2012年5月7日月曜日

原発事故についての2冊の本

 

伊藤守『テレビは原発事故をどう伝えたのか 』平凡社新書
加藤典洋『3.11 死に神に突き飛ばされる』岩波書店

journal1-151-1.jpg・大飯原発の再稼働が、この夏の電力需要の必要性を理由に強行されようとしている。福島原発の危険な状態が続いていて、事故の原因も責任の追及もはっきりしないままに、政府や財界は原発が必要だという空気を作り出そうとしている。都合の悪い情報を隠すというのは3.11以降一貫した政府や経産省、そして東電をはじめとした電力会社の常套手段だが、マスメディアも相変わらず、そのことを批判して、情報の開示を迫るわけでもない。こういった姿勢は一貫して事故以来変わっていないが、それだけに、その不当さを事故発生時にさかのぼって検証する仕事がどんどん出てくることが大事だろう。

・伊藤守『テレビは原発事故をどう伝えたか』は事故が起こった3月11日から17日までの一週間に限定して、原発事故に関連したテレビの報道を検証している。この本で明らかにされているのは「原発事故と住民の避難にかかわるさまざまな情報に関して、情報の隠蔽、情報開示の遅れ、情報操作等のさまざまな問題」があったことと、そこに批判の目を向けずに、ただ追随したかに見えるマスメディア、とりわけテレビの姿勢である。このような指摘は、事故直後から多くの人によってなされてきたから目新しいものではないが、放送された関連番組のほとんどをテクストとして書き起こして検証した上での分析と批判だから、個人的な視聴経験の記憶を超えた説得力をもっている。

・読み進めながら感じるのは、刻一刻と深刻化する想定外の事故に戸惑いながらもなお、事故やその影響を極力小さく見せることに懸命だった政府と東電、そしてテレビ局と、番組に呼ばれた御用学者や専門家と言われる人たちの姿勢である。彼らは、原発の安全神話が打ち砕かれた後も一貫して、想定外の事故として責任逃れに腐心し、「ただちに人体に影響はない」に象徴される「安心・安全」の言説を繰り返したが、一方で、ネットからは全く見方の異なる情報が発信されていた。

・本書の最後では、そのテレビとネットから発信された情報の対比もなされている。YoutubeやUstreamには事故直後からフリーのジャーナリストや原発に反対してきた専門家や組織を中心にして、マスメディアとは異なる報道がなされてきた。その情報内容は、「政府の公式見解だけを伝える既存メディア」とは対照的に事故の深刻さを伝えたから、マスメディアの報道は「大本営発表」と言われるほどに批判され、不信感をもたれるものになった。

journal1-151-2.jpg・加藤典洋の『3.11 死に神に突き飛ばされる』は、彼が震災時にカリフォルニアにいて「大地震がもたらした甚大な被害と原発事故のニュースを「椰子の葉の揺れる平和でのどかな空の下で見聞き」した話から書き始められている。加藤はこのニュースに触れた後、福島に住む親戚や友人のために「安定ヨウ素剤」を買って送ろうとしたが、それが40歳以上の人にはほとんど意味のない薬であることを知って次のような気持ちになったという。


大鎌を肩にかけた死に神がおまえは関係ない、退け、とばかりに私を突きのけ、若い人々、生まれたばかりの幼児、これから生まれ出る人を追いかけ、走り去っていく。その姿を、もう先の長くない人間個体として、呆然と見送る思いがあった。(p.21)

・彼は三月末に帰国して、南相馬に住む友人を訪ねた。そこで彼が知ったのは、日本のマスメディアがすべて、事故発生後に福島市に撤退したことだった。だからテレビ映像は30kmも離れたところから撮られた福島第一原発ばかりを映していたし、屋内待避の指示を受けて留まった人々の声が直接放送されることもなかった。一方でそれほどの用心をしておきながら、他方では「ただちに人体に影響はない」を繰り返す。その身勝手さや無責任さから感じた日本のマスメディア批判を彼は次のようにまとめている。

1)メディア的に見捨てられた場所があれば、メディアは、そういう地域の住民に責任がある。そういう人々がいる場合、その人々を報道しなければならないということです。その姿勢が、メディアの公共性を支えているからです。
2)メディアは、こういうとき、政府と共同歩調をとるべきではないということです。(p.29)

・政府もメディアも専門家も信用できなければ、事故処理の過程や今後の原発と電力の関係について、政治や経済、社会、そして専門的な科学知識も含めて、自ら考えて、自分なりの見通しや哲学を作り出す必要がある。原発の現在と未来について加藤が出した結論は、再生可能エネルギーの開発を急ぐことと、暮らしの質を見直すこと、そして既存の原発については、その安全性についての詳細な検証をした上で、つなぎの電力源としてしばらくは使い続けるというものだ。

・事故の処理、原発の解体、核廃棄物の処理に長い時間と巨額の費用がかかるのなら、これはかなり安全だと説得できるものだけを動かしてもいいのではないか。僕はすべてを即刻停止することに賛成だが、経済原則だけでなく、政治や社会、そして何より人間や自然に対する倫理観を基本にした政策が打ち出せるのなら、彼の提示した見取り図は一考に値すると思った。

2012年4月30日月曜日

介護制度について勉強中です

・父親が体調を崩して寝たきり状態になったのが一昨年の夏でした。母親が元気でしたから、主な面倒は彼女が見てきました。しかしそれでは大変なので、介護付きの老人ホームにショート・ステイをしたり、介護認定を受けて、リハビリの訪問介護やお医者さんの往診をしてもらうようにしてきましました。いろいろなことがありましたが、リハビリの甲斐もあって、父も昨年の暮れ頃から家の中での車椅子の使用をやめて、歩くようになり、最近では近くに買い物に行ったりするようにもなりました。

・ところが4月はじめに母が体調不良を訴え、診察をした結果、脳内出血と診断され、即入院となってしまいました。不幸中の幸いで症状は比較的軽度で、身体に麻痺やしびれが出ることもなかったのですが、今までのように、父と母二人で日常生活を送るということが難しくなりました。母の入院は一週間程で、戻った後の生活のサポートをどうするか、弟や妹と話をし、世話になっているケア・マネージャーさんに相談をして、急いで受け入れ準備をしなければなりませんでした。

・介護制度にはそれを受ける人の必要度に合わせて「要支援」1・2、「要介護」1〜5の7つの段階があります。それに応じて多様なサービスが用意され、それそれが点数化されて、段階によって受けられるサービスの量と負担額が決められています。介護保険は65歳になると誰もが加入しなければならない制度です。元気であれば、そして急な死を迎えたりすれば、この制度を利用することもないのですが、現実には、この制度を利用して日常生活を送っている高齢者の数は、年々増えるばかりのようです。

・上野千鶴子の『ケアの社会学』を紹介したコラムでも書きましたが、父親が体調を崩した時から、一応必要なことは勉強したつもりでした。しかし、母が倒れて、二人では日常生活がおくれないという状況になった時には、さらにいろいろなサービスが用意されていることを知りました。そこで、今まで父が在宅で受けていた週2回のリハビリと2週に一回の往診のほかに、週に4日、1時間前後、ヘルバーさんに来ていただいて、掃除、洗濯、調理、買い物などを必要に応じてやってもらうことにしました。

・もう一つ手続きをしたのは、夜間の緊急連絡と対応を可能にするサービスです。何かあった際にボタンを押せば、「どうしました?」という返事がすぐに来て、用件を言えば30分以内に対応してくれるというサービスです。最悪しばらくは、兄弟の誰かが泊まりこんで父母の様子を見なければと思っていましたから、このようなサービスがあるのは助かりました。父は現在「要介護1」ですが、母も同様の認定を受ければ、二人そろって、リハビリ施設への長期(1〜3ヶ月)入院のサービスもあるようです。

・高齢者を基本にした介護保険制度が施行されてまだ12年しか経っていません。これから団塊の世代が高齢者になってまもなく「超高齢社会」がやってきます。僕はその世代に属しますから、このような社会保険制度ができていることをありがたいことだと、つくづく思いました。しかし、老後の生活が経済力によって格差が生じる状況も現実化しているようです。

・庭に畑を作って野菜の栽培を楽しみにしていた母にとって、住み慣れた家でこれからも生活するのは、あきらめきれないことのようです。しかし、実際に多くのサービスを受け、多くの人に助けられなければ生活できない状況を長続きさせることは難しいです。そこで、家の周辺や都内などを中心に「介護付き老人ホーム」について調べたのですが、入居金や毎月の費用がかなり高額なことと、空き部屋がきわめて少ないことに驚かされました。

・父母が持つ資産で、そういった施設に入居して生活をしていくことが可能かどうか。二人が入居を前向きに受け入れてくれるかどうか。空き状況や二人が気に入る場所の選択も含めて、しばらくはじっくりと検討する必要が出てきました。しかし、そうしながら思うのは、自分たちの番になった時にどうするかという点です。

・「介護付き老人ホーム」は現在でもかなりの数があるように思えますし、次々と新しい施設ができているようです。しかし、需要がこれからますます増えルのは確実です。おそらくさまざまな施設やサービスが生まれ、お金さえあれば、その選択に迷うような状況が訪れるでしょう。けれども、そんな余裕のない人はどうするか。そう考えると、現在の介護制度はまだまだ不十分だと言わざるをえない気もします。若い世代に過重な負担を負わせることなくこの制度を整えるにはどうしたらいいか。大変な問題に直面した経験でもありました。

2012年4月23日月曜日

インターネットでテレビを見る

 ・地デジをBSで見ることができなくなって、ますますテレビを見る時間が減った。4月の番組改編でNHKのBSもおもしろくなくなったから、テレビをほとんどつけない日もあるようになった。それで少しも困らないのは、興味を持てそうな番組(主に報道やドキュメント)は数日遅れでネットで見ることができるからだ。それで、ほとんど定期的に見るようになった番組には、次のようなものがある。15分の細切れになるYoutubeよりはDailymotionのほうが掲載されるのも早くて種類も多い。ちなみに、見たいものの検索は番組名よりは放映日の年月日(たとえば20120423)でやるのが確実のようだ。

・『玉川徹の「そもそも総研」』(テレビ朝日モーニングバード)
・『報道特集』TBS
・『報道ステーションsunday』
・『愛川欽也パックインジャーナル』

・「朝日ニュースター」がテレビ朝日に統合されて『愛川欽也パックインジャーナル』が終了した。愛川欽也は出演者や視聴者の強い要望に応えてkinkin.tvを4月に開局して、「愛川欽也パックインニュース」と名を変えて途切れなく番組を続けている。放映時間が決まっていて、しかも初期トラブルもあるから全部を見ることができていないが、がんばっているから、見続けようと思っている。ちなみに視聴料は月額1050円でDVDでの配布は月額2100円だ。愛川欽也はインターネットもパソコンもやらないようだが、ネットTVという新しい試みに挑戦する姿勢には感服するばかりである。

・「朝日ニュースター」ではほかに「ニュースの深層」という番組があって、4月以降もTV朝日のCS放送番組として継続しているのだが、キャスターは全員入れ替わっている。一方で「ニュース解説 眼」は廃止された。原発事故について厳しい指摘をし続けてきたフリーのジャーナリストたちの発言の場がなくなったのは全く残念だ。地上波のだめさ加減をかろうじてBSやCSが補ってきたという感があったのだが、政治や経済あるいは社会や文化に対する批判の眼が、テレビ全体から排除されつつあるように思われる。

・ネットで見つけたおもしろい番組はテレビよりはむしろラジオにある。MBSの「種まきジャーナル」は原発事故直後から小出裕章さんの出るものだけは欠かさず聞き続けているし、吉田照美が毎朝文化放送でやっている「吉田照美のソコダイジナトコ」は木曜日に出るおすぎやアーサー・ビーナードの発言ややりとりがおもしろくて、これもアップされれば必ず聴くようにしている。そんなふうにして検索していると、興味を持って聞きたくなるものは結構ある。ぼーっとテレビなど見ているよりはずっとおもしろいのである。

・インターFMで毎日(月〜金)の朝放送していたピーター・バラカンの「バラカン・モーニング」が3月で終わった。本人は否定しているが、原発批判などの発言が影響したのでないかといった声が、ネット上ではよく発せられている。忌野清志郎の反原発ソングを放送しようとして止められたりしたこともあって、ラジオとてそれほど自由でないことは今に始まったことではないが、それだけに、ネットをもっとうまく使う可能性を探るのは大事なことだろう。

2012年4月16日月曜日

続・台湾旅行

 

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taiwan6.jpg・台湾旅行の後半は東海岸を台東と花蓮に宿泊して北上するコースをたどった。東側は大都市が並ぶ西側と違って開発が遅れている。山脈が迫って平地が少ないせいだろうが、そのために原住民(台湾ではこれが正式な呼称)が多く住んでいる。その代表が台東市だった。今は廃線になった旧台東駅には木彫りのアミ族の像があって、ここから新台東駅まで線路が長い遊歩道として作られている。暑かったが、そこを途中まで歩いてみた。


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difang1.jpg・アミ族はDifangの歌で知られている。アトランタ・オリンピックのプロモーション・ソングとして無断借用されたことがきっかけになって世に紹介され、CDも何枚か作られた。どことなく沖縄の音楽にも似た独特の世界を持った歌だ。彼は既に死んでしまったが、台東を目指したのにはアミ族の歌が生で聴けるかもとという期待があった。それはかなわなかったが、旧駅舎では若者たち数人が伝統的な音楽に合わせて踊りの練習をしているところを見かけたし、夜にはロックやラップの野外コンサートもあった。後にも先にも台湾で音楽を聴いたのはこの時だけだった。

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・東部を訪れたもう一つの目的は大理石の太魯閣(タロコ)峡谷を歩くことだった。タクシーを一日チャーターしての贅沢な行程だったが、その景観は今まで見たこともないすごさ、美しさだった。もともと海でできた珊瑚礁が厚い石灰岩の層を作り、それが大理石に変成し、台湾島が大陸のプレートに衝突した時に隆起したもので、氷河ではなく雨によって削られて深い峡谷になったもののようだ。何千万年という時間が作り出した絶景だが、地殻変動のすごさを実感させる景観で、これに比べたら、大震災で数メートルずれたなどというのがいかに小さなものであるかがわかる。

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2012年4月9日月曜日

台湾旅行

 


taiwan1.jpg・昨年夏の韓国に続き、今度は台湾を訪れた。いずれもはじめてで、韓国ではハングル文字と食事の辛さや味の濃さにめげたが、台湾は漢字の国だから、空港に降りたときから、第一印象は韓国とはずいぶん違った。最初の日に食べた餃子は種類も多くておいしかったうえに値段も安い。日本語が通じることも多いから、異国にいることをほとんど意識しなかったりもした。
・道路を走る自動車の多くは日本車で、まるで軍団のようにして走っているバイクもほとんどはホンダやヤマハのカブやスクーターだ。セブンイレブンやファミリーマートがやけに多いし、デパートは三越やSOGOだから、日本資本や商品に占拠されているかのようだが、台湾の家電や電子機器メーカーは、今や日本の大手を脅かす存在になってもいる。

taiwan2.jpg・台湾は韓国とは対照的に親日的だと言われている。たしかにその通りで、道できょろきょろしていたり、駅で切符の買い方を迷っていたりすると、すぐに日本語で助けてくれる人がいる。もっとも親切なのは韓国でも一緒だった。どちらも儒教の国だから白髪頭の老人には親切なのである。
・ただ明らかに違うのは、占領時代に作られた建物や鉄道が今でも大事に使われていて、占領時代の産物であることが善悪抜きに紹介されていることだ。台北の国立博物館では鉄道展をやっていて、新橋横浜間を走った蒸気機関車が展示されていた。また、今は事故があって一部しか運転していない阿里山森林鉄道は、占領時代に赤檜を切り出して日本に運ぶために作られたものだが、観光客で満員の盛況だった。

taiwan3.jpg・歩いた場所にもよるのだろうが、いわゆるレストランや料理屋と言った店が少なく、屋台のような店が軒を連ねる食堂街が多いのが気になった。テイクアウトする人もいるし、簡易テーブルで食べていく人もいる。焼売、餃子、肉まん、麺やスープなど中華料理がほとんどで、ハンバーグやイタリアンの店はほとんどない。道行く人も買う人も、その多くは若者たちだから、食べ物については保守的なのかもしれないと思ったりした。
・それは韓国でも感じたことだったが、大きな違いは何を食べても薄味だった点だ。携行している『地球の歩き方』には、薄味が日本の占領時代からの影響であると書かれていた。そういえば、焼き餃子は大陸にはない日本独特のものらしいし、セブンイレブンには「関東煮」と名がついたおでんが、日本の店と同じようにして売られていた。そんなわけで、食べ物についても何の違和感もなかったのだが、3日も経つと中華料理に飽きが来てしまった。

taiwan4.jpg・今回の旅程は台北を起点にして左回りで一回りするというもので、訪れたのは、台北→鶯歌→阿里山→高雄で、この文章は高雄から乗って台東まで行く特急「自強号」で書いている。高雄では超高層ビルの展望台に上がって高雄の街を見下ろした。港町で再開発が盛んに行われている。老街と高層ビルが混在していて何ともちぐはぐで、新幹線が届いていない高雄駅はノスタルジックだったが、数年のうちには新幹線の開通に伴って大改装されるようだ。ちなみに中国語ではホームのことを月台という。注意は細心ではなく小心、徐行は慢、弁当は便當と漢字の意味が異なるのも戸惑いというよりはおもしろい発見だった。
・といわけで、旅も前半が終了した。これから東海岸を北上して台北に戻る予定だ。雨続きだったが今日は晴れ。これからもずっとそうあって欲しい。<続く>

2012年4月2日月曜日

Eddie Vedder


"Into the Wild" "Ukulele Songs"

vedder1.jpg・たまたまBSで見た『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画でまず気になったのは挿入される歌だった。pearl jamのようなと思ってiPadでAmazonで検索すると、確かにメンバーの一人エディー・ヴェダーで、その歌声に惹かれて映画そのものにも深く吸い込まれた。

・あらすじは大学を卒業した主人公が就職も進学もせず、アラスカを目指して旅に出るというものだ。ただしまっすぐ向かうのではなく、あちこちに行き、場所が気に入ればしばらくとどまり、資金稼ぎのバイトをしたりする。そこで出会った人たちとの関係の持ち方ややりとりが、いろいろ考えさせるものになっている。

・同じ年頃の息子が行方知らずになっている女性は主人公に母親の視線を向け、あれこれと忠告をする。家族を亡くして一人暮らしている老人は、若者に心を開いたばかりに、彼との別れがたまらなくつらいものになる。で、若者はそんないくつもできた関係をあっさり断ち切って、アラスカに向かう。何もない原野で動物を捕まえ、植物を採取して100日間暮らすという目標を立てるが、思うように食べ物は手に入らず、けがもして動けなくなり、廃車になって放置されたバスで飢え死にする。

・青年の無謀な冒険話と言えばそれまでだが、物語に挿入されているヴェダーの歌には、旅に出ざるを得なかった若者の思いが代弁されている。


社会は本当に狂っている
僕がいなくたって寂しがらないように

社会は、やれやれだ
僕が同意しないからと言って怒らないでほしい
"Society"


intothewild.jpg ・青年をアラスカに駆り立てたのは、一つは親の期待に対する拒絶の意思表示だ。しかし、そこには彼が憧れた生き方、マーク・トウェイン、ヘンリー・デヴィッド・ソロー、そしてジャック・ロンドンなどが描き出した世界もある。この物語は実話に基づくもので、映画の原作(ジョン・クラカウワー『荒野へ』集英社文庫)を読むと、この主人公がなぜ、自分の人生を社会から離脱することに求めたかがよくわかる。

・よりよき人生は、信頼できる親密な人間関係と物質的な豊かさを基盤にしてこそ可能になる。これこそアメリカン・ライフの基本だが、しかしまたアメリカには、建国時以来ずっと、それとは正反対の生き方も存在し続けてきた。つまり、孤独と自然への憧れだ。若者の遺品にあったソローの本には「愛よりも、金銭よりも、名声よりも、むしろ真理を与えてほしい」という一節に、「真理」ということばが書き加えられていたとある。

vedder2.jpg・エディー・ヴェダーのCDをアマゾンで探したら、彼がウクレレだけを伴奏にして作ったアルバムも見つけた。その "Ukulele Songs" もまたなかなかいい。どの曲も静かで単調で時間も短いが、それだけに一言一言に耳を傾けたくなって、繰り返して聴きたくなってくる。


僕は愛と災難の両方を信じている
それらは時に、全く同じものだ
"Sleeping by Myself"

2012年3月26日月曜日

卒業式を壇上から

・勤務する大学で2年ぶりの卒業式がおこなわれました。あいにくの雨でしたが会場の体育館には2000人ほどの卒業生、教職員、父母、そして卒業後50年、40年、30年の人たちが大勢参列しました。僕は今年度1年間学部長を務めましたから、その式に壇上に並んで、ということになりました。

・実は、大学の卒業式に出るのは自分自身の時も含めて初めてのことです。式後に学部ごとに分かれて学生に卒業証書を渡すお勤めには何度か出席したことがありましたが、式そのものは初めての体験で、校歌を歌ったのはもちろん、聞いたのもほとんど初めてのことでした。歌詞を書いた紙を渡され、起立してほとんど口パク状態で戸惑いましたが、国旗も君が代もない卒業式は、それだけで居心地の悪さを減じてくれた気がします。

・式では「君たちには無限の未来がある」という決まり文句が、何度か聞かれました。以前からこのことばには違和感を持っていましたが、今回ほど、そのことが強く感じられたことはありませんでした。「無限の未来」ということばに込められている意味は「可能性」だけを指しますが、大地震と原発事故の後では、むしろ「危険性」にどう対処するかといったといった自覚の方がずっと現実的で重い意味を持つようになったと感じているからです。

・これからの時代には、個人的なことから社会的なこと、そしてグローバルなことまで通して、「無限」ではなく「有限」こそがキーワードになりますし、未来の「可能性」と「危険性」についても、他人事や政治家任せではなく、自分の問題として考え、行動していく必要があります。式がおこなわれた1時間ほどのあいだ、僕は壇上で、そんなことばかりを考えていました。

・学部長の仕事も卒業式でお役ご免です。大震災と原発事故で入学式が中止になり、授業開始が1ヶ月近く遅れ、東電の無計画停電への対応などで頻繁に会議が開かれるという大変な1年でした。おまけに今年度は7年ごとに文科省に提出する「自己点検・評価報告書」について、学部のことを書かなければなりませんでした。その意味では、今までいかに大学のことに無関心でいたかということを思い知らされた1年でもありました。

・大学は今、大きな曲がり角にさしかかっています。受験生は何より就職を考えて進路を決める傾向が強くなりましたから、キャリア教育や資格の取得を目指したカリキュラムの充実が求められています。教員も自分の関心に従ってではなく、学生にとって必要なことを考えた講義を工夫しなければならなくなりました。わかりやすく役に立つ授業を品揃えして懇切丁寧に指導する。そんな必要性が大学の就職予備校化とコンビニ化を促進していくように思えます。

・そうしなければ生き残れないのが大学の置かれた現状ですが、それはまた大学が大学でなくなることを意味します。大学の教員はまた、研究者であるという側面を持っています。大学はこの面についても成果を上げ、広く公開することを求められていますから、教員は否応なしに、研究と教育に求められる要求のあいだで「ダブルバインド」の状況に置かれざるを得なくなっています。

・そんなことを強く思い知らされ、対応を考えさせられた1年でしたし、在学する学生たちに、どんなことを自覚させ、考えてほしいかを悩んだ1年でもありました。卒業式がすみ、学部長の職務もほぼ終わって、やれやれと思う気持ちがありますが、まだもう少し大学で働く限りは、可能性と危険性を背中合わせに持った大学の現状と未来について、考えていかなければとあらためて思いました。