2007年7月30日月曜日

多湿日照不足

 

forest61-1.jpg・7 月に入って雨ばかりの日が続いた。おかげで家の中は湿っぽくて、布団乾燥機を毎週使ったりしている。庭の紫陽花は鮮やかな色で咲いているが、家の中は日中でも薄暗い。ログが水分を目一杯吸って、時々大きな音で割れている。冬場の乾燥したときにも時折生じるが、今年の梅雨はいつも以上に烈しい。ポルターガーイストのようだから、始めてきた人は驚くだろうと思う。
・ドアが閉まらない、窓が開かないと、この時期はいろいろ不都合なことが起こるが、湿度によって木が膨張と収縮をくりかえすのは、しごく当然のことだ。だから、よっぽど不便や不安を感じなければ、何もしないことにしている。

forest61-2.jpg・とはいえ、日照不足は極端で、ソーラー式で人が近づくと点灯する夜間照明がまったくつかなくなってしまった。実は最近買い換えたばかりなのだが、夜、帰宅してもついてくれない。で、ソーラーの場所を一日中日の当たるところに変えることにした。
・日照不足の影響は、近所の田んぼにも出ている。稲の葉がまだらに黄色くなって、小さな虫がびっしりついている。いもち病なのだろうか? ここ数日は、太陽が出るようになったから、持ち直すのだろうが、何年か前にあった米不足の再来を思いだしてしまった。

forest61-4.jpg・例年なら連休明けぐらいに形がはっきりする農鳥が6月になってもあらわれなかった。いつまでも富士山に雪が降ったせいだが、夏の登山が解禁される7月1日にあわせて、あまり聞いたことがない雪かきもやったようだ。7月の半ばになっても、富士山には雪が沢山残り、農鳥が「ひよこ」程度に見えた。もちろん、こんなによく晴れた日は数えるほどである。農鳥が田植えどきにあらわれない年は天候不順で凶作。気象庁の「今年は猛暑」などという長期予報より、よっぽど信憑性のある、昔からの言い伝えだ。

forest61-3.jpg・こんな季節になっても、山には食べ物が乏しいのか。あるいは里に出ることが習慣になってしまったのか。猿の群れが付近を徘徊するのをよく見かけるようになった。ぼくは仕事で留守をしていたが、一度はわが家に押しかけて、木を揺すり、屋根を飛びまわり、おもけに白樺で作った犬の首をもぎ落としていった。本物の犬とまちがえたのだろうか。3匹が襲撃され、2匹は修復したが1匹はダメ。白樺は油分が多いせいか、腐るのも早い。コルクのようなすかすか状態で、釘がささらないほどだから、いずれまたバラバラになってしまうだろうと思う。

forest61-5.jpg・雨ばかりの7月とはいえ、ここ数日、やっと夏らしい天気になり始めた。東京に行くと熱風のような暑さにうんざりするが、河口湖では、太陽の日差しが懐かしい。もう終わりに近いラベンダーがよく匂う。すっかり湿っぽくなった家を開け放って、湿気を飛ばしている。
・秋に出版予定の本『ライフスタイルとアイデンティティ』の初稿が届いた。世界思想社の校正は例によって、細かくて厳しい。逐一、悩みながら直していくと、とても数日で片づけることはできない量だ。

2007年7月23日月曜日

Ry Cooder "My Name Is Buddy"

 

ry1.jpg・ライ・クーダーの"My Name is Buddy"はジャケットが絵本になっている。猫のバディが住み慣れた村を離れて旅に出る話だ。相棒はネズミのレフティで、二匹は村を通る線路で待って、貨物列車に乗り込む。旅が、アルバムに収められた曲の順番で進んでいく。20世紀初頭のアメリカの話である。
・炭坑町で下車すると、坑夫たちがストライキをやっている。安全と賃上げを求めて歌う人たち。そこに警官がやってきて、みんなを牢屋にいれてしまう。だけど歌声はやまない。歌うことが危険だったときで、ジョー・ヒルが殺人罪で不当に処刑された。
・二匹はそんな出会いをしながら旅を続ける。誰もが貧しく、不条理な生活を強いられている。「団結」がみんなを鼓舞する新しいことばとして登場し、集まりにはかならず歌があった。アメリカにフォーク・ソングが生まれた時代である。

・ディランやスプリングスティーンを初めとして、アメリカのミュージシャンにポピュラー音楽を原点に帰って見直そうという流れがある。ライ・クーダーのこのアルバムにも、そんな志向が強くうかがえる。それを猫の物語にして、絵本のような装幀にしたのは、なかなかしゃれた発想だと思う。ピートとマイクのシーガー兄弟も参加して、サウンドも原点そのまま、きわめてシンプルである。

ry4.jpg ・ぼくがライ・クーダーを知ったのは喜納昌吉の「ブラッドライン」が最初だった。デビュー作の「ハイサイおじさん」とは違って、ハワイで録音されたせいかアメリカ的なサウンドになっていて、そのギターが小気味よかった。
・録音は80年で、ぼくはLPレコードでしか持っていない。久しぶりにかけるとざらざらとかなり痛んでいる。たぶんよく聞いた一枚なんだと、あらためて思った。ライ・クーダーの参加に特に興味を覚えたわけではないが、今にして思えば、ライが昔からさまざまな音楽に興味をもっていたことがわかる。そういえば、"My Name is Buddy"のなかには、沖縄を感じさせるメロディの歌がある。バンジョーを蛇皮線のように鳴らして、ホームレスが住む「段ボール通り」を歌っている。

ry2.jpg・ライ・クーダーについての印象は、ヴィム・ヴェンダースが監督した『パリ・テキサス』(1984)のサウンドトラックが強烈だ。放浪癖のある男と失踪した妻、そして置き去りにされた幼児。売春宿かストリップ小屋のマジックミラー越しに話をする二人。パリとは名ばかりの、乾いて荒れたテキサスの風景に、独特のスライド・ギターの音が鳴り響く。僕は今でも、時々、このギターの音が聴きたくなる。
・ただし、ライ・クーダーといえばスライド・ギターという印象が僕の中にはずっとあって、何枚か買ったアルバムにそのサウンドがなくてがっかりしたことが何度かあった。で、半ば忘れていたのだが、ヴェンダースと一緒に作った『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』で、また驚かされた。

ry3.jpg・『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』は全編、キューバの音楽で溢れている。キューバ以外ではほとんど無名の老ミュージシャンたちが作り出す、生き生きとして熱い音楽で、ライ・クーダーが旅行した際に出会った人たちだ。それをヴェンダースがドキュメンタリー映画にした。
・「音楽は国籍や言語を越える」とはきわめて安直につかわれるセリフだが、ライ・クーダーには、あらゆるボーダーを超えていいものをみつける音楽的嗅覚がある。"My Name is Buddy"が越えるのは、時の経過と音楽状況の変化がつくったコマーシャリズムという壁だ。そこには、虚飾を取り去った時に聞こえてくる音とことばがある。

2007年7月16日月曜日

トクヴィルとアメリカ

 

トクヴィル『アメリカの民主政治・上中下』講談社学術文庫
宇野重規『トクヴィル平等と不平等の理論家』講談社選書メチエ

journal1-101-2.jpg・トクヴィルを読むとアメリカのことがよくわかる。くりかえし言われてきたことだが、最近あらためて実感している。そのキーワードは「自由」「平等」「自立」、そして「分権主義」。「ライフスタイル論」を書くために昨年、トクヴィルの『アメリカの民主政治・上中下』(講談社学術文庫)を熟読した。部分的には以前に読んだこともあったし、アンドレ・ジャルダンの『トクヴィル伝』 (晶文社)などの伝記は読んで、おおよそは知っていたのだが、『アメリカの民主政治』を読みながら、そこで指摘されているアメリカやアメリカ人の特徴が、現在にも通じたもっとも根本的なものであることを痛感した。

・アメリカは移民によってできた国で、ヨーロッパの国とは違って、それ以前の歴史をもっていない。だから、アメリカの歴史は出発点が明確で、「説明できない一つの意見も、一つの習性も、一つの法律も、一つの事件もない」。移り住んできたのは、祖国では実現できない理想をもった人、宗教的な迫害を逃れた人、そして貧困からの脱出を求めた人たちで、だからこそ、何より「自由」「平等」「自立」の精神が大事なものとされた。そのような意味でアメリカは、白紙の状態から「理想」を設計図にして偶然生まれた国にほかなならない。
・トクヴィルがアメリカを訪れたのは1830年で、彼はこのとき25歳だった。わずか半年あまりの旅行体験で彼が感じとった特徴は、その後の歴史はもちろん、現代のアメリカやアメリカ人にも強くみられるものである。というよりは、アメリカがたどった軌跡や現代のさまざまな局面でみられる発想や行動をトクヴィルの視点から解釈すると、何ともすっきりと合点がいく。
・それは、当のアメリカ人にもいえるようだ。『アメリカの民主政治』は、誰よりアメリカ人によって読まれ続けてきた。それはこの本が、アメリカ人に、アメリカの原像や建国の精神を思いださせ、何よりその自尊心をくすぐるノスタルジックな姿を感じさせてくれるからだ。もちろんそこには、古き良きアメリカが失われつつある、という危機感があって、その意識には右や左の区別もないようだ。

journal1-101-1.jpg/・宇野重規の『トクヴィル平等と不平等の理論家』は、トクヴィルのアメリカ論、デモクラシー論が、ヨーロッパ、とりわけフランス人に向けて書かれたものであることを強調している。近代以降の世界の流れが「デモクラシー」という概念を通して展開されてきたとすれば、アメリカ以外の場所では、むしろそれ以前の社会制度や人びとの中に染みこんだ習慣とのかねあいや軋轢が問題になる。だから、なにより大事なのは、「アメリカの制度や発想をアメリカ以外の場所に移し替えるとき、それらを支える諸条件があるかどうか、またそれがないとしたら、他の条件によっていかに代替するかを検討しなければならない」ということになる。
・トクヴィルが言いたかったのは、アメリカの民主主義が、あくまで一つの特異な形態だ、ということだった。それを知ってほしかったのは誰よりフランスをはじめとしたヨーロッパ人たちだったのだが、『アメリカの民主政治』はつい最近まで、フランスでは忘れられた存在だったようだ。他方でアメリカでは、自国の歴史を知る必読書として親しまれ続けてきた。そして、その読み方には、トクヴィルの意図が抜け落ちている。「一つの特異な形態としてのデモクラシー」。アメリカ人にこのような意識が欠けているのは、ブッシュ大統領がフセインにしかけた戦争が「イラクに民主主義を実現する」といった大義名分のもとに行われたことからも容易にみてとれる。

・とはいえ、20世紀後半の世界の趨勢は、政治や経済はもちろん、社会や文化の面でも「アメリカ化」という色彩を色濃くしたもので、それは 21世紀になっても変わっていない。世界の警察国家として、デモクラシーの伝道者として、市場経済の煽動者として、映画や音楽、あるいはスポーツやファッションの発信者として、アメリカはますますその力を強めている。それを今支えるのは、ネット社会の拡大や強大化だが、それはまた、きわめてアメリカ的な「理想」や「野心」から生まれ、発展したものである。

・ネット社会をトクヴィルの視線を通して見つめ直してみる。僕の夏休みのテーマである。

2007年7月8日日曜日

フラガール

 

・ゼミの学生にさまざまなテーマや書き方を指定して作文を書かせている。その中に、最近の邦画人気を話題にしたものがあった。2006年度の興行収入が洋画を越えたことが書いてあって、ちょっと信じられない気がして質問すると、ネットで探したという。出所はきちんと書くようにと指摘したが、さっそく自分でもグーグルしてみた。
・「日本映画製作者連盟」によると、邦画のシェアが最低だったのは2002年で27.1%、それが2006年度に逆転したというのだから、確かに、急激に盛り返していることになる。原因はテレビ局が制作していること、シネコンなど上映館が確保されてきたこと、観客のニーズをつかむ努力をしていることなどのようだ。ただし、映画観客自体がふえたわけではなく、興行収入の総額は横ばい状態だから、アメリカ映画に飽きたことも大きな理由になっているようだ。
・2006年度の興行収入1位は「ゲド戦記」で、そのほかドラえもんやポケモンなどのマンガが並んでいる。僕がみたものというと「THE有頂天ホテル」だが、笑いネタが上滑りしてちっとも面白いと思わなかった。しかし60億円の収入で3位というから、ちょっと驚いてしまう。邦画が元気といってもこの程度か、などといいたくなるが、面白いものもたしかにあった。
journal3-88.jpg ・「フラガール」は福島の常磐炭坑が舞台になっている。僕は、パートナーが近くの出身ということもあって、「ハワイアンセンター」には何度か出かけている。だから、懐かしさもあったし、その誕生の経緯自体にも興味を覚えた。付近にはもともと温泉があるし、広い館内を常夏にする石炭も豊富にある。きわめて合理的な発想だが、炭坑からハワイアンセンターへの転換は、当時としては奇抜だから、ずいぶん反対も強かっただろうと思っていた。
・映画は、そんな炭坑の閉山と娯楽施設への転換をめぐる、関係者の対立を中心に話を展開させている。抗夫やその家族のなかには別の炭坑に仕事場を求める者もいる。しかし、この地にとどまるかぎりは、別の仕事をしなければならない。映画では、そのとまどいや不満が、若い娘たちを集めて踊り子チームを作るプロセスに焦点を合わさて描かれている。「結婚前の娘に裸踊りなどさせるわけにはいかない。」そんな意見に、一度手を挙げた娘たちのほとんどがやめざるを得なくなる。で、最初は、落ちぶれて都落ちしたダンサーと素人娘たちの絶望的なほどにまとまりのない練習からスタートする。
・話は紆余曲折があって、何とか開場にこぎ着けてめでたしめでたしとなるのだが、映画を見た後で、あらためて、このあたりの地図や、閉山と開場のいきさつ、あるいはその時代(昭和40年前後)のことが知りたくなった。映画には当時を感じさせる風景が随所に登場した。しかし当然だが、ロケ地は 1カ所ではない。「映画『フラガール』を応援する会」のサイトには撮影場所を記した地図が載っていて、いわき市やその周辺をあちこち探し回ったことがよくわかる。映画やテレビは、それらしく感じられるものを求めて嘘をつく。それはドラマに限らずドキュメンタリーでも変わらない。もちろん、そのこと自体は非難されることではない。
・常磐炭坑は戦時中にでき、京浜工業地帯にもっとも近いところにあったから、50年代には活況を呈した。しかし、硫黄を含んでいて質は悪く、炭層が掘りにくく、温泉が大量に噴出するなどしたから、石炭需要が石油への転換で減り始めると、将来の見通しに陰りが見えるようになる。「ハワイアンセンター」の開場は1966年で、その意味では、いち早い転換を象徴するものだが、それで抗夫の多くが職替えできたわけではない。むしろ大多数は、茨城県から福島県にかけての新産業都市、東海村やそのほか数カ所の原発施設などに吸収されている。
・その意味では「フラガール」はことの一部だけ捉えたロマンチックな物語だといえる。とくに夕張市の財政破綻といった現状と同時期に上映されたから、常磐炭坑の決断の確かさがいまさら強調されもする。けれどもそれはまた、石炭の質の違いや大都市との距離の違いにこそ、大きな原因があったはずで、戦後の日本がたどった東京への一極集中や、経済大国化がもたらした二つの局面のようにも見えてくる。
・もちろん、こういったことは、映画のおもしろさを減じさせるものではない。面白いと感じたからこそ湧いた興味や疑問。今はもう義母も死んで、知っている人はだれもいないけれども、もう一度「ハワイアンセンター」(スパリゾートハワイアンズ)に行ってみたい気にもさせられた。

2007年7月2日月曜日

河口湖と七福神


・漫談家の綾小路きみまろは富士河口湖町の特別町民である。住まいは僕の家の近くにあり、住民登録もしているようだ。彼は2004年度の山梨県長者番付で2位になっている。河口湖町にとっては福の神で、財政面でも話題づくりの面でも貴重な人となっている。
・そんな重要人物が最近、所有している銅製の七福神を町に寄付して、町議会を混乱させている。町長はその寄贈物を公開するために、新たな施設をつくることを考えたのだが、町議会で政教分離の原則に反するという批判が出て、否決されたのである。
・七福神の寄贈や、それを展示するための町の施設づくりを、政教分離を理由に反対するのは奇妙だが、怒った町長は、これまで慣例として行われてきた富士山の山開き神事や河口湖湖上祭の水難供養などの神事や仏事にも、金も人も出さないことにすると反撃したそうだ。特別町民である人気タレントの善意の寄贈がとんだ問題を引き起こしている。報道されたところでは、当のきみまろも困惑しているという。

・この問題をどう考えたらいいか。町政は今、そのことで混乱しているが、僕は当事者全員に対して、腹立ちというより呆れの感想を持っている。だいたいきみまろは、なぜ河口湖となんの関係もない七福神を町に寄付しようと思ったのだろうか。そして町長はなぜ、それを、施設をつくって展示をしようとしたのだろうか。あるいは町議会はなぜ、政教分離などという奇妙な反対理由を出したのだろうか。河口湖町には富士浅間神社がいくつかあり、富士山や河口湖とは切っても切れない関係にある。年中行事に町が深く関与してきたことを考えれば、おかしな理屈であることはわかっていたはずである。
・議会は町長の提案に対して、富士山や河口湖と七福神は無関係だから展示する意味はない、といえばよかったはずである。観光地として魅力あるものにするためには、何よりイメージが大切で、七福神を飾るのはくそも味噌も一緒の発想だ、といえばよかったのである。そう言えない理由は、人気者で高額納税者であるきみまろに遠慮した以外の何者でもない。同様の遠慮は、おそらく町長の対応にも大きく影響したはずである。だとすれば、きみまろは「困惑」などといって町の対応のせいにするのではなく、自分の行為のとんちんかんさを反省して、寄贈をやめるべきだろう。特別町民などとおだてられて天狗になっている。そんな批判が強くなる前に、「ちょっと冗談が過ぎました」といって取り下げるのが、笑いを売り物にする人の対応としては懸命のように思う。

・彼は、最近、美術館などが建ち並ぶ湖北の観光スポットにグッヅや焼酎を売る店や焼き肉レストランを出した。河口湖に七福神がふさわしいのなら、自分の店に展示すればいい。しかし、そんなことをしたら、店のイメージが台無しになる。何しろ彼が店を出した地区は、河口湖美術館、オルゴール美術館、久保田一竹美術館などが並び、小ホールなどもあるきわめておしゃれな地区にあって、それなりに工夫した雰囲気を売り物にしているのだから。
・町長は長年、河口湖の観光地としての魅力づくりに手腕を振るってきた人である。次期には立候補をせず引退をするようだ。彼の任期中にできた施設を見渡せば、彼が河口湖周辺をどのようなイメージで作りかえようとしてきたかがよくわかる。その成功は、他の観光地化をめざす自治体の手本にもなっているようだ。
・観光地であれば、一つの明確なポリシーを打ち出して、それに沿ってイメージを作り、環境を整備する。もちろん、個々の施設だけでなく、全体の景観にも注意をめぐらす。河口湖にはまだまだ余計なもの、ちぐはぐなものが目につくが、よそよりはかなりましな町づくりをしてきたことは感じられる。
・きみまろ御殿は富士山と河口湖を見おろす高台にある、彼はその景色に惚れて、そこに家を構えた。であれば、自分をその自然にとけ込ませるようにすることが大事であって、異物のように悪趣味に目立たせてはいけないはずである。

P.S.
・一度否決された提案が再提出され、今度は承認されたようだ。
・いま、河口湖はラベンダーの花盛りで、それを見にやって来る人たちでにぎわっている。富士山と河口湖とラベンダーを一望できる大石の自然生活舘は見事だが、そこで同時に数年前から「花のナイアガラ」という奇妙なイベントが行われている。プランターを階段状に摘んだものなのだが、目立つのはプランターばかり。「関東最大の花のナイアガラ」と書いた看板が湖畔中にたてられているが、「関東最悪の花のナイアガラ」と読み替えたくなるほど趣味が悪い。せっかくのラベンダーが台無しで、こんなセンスで七福神を飾られたらと思うと、ぞっとしてしまう。やれやれ………

2007年6月25日月曜日

学生のブログ


・2年生のゼミでは、毎年、ホームページをHTMLで作成させてきた。今年は大学のサーバーに "Movabletype"がはいったので、とりあえず、HTMLの基本を練習した後で、ブログをつくらせることにした。手順は大学の指定の頁に書いてあって、それに沿ってやればいいのだが、早い学生もいれば遅い人もいて、なかなか次に進めず、公開するまでに何時間もかかってしまった。
・責任はもちろん僕にもある。去年の秋に、現4年生と一緒に、ブログの作成をはじめたのだが、それから半年たって、基本的な手続きを忘れてしまっていた。だから、手順をうっかり一つ飛ばして指示、なんてことがくりかえされた。ブログは既成のサイトを利用すれば簡単にはじめられるが、 "Movabletype"はむずかしい。それでもちろん、ブログの仕組みの一端が理解できたりもするのだが、頻繁にやる設定の変更箇所を除けば、たいがい一度かぎりだから、すぐに忘れてしまう。

・それはともかく、学生に自分のサイトを作らせると、それなりにおもしろがるし、興奮もする。HTMLで適切に指示すると、意図した通りの頁が表示される。背景の色、文字の大きさ、文章の位置、それに画像とやっていくと、はまってしまう学生も何人か出てくる。その様子とつきあって、もう10 年以上続けてきたが、ブログにすると、そこにコメントのやりとりという楽しさが加わって、ホームページ以上に、学生は興味をもったようだ。
・カウンターをつけて訪問者数がわかるようにしたから、それを励みにせっせと更新したり、他の人のブログにコメントを書きこんだりする学生がいて、一度つくったら大半がそのまま、という昨年までの学生のホームページとは、あきらかに違うことがわかった。学生たちにとって、ネットの魅力が表現よりはコミュニケーションにあることが、あらためて確認できた気がした。実は2年生のゼミは、もうひとつ、課題を出して文章を書かせ、それにコメントをつけて書き直しをさせるという作業もやっている。「その文章をブログで発表してもいいんだよ」と言ったのだが、公開しようという学生は出なかった。自信がない、あるいは単に恥ずかしい。理由はいろいろあるだろう。

・もちろん、学生たちは、文章力を身につけたいと思っている。見たこと聞いたこと、感じたこと、考えていることなどを、どうしたら的確に文章に表現することができるか。しかし、そもそも「なぜ」書きたいのか、「何」を書きたいのかという問いかけには、首をかしげて黙ってしまう学生が少なくない。特に主張したい、表現したいことや理由はないけれども、何かを書いてはみたい。そんな欲求は当然、表現よりはコミュニケーションの方に関心を向かわせることになる。だからブログなのか、と思うと、学生たちのやる気も合点がいく。
・たがいにコメントをつけあうと、それが励みになって、また更新する。だけどこういうパターンだと、自己主張の少ない、当たり障りのない話題だけがやりとりされがちになる。もっとも、ゼミで一緒になったばかりの学生たちは、おたがいに自発的に話しあうことがほとんどないから、ゼミ内での関係を促進する役割はあるだろう。

・一方、院生たちもブログをやり始めて、こちらはせっせと勉強の成果などを書くようになった。論文を書き、学会発表をする。本を書いたり、これから書こうと準備している人もいるから、表現活動は、いわば自分の存在証明や自己確認の行為で、僕も前からせっついてきたのだが、やっとやるのがあたりまえという状況になった。中には長文を毎日更新、なんていう学生もいて、しばらく見ないと読むのに一苦労なんてこともある。
・で、コメントは、と見ると、やっぱり仲間同士がほとんどだ。たがいに感想を書きあって、やる気を刺激しあう。そのことはもちろん悪くはない。しかしそれなら、顔をあわせてゼミや勉強会でやっていることと変わらない。直接ではなく、ブログという場では、ちょっと違うやりとりができるのだろうか。
・ブログとは不特定少数に向けた表現やコミュニケーションの呼びかけではなく、特定少数に向けたもの。学生たちのブログを見ていると、そんな特徴を強く感じてしまう。

2007年6月17日日曜日

松本でアイリッシュ音楽を

 

The Chieftains

chieftains1.jpg・チーフタンズはアイルランドを代表するケルト音楽のバンドで、ぼくも何枚かアルバムをもっている。その6年ぶりの来日公演のスケジュールを見つけた。東京や大阪の他、各地で9回のコンサートが予定されていた。東京だけだったら、今回も、行きたいけど、ちょっと面倒、と思ったはずだ。しかし、中に「松本市民芸術館」という日程を見つけて、その気になってしまった。6月9日(土)6時半開演、 6500円で、東京より2000円も安い。
・ロックの有名どころなら、最近では大都市だけでしかやらない。しかし、それほど有名でなく、しかも若い人だけが相手というのでなければ、結構、地方でもやっている。あらためてそんなことに気がついた。たとえばチーフタンズは今回、東京で2回、大阪、福岡、広島で1回の他に、愛知の長久手町、岐阜の可児市、茨城の筑波などでもやっている。客が集まるのか疑問だが、これまでの来日でも、全国の地方都市でやってきているようだから、それなりの目算はあったのだろうと思う。

marumo.jpg・開演は6時半だから、朝家を出て、八ヶ岳や諏訪湖に立ちよって、のんびりドライブしながら夕方松本へ、と考えていた。しかし、朝起きると雨。天気予報は局地的な大雨や落雷に注意と言っている。チケットは当日でも買えたが、念のためにと前日に電話で予約をした。席の様子だとあまり売れていないようだ。行くのも一苦労、となるのではと心配をしたが、高速道路の様子を確認して昼過ぎにでかけた。幸い雨はたいしたことなく、4時前には到着して、傘をさして市内を散策した。この街を歩くのは久しぶりで、ずいぶん変わったと感じたが、学生の頃に入ったことがある民芸喫茶の「まるも」は、たぶんそのときとほとんど同じだった。ここで珈琲を一杯。

morrison3.jpg・チーフタンズの存在を知ったのはヴァン・モリソンの "Irish Heart Beat" を通してである。北アイルランドのベルファスト出身のヴァン・モリソンが1988年に出したアルバムで、トラディショナルにチーフタンズのバックというのが、それまでのアルバムとはずいぶん違う趣で、驚いたが新鮮な感じもしたのを覚えている。ただし、何度も聞きかえしているうちに、それはやっぱりモリソンのアルバムそのものになり、同時に、ケルト特有の楽器や節回しにも馴染むきっかけになった。
・ちなみにアイルランド紛争が沈静化しはじめたのは1997年以降だから、アイルランドのチーフタンズと北出身のモリソンが一緒になって、トラディショナルを歌っているというのは、強いインパクトを与えたのではなかったかと、今さらながらに思ってしまう。

chieftains2.jpg・コンサートにはメンバーが全員そろわなかった。2002年に死んでいる一人は別にして、二人が体調不良で、創設時のメンバーでリーダーのパディ・モローニのほかに、中途参加の2人だけ。その代わりに、補充メンバーと若い二つのバンドがサポートした。アイリッシュダンスを披露したし、日本人の林英哲の和太鼓や元ちとせの歌など盛りだくさんで、決して多くはない会場の観客たちを盛り上げた。
・チーフタンズはよく、アルバムの共演者の豪華さによって評価されることが多い。ライブでもそのことは意識されていて、スティングやローリング・ストーンズ、それにもちろん、ヴァン・モリソンの名前を挙げて、それぞれの曲を演奏し、歌った。盛りだくさんにちょっとうんざりしたけれども、モリソンと共演した "Oh, shenandoah" が聞こえたときには、わざわざ松本まで来た甲斐があったと思った。

chieftains3.jpg・チーフタンズのアルバムで一番好きなのは "Santiago"。タイトルはスペインの北西端にある巡礼の地の名前である。フランスからピレネー山脈を越えてイベリア半島を横断する。このアルバム自体もそういう行程にそって曲目を選んでいる。スペインとアイルランドというとフラメンコとケルトの合体のように連想しがちだが、けっしてそうではない。ケルト人は古くはヨーロッパ中にいて、現在でも、スペインにはケルト系の人たちが住むところがいくつもある。バグパイプに似たガイタという楽器も使われていて、アイリッシュとはひと味違う、変わった雰囲気が出たアルバムになっている。
・たぶん、このアルバムからも1曲演奏したと思う。しかし、残念ながら、サンチアーゴの雰囲気は味わえなかった。やっぱりメンバーや場所が大事。聞きながら、ダブリンで偶然出会ったコンサートでの感激を思いだしてしまった。しかし、東京ではなく松本で聞いたのは正解で、闇夜にうっすら浮かぶ山なみや夜景を見ながら、ipodでもう一回、余韻をじっくり楽しむことができた。