1998年9月23日水曜日

尾崎善之『志村正順のラジオ・デイズ』(洋泉社)沢木耕太郎『オリンピア』(集英社)

 

・ひきつづき、メディアとスポーツ関連の本について、というわけでもないんだけれど、今週もまた似たような話題です。

・ラジオの実況中継がスポーツを大きく変えたことは、すでによく言われている。しかしこれまで、具体的な話も、理論的な展開についても、ラジオについてはそれほど豊富ではなかった。学生に聞いても、ラジオはほとんど聴かないと言う。聴いているのはお年寄りばかり。テレビその他の新しいメディアに押されて、ラジオはほとんど忘れられようとしている。そんな気がしないでもなかった。

・ラジオが話してと聞き手との間に直接的なコミュニケーションの世界を作りだすこと、それがしばしばきわめて親密に感じられることを指摘したのはM.マクルーハンである。彼はそのような世界の特徴を「部族的連帯」と呼んだ。このような特徴をうまく使ったのは、一方ではA.ヒトラーやF. ルーズベルトで、ラジオというメディアが情報操作に弱いことを示す好例としてよく紹介される。けれども他方では、ラジオはロックンロールやロック(FM)の登場には欠かせないメディアになったし、アメリカのプロスポーツ、特にメジャー・リーグを国民的なスポーツにするのにも大きな役割を果たした。日本では、何より大相撲、そして、オリンピック。

・ラジオが人びとに新しい世界を一つ提供したことはまちがいない。すぐ目の前でしゃべっているかのように感じられるアナウンサーの声が伝えてくる世界は、聴き手が想像力を働かせてはじめて再現できるものである。その現実とも空想ともつかぬ不思議な世界に対する驚き、それによってもたらされるきわめて強い興奮。これはテレビを知ってしまった者にはわからない感覚である。

・志村正順は昭和11年にNHKに入りスポーツ放送の主流がテレビになる東京オリンピックの頃まで、大相撲、東京六大学野球、あるいはプロ野球やオリンピックの中継で第一線の人気アナとして活躍した。スポーツ中継はあくまでジャーナリズムであるから、ニュースと同じように正確に、偏りなく、冷静に伝えなければならない。これがNHKの基本方針だが、ラジオによるスポーツ中継はけっしてそうではなかったようだ。誇張や脚色、あるいは全くの作り事が、時に聴いている者に、強い迫真力をもたらす。彼の語りの特徴はまずそんなところにあった。

・沢木耕太郎の『オリンピア』はベルリン・オリンピックの記録映画『民族の祭典』とその作者であるレニ・リーフェンシュタールとのやりとりから始まる。この映画の中には、実写ではない部分、わざとネガを反転させた箇所がずいぶんある。すでに90歳をすぎた作者の記憶は定かではないが、沢木はそれを、リアルに見せるための工夫だったと判断する。リアル、あるいは迫真力とは何か?たとえばベルリンで有名なのは例の「前畑がんばれ!前畑勝った!」の実況中継だが、ここにはいくつかのことばの連呼以外に何の描写もないにもかかわらず、聴いていた日本人を興奮の渦に巻き込んだという事実がある。

・映画『ラジオの時間』が暴いていたように、ラジオにはそれらしく聞こえさえすればいいという特徴がある。口だけ、音だけでどうにでもなる世界。今さらながらに、おもしろくて、怖いメディアだと思うが、そのような世界に浸りきるナイーブさを、残念ながら僕たちはもう持ち合わせてはいない。ここに紹介した2冊は、まさにそんな古き良き時代に思いを馳せるノスタルジックな本という感じで読んだが、ラジオのメディア的な特質は、もっともっと考えられていいテーマだとも思った。

1998年9月16日水曜日

東ドイツのロックについて


・ 9月9日から11日まで、京都のドイツ文化センターと立命館大学で旧東ドイツのポピュラー芸術をテーマにしたシンポジウムが開かれた。主に映画とデザインとロック音楽、ぼくはそのロックの講演のコメンテーターとして参加した。今回はそのことについて。
・ベルリンの壁崩壊にロックがある種の役割を果たしたことはよく知られている。たぶんロック音楽について考えようとすれば、それはまちがいなく一つの大きなテーマになる。けれども、その実状については、音楽そのものもふくめて、日本にはほとんど紹介されていない。ぼくも今まで東ドイツのロックは一つも聴いたことがなかった。講演者はアメリカ人で東独に留学経験をもつエドワード・ラーキーさん。彼は主に80年代の政治意識の強いロックについて、その歌詞の分析を中心に報告した。

思うようにいかない日がある/髪も半分、ベッドの半分は空
ラジオからは半分のボリュームで聞こえてくる:人類の半分がどこかで死んでいく
半神が金色の子牛のまわりで踊る/世界の半分はそんなところ
ハーフ・アンド・ハーフ、ハーフ・アンド・ハーフ
半分になった国で、半分に切り取られた街で/身の程に半分ばかり満足している
                      City "Halb und halb"

・東ドイツは西側に隣接していた。特に東ベルリンは壁一枚のみだった。だからどんなに情報を統制し、行き来を規制しても、電波(主にラジオ)をとおして西から東へ何でも筒抜けになってしまう。東ドイツのロックは、そんな特殊な状況のなかで独自性を生みだした。つまり政府は、ロックを全面的に禁止することはできないから、西からのものではなく、自前のものを作ってコントロールをしようとした。政治や社会の批判は困るから、当然厳しい検閲がある。けれども、一方では、西に負けない芸術性の高い作品を奨励したりもする。ラーキーさんは主に歌詞の部分で、検閲制度が文学性を高める役割を果たしたというアイロニーを指摘した。たとえばシリー(Silly)の「サイコ」(Psycho)は、もともとは「1000の眼」(Tauscend Augen)という曲で、監視体制を批判したものだが、検閲をくぐるためにヒッチコックの映画を題材にしたかのように見せかけたのだという。

1000の眼               サイコ
1000の眼がマットレスの下にある    1000の憧れが私の胸を開く
1000の眼が苔の中から突きでる     1000のナイフが私の腿をおそう
1000の眼が皮膚と皮膚の間に入り込む  1000の教皇が墓の下でのたうち回り
1000の眼ーはやく私を抱いて      1000の頭蓋骨が苔の中から覗いている

・ぼくはコメンテーターとして、その歌詞のレベルの高さに同意したし、規制が芸術を熟成させる機能の1例としても納得したが、同時にいくつかの疑問も指摘した。このような歌はいったいどんな階層の若者たちに受け入れられ、それはどの程度の割合だったのか?ラーキーさんははっきり確かめたわけではないが、インテリ層で、全体の1割程度ではないかと答えた。大半の若者たちは西側から聞こえてくる音楽に興味はもっても自国のものには関心を示さなかった。彼はそのことを残念ながら、という気持ちで話した。
・ロックは60年代に確立して、その時にリーダーシップをとったのはアメリカでもイギリスでもインテリ層だったが、それ以後の、たとえば「パンク」や「レゲエ」、あるいは「ラップ」などは、ほとんどが社会の最下層から生まれている。それは芸術性や文学性などという議論とは無関係なところから発生して、あらゆる階層、あらゆる国に広まるというプロセスをもっていた。そんなロックの偶発性、あるいは「限界芸術」的な側面に比べると、どうしても作り物だという感じがしてしまう。ぼくはそんな趣旨のコメントを言った。
・出席者の大半が旧東ドイツ、あるいはドイツ、そして美学や芸術学の専門家だったせいかもしれないが、全てのテーマが芸術性という一点で切り取られようとしていた気がする。ぼくはここに違和感をもって、芸術という視点はポピュラー文化を見る一つの物差しにすぎないのではと指摘した。たとえばロックは芸術ではなくスポーツと比較した方がよくわかるかもしれない。そんな意味のことを言ったのだが、わかってくれた人は少なかったようである。参加者のまじめさ真剣さに、へとへとに疲れてしまった。

1998年9月9日水曜日

スポーツとメディアについての外国文献


・井上俊さんと亀山佳明さんが編者になって『スポーツ文化を学ぶ人のために』という本を世界思想社から出版する計画を立てた。で、ぼくのところに、「スポーツとメディア」というお題目がまわってきた。執筆者は日本スポーツ社会学会の会員が中心で、ぼくも所属しているのだが、実は今まで一本もスポーツ論を書いたことがない。編集委員をやったりして多少申し訳ない気もあったから引き受けたが、書くあてがあるわけではなかった。

・話は1年前に来て、締め切りが夏休み明け。最近一番関心をもっているメジャー・リーグのことでも書こうと考えて、夏休みに入ってから文献を探しはじめた。ところが役に立ちそうな本は日本語ではほとんどない。あわてて研究室の本棚を探し、大学の図書館で検索し、あるいはAmazon comで注文し、井上さんからも1冊お借りして読み始めた。そうしたら、今年の夏は蒸し暑い。じっと寝転がっていても、体中から汗が噴き出してくる。とても本など読む状態じゃなかったが、1ケ月で一応目を通しておかなければならない。そんなわけで、今年の夏休みは、ぼくにとってはちょっとつらい日々になった。などと、ついつい愚痴っぽくなる前置きはともかくとして、読んだ本の紹介をしよう。

・おもしろかったのは次の2冊。どちらも、第二次大戦後に急変するアメリカのプロ・スポーツの歴史を内容にしている。最初はラジオ、そしてテレビ、そこに人種の問題とお金の話が絡まってくる。それらによってスポーツがいかに変わったか。読んでいて「へー」と思うことの連続だった。

*Benjamin G.Reader, "In Its Own Game ; How Television has Transformed Sports", Free Press, 1984
*Randy Roberts and James Olson "Winning is the only thing; Sports in America since 1945" The John Hopkins U.P. 1989 あと、アメリカにおける人種とスポーツをテーマにしたもの
*Richrd Lapchick,"Five minutes to midnight; Race and sport in the 1990s, Madison Books, 1991.

・大金が動くアメリカのカレッジ・スポーツ、特にフットボール(NCAA)を批判したもの
*Kenneth L. Shropshire, "Agents of opportunity; Sports agents and corruption in collegiate sports", Univercity of Pennsylvania Press, 1990.

・同じ著者が、サンフランシスコ、オークランド、そしてワシントンDCなどのいくつかの都市を取り上げて、野球やフットボールのチームとその本拠地の関係を扱っている
*Kenneth L. Shropshire, "The sports franchise game; Cities pursuit of sports franchises, events,stadiums, and arena",Univercity of Pennsylvania Press, 1995.

・イギリスのスポーツとメディア、特にテレビとの関係を分析した次の本にはアメリカとはちがうイギリスのお国事情がはっきりあらわれている。
*Garry Whannel, "Fields in Vision ; Television Sport and cultural Transformation", Routledge, 1992

・ぼくはここ数年、ロック音楽を材料に20世紀の文化的な変容を調べてきたが、スポーツについての文献を読んで、両者の間に多くの類似点があることに気がついた。考えてみれば、どちらもポピュラー文化の大きな柱であることははっきりしているのだが、スポーツについては本気で考えたことがなかったのだとあらためて実感した。

・で、その類似点だが、メディアとの関係が非常に強いこと、成立の基盤に生活の豊かさと余暇(余裕の時間)が必要だったこと、若者という世代の出現、そしてアメリカの黒人の存在などがあげられる。
・原稿はもうほとんどできたのだが、これ以上のことについては、本が出たらぜひ買って読んでほしいと思う。どうぞよろしく。

1998年9月2日水曜日

ハイビジョンについて

  • ちょっと前に10年間見てきたテレビの調子がおかしくなった。テレビのない生活は一日でも耐えられない。そんな気分でスーパーのカタログを見ていると、格安のハイビジョン・テレビが目玉商品として載っていた。そろそろハイビジョンもおもしろくなったかもしれない。そんな期待を込めて買うことにした。
  • まず最初に感心したのはワールド・カップ。日本の試合はBSの7チャンネルでも同時放送していたから、珍しがって画面の比較をしながら見た。画像が横長だから、当然、画面に映る範囲は広くなる。画像が鮮明だから、細かなところがわかりやすい。だからだろうか、アップの画面が比較的少ない。ぼくはあまりサッカーに詳しくないが、ボールのまわりに集まる選手の動きや陣形がよくわかって、今までとは違う見方ができた気がした。
  • 同じことは、高校野球でも感じた。今までよりもグラウンドが幅広く見える。だから、バントやダブル・プレーの守備位置がよくわかる。もちろんまだ、実験放送の段階だが、ハイビジョンはスポーツの見方をかなり変えそうだというという感想を持った。
  • テレビが放送され始めた頃は、画面は小さくモノクロだった。だから野球の中継は球を追いきれずに、訳の分からない画像を映し出すことが多かったようだ。テレビカメラも、今とは違って、1台とか2台しかなかったから、アメリカでは、人びとはテレビよりはラジオの中継の方を好んで聞いたそうだ。だから、テレビのスポーツ中継は、まず、1台のカメラで映せて、しかも迫力を感じさせるボクシングとプロレスで人気を集めることになった。そういう肉体のぶつかり合いの印象が強かったせいか、アメリカでは、その次に人気を集めたのは、アメリカン・フットボールだった。
  • 100年の歴史を持つメジャー・リーグ(MLB)が、60年代にスタートしたプロのアメリカン・フットボール(NFL)にあっという間に人気をさらわれて、70年代からすでに斜陽だといわれ続けている。そしてその原因は、何よりテレビによるところが大きい。さらに最近では、やっぱり格闘技的な魅力を強調するバスケット(NBA)がものすごい人気になっている。乱闘でもなければ接触プレーなどない野球は、考えてみればきわめて静かで単調なゲームだが、ひょっとしたらハイビジョンが、そのおもしろさを見つけだしてくれるかもしれない。そんな期待を感じた。
  • ハイビジョンで見られるのは、もちろんスポーツに限らない。たとえば、動植物、あるいは海や山、砂漠や氷河といった自然を描くドキュメント。絵画や彫刻などを詳細に映し出す番組。また衛星から日本列島を生で映し出すといった時間も毎日ある。実験放送のためか、時間をたっぷり使い、ことばよりは映像で見せようとする番組が少なくない。バラエティや歌番組のようにやかましくないから、窓から見える風景のつもりでつけっぱなしにしておくことが多くなった。
  • JR京都駅から関西空港まで「はるか」という特急が走っている。その出発から終点までを映した番組を見た。ぼくは電車に乗ると先頭に座って運転席越しに前方の風景を見ることが好きだったが、ついつい最後まで。見入ってしまった。もう一つ感激したのは、秋田県の大曲で行われた「全国花火選手権」の中継。ぼくの住んでいるところでも、花火は何度か見ることができる。しかしそれは、音のない小さなものだったり、逆に音だけしか聞こえないものだったりして、今ひとつもの足りない。その点、ハイビジョンでの花火見物は、きれいで、迫力も十分だった。もちろん首が疲れることもなかった。
  • テレビが多チャンネル化して、見る番組の選択肢が増え始めた。そしてこの傾向は、近いうちにもっともっと強まっていく。料金を払って見るテレビ番組も、当然増えるわけだが、いったい人は何を見たがっているのかを見極めるのはなかなか難しいだろう。けれども、全国ネットはされないスポーツやイベントの中継や、地道なドキュメント、あるいは、案外見ることのできない日常の風景など、おもしろい素材はいくらでもあるのではないかとも思った。
  • 1998年8月26日水曜日

    Lou Reed "Perfect Night Live in London"

     

    ・ルー・リードの新しいアルバムを聴いているうちに、ニューヨークのことを考え始めた。そうしたら、メジャー・リーグのことが気になった。今年は吉井正人がメッツに入った。だから、ヤンキースの伊良部とあわせてニューヨークからの中継を見ることが多くなった。そんな感じでスタートしたら、途中から野茂もメッツに移ってきた。で週に3回、ニューヨークからの中継を見ている。あいにく、3人ともスカッとする試合をなかなか見せてくれないが、スタジアムを通して、ニューヨークはすっかりなじみの街になってしまった。

    ・ニューヨークは変な街だ。アメリカを象徴するようでいて、ここだけがまた、アメリカではない。ヨーロッパからの移民が最初に見るのが「自由の女神」と「マンハッタン」。世界中から、そしてアメリカ国内からも、その景色を求めて大勢の人がアメリカを目指してきた。人種や文化がごちゃごちゃに入り乱れた場所。成功者と敗北者。自由と平等を基盤にした熾烈な競争が生み出す不自由と不平等。もっともアメリカらしくて、またそれだけに、他の土地とは異質になってしまう都市。

    外に出ると夜は明るい、リンカーンセンターのオペラに
    映画スターたちがリムジンで乗りつける
    撮影用のアーク灯がマンハッタンのスカイラインを照らし出し
    けれど卑しい通りでは明かりが消えている
    幼い子どもがリンカーン・トンネルのそばに立ち
    造花のバラを1ドルで売っている
    道路は39丁目まで渋滞し
    女装した売春夫が警官にひとしゃぶりどうと声をかける
                "Dirty BLVD."

    ・ウォール街は史上空前の景気に沸き立っている。さっそうと歩くビジネスマンと路上生活者、そしてドラッグ中毒の子供たち。夢に憧れてやってくる人たちは跡を絶たないが、大半は夢破れて退散するか、のたれ死ぬ。ルー・リードはそんなニューヨークの人間模様や風景を繰り返し歌う。彼は、そんなニューヨークを嫌悪しながら、なお愛し続ける。この新しいアルバムはロンドンでのライブだが、伝わってくる情景は、何よりニューヨークそのものだ。

    ・以前にアメリカに行ったときに、ぼくはノーフォークから飛行機でニューヨークに移動した。飛行機は自由の女神の真上を飛んで、マンハッタン島の摩天楼を左に見ながらシェア・スタジアムをかすめるようにしてラガーディア空港に着陸した。内野席が何層にもなっているのに外野席がほとんどない、馬蹄形をした奇妙な球場だった。実際にぼくは野球を見たのはヤンキースタジアムだったが、飛行機からのニューヨークの眺めがすばらしくて、メッツの本拠地の印象もかなり強く残っている。

    ・ぼくはニューヨークはあまり好きではない。とても住みたいとは思わない。野球ファンも辛辣というよりはせっかちに結果に反応しすぎるようだ。けれども、ルー・リードの歌を通して感じるニューヨークの哀感には、時折ふれてみたい。とはいえ、日本人メジャー・リーガー達が挫折して傷心の帰国、などといった光景だけは見たくないものだ。

    1998年8月5日水曜日

    清水諭『甲子園野球のアルケオロジー』(新評論)

     

    ・ 甲子園で毎年くりひろげられる全国高校野球大会は、一言でいえば「青春のドラマ」である。「ひたむきさ」「純真さ」「汗と涙」といった形容には、ぼくはもうかなりうんざりしているが、テレビの中継や新聞報道に関するかぎりでは、それは今でも人の心に共感をあたえる大きな要素になっているようだ。そんなドラマがどのようにして演出されるのか、それは当の高校野球の選手や注目された地元の人びとにどんな影響をおよぼすのか、あるいは、日本の高校野球のはじまりのきっかけは何で、誰が「青春のドラマ」に仕立てあげていったのか?清水諭の『高校野球のアルケオロジー』は、このような問題意識を軸に考察された好著である。
    ・清水はテレビ中継のケース・スタディとして1986年の第68回大会準決勝戦(松山商業対浦和学院)をえらんでいる。球場にもちこまれたテレビカメラはおよそ15台。それがゲームはもちろん、スタンドの応援席や試合後のインタビューなどにふりわけられる。クローズ・アップやスロー・ビデオ、あるいは過去のゲームや郷土の様子を収録したビデオを駆使した演出、そこにアナウンサーと解説者の言説、そしてフィールドやスタンドから生ずるさまざまな音が挿入される。こうして、風物詩としての「青春のドラマ」がくりかえし上演されることになる。
    ・ 毎年、甲子園でおこなわれる野球大会はもちろん現実だが、テレビや新聞をとおして人びとがうけとるイメージは、選手はもちろん、高等学校やそこにかよう生徒たち、あるいは地元の人びとの実像とはずいぶん異なっている。清水はそれを「さわやかイレブン」として有名になった徳島県の池田高校の取材によって確かめている。時間の制約などのためか、ちょっと表層的な印象を受けるが、しかし、メディアによって作られたイメージがやがて現実の姿になったと話す地元の人たちのことばや、蔦監督の、虚像につられて集まってくる扱いにくい野球少年についての話はおもしろいと思った。
    ・ 日本の野球はすでに130年に近い歴史をもっている。もちろんアメリカ人によってもちこまれたのだが、それは東京大学の前身である開成校からはじまって、旧制一高と、主に高等教育の世界で広まっていった。その過程のなかで、徐々に「遊び」が心身鍛練の「道」に変容していく。野球はやがて人気のある大学スポーツになり、早慶戦といった花形カードが生まれるが、勝負にこだわる戦いぶりや応援合戦のエスカレートに批判が起こり、「野球害悪論」が新渡戸稲造などの識者や朝日新聞社によって喧伝されるようになる。相手をペテンにかける「巾着切りの遊技」、野球選手の不作法、あるいは勉学への支障を心配する父兄の懇願。そして、もちろん野球擁護もあったが、清水はそのあたりに「青年らしさ」の物語の起源を読みとっている。
    ・ ところが、害悪論の旗振り役をしていた朝日新聞は、その数年後には全国中等学校野球大会の主催をするようになる。それは清水によれば、野球害悪論キャンペーンによって朝日新聞の購買数が急減したことへの善後策から生まれた提案だったという。そこに阪急電鉄の前身であった箕面有馬電気軌道株式会社の小林一三の企業戦略が重なりあう。「青春のドラマ」の演出は、また、きわめてビジネスライクな理由によってはじまったのである。
    ・ 高校野球にお馴染みのメッセージは「純真溌剌たる青少年」「若さと意気」「明朗闊達」「雄々しさ」「男らしさ」、そして「フェアプレー」や「地方の代表」といったものである。甲子園野球のはじまりの経緯を知ると、そこで作り上げられてきたイメージに今さらながらに空々しさ強く感じてしまうが、このようなイメージが今でも高校野球が依拠する大きな基盤であることはいうまでもない。だから、野球部員はもちろん、高校生が起こすさまざまな出来事が不祥事として取り上げられ、それがクラブの活動停止や甲子園大会への参加辞退といった結果がくりかえされることになる。
    ・ 甲子園野球について出版された本は、けっしてこれが最初のものではない。特に歴史的な経緯については類似書ですでにふれられていることも多い。しかし、現実的なテレビ中継の仕組みや池田町のケース・スタディと重ねられることで、高校野球について、いっそうはっきりした像を映し出すことに成功していると思う。けれどもまだ、アルケオロジー(考古学)してほしいところはたくさんある。たとえば、不祥事を起こして処分を受けた高校や野球部員についてのケース・スタディもほしいし、純真な高校生が数千万とか億単位の金をもらってプロ選手になってきた歴史や現状についても知りたい。
    ・ 特定のイメージを作り上げてそれを美化すれば、当然、それにそぐわないものは排除され、また批判される。そのような仕組みへの批判の目は、光の当たる部分よりはむしろ影になったところへのまなざしによって輝きを増す。このような注文は無い物ねだりかもしれないが、筆者の力量からすれば、それほど難しいことではないように思う。
    ・ 最後に、高校野球について一言。200球を越える投球数に「熱投」などというばかげた賛辞を送る習慣と、一人のエースだけを頼りに優勝を目指すような体制は、すぐにでもやめてもらいたい。将来のある選手にとって甲子園が一つの通過点にすぎないことは、野茂や伊良部によって、高校生にも自覚されはじめてきたきたのだから。(スポーツ社会学会紀要 書評)

    1998年7月25日土曜日

    四国・四万十川 その3

     


    ◆四万十川→高松(7/25)
  • 朝起きると、川は激流になっていた。昨日いっぱい泳いでいた鮎はどこに隠れているのだろうか。などと心配するが、差し迫っているのは、今日のルートをどうするかということだ。宿の人に聞くと、まだ道路が通行止めになったという連絡は入っていないという。天気予報では大雨洪水警報が高知南部に出たと言っている。今日はまっすぐ北上して四万十川の源流と四国カルストを見たい。一刻も早く出発した方がいいようだ。
  • 出発するとすぐにバイクがこけていた。おじいちゃんが小さな落石につまずいたようだ。幸いけがはしていないようなので、バイクを起こすのを手伝い、エンジンがかかるのを確かめて別れた。「道の駅・大正」から梼原川をまっすぐ439号線を北上して東津野村に向かう。川は昨日とは一変して茶色の濁流になっている。見ていると思わず飲み込まれそうな気になってくる。道は狭く、曲がりくねっている。対向車に気を使うが雨が激しくてワイパーもきかないほどになる。
  • いくら走っても同じような道が続く。正直怖かった。いつ石が落ちてくるやもしれないし、路肩がゆるんでいるかもしれない。第一、道幅がよく見えないこともあるのだ。行き止まりになったら、この道を戻らなければならないし、帰り道だってふさがれてしまう。いい歳して無茶なことやるとつくづく思った。子どもを連れて長期のドライブをずいぶんやったが、そのときは、もっと注意深かった気がする。その子どもたちも、もう一緒に行くとは言わないから、最近ではもっぱら旅行は夫婦二人だけ。のんびりというよりは、気楽さからややもすると冒険指向になったりする。
  • 2時間ほど走って、やっと小さな集落にたどり着く。窪川町への、そしてまた梼原町への分かれ道。少し道が広く、くねり方も緩やかになる。東津野村。何とか四万十川源流の町にたどり着いた。カルスト台地などをゆっくり散歩する時間も余裕もない。この雨では牧場に牛の群などといった風景もないだろう。ほとんど休むことなく北上を続ける。長くて真っ暗なトンネルを抜けると、四万十川源流地点に向かう道があったが、そこもパス。いつの間にか川が反対に流れるようになった。分水嶺を越えたのだ。この川は仁淀川に合流して高知に流れ注ぐ。
  • 仁淀村にたどり着いたのが11時過ぎ。走りはじめてから4時間弱たっていた。喫茶店でコーヒーを飲む。ほっとした。ついでに昼食もここでと思ったが、全然空腹感はない。まだ緊張状態はとれていないようだ。コーヒーは無農薬だった。そういえば、店の感じもそれなりの趣がある。中年の女性が一人でやっている。高知で出会った若い子達の雰囲気が京都や大阪とほとんど変わりがないことに興味を覚えたが、流行や時代の傾向、好みは今や時差なく日本全国に行き渡る。そんなことをボーとしながら考えた。