑いながら話す人で、最初の本も『笑いの社会学』(世界思想社)だった。一見豪快で達観したように見えるが、きわめてデリケートな感性をしていて、いろいろ気を遣う一面もある人だった。出会ったのは、胃潰瘍を患って胃を切除した直後だったようで、玄米食などを勧められたが、ぼくも程なくして胃潰瘍になって苦しんだ。幸い特効薬が出たばかりで、ぼくの場合は切除を免れたから、気にせずに食べたいものを食べて、今ではメタボを指摘されるようになっている。

・会ったときはいつでも話すのは彼で、ぼくは聞き役だった。人間の感情やそれをもとにした関係をルービックキューブの六面体で構想するというアイデアが、彼の追求するテーマで、あれこれ思いついたことを目を輝かして話した。しかし同時に、人間関係における日本人的な特徴にも興味を持っていて、2冊目の本は『視線と私』(弘文堂)という題名で出された。私は他者の視線によって捉えられたものの集積として自覚される。そんな鳥瞰図と虫瞰図の間を行ったり来たりしながら思索をし、また人づきあいをする人だった。

・ぼくが東京の大学に移ってからは、会う機会も少なくなったが、しばらく前に、新聞に出た顔写真つきの記事を見たときには、笑ってしまった。笑いの程度を測定する器械を考案して、その単位を"aH"にしたという話しだった。いかにも彼らしいと思ったし、性の革命を提唱したウィルヘルム・ライヒを思い浮かべた。自然界に偏在するエネルギーを「オルゴン」となづけ、それを集積して身体や精神の治療に役立てようとした試みだ。ライヒの発明は受け入れられなかったが、笑いの測定器と"aH'という単位は傑作だと思ったし、いろいろ話題にもなった。

・その「笑い」とライフワークの「ソシオン理論」が、これからどう展開するのか、またあってゆっくり話を聞いてみたいと思っていたのだが、それがかなわぬうちに他界してしまった。彼の流儀からすれば、笑ってさようならをするのが適切なのかもしれないけれど、あまりに唐突で、早すぎる死だから、今はとても笑う気にはなれない。

2009年8月16日日曜日

政治哲学なき選挙

・いよいよ衆議院選挙がはじまる。もう間近だと言われてから、2年近くにもなるが、その間に国内はもちろん、世界の状況もずいぶん変わった。日本の首相もころころ変わったが、選挙での訴えやマニフェストを斜め読みしても、相変わらずといった印象が強い。だから、政治家に何かを希望したりする気もまったく起こらない。人里離れた所に住んでいるから、選挙運動の声がうるさいということもほとんどないだろう。興味がないと無視してしまうのは楽なのだが、そうすればするだけ、そのダメさ加減に腹が立ってくる。

・各党の党首達は当然、全国を飛びまわって、街頭演説をくり返している。その様子を伝えるテレビのニュースを見ていて気になるのは、何を訴えているのかではなく、どう訴えているかという、その口調にある。「国民の皆様」「ご理解願いたい」「ご支持をよろしくお願いいたします」といった言い方を聞いていて思うのは、それは政治家の口調ではなく、商人が客に対する話し方じゃないの?という疑問だ。一票ほしさに腰を低くしてお願いする。そんな気持ちばかりが目立つのである。

・人びとの支持の取りつけ方にはいろいろある。国民受けするパフォーマンスで人気を得た小泉元首相以来、政治家は国民のご機嫌伺いをいっそう気にするようになったようだ。「ポピュリズム」(大衆迎合主義)と呼ばれて、批判されるやり方だが、それを小泉ほどの演技力がない政治家がやると、票集めしか頭にない無能な政治家丸出しになってしまうから、何ともみっともなく見えてしまう。この国の財政はとっくに破綻していて、年金や健康保険などの社会保障もいつダメになるかといった現状なのに、マニフェストに並ぶ政策は、自民も民主も景気のいいばらまきばかりなのである。

・そんな国民への媚びへつらいの姿勢が目立つのは、自分の政治哲学を提示して、国民を説得しようという意思がないからだろう。広島と長崎の原爆の式典では、市長が口をそろえて、オバマ大統領の核廃絶の宣言に続き、それを推進する役割を果たそうと宣言した。ところが、それに声高に賛同する日本の政治家はほとんどいなかった。世界的な不況を乗り切る政策は同時にエネルギーや環境の問題と重ねあわせてやらなければならない。そんな「グリーン・ニューディール」の提案も、日本の政治家達には馬の耳に念仏でしかない。とにかく景気を回復させてというだけの自民党と、高速道路の無料化を目玉にする民主党の政策のどこに、環境やエネルギーの問題に対する危機感があるのだろうかと疑ってしまう。

・環境やエネルギーの問題に真剣に対処するためなら、今の生活レベルが下がってもいい。そう考える人の割合がかなりあるという調査結果があった。あるいは、社会保障を確かなものにして安心できるなら、消費税が上がっても仕方がないと考える人の割合も少なくないという。そういう国民の意識を自覚して、日本という井の中にとどまらず、世界を見据え、将来を見通した政策を提案できる政治家や政党の出現を期待したいのだが、選挙運動の流れを見る限りはそんな動きは皆無のようだ。