2006年2月22日水曜日

スペイン便り・その2


spain5.jpg・バルセロナでサッカーを見た。FCバルセロナは今、スペイン・リーグの首位にいる。スター軍団のレアル・マドリードほどではないが、ロナウジーニョやエトーなど、日本でもなじみの選手が多い。とてもチケットは取れないと思っていたが、ここに住んでいる友人が取ってくれた。一番安い席でも30ユーロ(4200 円ぐらい)したが、客席はほぼ満員だった。その最後列に近い席からフィールドを見下ろすように見た。収容人員は98000人、スタジアムの大きさがよくわかった。試合開始は何と夜の10時、毎日の強行日程でいつもなら寝ている時間だが、今日ばかりはそういうわけにはいかなかった。

spain6.jpg・試合はロナウジーニョのフリーキックやアシストで5対1で勝った。相手はセビリヤのベティス、中堅どころでけっして弱いチームではなかったのだが、最初から最後まで一方的な試合だった。当然ファンは大喜びで、周囲の人たちは歓声を上げ、拍手をし、歌を歌い、ウェーブをした。ぼくには試合以上にこちらのほうが楽しかった。サッカーをよく知っている、一番熱狂的な人たちが集まっているところだったようだ。とにかく日にちが変わろうという時間なのにみんな元気がいい。シエスタでしっかり昼寝をしているのだろうか。ぼくも思わず一緒になって、立ち上がったり、拍手喝采をしたり……。

spain7.jpg・バルセロナには、とにかく美術館や博物館が多い。それがどれも魅力的だから、ついつい欲張ってしまいたくなるが、一度入ったら2時間や3時間は必要になる。ピカソ、ミロ、ダリ、そしてガウディ……。観光客が多いが地元の人たちも来ていて、どこも大勢の人で賑わっている。ガウディの作った建物はサグラダ・ファミリア以外にもたくさんあって、それらが街に溶け込んでいるから、どこの通りを歩いていても建物やモニュメントなどに目が行ってしまう。歴史的なもの、町にゆかりのあるもの(人)を大事にするだけでなく、先進的で洗練されたところもあるから、スペインのなかではかなり異質な感じもする。温暖で食材も豊富だから、ぼくはすっかり気に入ってしまった。

spain8.jpg・スペインにはシエスタの習慣が今でも残っている。昼の休み時間をたっぷり取って、食事をし、昼寝をするのだが、バルセロナでも、その時間には店が閉まり、人通りが少なくなる。ずいぶんのんびり、というより怠惰な感じすらしていたのだが、慣れてくるとなかなか合理的な生活スタイルなのではないかと思い始めてきた。朝が動き出すのが早い。若いお父さんが昼間、小さな子どもを連れて歩いている。店は夕方からまた開きははじめ、レストランは夕方閉じて、夜は8時から9時に再開する。だから深夜でも街はにぎやかだ。一日を仕事だけではなく、食事や遊びにも十二分に使う。忙しいばっかりで、くたびれはててから遊ぶ日本人とはずいぶん違う生活観だと思った。

spain161.jpg・最後に料理について。前回のイギリス・アイルランド同様に、特にまずいと感じたものはなかった。というよりも、おいしいと思うものの方が多かった。ただ、塩気が強いこと、オリーブ・オイルがふんだんにかかっていることなどには慣れる必要があった。オリーブの塩漬けはビール(セルベッサ)をたのむと突き出しのようにしてついてくる。これが塩辛いが食べ出すと後を引く。喉が渇く。で、ミルク入れのエスプレッソ(カフェ・コン・レチェ)を飲む。これは砂糖を沢山入れた方がおいしい。スペイン料理は甘辛がはっきりしている。メインの料理にはほとんど甘みがない。その代わり、デザートと珈琲はたっぷり甘くする。
・行く前から食べたいと思っていて、食べられなかったものにイカ墨のパエジャがある。スペインではイカの他にタコも食べる。市場の魚屋さんに行くと、日本でもおなじみの魚がたくさんあって、その食材の豊富さに驚いてしまう。生で食べたい新鮮なものが多かったが、それはしないようだ。もったいないな、と思ってしまった。
・酒を出す食堂のことを「タベルナ」(Tabern)と言う。「タベルナで食べろ!」なんてダジャレて楽しんだが、スペイン語には奇妙に日本語に近いサウンドのことばがある。「カゴ」はうんこをするという意味だから、スーパーで「カゴは!」などと言ってはいけない。「カガ」は彼(女)がうんこをするで、加賀さんはきっとスペインでは笑いの対象になる。こんな話をバルセロナに住む友人から聞いた。どの街を歩いても、散歩途中に犬がしたうんこが放置されている。「「うんこ嗅ご」「嗅げ」「嗅がん」などと勝手に活用させてげらげら笑う。ぼくは英語の会話はいつまで経っても駄目だがスペイン語なら何とかなるかも、という気になった。しかし、覚えてもすぐに忘れてしまう。この記憶力の衰えがなんともうらめしい。

2006年2月19日日曜日

スペインの風景


photo34-2.jpg photo34-1.jpg マドリードからAVEに乗ると、見えるのはオリーブ畑ばかり。これが延々と続く。乾いて痩せた大地。ところが、アンダルシアに入ると椰子やオレンジ。コルドバの街中には実をつけたオレンジの木がいっぱいある。しかし、酸っぱいのか、宗教的な理由なのか誰も食べない。

photo34-3.jpg photo34-4.jpg 大理石の山、というのを初めて見た。草も生えない荒れ山だが、切り出した石はつるつるに磨かれて神殿や宮殿になってきた。麓は牧草地になっているが、よく見ると、石や岩がごろごろとしている。オリーブの木が目立たなくなると、アーモンドの木。ちょうど白い花が満開だった。

photo34-6.jpg photo34-5.jpg 白壁に赤い屋根。すべての家が同じ色。統一性が作り出す風景の美しさだ。色は違っても、ヨーロッパでは珍しくない。こういう景色を見ると、つくづく、日本の街の雑多さと比較したくなる。個人主義と集団主義、個性と協調。発想の仕方がまるで逆なのだ。

ロンダという町は断崖絶壁の上にある。ケルト人が作った町だ。何より侵略されないことを重視して、生活の面倒さは我慢した。町から崖下を見下ろすと、そんなことがよくわかる。平地にできた町には必ず城壁がある。そこを境に旧市街が作られている。ケルトやフェニキアから始まって、ローマの支配を受け、イスラムとの攻防があり、スペイン市民戦争まで、数々の戦がくり返されてきた。教会や宮殿には、そんな様々な文化の融合が見られるが、人々のなかにはまた、それぞれの民族や国に対する独自性の自覚も強い。


photo34-7.jpg photo34-8.jpg たまたま、バルセロナで泊まったホテルの前の通りで大きなデモがあった。数十万人か、あるいは百万人を超えていたかもしれない。カタルーニャの独立を求めるデモだったようだ。スペイン市民戦争から70年たっても、まだ独立の意志を強くもっている。マドリードに対するバルセロナ、ここでは、サッカーは単なるスポーツではない。

photo34-9.jpg photo34-10.jpg セビリアでフラメンコを見た。放浪の民、ロマが作りだした音楽と踊りだ。流れ着いたさきざきで、その土地の音楽になじみ、それを独自なものに発展させた。踊っていた人たちがロマかどうかはわからない。ロマの多くは観光地で、観光客にお金をせびって暮らしているという。確かに、ぼくもあちこちで何度かまとわりつかれた。 


2006年2月16日木曜日

スペイン便り・その1


spain1.jpg・休暇も残りわずかになった。いつもならこれから学部や院の入試で忙しい時期なのだが、今年はすべて免除されていて、しばらく大学に行く用事もない。で、スペインに出かけることにした。特に目的があるわけではない。美術館巡りとフラメンコ、あとは食事にワイン、正真正銘の観光旅行である。強いてあげれば、オーウェルの『カタロニア賛歌』を少しだけ辿ってみたいといったところだが、何が辿れるのか、あてがあるわけではない。
・飛行機はシベリア上空を西に飛ぶ。眼下には凍りついた大地と川、あるいは湖が延々と続く。街や道路があるのかないのか、人が住んでいる様子はわからない。東から夜が追いかけてくる。北には冬中夜の北極。すぐにも暗くなりそうなのに、いつまで経っても暮れては来ない。何とも奇妙なところにいる。そんなことを考えながら、ぼんやり窓の外を眺めていた。

spain2.jpg・最初はマドリードから。とにかく、スリ、置き引き、ひったくり、あるいは首締め強盗に気をつけろ、といったことが、ガイドブックやネットのサイトに書いてある。犯罪が多いわけではないが、日本人がよく狙われているという。だから第一日は手ぶらで、財布も持たず、現金をポケットに分散させてつっこんだ。パスポートのコピー。市内の観光も午前中は日本人ガイド付き。プラド美術館で「ゴヤの裸のマハ」を見た。写真撮影OKで先ず一枚。しかし、ソフィア美術館はカメラの持ち込みも禁止でピカソの「ゲルニカ」は眺めるだけだった。だから、その前に立って数分、目に刻むように見つめた。圧倒的な迫力。座り込んで動かない人も数人いた。

spain3.jpg・マドリッドでは地下鉄もタクシーも危ないからやめとこうと思ったのだが、預けた鞄がなくなり、もう一回空港まで行かねばならなくなって、タクシーを使った。ドライバーは若い兄ちゃんで首にかわいい刺青が入っている。必要なスペイン語会話をピック・アップしてノートを作ったが、それで調べて「レシーボ・ポル・ファボール」(領収書をください)と言う。誤魔化されないための工夫だそうだ。25ユーロ。帰りはバスと地下鉄にした。何度か乗り換えたが、言われるほどには怖くはなかった。鞄は空港にはなく、いろいろ文句を言っているうちにホテルに着いていた。「アシタ・マニアーナ」の世界に来たことを実感。そのうち来るとホテルでのんびり待っていればよかったのに、それができないせっかちさが日本人の悲しいところだ。夜はホテルの近くのレストランでタコのパエジャを食べた。おいしかったけど量が多い。

spain4.jpg・マドリードからはAVE(新幹線)でコロドバへ、そこで「メスキート」(アラブ支配時代の教会)やユダヤ人街を見て、翌日はグラナダの「アルファンブラ宮殿」、そして次の日はピカソの生まれ故郷のマラガからリゾート地のミハスへ移動して、地中海を望むマルベーニャ。夕日がジブラルタルに沈む。その先にはアフリカ大陸。♪思えば遠くに着たもんだ♪と、思わず口ずさんでしまった。
・で、次の日はケルトの作ったロンダの町を経由してセビリアまで来た。コロンブス、カルメン、セビリアの理髪師、そしてフラメンコ。セビリアに限ったことではないが、町のなかに歴史が生きている。フェニキア、ローマ、アラブ、カスティーヤ……。どの町にも旧市街を守る城壁があって、侵略と栄華と陥落の歴史がある。

2006年2月8日水曜日

ホリエモンのどこが悪いのか?

 例によって、テレビのニュースやワイドショー、あるいは週刊誌でのホリエモン・バッシングはすさまじかった。乗っ取りを仕掛けられたフジテレビはともかく、他の局はなぜ、こんなに手のひらを返したような取り上げ方をするのか。今さらながらにあきれてしまった。
事件があるたびに思うのだが、逮捕されて取り調べを受ける容疑者は、法に触れる事をした疑いがあるというのにすぎないのに、報道された時点で、悪玉のレッテルがしっかり貼りつけられる。罪があるのかないのか確定するのは、あくまで裁判の判決によってなのに、メディアはそのことに慎重でない。というよりは、率先して容疑者を血祭りに上げようとする。
容疑者の段階で犯罪者に仕立てあげて、あとで無罪という事件は過去にも沢山ある。その被害者が被った精神的、肉体的苦痛や、社会的、経済的な制裁はとても償いきれるものではないのだが、マス・メディアはその過ちをくり返して、しかも、その責任を自ら反省したことがない。
派手なパフォーマンスで名を売り、注目を集めて、それを自社の株価に反映させる。そのこと自体には何の犯罪性もない。ホリエモンはメディアの手法に乗って大儲けをしただけで、株価の暴落で大損する人が大量に出ても、それは買った人の自己責任なのである。同じことを小泉首相もやってきた。野党はどこもメディアの使い方で負けたのだから、今さら、選挙でホリエモンを担ぎ出したことを批判しても、負け犬の遠吠えにしか聞こえてこない。民主党だってホリエモンを担ぎ出そうとして断られたのだから。
「有名人は有名だから有名人なのだ」と言ったのはD.J.ブーアスティンで、彼はテレビのもつイメージを増殖させる圧倒的な力を60年代に指摘をしている。それから半世紀近く経ち、テレビにさらにネットが加わって、世はセレブ、ブランド、あるいはブームの時代なのである。「実」よりは「虚」がリアリティを持つ。魅力の核心が実体にではなくイメージにあることがいまほど顕著になった時代はない。その端的な例が小泉政権であり、ライブドアなのである。
ホリエモンが日本放送の買収に乗り出したのは、メディアの力を自分の手に握りたかったからに他ならない。その行動に痛快さを感じたのは、既得権を握りしめた人たちが慌てふためき、その古い体質が露呈したからだ。何も持たない若者がアイデアと行動力で巨大メディアを乗っ取ろうとした。それは閉塞した社会に風穴を開ける可能性を垣間見せたし、新しいテクノロジーの力を目の当たりにもさせた。ところが、その古い人たちが、今回の事件でそれ見たことかと発言し始めている。ナベツネ、フジテレビ、あるいは自民党を追われた抵抗勢力………………。
「虚」が支配する時代は危険だが、それを古き良き時代の「実」に求めてもかなわない。「虚」を前提にした上での「実」。今必要なのは、それを求めるための倫理感やルールの模索のはずだが、その「虚」を作り出す中心にあるテレビには、そんな意識がまるでない。ホリエモンの虚像を作り上げ、ライブドアを巨大な資産を有する会社に急成長させたのは、何よりテレビだったはずである。火をつけた本人なのに、手に負えなくなると消防士に早変わりして火消しのポーズをとる。メディアはまさに「マッチ・ポンプ」で、ホリエモンを追いかけてする言動には、無責任といよりは犯罪者といってもいいレッテルを貼りつけたくなってしまう。これは、ライブドアにかけられている容疑よりもずっと重いものだと思う。

ホリエモン報道が落ち着いたと思ったら、今度は「東横イン」の社長が晒し者にされている。儲け主義のひどいホテルだと思うが、ホテルに対する行政指導にも疑問を感じている。なぜすべてのホテルが一律に身障者のための施設や部屋を用意しなければならないのだろうか。個々のホテルが独自に特徴を出して、それを目玉にすればいいじゃないかと思う。お年寄りや身障者が安心して止まれるホテルは、それを第一に考えれば、ビジネスとしても大きな可能性があるはずで、それをお上が義務で押しつけるものではないだろう。ところが、そんな発想は皆無で、ころころ変わる社長の態度をおもしろおかしく映し出して、ひどいホテルだと言って非難するばかりだ。しばらくすれば話題にもしなくなるだろう。すべての局がすべての事件について同じ調子だから、もう本当にうんざりしてしまう。テレビが何かを煽りはじめたら、それとは反対の姿勢をとって考えてみる。ぼくには、ずいぶん前から、そんな習慣が身についてしまっているようだ。

2006年1月30日月曜日

2005年度 卒論集『まるで女子大のよう』

 

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1. 「テレビCMにおける音楽の役割と課題」………………………………富田亜矢子
2. 「耳を澄まして音を聴いて環境を考える」………………………………菅 美沙子
3. 「北欧インテリア~ 魅力とその人気の真相~」…………………………太田夏子
4. 「女性とスポーツ」…………………………………………………………仲田美紀
5. 「髪ってなんだ?」…………………………………………………………小山奈津美
6. 「電子掲示板の影響力と可能性」…………………………………………加藤由子
7. 「ポイントカードと販売促進法」…………………………………………赤羽根孝子
8. 「中吊り広告が私たちに与える影響について考える」…………………佐藤麻美
9. 「個性派ストリート・ファッションの若者たち」………………………石井利枝
10. 「カフェヲタクのススメ」…………………………………………………森麻衣子
11. 「遅刻」………………………………………………………………………岩崎仁美
12.「『青春パンク』と日本における『パンク』とは」……………………今村 舞
13.「『ブーム』について」……………………………………………………池松絵里可
14. 「キャラクター研究- 日本人とキャラクターの関係」…………………田口 美沙

2006年1月24日火曜日

やっと雪

 

forest49-2.jpg・ものすごく寒い冬。ところが雪がほとんど降らない冬。今年はこのまま雪かき機も使わずじまいかと思っていたら、やっと降った。15cmほどでたいしたことはないが、それでも一面の銀世界は懐かしい。冬にはこの景色を眺めなければとさっそく、まだ止まないうちから雪かきを始めた。飛ばしがいのあるほどの量ではないが、久しぶりの感触で精出したせいか、両腕がなまって震えてしまった。
・もっともこの雪は茨城の水戸あたりでは数十年ぶりの大雪だったらしい。東京でも都心で9cmというからかなりのものだろう。転んでけがした人も数百人というから、キレイだと言ってばかりはいられない。東北や新潟の雪のことを考えたら、顰蹙ものだろう。
・とにかく今年の冬の天気はままならない。河口湖では零下10度の日が数日続いて湖面が全面結氷した。山中湖ではワカサギ釣りができるほどの厚さになって、数年ぶりに解禁ということになった。ところが、そのニュースが出た翌日から気温が急上昇して温かい春先のような雨。気温が12度まで上がったから、氷はあっという間に溶けてしまった。で、湖上のワカサギ釣りは延期。今年の天気はまったく意地が悪い。とは言え、暖かい雨でも、富士山にはたっぷり雪が積もった。今年は富士山に雪がないという話題も、テレビでくり返し放送されていて、「農鳥」の頭がかすかに白いといった程度でしかなかった。寒すぎると富士山には雪が積もらない、ということを発見した。そういえば、一年間で富士山が一番白くなるのは春先なのである。

 

forest49-3.jpg・天気の意地の悪さといえばもう一つ。河口湖では1月から2月のはじめにかけて土日に花火をやる。寒中花火で客が少ない冬のイベントとして定着させようとしているのだが、14日はどしゃ降りの雨で21日は雪だった。天気が悪いと花火は煙しか見えないからどうしようもない。このときばかりはからっと晴れて天の川がくっきりみえるような天気が望ましいのだが、今のところそんな日は平日ばかりで週末にはほとんどない。晴れて気温が下がった日は夕焼けもキレイだ。仕事からの帰りがけに遭遇して、思わず車を止めてシャッターを切った。あと10分ほど早かったら赤富士だったかも、と思ったら残念な気がしたが、それでも見とれるような風景だった。

・こんなことを夜中に書いて朝起きたら、新聞に香内三郎さんの訃報を知らせる記事が載っていた。何も聞いていなかったのでびっくりしたが、まだ74歳、北村日出夫さんにつづいて、また親しくしていた先生が亡くなってしまった。香内さんは去年『「読者」の誕生』(晶文社)を出され、その出版パーティなどもあって、お元気だと思っていたところなので信じられない気がしている。続編も執筆されていて、その変わらぬ姿勢に敬服するばかりだった。たぶん、まだまだ書きたいことがあったのだろうと思う。

2006年1月17日火曜日

団塊世代本に異議あり!

 

堺屋太一『団塊の世代「黄金の十年」が始まる』(文藝春秋),残間里江子『それでいいのか蕎麦打ち男』(新潮社),林信吾、葛岡智恭『昔、革命的だったお父さんたちへ』(平凡社新書)

dankai1.jpg・団塊世代が話題になっている。定年退職が始まる2007年が危機なのだそうだ。一気にやめて職場に穴があく。年金受給者がいっぺんに増える。ぼくはこの世代に属しているが、定年はまだだいぶ先だから、他人事のように受け取っている。しかし、同世代のことだから、気にはなる。で、何冊か読んでみた。結論を言うと、どれも読んで強烈な違和感をもった。一言で言えば不愉快。
・ぼくは何より「団塊」ということばが大嫌いだ。確かに生まれたときからずっと「世代」として注目され、いろいろに名づけられてきた。「ベビーブーム」から始まって「全共闘」「ビートルズ」とつづき、それがやがて「団塊」で定着した。名付け親は堺屋太一だが、話題になったのは70年代の後半で、この世代はすでに30代になろうとしていた。
・もう充分いろいろ名づけられてきたのに、こんな時期になってまた何で、団子の塊なんて言われなきゃならないのか。そんな気持ちだったから、話題になった堺屋の小説を手にする気にもならなかった。
・『団塊の世代「黄金の十年」が始まる』は、題名通りこの世代に期待を込めて書いている。将来に不安を持つ必要はないという論調は一見明るい気持ちにさせるが、要するに、それは日本の経済についての話であって、当の世代の立場に立って考えているわけではない。第一に作者は、ぼくらの世代を「サラリーマン」としてしかとらえていない。彼によれば「団塊」とは「企業戦士」「経済大国化のエンジン」として日本の戦後を支えてきた世代で、「既につくられた制度や社会条件によく順応できる器用さと従順さを身につけながら、新しい豊かさに適した発想と人生観を創造してきた」人たちと言うことになる。企業の中ではそういう人たちが目立ったのかもしれない。しかし、そうだとすると、60年代の政治や文化に対して僕らの世代がした問いかけや新しい動きは何だったのか。著者にとっては、それはふれる必要のない些細なことのようである。
・彼によれば、消費社会は大阪万博を契機に始まったのであり、それはまた団塊文化の出発点だったということだ。カジュアルな服装、テイクアウトの食事、あるいはコンビニまで万博が最初というのだからおそれいってしまう。手前味噌の自慢話をここまではずかしげもなくされると開いた口がふさがらない。ほとんどはやりもせずに死語になった「知価革命」がくり返し出てくると、もう勘弁して欲しいという気になってしまう。

dankai2.jpg・残間里江子の『それでいいのか蕎麦打ち男』は同世代による「団塊世代」論である。だから、自分自身や周辺で思い当たる点も少なくない。かなり重要なポイントとして納得できるのは、価値観や生活スタイルの大きな変わり目を生きてきて、その古い部分と新しい部分をかかえこんでいるから、一人ひとりがそれぞれに、葛藤やジレンマに悩まされてきたというところだ。だから当然、団塊以前の世代とはもちろん、以後の世代とも違う特色を持っていて、しかも、世代の中でも価値観や生活スタイルは一様ではない。もしこの世代を論じるとすれば、ここが基本になるはずなのだが、この本の話題は、作者の交友範囲に限定されてしまっていて、雑誌の編集者や広告マン、あるいはテレビ関係者などばかりである。
・しかも、狭い範囲の経験を「団塊男」「団塊女」はと簡単に一般化するから、話はかえって焦点ボケしてしまう。「旅が好き」「雑誌好き」などというのは世代に関係ない共通の傾向だし、「群れるのが好き」はヒルズ族にまで言える日本人の変わらない性格でしかない。「愛」」や「友情」が人間関係の基本に入り込んできた最初の世代だから、そのことを口にすることは多いのかもしれない。けれどもそれはこの世代に限られたことではなく、以後の世代にも継続したものである。問題にするとすれば、古い地縁や血縁の関係との間で揺れ動いた点にあって、その対処の仕方でずいぶんと違う人生を歩いてきているはずなのである。
・題名になっている「蕎麦打ち男」は仕事を辞めた後の「アイデンティティ」探しの一例である。だから、ここには「陶芸」や「NPO」への参加などといった例も出される。あるいは生活の場を変えて田舎暮らしといった話もある。しかしこれも、この世代に限られたことではなく、数が多くて退職の時期が近づいているから目立つということにすぎないのではないかと感じる。仕事以外に自分で夢中になれるもの、楽しく過ごせることをもつ。それは世代を超えた願望で、むしろ若い世代の人たちの方に強く見受けられることのようにも思う。例えば、河口湖には大勢の釣り客が来るが、目につくのは若いカップルや友人グループで、それはパートナーのところに陶芸の体験に来る人たちにも共通している。

dankai3.jpg・『昔、革命的だったお父さんたちへ』は10歳ほど若い人による団塊世代論である。内容はこれまで一番耳にした世代批判で埋められている。何でこんなに語気強く、あるいは皮肉や嫌みたっぷりに攻撃してくるのだろう、と思ってしまう。そんなこといわれる筋合いはこちらには全然ないのに、自覚なしに横暴に振る舞ってきたのだろうか。たぶん上司や先輩にイヤなやつがいて、表面上は平静に対応してきたが、内心では腹が立ってしょうがない。内容から伝わってくる著者たちの思いはこんなものなのだという感じがする。
・そんなことはあるのかもしれないと思う。しかし、この本に書かれた現実認識はまた、ずいぶん偏見や思いこみに満ちたひどいものである。彼らによれば団塊世代は学生時代には社会を激しく批判しながら、就職すると企業戦士に変身した節操のない輩だし、消費社会を煽り、またそれに乗ってバブル時代を招いた元凶だし、ニートや引きこもりを招いた親失格の世代だということになる。そういう問題を自分のこととして考える必要はもちろんあるのだと思う。けれども、それはわずか数年にまたがるだけの世代に特定されて責任を問われることではないはずである。
・この本に限らないが、ちょうど一世代ほど下の人たちが言う団塊世代批判には、屈折した嫉妬心を感じてしまう。この本の前半は長い学生運動史になっている。団塊世代を語るには長すぎるし饒舌すぎるが、学生運動を語るにはまた、不十分で一面的にすぎる。それは「本当はそこに自分も参加したかった」と言っているかのようである。「遅れてきた青年」の悲哀などと言ったら、また一層感情的な批判をされてしまうだろうか。

・いずれにせよ、「団塊世代論」に一番強く感じる違和感は、世代に属する人間を一色に塗って納得してしまうという解釈の仕方だ。それは血液型や星座で性格や運命を診断される時に持つうさんくささや違和感に通じている。団塊世代は1947年から49年にかけて生まれた600万人超を指したり、 51年あたりまで拡大して1000万人だとされたりする。ここにはもちろん、同じ時代を生きてきたことによる共通した「社会的性格」を見ることができるだろう。ただしそれは、一人ひとりの人間のごく一部に見受けられる共通性として理解すべきもので、その一部分があたかも全体であるかのように解釈されてはたまらない。

・その理由をいくつか書いておこう。「団塊世代」=学生運動としてとらえられるが、その時代の進学率は2割ほどでしかなかった。また「団塊世代」=企業戦士(とりわけ大企業)としてとらえられるが、その世代に占める割合はさらに小さなものだ。だから「学生運動→企業戦士」というコースを歩いた人は、この世代の数%にすぎなかったはずである。ところが「団塊世代」というと現実的にはここにばかり注目が集まってしまう。ここで紹介した3冊もその点では共通している。
・経験的に言えば、そういう変身をした者もいたが、同時に、社会の傾向に反対する運動に関わって生活してきた人たちもいて、「経済大国」や「消費社会」や「バブル」だけではなく、「公害」「環境」「フェミニズム」といった問題を確立させる力にもなってきている。あるいは文化的な側面でも、メディアに登場したりビジネスとして成功した人ばかりが注目されるが、音楽にしてもアートにしても、商品化に批判的な姿勢を持って活動した人の数も少なくない。その多様さに注目しなければ、この世代が歩いた道筋を見定めることはできないはずである。