・片道100Kの道のりを毎週2往復、高速道路で通勤している。だいたい1時間半。風景はほとんど山で高低差は750M。かなりの坂道とカーブで運転そのものもおもしろいが、やっぱり音楽も欠かせない。で、出かける前にCDを選ぶことにしているが、いつの間にか定番ができてしまった。ブライアン・イーノ、タンジェリン・ドリーム、ピンク・フロイド、キング・クリムゾン………。つまりプログレやアンビエントばかりになった。中でも、イーノは山の風景にあっているし、タンジェリン・ドリームは河口湖にぴったりだ。さすがにくりかえし聴くと飽きてしまうが、CDはいつでも持っている。運転しながらふと聴きたくなるからだ。そうそう、大事なのを一つ忘れていた。マーク・ノップラーの映画音楽。これは何度聴いても飽きないからいつでも持ち歩いている。 ・去年1年間は新幹線で通勤した。そのときも、MDウォークマンが必需品だった。新幹線の中での読書をしながらの聴取。ただしこのとき聴いていたのはヴァン・モリソン、ニール・ヤング、スティング、エリック・クラプトン………。同世代でがんばっているロック・ミュージシャンばかりだった。もちろん音楽の好みが急に変わったわけではない。以前から僕はどちらも好きだったし、家ではどちらも聴いている。変わったのは聴くシチュエーションで、その聴きたい音楽の変化に僕自身が驚いている。 ・たとえば、長い会議が終わって夜更けの新幹線に腰を落ち着ける。東京の夜景を眺めながら京都までの2時間半。くたびれた心身を癒してくれるのは誰よりヴァン・モリソンやニール・ヤングの声だった。そのとき視線はほとんどの場合活字を追っていた。それが高速道路では、声がじゃまな感じになる。シンセイサイザーが作り出す機械的な自然音。それがフロント・ガラスに映る風景にぴったり合う。あたかもその風景が自ら発している音であるかのような錯覚。 ・もちろん新幹線でも景色は眺められる。しかし、それはすぐに飽きるから、窓の外に視線を向けるのはほんのわずかになってしまう。高速道路も何往復かすれば、風景はなじみのものになる。しかし、フロント・ガラスから目をそらせるわけにはいかない。道路状況は刻一刻変化して、それにあわせて加速、減速、車線変更とめまぐるしく対応する必要があるからだ。新幹線では風景は見ても見なくてもいいもの。しかし高速道路では道路状況とその背景にある風景は必ず見ていなくてはいけないもの。 ・新幹線で本を読んでいるとき、頭はもちろん、本の世界に入りこんでいる。新幹線の中にいる僕は、同時にそこにはいない。景色ばかりでなく、隣に座っている人も前や後ろの席の人も、全く無視することができる。一方、車で運転をしているときは、周囲を無視することは片時もできない。頭は、持続性のない偶発的な想像力にまかせることはあっても、半ば反射的に道路状況に反応しっぱなしだ。そのせいか僕は運転しながら「どんくさいな」とか「あぶないな、あほ」とか「へたくそ」といった独り言をよくつぶやいている。新幹線と車の違いは、今自分がいる状況への取り込まれ方、あるいは関与の度合いの仕方の違いなのだろうか。 ・歌はことばによって歌われる。ことばには意味があり、歌にはそのことばにそった情感が付着する。歌い手の声の肌理(きめ)。それを味わうには散漫な聴取では十分ではない。他方で音楽は音の質やメロディ、あるいはリズムによって構成される。それを集中して聴くことはもちろんあるが、ことばがない分だけ、散漫な聴き方をすることもできる。 ・僕はたぶん新幹線の中で周囲の状況から離れるために歌を聴いていたのだと思う。そして、車の中では、周囲の状況に集中するために音楽を聴く。だから車の中で聴くのはメッセージのない風景と溶けあった音がいい。ピンク・フロイドは時に自己主張が強すぎると感じることがあるが、ブライアン・イーノやタンジェリン・ドリームはまさにぴったりだ。もっとも、どういうわけか、僕は自分の部屋で昼寝をするときにもイーノを好んでかける。すーっと夢の世界に入り込めるからだが、運転しているときにはそうではない。状況への関与の仕方と音楽の種類。これは考えてみればおもしろいテーマだと思う。
2000年6月12日月曜日
2000年6月6日火曜日
テレビと広告
・山間の家だから、テレビの映りが悪い。これは不便と思ってアンテナを高くあげたがほとんど改善されなかった。ケーブルテレビも調べたが、えらく高い加入費を取るし、ハイビジョンは見られないと言う。普及率が低くて経営状態はよくないようだ。インターネットへの接続サービスをしていれば、それでも加入をしたのだが、その予定も今のところまったくないらしい。しかし、BSアンテナをつけてもらうと、これはきれいに見えた。で、まあ、これでもいいかということにした。
・だから、当然、テレビを見る時間は減った。週末はカウチ・ポテトでテレビということが多かったのだが、引っ越してからそんな時間の過ごし方をほとんどしなくなった。天気が良ければ外に出ているし、夕食も焚き火の前でしたりする。映りの悪い画面を凝視する気にはなれないから、ステレオでテレビの音声だけ流したり、CDをかけたり。いつの間にか、BSで映画を見ようという気もなくなってきた。
・見なければ見ないで、別にどうということもない。今更ながらに、テレビ視聴が習慣的行動であったことを実感した。実は新聞も引っ越してから朝刊だけの配達になった。しばらくは夕方新聞がこないことに物足りなさを感じたが、慣れてくると、これもどうということはなくなった。と言うより、かえって、朝夕刊をまとめたほうが読みごたえがあっていいと思うようになった。何より広告紙面が少ないのがよい。BS以外はほとんどテレビを見なくなって気がついたのも、やっぱり、CMにふれなくなったことで、改めて広告って何なのか考えてしまった。
・そんな僕の生活環境の変化とはもちろん無関係だが、テレビ放送会社が軒並み増収増益になったそうである。民放の収入源はいうまでもなく広告である。長引く不況の中、景気の回復をテレビによる宣伝にかけようという企業が多いのだろうか、中には前期比で60%増の利益をあげた局もある。シドニー・オリンピックで今年はさらに増収が見込めるそうだ。まさにテレビ頼みの時代のようである。
・マスメディアとしての放送はもちろん、ラジオが先だが、ラジオとは無線を一方向の情報伝達手段に限定したメディアのことである。双方向の送受信ができる技術をわざわざ一方向に限定して、不特定多数の人に受信装置だけをもたせる。その普及を可能にしたのは番組として提供されたニュースや娯楽だし、それに対してお金を払わなくていいというシステムである。ただで、楽しい時間が過ごせる、あるいは役に立つ情報が手に入る。マスメディアとしての放送が大衆消費社会の幕開けと時期を同じくしているのは単なる偶然ではない。そして、テレビはラジオの手法をそのまま踏襲して、ラジオをしのぐ巨大なメディアになった。この意味ではラジオもテレビも、その使命は何より広告による消費の刺激にあった。だから、不況の時にテレビが儲かるのは当たり前のことなのである。
・メディアが広告に頼ること自体を批判するつもりはない。けれども、最近の民放の景気の良さの裏には、広告収入を上げるための人気番組作りだけに励もうとする姿勢が露骨に見えてしまう。『21世紀のマスコミ』を考えるシリーズの中に「広告」に焦点を当てた巻がある。その序文で編者が問うているのは次のような問題意識である。
マスコミがジャーナリズムとメディア文化の健全な担い手であるなら、それは、政治・経済・社会の現実がいくら混沌たる様相を呈していても、そこに埋もれたままでは終わらず、そうした状況を目一つだけでもうえから捉え、相対化する作用を及ぼし、ものごとを批判的に考えるよすがを私たちに提供してくれるはずだ。だが20世紀末において<21世紀のマスコミ>のあり方を展望しようとするとき、いってみればそのような頼りになるマスコミの姿を、私たちは容易に発見することができない。(桂敬一他編著、大月書店)
・ジャーナリズムの不在と、どうしようもなく質の低いメディア文化の中で、広告だけが自己主張をするテレビ。こんなテレビがかなりの視聴率を稼ぐことができるのは、私たちの視聴行動が習慣化して、他に目を向けたり批判的に見たりすることができなくなっているからなのだろうか。あるいは、先行き不安な現実からつかの間でも目を背けたいという意識でもあるのだろうか。しかし、実際には、民放だって安閑としていられない現実が迫っているのだ。
・インターネットが普及してテレビを見る時間が少なくなっているのは間違いない。あるいは日本ではなかなか普及しないが、ケーブルや衛星によるペイ・テレビが近い将来増加することもはっきりしている。情報や娯楽をお金を払って選択して手に入れるのか、広告にまかせて垂れ流してもらうか。テレビは今、そんな分かれ道の前に立っているように思うのだが、民放の好景気は、そんなこととは無関係であるかのように見える。メディアの多様で広範囲な再編成を目の前にして、目先の利害にばかり注目する。全国ネットの総合テレビ局が21世紀に生き残れる保証はどこにもないはずだから、これはもう明らかにバブルである。銀行ばかりを批判している場合ではないのである。
2000年5月29日月曜日
携帯とメール
2000年5月22日月曜日
仲村祥一『夢見る主観の社会学』世界思想社
教員生活を50年してきたが、納得しがたい命令に従うのが嫌いでこの業界に入り、抵抗できる他者には我を通し、妥協の余地ない組織からは身をそらし、「思想の科学研究会」的な勝手連は別として、どのような政治団体にも加わらず、教え子たちにも我が見るところは明言しても好き勝手に勉強せよと励ます式に五つほどの大学を転々としてきた。私はしたくないことをできるだけ回避し、したいことが可能な方へと生活を導いてきたらしい。
「舞台の上だけでなく楽屋裏や劇場の外にもはみ出しての社会学者の個人や自身との、できれば友情もかわしあいたい。そのための自己開示というのが私の思いなのだ。」
2000年5月15日月曜日
森の生活
・河口湖のサクラは東京よりは一ヶ月遅れで満開になった。ソメイヨシノに富士桜。それに山ツツジ、山吹に雪ヤナギ。河口湖町は空き地に花壇を造ることを奨励し、無料で提供しているから、湖畔は本当にいろとりどりの花でいっぱいになった。ゴールデンウィーク期間中は釣り客ばかりでなく、カメラマンが大勢押しかけて、富士山と河口湖と桜の三点セットが撮せる場所が早朝から鈴なりだった。絵はがきのような写真を撮ってもしょうがないのに、と思ったが、それは僕の勝手な感想にすぎないのかもしれない。平日には年輩のカメラマンが目立った。退職後に見つけた趣味としては悪くない。たぶん僕もそのうちにカメラを片手に歩き回るようになるのかもしれない。あるいは五十の手習いでスケッチでも始めてみようか。河口湖にいると、素直にそんな気持ちが首をもたげてくるから不思議だ。
・引っ越しをしてから週末にはほとんど来客がいて、誰もが、都会の風景や日常生活とは違う世界に驚いたようだ。ゴールデンウィークのお客は追手門学院大学で同僚だった矢谷さんほか5人連れ。彼は雲國斉というくさい屋号を持ってお茶の道具をいつでも持ち歩く粋人だが、大学の近くで稲を作ったり、野草を食べる会を催したりもしている。その彼が薪割りの助っ人をするといって、オーストラリアで買ったという大きな斧を持ってきた。薪割りは力仕事で大変だが、もっと面倒なのは倒木を見つけて家まで運んでくることだ。庭の周囲の空き地の木をほとんど取り尽くしてしまったから、車で出かけていって運んでこなければならない。僕は矢谷さんのために湖畔に切り捨てられていた白樺の木を車に積めるだけもってかえって準備をした。
・しかし、白樺をストーブで燃やしてしまうのはもったいない。大汗かいて運んできた僕の苦労など関係なく、パートナーからストップがかかってしまった。客たちも例外なく、鋸で薄切りにして持ち帰りたがるから、斧で割るのは芯の腐ったやつだけにした。だから近くで切り倒したばかりのアカマツとあわせても、薪割りは一日目の数時間ですんでしまった。それでも矢谷さんは満足したようだから、ひとまずは安心。もっとやりたければ、倒木探しから始めましょうと言ったが、やりたいことはほかにもあったから、斧の出番はそれ以後はなかった。
・後は野草の天ぷら。蕗のとうはもう時期遅れだが、たらの芽やウド、みつ葉やこごみが庭先で採取できる。アザミやあけびの新芽も食べられる。矢谷さんの指示で天ぷらの材料を集めたが、7人で食べても食べきれないほどの材料だった。この家の前の持ち主が植えたものもあって感謝、感謝だが、気をつけていないと山菜取りに来た人たちが庭に入り込んでくる。特にたらの芽には注意が必要で、ぼんやりしているときれいさっぱりつみ取られてしまう。前の持ち主の話では、カタクリの花が庭に群生していたのに、いつの間にか根こそぎ持っていかれたそうだ。今年はたった二つだけ花が咲いたが、群生していたらどんなにきれいだったか。腹が立ったが、人のことはいえない。僕だって誰の土地ともわからないところに生えているものを、お構いなしにとってくる。倒木などを見つければ、もう車に積まないではすまされない。
・三日目の午前中に全員で裏山に登った。百メートルほどだが道が一直線についていてかなりきつい。上につくと富士山と河口湖が見える。その景色を見せたいと思ったのだが、尾根伝いに歩くと山椒や黒文字(和菓子などについている太い楊枝の材料になる木)がたくさんある。さっそく矢谷さんの指示に従って何本か根こそぎして、家の庭に植えた。ちょっと頼りなかったが、どうにか根付いたようだ。もし持ち主がいたらごめんなさいという気持ちだが、大きくなれば、庭先で山椒摘みができるようになるし、楊枝も自前で作ることができる。
・客が帰った後、暖かくなったので庭で夕食をとった。するとばさっという音がしてムササビが木から木へ飛び移って、高いところに駆け上がった。一瞬びっくりしたが、やっと出会えたと感激もした。野鳥以外の生き物に出会わないなと思っていたが、冬眠からさめたばかりのでかくて真っ黒なガマガエルも見たし、モグラの死骸も見つけた。うれしいやら怖いやらの複雑な気持ちになったせいか、我が家の同居人は自分で踏みつけた枯れ枝の動きに驚いて悲鳴を上げた。蛇がまとわりついてきたと思ったようだ。その声は山にこだまするほどに大きくて、僕はその声にどきっとしてしまった。
・「森の生活」はH.D.ソローの作品だが、僕は今、毎日の生活を楽しみながら、ソローを読み直して、現代版の「森の生活」を考え、記録してみたいと思い始めている。早ければ夏休み前から、このHPで連載をスタートできるかもしれない。乞うご期待。
2000年5月8日月曜日
最近聴いたCD
Buena Vista Social Club
Force Vomit"The Furniture goes up"
猪頭2000
Fiona Apple"When The Pawn"
・『ストリートの歌』(鈴木裕之)を読んでアフリカのレゲーに興味を持ったが、その後も、関心は世界中を飛び回っている。台湾、シンガポール、インドネシア、そしてキューバ。けっして伝統的な民族音楽に目覚めたわけではない。国や民族や文化の違いを超えて、素直にいいとか、おもしろいと思える音楽に出会っているからだ。とはいえ、自分で見つけだしたわけでもない。学生に教えてもらったもの、集めてもらったものが最近続けて手に入ったのである。
・はじめは「猪頭2000」。大学院の留学生に貸してもらったが、台湾では有名なバンドのようだ。僕は依然に本から仕入れた「黒名単工作室」を聴いて、台湾の音楽状況のおもしろさを知ったが、今一番影響力のあるグループだという「猪頭」も、聴いていていくつか共通点を感じた。一つはあらゆる音楽が入っていること。悪く言えばごった煮だが、ありあまるエネルギーが発散されていて、けっして悪い感じはしなかった。台湾は総統選挙などで揺れているし、人々の関心も強くて熱くなっているが。ことばがわからなくて残念だが、そんな様子がサウンドからもよくわかる気がした。
・もう一つはシンガポールの音楽。これは短期間のフィールド・ワークに出かけた院生がおみやげにもってきてくれた。楽しみにしていたのだが、音楽ではなく寸劇や語りで英語だから今ひとつよくわからなかった。かなり政治的な内容のようだし、ボブ・ディランの"Mr. Tambourine Man"をもじったような"Mr. Trampoline Man"といった題名の作品もあるのだが歌詞カードがないから、これももう一つよくわからなかった。シンガポールは英語が公用語だが、Singlishと呼ばれるような独特のものだという。ひょっとしたら歌詞がわかっても理解できなかったかもしれない。彼からはインドネシアの反体制的なロック・バンド "Slunk"のテープももらった。このグループはテレビでも取り上げられていて、日本でコンサートもやったようだ。社会が近代化に向けて変容する過程には、必ず「アイデンティティ」を問うおもしろい音楽が生まれる。僕の持論を確認することの出来たバンドである。
・"Buena Vista Social Club"はキューバの音楽である。それをRy Cooderが集めてCDにした。今もキューバで生きつづけている音楽を集めてレコードにすること。ライ・クーダーはそれを宝探しだという。キューバでは音楽は川のように流れていて、それがさまざまに人びとと関わりあっている。そのことを記録するためにこのCDをつくったようだ。僕はキューバの音楽には関心がなかったし、興味もなかったが、明るさの中に哀愁があってなかなかいいと思った。と同時にどこかでくり返し聴いたような懐かしさも感じた。戦後の歌謡曲によくあった〜ブルースという題名の曲である。日本人にととってブルースとはアメリカの黒人の音楽ではなく、カリブ海だったのだということをあらためて確認した気がした。ちなみに、このCDに参加したミュージシャンも近々日本の各地でコンサート・ツアをやるようだ。
・最後はアメリカの白人女性シンガー・ソング・ライターのFiona Apple。"When The Pawn"は彼女の二枚目のアルバムである。僕はそのデビュー盤"Tidal"で歌い方も曲も歌詞もアラニス・モリセットに似ていて、その独自性をこれからどうやって出していくかが問題だと書いた。それほど変わったとも思わないが、彼女の世界が一層はっきりしたように感じられた。ちなみに彼女も日本でコンサートをやるようだ。しかしアラニスで懲りているから僕は行かない。
2000年4月27日木曜日
『うなぎ』今村昌平監督、役所広司、清水美砂 『菊次郎の夏』北野武監督
・『うなぎ』は97年度のカンヌ映画祭で最高のパルム・ドール賞を取った。そして、『菊次郎の夏』は99年度のカンヌ映画祭に出品。賞はとれなかったが評判は極めてよかった。見たいと思いながら、見逃してしまった作品だから、Wowowで続けて上映という予定を知って楽しみにしていた。しかし、どちらも今ひとつでがっかりした。
・まず『うなぎ』は何が言いたいのかよくわからないというのが第一印象。妻の浮気現場を見て逆上した男が妻を斬り殺して服役する。仮釈放で出てきたときには理髪の技術を身につけていて、床屋さんを開業してうなぎを飼い始める。そこで自殺未遂の女を助けると、彼女はここで働かせてほしいと懇願する。しかし男は断る。理由は女性不信なのか、逆上して人を殺した自分への反省なのか、あるいは、妻の不満に気づかなかった自分への悔いなのか。いずれにしても、女性にはもう近づきたくないという姿勢。このあたりの描写が何とも曖昧である。というか、男の内面が見えてこない。
・結局女は床屋で働きはじめ、何かと男の世話をしたがるようになる。妻を殺して服役したことの告白。しかし女は驚かない。逆に女が持ち込むごたごたに男は首を突っ込まざるを得なくなる。そのどたばたの果てに男は女に心を開く。女は妊娠していて、その子が産まれたら一緒に育てようと言う。しかし、その心の動きはほとんどわからない。おもしろくないわけではないが、柱が一本通っていない。シリアスでもコミカルでもない中途半端。なぜ「うなぎ」なのか。うなぎはこの映画の何を象徴しているのか。そう考えると、この映画は何とも難解なものになる。
・『菊次郎の夏』は母を捜して旅に出る子どもが主人公のロード・ムービーである。菊次郎は付添人だが、旅費にもらったお金を競輪ですってしまう。そこから東京から豊橋までの珍道中がはじまる。アドリブのギャグの連続で、事前にシナリオがなかったのではと思ってしまった。撮影を始めながら、その場その場の思いつきでシーンを作っていく。ロード・ムービーにはよくあって、それが効果的な働きをする。タケシもサービス精神旺盛で次々ギャグを用意したが、テレビで何度も見たように感じて、おもしろさを素直に受け取ることが出来なかった。第一、子どもが主役で、母を訪ねて何マイルといった設定は、お涙ちょうだいの定番である。案の定、見つけた母は再婚していて、別の子どもがいた。菊次郎はそれを不憫に感じて、子どもを元気づけようとテレビでお馴染みの「馬鹿」をやるのである。東京から豊橋までは新幹線なら2時間ほど。車でだって4〜5時間。そこに何でこんな旅が必要なのか。やっぱり納得のいく設定が必要だろう。
・最初に書いたが『うなぎ』はカンヌで賞を取り、『菊次郎』も好評だった。この2本の映画を見ながら何より考えてしまったのは、その理由のわからなさだった。実力をすでに評価された監督の映画という先入観があったのかもしれない。あるいは、ヨーロッパの人たちには新鮮に感じられるところがあったのかもしれない。けれども、この2本とも、日本での評価もかなりよかったはずである。いったいどこがどうよかったのだろうか。
・Wowowは今月「日本が観たい!スペシャル」と「日本映画新世紀」という特集を組んで、最近の日本映画を放送した。外国で評判になった作品が多いようだ。その評には「今までの日本映画のイメージを覆す5本の登場である。『ハリウッド映画とくらべてお金を払うのがもったいない』とか『クライ感じがする』と考えている人にこそ観てほしい異色ぞろいだ」と書いてある。僕は観なかったが、そこには『ブルース・ハープ』『四月物語』『SFサムライ・フィクション』『ニンゲン合格』『鮫肌男と桃尻女』といったタイトルが並べられている。観ていないから評価は出来ないが、お金や時間をかけない映画。暗さを取ればテーマもなくなってしまう作品でなければいいのだがと心配してしまう。何しろ、『うなぎ』と『菊次郎の夏』に感じたのが、その二つの不満だったのだから。
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12月 26日: Sinéad O'Connor "How about I be Me (And You be You)" 19日: 矢崎泰久・和田誠『夢の砦』 12日: いつもながらの冬の始まり 5日: 円安とインバウンド ...
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・ インターネットが始まった時に、欲しいと思ったのが翻訳ソフトだった。海外のサイトにアクセスして、面白そうな記事に接する楽しさを味わうのに、辞書片手に訳したのではまだるっこしいと感じたからだった。そこで、学科の予算で高額の翻訳ソフトを購入したのだが、ほとんど使い物にならずにが...
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・ 今年のエンジェルスは出だしから快調だった。昨年ほどというわけには行かないが、大谷もそれなりに投げ、また打った。それが5月の後半からおかしくなり14連敗ということになった。それまで機能していた勝ちパターンが崩れ、勝っていても逆転される、点を取ればそれ以上に取られる、投手が...