1999年3月24日水曜日

バイクで京都から東京まで

 

  • 3月18日に京都から東京までバイクで行った。4月から2泊3日の東京暮らしがはじまるので、バイクをその足代わりにするためだ。運送屋さんに頼もうか、誰かに乗っていってもらおうか迷ったが、思いきって走ってみることにした。長距離のツーリングは久しぶりだし、中央高速道路をバイクで走るのははじめてである。しかも1週間前から気にしていた天気予報はずっと「雨」、不安でいっぱいだった。
  • 前日の17日に天気予報が晴れに変わった。しかし日替わりの予報で安心できず、今日行ってしまおうかと思ったが、教職員有志が送別会を開いてくれるという。出ないわけには行かなかった。暖かくて明るい天気が何とも恨めしかった。と思いつつ、家に帰ったら午前様だった。
  • 7時前に起床すると、雲一つない天気。8時に出発。京都南インターから名神に乗ると、かなりの交通量、ほとんど数珠繋ぎで80kmほどのだらだらとした走りではじまる。バイクは車と違ってエンジンを高速で回転させる。80kmだと5000回転、90kmで5500回転、100kmで6000回転と10km速くすると500回転づつ上がる。久しぶりの高速運転だから、100kmを超えたあたりでしはじめるエンジン音に何となく不安を感じる。風圧も、段違いに強く感じる。先は長いからゆっくり行こうと思うが、トラックや軽自動車の後ろにつくと、ついつい追い越してしまいたくなる。強気と弱気、不安と快感。
  • 栗東、彦根、関ケ原と次第に交通量が少なくなって、流れが100kmに近くなる。路肩にバイクを止めて伊吹山をビデオで写す。だんだん慣れてきたところで養老SAでの最初の休憩。温かい珈琲を一杯。大垣、岐阜、一宮、そして小牧。ここで中央高速に入る。
  • ぼくは車で東京に行くときにはほとんど中央高速を利用する。交通量が少ないし、何より景色が全然違う。多治見、木曽(中津川)、恵那山トンネル(8500mほど)を10分弱で抜けると飯田の町と南アルプスが見える。車の時は120〜30kmほどでクルージングするから、制限速度80kmの中央高速では監視カメラの場所を気にしないわけにはいかないが、バイクで100kmならその心配もない。第一、バイクのナンバー・プレートは後ろだけだから、捕まらないのではないか?そんなことを考えると、ついついスピードを出したくなってしまう。6000回転のエンジン音に慣れると、次は7000回転。珈琲が効いたせいか恵那、駒ケ根と続けて止まる。ついでにガソリンの補給と昼食。500kmの行程のちょうど半分を走って11時半。ここまで3時間半である。


  • 名神高速道路京都南インターチェンジ

    北陸道分岐点から伊吹山

    駒ケ根SAから駒ケ岳を望む↑
    駒ケ岳と中央アルプス↓


  • 高遠、辰野、諏訪湖。両脇に山脈が迫るこのあたりの風景が、ぼくは大好きだ。フォーク・シンガーの三浦久さんがこのあたりの短大で教えている。小淵沢に来ると左に八ケ岳、右に甲斐駒ケ岳、そして真ん中に富士山が見える。下り坂で気がつくと速度は120km、走りはじめの不安感や慎重さは、もうすっかり忘れてしまっていた。しかし、肩が凝り、お尻が痛くなりはじめた。また路肩に止めて八ケ岳と甲斐駒ケ岳をビデオに撮る。うっすら霞がかかって甲斐駒ケ岳はよく見えないが、それもまたなかなかいい。
  • 韮崎、甲府。甲府南インターで降りて上九一色村から精進湖へ向かう。暖かくて防寒用のパンツを脱いだのだが、山登りをするうちに足下が冷えてくる。峠のトンネルを超えると、精進湖と富士山。ここのところいつ来ても天気が良くて富士山がよく見える。西湖、河口湖。富士山と河口湖を背景にバイクをビデオにおさめた。関係ないけど井上陽水の「ドレミのため息」
    ♪〜根室の空を飛んだり
    西湖で富士を見てたり
    目黒へ迷い込んだり
    馬込に電話をかけたり


  • 八ケ岳↑
    甲斐駒ケ岳方面↓

  • 再び高速に乗る。河口湖インターで時間は1時半。道はほとんど下りばかり、スピードが出るが風が強くなって、横風に吹かれることがたびたび。それに肩の凝りやお尻の痛さがいっそう気になってくる。
  • 京都を出てから一度もバイクを抜いたり抜かされたりしたことがなかったが、河口湖から八王子までは何台にも出会った。アメリカンスタイル、レーサー・レプリカ。横風もどこ吹く風ですっ飛ばしていってしまった。ぼくはゴールの見えた残りの行程を踏みしめるようにゆっくりと走る。談合坂、小仏トンネル、そして八王子、ここからは首都高速で、調布インターでゴールイン。時間は2時半、全行程6時間半のツーリングだった。
  • ところで、使ったガソリンは23リットル、燃費は22km/L。バイクとしては高燃費とは言えないが車に比べたらざっと半分。しかし、高速料金は軽自動車と一緒だから1割ほどしか安くはない。一人しか乗れないのにこの料金はどう考えても不当だ。平日に乗る人が少ないのは当たり前とはいえ、高速道路にバイクが少ないのはそのせいかもしれないと思った。


  • 愛車、河口湖、そして富士山

    1999年3月5日金曜日

    ジム・カールトン『アップル 上下』(早川書房)


    ・ぼくはもう10年を越えるマック・ユーザーで、ウィンドウズなどはいまだに使いたくないと思っている。使い慣れていることが一番だが、こだわるのは、情報操作の巨大な装置だと考えられていたコンピュータを、個人が自己表現やコミュニケーションに使う道具としてつくりかえたのが「アップル」だったことにある。その発想の中に、60年代のカウンター・カルチャーの思想が感じられたのが、ぼくが飛びついた最大の理由だったからだ。その「目から鱗」といった衝撃の体験が忘れられない。
    ・パソコンの形を作った「AppleII」から最近の「i Mac」に至るまで、アップル社にはさまざまな出来事が起こり、作られた製品にも出来不出来があった。熱心なファンの一人として、ぼくは時にユーザーであることを鼻高々に吹聴し、また胃に潰瘍ができるほどイライラさせられた。その10年間のつきあいを、ぼくはきわめて貴重なものとして感じている。実際「Macintosh」と出会わなければ、この10年は、まったく違ったものになっていただろうと思う。
    ・ジム・カールトンの『アップル』は、アップル社の創業者でマックの生みの親であるスティーブ・ジョブズが解任される前後、つまり80年代の後半から、現在に至るパソコン界の動向をアップルを軸に追ったきわめて面白いレポートである。アップル社にずいぶん厳しく、ビル・ゲイツに好意的だという不満はあるが、アップル社やパソコンのもつ意味について、ずいぶん貴重な示唆を与えてくれる本だと思った。
    ・パソコン市場を自覚させたのが「AppleII」だったとすれば、現在のような操作方法を方向づけたのは「Mac」だった。「Mac」は、さらに、コンピュータが文字入力や計算ばかりでなく、映像や音声、あるいは出版編集に有効なことを実現させた。その「Mac」がなぜ、パソコンの標準機になれなかったのか。著者によれば、それは何よりも歴代の経営陣がとった戦略の失敗にあったという。
    ・たとえば、ビル・ゲイツは「Windows」開発前後に、「MacOS」のライセンス公開をジョン・スカーリーに申し出ている。それに応じていれば、「Windows95」などは登場しなかったか、あるいは「MacOS」を大幅に取りこんだものになっていたかもしれなかった。そうなればもちろん、ハードもDos機と同様に、さまざまなメーカーが生産していただろう。あるいは、ウィンドウズ3.1が市場で受け入れられたことに危機感を持ったアップル経営陣が、インテルのCPUでも動くMacOSを独自開発したそうだ。「スターウォーズ計画」という名だったが、完成目前で中止されている。
    ・このような話が『アップル』には次々と出てくる。日本の家電メーカーとの提携、IBMとの合併話、あるいはサン・マイクロシステムズの買収やその逆のケースなどなど。そのすべてが成立直前まで行って頓挫した。その間に馬鹿にする対象でしかなかった「Windows」に追いつかれ、小型軽量の「PowerBook」は開発できず、インターネットで出遅れることになる。企業経営や市場競争のゲームという点から見れば、ジム・カールトンが描き出したように、アップル社は、最高の技術を最低の経営戦略でだめにした驚くべき会社ということになるだろう。けれども、ぼくはこの本を読みながら、それがまたアップルの宿命だったのではと思った。
    ・アップルの歴代の経営者がこだわったのは、何よりアップルやマックのアイデンティティである。ヒッピー青年だったジョブズとウォズニアクが自宅のガレージで作った道具。その手作り的で自由、つまり反管理を精神にした創造的な機械。アップルやマックの魅力の核心を保ちながら、パソコン市場を支配する。しかし、この本来相容れない目標を両立させるのは不可能である。ビル・ゲイツはMsDosの開発からウィンドウズやインターネット・エクスプローラーに至るまで、すべてを買収やパクリで手に入れ、経営戦略と法廷闘争の巧みさで業界標準に仕立て上げた。それはまさに、思想の違いというほかはないものだが、その両立という使命に、アップル社の歴代経営者は呪縛され続けてきた。
    ・そのアップルの生みの親であるスティーブ・ジョブズが戻ってきて「i Mac」を作り、落ち続けたシェアが回復しはじめた。彼の戦略は、全機種を青や赤のスケルトンにしたかわいらしいマックで巻き返しをはかるというもののようだ。かわいらしくて使うのに恥ずかしさを感じるぼくとしては「ちょっと待ってくれよ」という気がするが、おもしろくなったことはまちがいない。ぼくは、ジョブズが作ったんだから彼が最後につぶしたっていいではないかと思う。けれども、できれば、マイノリティではあっても、独創的な道具を生みだす企業としてずっと元気でいてほしいと願っている。たぶんそのことはビル・ゲイツだって望んでいるはずだ。独禁法もあるが、彼には漁夫の利を得るセカンド・ランナーという役割しかできないのだから。

    1999年3月2日火曜日

    石田佐恵子『有名性という文化装置』勁草書房

     

    ・テレビの時代が英雄を有名人にかえ、旅を観光に変容させることをいちはやく指摘したのはD・J・ブーアスティンだった。彼は、それを「疑似イベント化」とよび、人物や場所、あるいは出来事はもちろん、思想や宗教など、ありとあらゆるものにおよぶ現象として批判的に論じた。そのブーアスティンの指摘から40年近くがすぎて、「疑似イベント化」の様相は、それがあたかも「自然」であるかのようになってしまっている。本書はその変容を「有名性」をキイワードにして読みとこうとする意欲作である。
    ・「有名」であることは、必ずしもそれを裏づける根拠を必要としない。ブーアスティンはそれを「有名人は有名であるから有名なのだ」というトートロジーでしか定義できないものとした。テレビはまさにそのような実態をもたない「有名性」を生産するあたらしい「文化装置」として登場したのだが、そのブーアスティンの時代からいったいなにがどのようにかわったのだろうか。
    ・テレビはますます肥大化し、人びとの日常生活の必需品となった。本屋の店頭にならぶ雑誌の種類の多さはもちろん、情報入手やコミュニケーションにつかうメディアも多様化して、携帯電話をもちパソコンでインターネットをすることがあたりまえになった。都市の変容、地縁・血縁関係の希薄化や崩壊、さらには直接的なコミュニケーションが苦手で、すぐに「むかつき」「きれる」世代の登場………。かつての人間関係のもち方の衰退や機能不全と、それにかわるあたらしいネットワークの興隆。そして「アイデンティティ」の変容。メディアの問題がひろく社会や文化、そして個人といったテーマと連動させて論じなければならないテーマになったことはまちがいない。
    ・そのような状況変化をどうとらえたらいいのか。著者は「メディアによる共同体」ということばをつかい、そこで人びとをたばねる役割をするものとして〈有名性〉を位置づけている。私たちは日々の大きなニュースや生活情報はもちろん、流行やゴシップ、さらには雑学的な知識の大半を、テレビや雑誌や新聞からえているが、その価値を、情報や知識それ自体よりは「みんな」と今を共有しているという実感にもとめがちある。それはまるで、直接的に経験できる世界での共同体感覚にたよれない代償に、「メディアの共同体」を存在基盤として感じているかのようである。テレビのワイドショーは直接つきあう人びととの間で確実に共有できる話題である以上に、近隣のうわさ話そのものなのである。
    ・本書では、このような視点から、「ワイドショー」のほかに、情報誌と都市空間の関係が「〈有名性〉にあふれる場所」としてあつかわれているし、青年(若者)の外見へのこだわりが、身体の記号化とメディア体験の共有の関係として分析されている。そして、後者についてはさらに、それが、「アイデンティティ」の問題ともふかくかかわりあっていることが指摘されている。「〈有名性〉をめぐる欲望がメディア崇拝に転化している時代において、特定の個人や集団のアイデンティティが語られるとき、それを語るのが当事者であろうとなかろうと、その社会の中に既に大量に蓄積されている〈有名性〉とかかわることなくそれを行うのは、きわめて困難なことになっている。」ぼくもまったくそのとおりだとおもう。
    ・本書は、その後半で、著者が依拠する「カルチュラル・スタディーズ(CS)」についても論じている。内容はCSの紹介と日本の大衆文化研究との比較といったものだ。CSはアカデミズムの中での最近のはやりであり、著者は、その流れを代表する一人である。したがって〈有名性〉についての分析がCSを土台にしたものであることはいうまでもないのだが、CSの理論紹介が中心であるぶんだけ、前半との間にずれを感じさせてしまっている気がした。
    ・そのような不満は当然、〈有名性〉にもっとこだわった章が後半でも展開されていたらといった注文につながる。「アイデンティティ論」はほんの序の口のようであるし、情報誌論も表層的な印象を受けた。あるいは、すべてが〈有名性〉によって認識され評価される時代の到来を受けいれたとしても、やはり、そのような傾向に批判的な目を向けることが必要だが、そのような視点の希薄さも気になった。「文化装置」の商魂たくましさや、それにとらわれることへの批判、あるいはメディアにたよりながら、〈有名性〉にとらわれない生き方やアイデンティティの模索………。
    ・〈有名性〉を共通の知識にすれば、多様性や広がりを可能にするどんなメディアも、同質性にしがみつく自閉的な回路になってしまう。たとえば、世界中に無数に存在するホームページは新しい情報誌だし、衛星放送やケーブルテレビの普及によって多チャンネル化してきたテレビは、その見方によってまったくことなるメディアになる可能性をもっている。ぼくはその取捨選択に、〈有名性〉によって一元化されるものとはちがう「アイデンティティ」や「メディアの共同体」を夢想したくなるのだが、ここでも〈有名性〉は異質なものとのコミュニケーションを妨げる壁になりはじめている。ぼくはそのことにかなりいらついているのだが、著者はいったいどう考えているのだろうか。(図書新聞書評)

    1999年2月25日木曜日

    崔健『紅旗下的蛋』

     

    tsui1.jpeg・昨年の秋頃から崔健のCDを探しているのだが、全然見つからない。で、アメリカ村の中古のCD屋さんまで出かけた。ここはワールド・ミュージックが国ごとに並んでいて、特色のある品揃えをしている。そこで、やっと一枚見つけた。『紅旗下的蛋』で英語の題名は"Balls under the Red Flag"。すでに4年ほど前に出た彼の三枚目のアルバムで映画『北京バスターズ』の中で歌っていた曲も入っている。
    ・歌詞は当然中国語だが、たとえば、アルバム・タイトルの「紅旗下的蛋」は次のような内容である。


    突然の開放だ/実は突然でもないが
    さあチャンスの到来だ/だが何をしたらいい
    赤旗はまだひるがえり/くるくる向きを変えている
    革命はまだ続いていて/老人たちは力を増している

    現実は石みたいに硬い/精神はタマゴみたいにもろい
    石は硬いけれども/タマゴには命があるのだ
    お袋はまだ生きている/親父は旗ふりをやっている
    俺たちは何なのだと聞くなら/赤旗の下のタマゴだと
    橋爪他訳


    tsui2.jpeg・崔健は中国の開放政策が生んだ反逆児だ。共産党による一党独裁体制を崩さずにいかにして資本主義化するか。中国の開放政策はきわめて矛盾に満ちたものだが、彼を生みだし、大きくしたのはまさにその矛盾に他ならない。橋爪大三郎がまとめた『崔健』は、インタビューを中心にした内容だが、崔健はそこで次のようなことを言っている。

    人びとははっきりした生活の目的がない。はっきりした価値観もない。しかも、みんなこうした話題を恐れている。こうしたテーマから逃避しているんだ。
    芸術を自由にしてやれば、若い人びとが何を考えているかをわかることもできる。若い人びとはいままで、自分を見る窓がなかったんだから。そのせいで彼らは、ますます盲目になり、ますます愚かになり、ますます未来がなんだわからなくなる。

    ・崔健はロックを自分の存在証明のためにやる。だから、どんなに不自由でも、外国から誘いがあっても中国にとどまり続けるという。「アイデンティティの音楽としてのロック」。ぼくはこれこそ、その源流からはじまって、どんなにサウンドや人や場所が変わっても伏流水のようにして流れ続けるロックの精神だと思う。
    ・つい最近、彼の新しいアルバムが出たようだ。香港やシンガポール経由で日本にやってくるのだが、熱心なファンが日本語訳をつけてアルバムに同梱したのだそうだ。もちろん注文したのだが、残念ながら、入荷したという連絡はまだ来ていない。

    1999年2月17日水曜日

    ABCラジオ体験


  • 2月15日にABCラジオの朝の番組「アベクジラ」に生出演した。以前にNHKラジオに出たことがあるが、その時は研究室で録音したから、スタジオで生というのは初めての体験だった。
  • DJの安部さんはプロ野球の実況で独特の浪花節的な味を出して人気のあるアナウンサーだが、立て板に水のように喋る人とうまく話がができるのか、実は非常に不安で、朝家を出るときから緊張していた。
  • 放送は10時20分頃から20分間ほどだから、10時までにABCまでお越しくださいという。放送作家の奥村さんと何度かメールをやりとりして、話しの内容をきめ、原稿もいただいていたのだが、直前の打ち合わせはしなくていいのかと、心配になった。で、遅れてはいけないと早めに出たのだが、放送局に着いたのは約束よりも30分ぐらい早い9時半。

    番組は9時からはじまっていて館内にはその音が流されている。奥村さんとディレクターの魚谷さんの二人が迎えてくれて、控え室でうち合わせというよりは雑談がはじまる。気になったから「番組のスタッフは何人ですか?」と聞くとスタジオ内に今3人、スタッフが5人だという。ぼくの相手をしている閑があるのだろうか、などと心配になったが、考えてみれば、ABCは関西圏をカバーする大きな放送局なのである。そんなことをあれこれ気にするぼくの緊張を和らげるために、二人が音楽のことについて気さくに話しかけてくる。あーこれも大事な仕事の一つだな、などと、初体験のぼくとしては緊張の中にも感心することが多かった。やがて10時になり15分になっても、まだ雑談が続く。ぼくはDJの安部さんとはまだ顔を合わせていない。

    20分過ぎにに一つのコーナーが終わってCMが入る。そこでスタジオ内に入って出演者の方々とあいさつ。お茶が出されたが、ほとんど飲むまもなく放送開始。ぼくは今日、ロックについての話をするために呼ばれているのである。バックにE.プレスリーの「監獄ロック」がかかると、安部さんが中学時代にプレスリーに夢中になったといった話をしはじめた。彼はちょっと前まで解説者の花井悠さんとプロ野球のキャンプの話をしていて、10時過ぎからはニュースにつきあっていたのだが、今度は音楽の話。

    話題はロックンロールとロックはどう違うのかからはじまって、ボブ・ディラン、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、さらにはパンクにレゲエ、そしてラップとロックの歴史と続いて、最後は中国の崔健(ツイ・ジエン)の話。
    正直言って、ぼくには考えて喋っているという余裕はなく、話を向けられたらそれにあまり間合いを置かずに応えるという意識しか自覚できなかった。で、あっという間の20分。ぼくのコーナーが終わっても、もちろん番組は続いている。「お疲れさま」「失礼しました」といった言葉を交わしてスタジオを出ると、放送はもう別の話題で盛り上がっている。これが「ラジオの時間」。
  • ぼくはスタッフの方々にあいさつをして放送局を出た。10時50分。まるで夢の中の出来事のような、現実とも非現実ともつかないような20分間だった。いったい何を喋ったのかと思い出しても、はっきり思い出せない。何とも頼りない実感。しかし、ぼくのラジオ初体験は、とにもかくにも、ひどい結果にならずに終了できた。

    家に帰って録音してもらったテープを聞いてみた。「あのー」が多い。おそらく20分間に50回は言っている。もちろんぼくにはそんな自覚は全くなかった。たぶん講義とか講演会の時でも「あのー」が多いんだろうなと思ったら、急に恥ずかしさに襲われた。教師は人前で喋る商売だから、自分のした話を記録して、その癖やまずいところは自覚的になおした方がいい。そんなことをあらためて思い知らされてしまった。ただ、言うべきことは一応話している。早口だが、そんなに聞きにくくもない。そのあたりは経験というか、歳の功かもしれないと思った。
    事前に何人かの学生や卒業生に出演するとメールを出しておいたのだが、その夜、何通かのメールがやってきた。月曜日の午前中だから、録音を予約して仕事から帰って聞いた人が多かったようだ。そのほかに 車の中で聞いた人、録音に失敗して聞けなかった人、忘れてしまった人、それから無反応の人.......

    ボブ・ディランのサイトを作っている西村さんからは、連絡しなかったにもかかわらず、偶然聞いてましたという返事をもらってうれしくなった。「ロイアル・アルバート・ホールの野次入りRolling Stoneが朝からAM放送で聴けるとは驚きました(しかも仕事場で)。時間は短かったですが、面白く聞かせていただきました。」ラジオに出るのは躊躇したけれど、こんな聞き手がいたことがわかって、出た甲斐があったというものである。
  • 1999年2月10日水曜日

    『夫・山際淳司から妻へ』 (BS2)

     

  • 山際淳司は僕と同年齢だが、4年前に胃ガンで死んだ。46歳。直前までNHKのスポーツ・キャスターをしていて、その異常なやせ方に驚いた記憶はいまでもよく覚えている。ちょっときざだが小気味よいトークで、僕は彼の出る番組をよく見ていた。BS2で放送した『夫・山際淳司から妻へ』 は、彼の奥さんである澪子さんの話を中心に山際淳司と彼の死後に彼女や息子さんが経験したことの意味を考えたドキュメントだ。
  • 山際淳司は本を出すと必ず、その裏表紙に感謝の気持ちを書いて奥さんや息子さんに贈呈していた。「おかげでこんなにしゃれた本ができました。ありがとう。」息子をスタジアムや取材現場に連れていき、一緒にスポーツもよくやった。だから、星司君は父親に理想の男像を見つけだし、奥さんも、夫の影になることに自分の生きがいを感じた。そんな心を共有し合う家族の中から、突然大黒柱の夫、そして父親である山際淳司が消えた。
  • かけがえのない夫を失った妻、理想の父親を失った息子。ドキュメントはその二人が新しい自分と生きる方向を見つけだすために過ごした4年間を追いかけている。僕は見ながら目頭を熱くさせて、もしこれが自分だったら、などと思ったとたんに溢れ出す涙をこらえきれなくなった。完全に同一化して見てしまったためだが、もちろん、僕には、彼のような理想的な夫や父親を演じてきた自覚は全然ない。
  • 彼女は山際淳司が死ぬ間際に「君はひとりで生きてちゃいけないよ」と言われる。しかし、そのことばの意味を模索しながらも、支えを失った現実を直視することができなかった。ぽっかりと空いた大きな穴をふさぐのはいつでも、思い出としてよみがえる夫の姿。しかし、同じように心に空洞をあけられた息子は、ひとり、中学からのイギリス留学を決断する。寄宿制のパブリック・スクール。今15歳になった彼は、年齢からすると驚くほどに大人の口調で、しっかりと父親のこと、母親のこと、そして自分の過去や現在や将来のことを語った。僕の息子どもと比べて何と違うことか。
  • 彼女はその息子にしっかりしろと叱責される。変わる努力をしている自分とは違って、夏休みに帰って見た母親の姿が昔のままだったからだ。彼女は出版者の依頼を受けて、山際淳司の思い出をまとめはじめる。で、最近『急ぎすぎた旅人・山際淳司』が出版された。
  • いろいろ考えさせられた僕は、彼の本を読み直そうかと思ったが、本棚を探しはじめて1冊もないことに気がついた。で、あわてて本屋に行って文庫を数冊買って読み始めたのだが、残念ながら全然おもしろくない。それであらためて、沢木耕太郎の作品は全部読んでいるのに山際淳司に関心が向かなかった理由を考えた。
  • 山際の作品はダンディズムを基調としている。ゲームを見ていたのではわからない世界を垣間見させてくれるが、それはあまりに美しくて、生身の人間が放つ匂いが感じられない。嘘やごまかし、嫉妬や怨念のないすがすがしい世界。スポーツの中に自分の思いを映し出そうとする山際と、スポーツを素材にして人間を描き出そうとする沢木。簡単に言えば、そんな違いなのかもしれない。言うまでもなく、僕は後者の世界に惹かれる。
  • そんな風に考えると、また、後に残された妻や息子の前に立ちはだかった壁や、それを乗り越える努力の程度もはっきりしてくる気がする。山際淳二は格好よく生きることにこだわって、しかも急ぎすぎた。澪子さんは、夫と共に生きるために執筆を続けるという。彼女はそれを「思い出の中に孤独を追いつめる」と表現した。僕は、残された二人が同じ轍を踏まないでほしいと願わずにはいられない。急ぎすぎず、理想を追い求めすぎず.......。
  • 1999年2月3日水曜日

    2月03日 A.プラトカニス、E.アロンソン『プロパガンダ』〔誠信書房)

    「この不景気を何とかしなければ」というのは、今、誰もが同意するかけ声だろう。景気が良くならなければ、学生は就職もままならないし、職を持っている人だっていつリストラされるかわからない。勤め先そのものが倒産する危険は、中小企業だけのものではない。だから政府は商品券を配ってまで、消費行動に弾みをつけようとする。しかし、一度きつくなった財布の紐はなかなかゆるみそうにない。


    今考えてみれば、バブルの時期に人びとがなぜ、やれ家だ土地だモノだと買いあさったのか不思議な気がする。そして、今こんなにまで消費が落ち込んでいる理由だって実際のところは、奇妙な現象なのだ。時に人は無理な借金をしてまで金を使いたくなるし、時にまた人は持っている金をしっかり握りしめて使おうとしなくなる。いったいどうしてなのだろうか?


    『プロパガンダ』は我々の生活の中で日常化している「説得」の本質を解き明かそうとする本である。「宣伝」「広告」「キャンペーン」「CM」「デマ」「噂」「口コミ」「洗脳」「教化」........。「説得」ということばで表される行動はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌といったマスメディアはもちろん、より直接的で個人的なコミュニケーションの中にも含まれている。
    「説得」とは自分の考えを人に理解させたい、自分の思い通りに人を動かしたいと考えてする行動だが、それはもちろん強制する形でおこなわれるものではない。むしろ、人に自発性を

    自覚させるものである。だから、「説得」には魅力的で鮮明な「イメージ」がなければならないし、人に「夢」や「欲望」を感じさせなければならない。セックス・スキャンダルで大騒ぎになっても演説上手なクリントン大統領の人気は衰えないし、良いおじさんといわれることはあっても、「ボキャヒン」の小渕首相の支持率は一向に上がらない。


    『プロパガンダ』は政治家の言動やニュースの論調、それからもちろん新聞や雑誌の広告からテレビCMまでをふくめて、その説得のレトリックを社会心理学的な視点から分析する、なかなか面白い本である。けれども、これを読みながらぼくは、逆のことを考えてしまった。つまり、不況のような深刻な状況の中では、どんなに工夫を凝らした宣伝も広告も、空々しく見えたり聞こえてしまうのだな、ということである。


    しかしそう思いながら、こうも考えた。今が不況だという認識は、やっぱりどこからか宣伝としてやってきたイメージなのではないのか。イメージの実体化をD.J.ブーアスティンは「疑似イベント」と読んで、そこのマス・メディアの本質を指摘したが、景気とイメージの関係はまさにそれの好例だろう。


    スチュアート・ユーエンの『PR』はアメリカ人エドワード・バーネイズへのインタビューからはじまっている。ユーエンによればバーネイズはPRのパイオニアとも呼べる人だが、彼はそのPRを「環境創造」の科学として考え、実践した。出来事は上演されるもので、「ニュース価値」を持つよう計算されるものだが、同時にそれが脚色されていることは明らかにされてはならない。新聞が大衆化し、映画やラジオが人々の関心を集めるようになった20世紀初頭は、PRによって社会を動かすことが本格化した時代でもあった。


    ユーエンの『PR』はその20世紀前半のメディアの成長とそれを使った「説得技術」の熟練を描き出した好著で、『プロパガンダ』とあわせて読むと、我々が日々無自覚のうちに、考えや行動、あるいは感覚までをいかに説得されているかをも思い知らされる。ユーエンは『欲望と消費』『浪費の政治学』(いずれも晶文社)ともに面白い本で、なかなか力のある人だと思う。『PR』もぜひ翻訳されて多くの人に読まれて欲しいのだが、不況の波は出版にも押し寄せていて、なかなか実現は難しいようである。


    ついでに「浪費」ということから言えば、ぼくは景気の悪いのはむしろいいことではないかと、最近特に感じている。用もないものなど買うことはない。それで経済がおかしくなるというなら、それは社会の仕組みの方が悪いのだと。しかし、経済が悪くなると、現実には必要なものほど手に入りにくくなったりする。出版の世界は特にそのような傾向が強い。これは困ったことだと思うが、それもやっぱりプロパガンダやPRの力の差なのだろうか。