・アーヴィング・ゴ(ッ)フマンは、ぼくにとって特別の社会学者だ。彼の本に出会わなければ、全然違うテーマを考えていただろう。と言うよりは研究者になっていなかったかもしれない。それだけ強い影響を受けた人だった。
・ゴフマンは人びとのコミュニケーションを対面的な状況に限定して考えた。人と人が出会っているとき、そこでは何が行われているのか?そのありふれた場面を独特の用語を使って微細に描写した。「気取り」「謙そん」「嘘」「冗談」あるいは「面子」や「体面」。日常の生活は演劇的要素に満ちていて、しかも、人びとはそれを隠蔽しようとする。大人社会の偽善さに嫌悪感をもっていたぼくには、「ほら見ろ、やっぱり」という思いがした。「社会学は現実の暴露だ」と言ったのはピーター・バーガーだが、そのことを実感として理解させてくれたのはゴフマンだった。
・ぼくは30代に二つのテーマをもった。一つは、男女(夫婦)や親子、友人・知人・同僚といった直接的な人間関係、もう一つは、メディアを使った個人的な関係。前者は『私のシンプル・ライフ』、後者は『メディアのミクロ社会学』(ともに筑摩書房)という形になった。そのどちらも、理論的な土台に据えたのはゴフマンである。しかし、それ以降少しずつ、彼はぼくにとって遠い存在になっていった。周辺でもあまり話題にならなくなった。死んでしまって新しい著作が出なくなったせいかもしれないし、また、社会が演劇的な要素で満ち満ちてしまって、説得力をなくしてしまったのかもしれない。40代のぼくの関心もパソコンとポピュラー音楽になった。
・しかし、この本を見かけたとき、読んでみたいという気持ちを強く感じた。決して懐かしさばかりではない。何となく中途半端で放ってしまっていたテーマが最近気になり始めてもいたからだ。で、読み始めるとすぐに「ゴフマンの著作は自伝である」という文章に出会った。ぼくは『私のシンプル・ライフ』を自分の経験を材料にして書いたが、下敷きにしたゴフマンの本には、彼の素顔らしいものはほとんど出ていない。そのことにほとんど気づきもしなかったし、違和感ももたなかった。彼の書いたものの中には、あたかもぼく自身や周囲の人間が登場しているかのように感じられた。
・ヴァンカンは自伝である理由として「ゴッフマンは『社会構造の中で彼が占めていた位置を作品の中で数限りなく再現している』と仮定することができる」と書いている。ゴフマンはその仕事を通して、日常生活の中で自己を演出することに懸命になる人びとの仮面を剥がしただけでなく、その登場人物にいつも自分自身を配役していたというわけだ。おもしろい見方だと思って一気に読んだが、最後が次のような指摘で終わっていることにはあらためて、やっぱりそうかという気がした。
比較にはややもすれば不当な単純化の危険がつきものである。それは間違いないことだ。 しかしわれわれはゴッフマンにアメリカ社会学の一種のウッディ・アレンを見ずにはいられ ない。似たような体つき、民族的な出自も社会的出自も同じで(あるところまで)自伝的な 諸作品。いずれも多作で、作風は独創的、知的でしかも自分の属する世界を超えて多くの人 びとに受け容れられている。両者ともに深刻に悲愴である。P.134
・この本の後半は著者によるゴフマンのインタビューになっている。死の2年前に行われたものだ。その語り口は、彼の文章に感じられるのとは違って、きわめて正直で誠実なものである。しかし、ぼくはそれを意外な一面としては感じなかった。日常生活を正直な目で見て、誠実に描写する。ゴフマンの世界の信憑性は、何よりそこから生まれているのだから。