2002年5月13日月曜日

「聞く」ことのむずかしさ

  • 人の話を聞く。だれもが当たり前におこなっていることだが、実際のところ、本当にむずかしいと思う。最近、学生と話をしていて、あるいは学生同士の話を聞いていて、特にそう感じる。要するに、たがいが自分の言いたいことだけに意識をむけていて、相手の話にはあまり耳を傾けない。あるいは逆に、話題をあわせ、同意や共感だけを目的にした会話も多い。こちらは一見、相手の話を聞いているようだが、相手が何をどう言おうと「うん、そうそう」というだけだから、やっぱり聞いているとは言えない。
  • そういうコミュニケーションの形が目立つのだ。もちろん、それは学生にかぎることではない。大人同士の話は、はなからそういうものだと思ってしまってさえいる。そんなじぶんの態度を自覚して、時にはっとすることもある。
  • 単純に「わがまま」とか、「自分がない」と言ってしまえばそれまでだが、それでは、そういう特徴の強い人間をステレオタイプ化しておしまいということになってしまう。おそらく、大事なのは、そういうコミュニケーションがなぜ目立つようになったのか、その原因を個々の人格ではなく、関係の変容として考えることなのだと思う。
  • 友人の庭田茂吉さんが、また本を出した。去年の秋に『現象学と見えないもの』を出したばかりだから、半年もたたずに2冊目ということになる。送られてきた包みの中には、今年もう1冊出す予定だと書いてあった。その他にも数冊、翻訳をかかえている。ためていたものが一挙に噴出という感じだが、健康状態があまりよくないようだから、無理をしないほうがいいのにな、と余計な心配をしてしまう。その新しい本『ミニマ・フィロソフィア』(萌書房)はエッセイ集だが、そのなかに「聞く」ことについておもしろい文章があった。
    人の話がちっとも面白くない。………得心する、その通りだと心から納得する、なるほどと心から唸る、黙って聞いているだけで心地よい、そんな納得の仕方がなくなった。しかしそれでも、人の話を聞いている時は、うんうんと相槌を打って解ったような顔をしている。実はこれがいけない。こちらがそんなふうに相槌を打つものだから、相手はますます熱心に話してくる。
  • 彼はつづけて、「話すことは聞くことによって成り立つ。そうだとすると、話すことの現在を問うことは聞くことの現在を問うことにほかならない。」という。で、相手を考えずに勝手な話をする人は、結局自分自身でも自分の話を聞いていないのだと。「自分の話を自分でよく聞かない習性からくる病」。そこに会話が成立しているように感じられるのは、おたがいが、相手の話を聞いているようなふりをするからである。
  • 相手の話を聞いて、「それは私とまったく同じだ」ととこたえる言い方がある。相手の話に同意を示しているのだが、庭田さんは、それは相手の耳を占領するためのレトリックだという。「それは他人の話をことごとく自分の経験に置き換え、他人の経験を自分の話に吸収してしまうことである」。それは他者を抹消して、自分だけを生き残らせる戦術にほかならない。
  • 相手の話を相手の身になって黙って聞く。そのことのむずかしさ、大切さを話題にしたもう一冊。鷲田清一の『「聴く」ことの力』には、カウンセリングの話がでていて、そこで、カウンセラーが患者や相談者の話にこたえて出すことばが、相手の言ったことをくりかえして「〜なんですね」ということであることを紹介している。その一言が、他者との関係や自分のことで悩む人の心を落ちつかせ、開かせる。「〜なんですね」によって、人はほかのどんなことばより、自分のことばが相手に届いたこと、届いたという反応が自分に返ってきたことを実感できるのだという。
  • ここには、相手かまわず言いたいことを喋りつづけることや、聞いていること、同意していることのふりをすること、あるいは、相手の耳を占領する戦術のどれともちがう、相手の声を聞く相互の関係がある。しかしこれは、職業上の方法としては可能であっても、現実の人間関係のなかでは、なかなかむずかしい。
    自己の同一性、自己の存在感情というのは、日常的にはむしろ、(眼の前にいるかいないかとは直接関係なしに)他者によって、あるいは他者を経由してあたえられるものであって、自己のうちに閉じこもり、他者からじぶんを隔離することで得られるものではない。他者から隔離されたところでは、ひとは<自己>を求めて堂々めぐりに陥ってゆく。
  • 「私」とは「他者」にとっての「他者」。だからその「私」の存在確認は、「他者」からの呼びかけや自分の声に対する反応としてするほかはない。だから「聞(聴)くこと」のむずかしさは、「他者」を認識することはもちろん、「自己」を確認することの困難さに繋がる。
  • 2002年5月6日月曜日

    連休中に見た映画

  • BSデジタルには映画の時間が多い。しかもおなじ映画を何度もくりかえしやる。だから一度見逃しても、見ることはできるし、一度見たものをまた見てしまういうこともある。ゴールデン・ウィーク中はそんな映画を何本も見た。「こどもの日」があったせいか、子どもが主人公の映画が多かった。

  • 「ライフ・イズ・ビューティフル」は第二次大戦中のイタリアで、強制収容所に送られたユダヤ人親子の物語だ。ある日突然、ドイツ兵が来て、そのまま収容所へ。父親はそんな状況を、子どもにはまったく違う意味で理解させる。ゲームに参加したこと。勝てば戦車に乗れること。ゴールは1000点で、毎日の生活ぶりで加点も減点もされること。そのことを信じさせようとする父親の言動は必死だが、またユーモアにも溢れている。生きのびるためにする現実の読みかえゲーム。父親はドイツ兵に殺されるが、子どもは父のアドバイスを守って、アメリカ軍の戦車に救われる。ずいぶん前に見た映画だが、たまたまチャンネルを合わせて、そのまま最後まで見てしまった。

  • 「マイ・ドッグ・スキップ」はメンフィスに住む家族の物語。父親はスペイン市民戦争で片足をなくしている。一人っ子の男の子は大事に育てられたせいか、弱虫で、近所のいたずら坊主たちにいつもいじめられている。そんな子どもに母親が犬をプレゼントする。その犬が、いじめっ子たちと闘う勇気を男の子に与え、好きな女の子と仲良くなるきっかけをつくってくれる。それは現実を読みかえることで世界に参加できるようになる話だ。自分にたいする自信。仲直りした友だち。子どもに成長を感じる父。世界の意味づけのゲーム。
  • 「カーラの結婚宣言」は、知的障害のある娘がおなじ境遇の少年と友だちになり、やがて結婚宣言をする話だ。ハンディキャップのある娘を強く、まちがいなく育てようとする母親は、娘を守ることに懸命だが、そのぶん、娘の行動を干渉しがちになる。そんな母親に逆らえなかった娘が、少年と出会うことで自分の気持ち、自分の考え、自分の判断を母親にぶつけるようになる。母親によって意味づけられた世界から抜け出して、自分で世界をつくりだしていく子どもの話。

  • もう一つ見た「薔薇の名前」はウンベルト・エーコの原作だ。ぼくは途中で読むことをやめてしまったから、映画はみたいと思っていた。それが、リモコンでチャンネルをあちこちしていたら偶然、画面に登場した。主人公はショーン・コネリー。本の頁をめくる部分に毒を塗りつけて人を殺す。その謎解きの物語だが、ストーリーよりは、中世の教会と蔵書、写本とそれに従事する修道僧の風景などがリアルで印象深かった。
  • というわけで、今年の連休も、どこにも行かずに家ですごしてしまった。湖畔は例年通り、人と車で一杯。高速道路は大渋滞。隣近所の別荘も、人の声がして、夜は明かりがついている。ぼくはカヤックもせず、倒木探しも一休みして、読書とテレビ、それに庭の花の手入れ。人が動く季節はじっとしているにかぎるのだ。
  • 2002年4月29日月曜日

    高原の花

     

    forest16-11.jpeg・河口湖に越してから3度目の春。今年は暖冬のせいで、植物の目覚めは例年になく早かった。東京のサクラが彼岸には満開になって、おやおやと思っていたら、わが家の庭でも片栗が葉を出し、紫の花を咲かせた。蕗の薹もつぎつぎに出て、春の季節のはじまりは完全に半月は早い。例年ならゴールデン・ウィーク前に満開になるはずのサクラが4月に入るとすぐに咲き始めた。陽気も妙に暖かかった。

     

    forest16-5.jpeg・片栗の花は毎年一つ二つと増えている。以前には群生していたのが荒らされたようだが、このぶんでは数年後にはまた群生するかもしれない。そんな楽しみを感じさせてくれた。荒らされたといえばたらの芽。芽が出てもうすぐ食べ頃というところで誰かに摘まれてしまう。しゃくにさわるから、袋をかぶせてとりにくいようにしたり、家のまわりを探しまわる人がいると外に出てうろうろしたりした。おかげで、今年も何度か天ぷらにすることができた。

     


    forest16-6.jpeg・庭には数種類のサクラの木がある。なかでも一番きれいなのは小さなピンクの花をたくさん咲かせる富士桜。葉と同時に白い花を咲かせる大島桜は車の上一面に花びらや葉を散らすから、朝の出勤時にはその葉や花をまき散らして車を走らせることになる。バックミラーごしに見ると、舞っていく花びらや葉が渦を巻いて車から離れていく。「行ってらっしゃい」と言っているような気がして「行ってきまーす」と言いたくなった。

     

    forest16-7.jpeg・付近の山にも何種類もの桜があって、それが時間をずらせて花を咲かせる。しかし、今年は一斉にといった印象が強い。おなじ頃に、地面も緑色に変わりはじめた。そしてじっと目を凝らしてみると、小さな花があちらこちらにぽちぽちとある。パートナーが植物図鑑を調べて名前をみつけた。「ヒトリシズカ」「ギボウシ」「イカリソウ」「ツリフネソウ」「オダマキ」「リンドウ」「ホトトギス」「ムスカリ」「エキナセア」「カモミール」………

     

    forest16-4.jpeg・もちろん野生のものばかりではない。この家の前の持ち主はここを別荘として使っていたが、植物の手入れをていねいにしていたらしい。この時期になるとそれがよくわかる。残念ながら去年出ていたチューリップは今年は出なかったが、これから咲く花が楽しみだ。

     


    forest16-3.jpeg・ぼくらが新しく植えたのは松の木を伐採した後の「樅」と「白樺」。そのあいだに置いた「ライラック」が今年始めて花を咲かせた。今年はさらに「三つ葉ツツジ」を買ってきた。それから白樺の根元に「クロユリ」と「岩レンゲ」、そして「ウスユキソウ」。去年山からとってきた山椒の木も数本根づいて新芽を出し始めた。森の中の土はもともと肥えているが、念のために、落ち葉を集めて堆肥にしたものをまいた。


    forest16-1.jpeg・新しく始めたのはその他に、「向日葵」と「コスモス」。秋にあちこちから採取した種を日当たりの良さそうなところをみつけて何カ所か種をまいた。芽がでているところとそうでないところが極端だが、その理由はまだわからない。もう少ししたら、芽のでないところにもう一回種を植えてみようと思っている。うまくいけば、夏には家のまわりに大きな向日葵やコスモスのの花畑が出現する。


    forest16-8.jpeg・ところで、ムササビはいまも住み続けている。その他に、時折野ネズミもリビングを徘徊する。庭には蛇に蜂。もちろん野鳥は何種類もうるさいほどに鳴いている。にぎやかで華やかな季節になった。というわけで、連休中はどこにも行かず庭や周囲をうろうろしてすごしている。

    2002年4月22日月曜日

    TVCMソング集、映画音楽集

     

    ・東芝EMIで宣伝の仕事を担当している水越さんにプロモーション用のCDをたくさんいただいた。彼とは去年龍谷大学で催したシンポジウム「ビートルズ現象」でご一緒した。彼の話は、ビートルズのおなじみの曲を集めた「ビートルズ1」をヒットさせた、その裏話が中心だった。
    ・アルバムとしてのCDは基本的にはミュージシャンが一つの作品としてつくりあげる。デビュー・アルバムから始まって、2作目、3作目と出していって、それぞれの音楽的な世界が明確にされていく。あるいはシングル盤でデビューして、何曲かヒットさせた後に、それがまとめてアルバムになるということもある。さらに、どんなミュージシャンも数年たって持ち歌がたまると、その中から比較的ポピュラーなものを集めて「ベスト盤」を出す。
    ・好きなミュージシャンのアルバムをすべて買えばベスト盤はいらないはずだが、そこに未発表曲とか別テイクなどをいれることがあるから、ファンはその曲だけのためにやっぱり買わされてしまう。また、ライブ盤なども出てくるから、同じ歌や曲をいくつも買って持つということになる。買わされる側にとってはちょっとしゃくにさわるところだが、商品化の可能性をたえず考えている売る側にとっては、独自の企画でリメイクしたものをいかにして売るかということは死活問題なのである。

    cmsong.jpeg・水越さんからもらったCDのなかには、そんな企画ものがいくつかあって、それが割と売れているという話を聞いて興味をもった。たとえば「Super song in Vision」はテレビCMに使われた歌ばかりを集めたアルバムで、聴いているとCMそのものが頭に浮かんできて、それぞれのミュージシャンのアルバムで聴いているのとは違う印象をもった。
    ・テレビを見ていて、ときどき「おや?」と思うような曲や歌を耳にすることがある。企業や製品のイメージにあっていたりいなかったするし、時にはCM制作者の趣味が見え隠れしたりする。ぼくは民放の地上波はめったに見ないから、CMにふれることは少ないし、邪魔だと思ってるからすぐにチャンネルを変えたりするのだが、聴きなれた曲には思わず耳を傾けてしまう。最近のものだとロキシー・ミュージックの"More than This"(トヨタ「クルーガー」)、イエスの"Owner of Lonely Heart"(日産「バサラ」)などがあって、このCDにもちゃんとおさめられている。
    ・このTVCMソング集を聴くと、自動車のCMにクラシックなロックが使われていることに気づく。三菱自動車「レグナム」がレオン・ラッセルの"Song for You"、スズキ「ワゴンR」がデヴィッド・ボウイの"Starman"、その他にもダイハツ「ムーヴ」がクイーン、トヨタ「プレビス」がシカゴ、ホンダ「VAMOS」がシーカーズとずらずら並んでいる。そういえば、ぼくが乗っているレガシーのCMもロッド・スチュアートなど、クラシックなロックが使われていた。これは、車とロックの関係から考えたらいいのか、それともユーザーの世代との繋がりなのか、あるいはcM制作者の趣味なのか、おもしろい傾向だなと思った。

    cinema1.jpeg・いただいたものの中には、ほかに恋愛映画の主題歌ばかりを集めた"Love Ring Cinema"というのもあった。それには、わりとあたらしい「タイタニック」から「男と女」や「禁じられた遊び」といった古いものまで20曲ほどがはいっている。それぞれはよく知っている曲で、好きなものが多いのだが、つなげて聴くとかなり違和感を感じたし、笑ってしまう場合もあった。
    # ぼくは映画のサントラ盤はよく買う。最近の映画はロックをいくつも挿入させるものが多いし、その選曲などが映画の魅力の一つになっているものも少なくない。「トレイン・スポッティング」はその典型だし、ヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュの映画には音楽が不可欠だ。
    ・まったく別の曲や歌を自分がつくる作品のなかで一つにする。それが映像と一体化して一つのコンテクストを構成する要素になるとき、個々の曲や歌は、まったく違うものとして再生する。映画の挿入歌(曲)やCMソングのおもしろさは、たぶんそこにあるのだろうと思う。
    ・そのCMソングや映画音楽をさらにコラージュして一枚のCDにおさめる。それは、たぶんウォークマンの普及以降、多くの人がそれぞれにやってきたことだと思う。MDやパソコンを使っての編集がますます容易になっているから、パーソナルな形では当たり前なやり方なのかもしれない。
    ・だから、一人一人が自分の趣味にしたがってつくるものなのではという気がするが、そういう傾向があるからこそ、レコード会社が商品化を考える余地が生まれるのかもしれないとも思う。「個性」はたぶん、商品にとって重要な付加価値の要素なのだろう。

    2002年4月15日月曜日

    『文化社会学への招待』の紹介

    『文化社会学への招待』(世界思想社、2000円)は井上俊さんが京大を退官されるのを記念した論集として企画されたものです。編者は亀山佳明、富永茂樹、清水学さん。彼らをふくめて、著者たちはすべて、井上さんを師と仰ぐ人たちです。ぼくは同志社大学大学院で3年間、井上さんの授業を受講しました。その後も公私に渡ってお世話になり、多くのことを教えられ、強い影響を受けました。30年近くたって、退官記念論集に名を連ねるのには、何か感慨深いものがありますが、実はそんなに時間がたったとは思えないのです。何しろ井上さんは還暦を過ぎたというのに、外見的には出会った頃のイメージそのままなのですから。教え子の頭が白くなってしまっているのですから、もういやになります。せめて書くものだけは、井上さんより年寄りじみないようにと心がけています。

    この本は、そんな井上さんの人柄のせいか、どこか儀礼的で堅苦しい記念論集とはひと味違うものになっています。義務や義理でというのではなく、もっと積極的に書く。おもしろい内容の本ができあがったのは、彼を慕う著者たちの思いのせいかもしれません。ぜひご一読ください。

    目次;

    ◆ I 遊びとメディア

    第1章 遊びにおける「離脱」と「拘束」……『丹下左膳余話・百万両の壺』をめぐって…… 長谷正人

    第2章 『リング』あるいは秀逸なメディア論としてのホラーについて 西山哲郎

    第3章 デジタル・メディアのなかの文学 岡田朋之

    第4章 遊びの躍動 桐田克利

    ◆ II 子どもとジェンダー

    第5章 双子の夢からさめるとき……吉野朔実と横顔の少年少女…… 清水学

    第6章 孤児物語をめぐる考察 細辻恵子

    第7章 性別化されたディスクールを超えて 伊藤公雄

    ◆ III 歴史と物語

    第8章 大正のユートピア 河原和枝

     第9章 物語のなかの他者性 小林多寿子 

    第10章 生きづらさの系譜学……高野悦子と南条あや…… 土井隆義

    ◆ IV 記憶と他者

    第11章 記憶の重層……パトリック・モディアノ『新婚旅行』その他…… 富永茂樹

    第12章 消失の技法……ポール・オースターの世界…… 渡辺潤

    第13章 漱石と親密性……ある悪夢の選択…… 阪本俊生

    第14章 他者の発見あるいは倫理の根拠……夏目漱石『道草』をめぐって…… 亀山佳明

    ◆ コラム 

    『遊びの社会学』を読んだ頃 吉見俊哉

    ハッピー・マニア、あるいは「恋愛結婚」の終焉 近森高明

    招かれざる客 永井良和

    不思議な都の夏目漱石 門中正一郎

    2002年4月8日月曜日

    春休みに読んだ本

  • つかの間の春休み。入試やさまざまな会議があって、一週間通して休みという期間が少なくなった。スポーツ社会学会で福岡の九州大学に行ったり、マスコミ学会の編集委員会で早稲田大学に行ったりと、休みは休みで大学以外のお勤めがある。それでも、3月の中旬からは、家でのんびりできる日が増えた。今年は異常に暖かいから、河口湖のサクラは、すでに満開に近い。いつもより3週間は早い。勝沼の桃も満開。山ツツジも咲き始めた。陽気と花につられて、カヤックをしたり、あちこちドライブしたり、倒木さがしにうろついたりと、なかなか部屋で落ちついて読書という態勢にならないが、それでも、買いためた本を何冊か読んだ。今回はその中から、携帯とメールに関する本を3冊紹介しようと思う。
  • 前回書いたように、ぼくもとうとう携帯を持ちはじめた。以前から電話はほとんどつかわないから、携帯を持ったからといって、突然誰かと頻繁に話をするようになるわけも ない。電話番号も教えていないから、まったくかかってこない。使っているのはもっぱら、メールと大学のサーバーへの接続である。親指打ちは変換の特異さもあってなれるのに大変だ。カヤックにのりながらメールを出そうと思ったら、波に揺られて船酔いしてしまった。
  • 『ケータイのなかの欲望』(松葉仁、文春新書)は携帯電話の歴史をコンパクトにまとめたものである。「欲望」ということばに興味をもって買ったから、ちょっと期待はずれだったが、誕生から現在までのプロセスはよくわかった。携帯0円などという宣伝に首を傾げることがあったのだが、そのカラクリなどもよくわかった。
  • 次は『若者はなぜ「繋がり」たがるのか』(武田徹、PHP)。この著者の本は以前に『流行人類学クロニクル』など買ったことがある。若手のノンフィクション作家で、興味を覚えるテーマの本を、ほかにも数冊書いている。今回も、タイトルを見て、これは読まねばと思った。「なぜ繋がりたがるのか?」は、ぼくがずっと感じている、学生に対する疑問だからである。で、その疑問はとけたかというと、少しだけというところだ。
  • 本に書いてあったことを要約すると、若者が携帯で繋がりたがるのは、「共同体」の確認欲求とそれを満たすための作業である。それは他者を想定しないきわめて排他的なものである。だから、問題となるのは繋がっている関係以上に、無視してしまう他者や世界との関係になる。著者はそれを宮台真司を引用して「他者との社会的交流における試行錯誤で自尊心を形成するという経路」に重大な故障が生じているせいだという。あるいはこの点については、三森創の『プログラム駆動症候群』(新曜社)から「いまの若者は心がない」ということばを借用する。「心」とはここでは、「何かを自分で感じて、それをきっかけとして行動を動機づけていくメカニズム」をさすが、若者たちにはそのメカニズムが形成されていないというのである。
  • その「心」を持たない世代が、携帯電話で<ホンネ>をつぶやきあう。あるいはメールやチャットや掲示板でぶつけあう。しかしそのホンネはまた、「心」がないのだから、心とは別のある種のプログラムにしたがって語られるものである。このようなことはたとえば、中島梓が『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房)で10年以上前に指摘したことだが、ここ10年の携帯の普及のすさまじさを考えると、その二つの症候群の病状の進行はかなりのものだろう。つきあいたいヤツとしかつきあわない。したいことしかしたくない。思い通りになることが大好き。この本で指摘されるこのような若い世代の特徴には、ぼくもまったく異論はない。しかし、論文ではないのに、大学の研究者の引用に頼りすぎという内容には不満を持った。
  • 最後は小林正幸の『なぜ、メールは人を感情的にするのか』(ダイヤモンド社)。著者は不登校や閉じこもりの子どもをメールのやりとりでカウンセリングする心理学者である。だから、内容はすべて自分の経験がもとになっている。
  • メールは人格のごく一部を使ったやりとりだ。だから、自分を丸ごとさらす必要はないし、相手のことも一部しかわからない。だからそこには想像力が不可避になる。このような特徴がメールを感情的なものにする。錯覚、思いこみ、作り話………。誹謗中傷のメールや掲示板あらしがおこるゆえんだが、誰にも言えないことが言える可能性も同じ理由によっている。メールだからケンカになりやすいし、恋にも落ちやすいと言うわけだ。
  • メールによるカウンセリングの具体例があっておもしろかったが、メールのつかいかたのアドバイスなどはよけいな気がしたし、もうちょっとつっこんだ分析がほしいと思った。
  • 2002年4月1日月曜日

    携帯メールをはじめた


  • ついに携帯を買ってしまった。今日はエープリル・フール。だからといって嘘の話ではない。ごく少数の連絡をした人たちからは一様に、「またどうして?」というもっともな返事がかえってきた。ぼくは今まで携帯には批判的で、あんなものでトランシーバーごっこをしても時間とお金の無駄づかいだけじゃないかと言いつづけてきた。その気持ちは変わらないから、「じゃー、何に使うの?」といわれてしまうのは当然である。
  • では、なぜ買ったかというと、これが芋蔓式で、簡単には説明できない。話はシステム手帳をやめたところからはじまる。
  • ぼくはもう10年以上、厚さが5cm以上もあるシステム手帳を使いつづけてきた。どこに行くときにもこれは財布の次に大事なもので、忘れたときには不安でどうしようもないという気になるほどのものだった。毎日のスケジュール、住所録、電話番号はもちろん、書籍やCDの購入リスト、ガソリンの燃費記録、HPのカウンター、会議のメモ、ふと思いついたアイデアやことばの記録。ソフトのシリアル・ナンバー、授業時間表に出席簿。それに日本地図に世界地図。名刺やカード。一時はフロッピーも挟みこんでいた。
  • それを去年の秋にPDA(パソコンと連動できる電子手帳)に変えた。教員仲間で何人かがつかっているのを見て、変えてみようかと思ったのだ。持ち運びにはずっと手軽だし、データをマックと共有できる。もっとも、データを移しかえなければいけないからすぐに持ちかえるということはできずに、つい最近まで両方持ち歩いていた。しかし、新しいカレンダーやスケジュール帳は買い足さなかったから、4月1日からは、書き込む場所がない。持ち歩くのはPDAだけと決めたのである。手帳もアナログからデジタルへである。
  • 持ちかえるとなると、必要なことがすべて代行できなければならない。最初の不満はスプレッド・シートが標準装備でなかったことだ。エクセルのような表のことだが、エクセルほどの機能は必要でない。ただ記録ができる表であればいいのだが、気に入ったものがなかなか見つからなかった。ガソリンの燃費記録、HPのカウンター、それに出席簿と、これは頻繁に使用する必需品なのである。一応使っているが、もっといいソフトはないかとさがしている。
  • 次に必要なのが地図。これは、PDAに装着して使うGPS(カーナビと同じもの)を買った。人工衛星と電波のやりとりをして自分の場所を確認する。地図は25万分の1と1万分の1の全国図がCD-ROMに入っていて、PDAにデータを送って使うのだが、とてもすべては入らないから、必要なものだけその都度入れかえることになる。面倒だが1万分の1の地図は小さな通りや建物までわかるものだから、これはなかなか便利である。しかし、肝心なGPSはというと、電池ばかり食って感度が悪い。建物や木が邪魔するところではほとんど使い物にならない。ちょっと高い買い物だったと後悔している。
  • PDAにはホームページを閲覧できるブラウザーとメール・ソフトが標準添付されていて、携帯やPHSを使えばインターネットに接続できる。すぐにはじめる気はなかったのだがGPSにモデムがついているから通信もやろうということになった。もちろん携帯はiモードだから、メールもインターネット接続もできる。それをわざわざPDAでやるのは、大学に届いたメールを自宅や研究室以外からでもチェックできるようにするためだ。
  • そんなわけで、画像のように、持ち歩くものがかえって多くなってしまった。それぞれに充電しておく必要があるから、毎日の日課がまた増えた。番号やアドレスをわずかの人にしか教えていないから、電話がかかってくることはほとんどないし、メールもあまりない。ぼく自身も誰かに電話をかけることもほとんどしていない。
  • 先日「日本スポーツ社会学会」に出席するために九州大学に行った。今までなら、数日間はメールを見ずじまいなのだが、いつもどおりにチェックすることができた。無駄だったかなと反省しかかっていたのだが、モバイルにはまりそうな気配になりはじめている。