2009年12月14日月曜日

日本とアメリカの関係

 

秋尾沙戸子『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』新潮社
ハワード・ジン、レベッカ・ステフォフ 『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(上下)』あすなろ書房
エリコ・ロウ『本当は恐ろしいアメリカの真実』講談社

・沖縄の普天間基地移転の問題が揺れている。辺野古か県外か、あるいは国外か、民主党の姿勢がはっきりしないから、アメリカも苛立っているという。日米関係を損なうといった批判が自民党から浴びせられている。しかし、アメリカが苛立ったからと言って、なぜ慌てる必要があるのだろうか。政権が変わったのだから、根本的な見直しをすることがたくさんあるのは当たり前で、日米関係と国内、とりわけ沖縄に多くある米軍基地をどうするかといったことは、今こそきちっと考えてアメリカと交渉をする問題だと思う。

・日本に米軍基地があるのは、日本を他国の侵略から米軍に守ってもらうためだ。1951年にサンフランシスコで平和条約とともに締結された「安全保障条約」がその根拠になっている。これは第二次世界大戦の敗戦国として否応なしに結ばざるを得なかった条約で、10年の期限が切れた1960年と 70年には、この条約の批准に反対する大きな運動が起こった。それは、侵略される脅威があるから基地が必要だとする意見と、基地の存在が脅威を産むのだと考える立場の対立だった。70年以降は単年ごとに自動的に更新されるものに変わって、現在に至っている。

j&u1.jpg ・秋尾沙戸子の『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』を読むと、敗戦後のアメリカの対日政策とそれに対する日本政府の対応が、きわめて一方的で屈辱的なものだったことがよくわかる。「ワシントンハイツ」は明治神宮に隣接して作られた米軍関係者の宿舎で、元は陸軍の練兵場が会った土地だった。そこは64年の東京オリンピックの直前に変換され、オリンピック村になった後、代々木公園になり、競技場やNHKが作られた。原宿が異国情緒のある流行の先端の街になったのは、ワシントンハイツの住人を顧客にした店があったせいだ。だから旧ワシントンハイツ地区は、日本人の中に共通して持ちつづけられているアメリカに対する卑下と憧れ、反米と親米といった感情を象徴する場所だといっていい。

j&u4.jpg・ハワード・ジンの『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(上下)』は『民衆のアメリカ史』をレベッカ・ステフォフが子ども向けに書き直したものだ。歴史の教科書には載らない裏面史だが、インディアンの虐殺から始まって、奴隷の輸入と人権の無視、正義と民主主義をふりかざした他国への攻撃が世界大戦からヴェトナムやイラク戦争にいたるまで批判的に記述されている。もちろん個々の出来事や問題については、もっと詳細に分析された本がそれぞれいくつもある。しかし、アメリカという国に滅ぼされ、差別され、痛みつけられてきた人びとの目から見たアメリカの歴史は、よく知られた英雄や美談、豊かさや自由を強調したイメージを覆していく。アメリカの表と裏の乖離をこれほどに感じさせる歴史書は他にはないといってもいいだろう。

j&u2.jpg ・もっともアメリカの二面性は現在でも変わらない。エリコ・ロウの『本当は恐ろしいアメリカの真実』には、ブッシュ時代のアメリカの状況からリーマン・ショック、そしてオバマ大統領の誕生へといたる現状が、マイノリティである在米日本人の批判的な目を通して描き出されている。オバマはブッシュの残した後始末に苦慮している。一方で核兵器廃絶と言いながら、アフガニスタンでは兵力を増強して、タリバンを力でねじ伏せようとしているし、日本の米軍基地に対する政策も、これまでと変える気はないようだ。しかし、日米の政権が大きく変わった今こそ、従来の日米関係を見直すチャンスであることは間違いない。アジアの現在の政治状況にとって、日本にある米軍基地がどれほど重要なものなのか。今大事なのは、そのことを問いかけて交渉する外交能力であることは間違いないように思う。

2009年12月7日月曜日

ペット残酷物語

・去年の夏に近所に引っ越してきた家から、複数の犬の鳴き声が聞こえるようになった。それもかなりの数で、一斉に鳴き出すとすさまじい音になる。ただし、犬の姿はまったく見かけない。奇妙な感じを抱きながらも、苦情は言わずに放っておいた。寒くなって窓を開けることもなくなり、鳴き声がそれほど気にならなくなったからだ。

・ところが春になって、少し暖かくなると、また鳴き声が気になり始めた。さらに、異臭もする。風向きによっては我が家の中にもその臭いが侵入しだした。家主は引っ越してきた時に挨拶もしなかったし、滅多に見かけることもない。訪問者もほとんどないし、郵便や宅配が来ても一切出ないようだ。直接苦情を言って聞くような相手ではないと思ったから、町の役場や保健所、そして警察署に出かけて相談をした。で、見回りに来てくれたのだが、どこもどうしようもないという返事だった。ブリーダーなら届け出る必要があるが、確かめるためには承諾を得て家の中を調べなければならない。もちろん、家主はそれを拒否したらしい。

・夏に長期滞在した隣にある別荘の住人が、苦情を言いに行った。いつもレトリバーを連れてくる犬好きで、元の家主の知人として、家を売る際に一緒に立ち会っていたようだ。いろいろ話をして、ブリーダーであることもはっきりした。ラブラドールとレトリバーの成犬が7匹ほどいて、そのほかに子犬がいることもわかった。もちろん、付近に大変な迷惑をかけていることも言ってきたようだが、だからといって立ち退くことも、ブリーディングをやめることもできないという話だった。

・それ以来、鳴き声が少しだけおさまったし、秋になると窓を開けることも減ったから、音も臭いも我慢ならないほどではなくなった。だから、そのままにしているが、一年中家に閉じ込めて、まったく外に出さずに、ただ子どもを産ませられる犬の存在がずっと気になっている。太陽も浴びず、散歩や運動もしないのは、犬にとって心身ともにいいことはない。産まれてくる子どもにだっていいはずはない。もちろん、犬は「いったい何のために生まれてきたのか」などとは思わないし、苦情も言わない。だからこそ、いっそう、人間の身勝手さや残酷さを感じてしまう。

・ペットショップには、いろいろな種類の子犬が売られている。それを見て「かわいい」と言う人たちに違和感をもつことがよくあった。親離れしていない子犬が、小さな檻に閉じ込められっぱなしという状態が気になったからだ。日本人にとってペットを選ぶ第一の条件は「かわいらしさ」にあるようだ。だから子犬の時期が好まれる。しかし、親から早く離せば、親の愛を受けられないし、生きるすべを学ぶ機会も持ちえない。それを人間が自分勝手な愛で穴埋めするから、言うことを聞かない犬に育って手に負えなくなってしまったりする。

・「かわいい」と思う子犬が、どこで、どんな状態で、どんな親から生まれてくるのか。その仕組みの一端を知ってしまうと、とても犬を買う気にはならない。犬たちの鳴き声がする家の前を通り過ぎるたびに、そうつぶやいてしまう。

2009年11月29日日曜日

山歩き、ペンキ塗り、そして薪割り

 

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王岳登山中に出会ったニホンカモシカ

・11月も周辺の山を歩いた。精進湖の北にそびえる王岳に登りはじめてまもなく、ニホンカモシカに遭遇した。こちらが気づく前にとっくに気がついていて、じっと睨みつけられた。微動だにしないので、こちらもじっくり構えて写真を撮った。猿の群れは我が家の庭にも時折やってくるし、ウリ坊をつれたイノシシを見かけたことも何度もある。子鹿を間に挟んでゆっくり歩く鹿の群れにも出会った。しかし、ニホンカモシカははじめてだったから、ちょっと驚いた。

forest79-2.jpg ・家の前を流れる奥川の源流に行ってみようと出かけたのだが、そのまま山の上まで登ってしまった。林道の終点に着くと、砂防ダムの工事中で、ロープウェイでコンクリートを運んでいる。トロッコの一本線路がまっすぐ上に伸びていて、登山道は線路と何度も交差しながらジグザグと続いていた。1時間ほど登ると5人乗りのトロッコがあった。工事現場の人が乗ってきたのだろう。楽だが急傾斜で不安定だから、とても乗りたいなどとは思わない。

forest79-4.jpg・砂防ダムの工事は、もっと怖いところでやっていた。崩落した面をセメントで固めて、急斜面のところに新しい砂防ダムを造っている。ブルドーザーはヘリコプターで運んだのだろうか。そんな様子を横目で眺めながら尾根まで登った。歩き始めてから2時間ほどで、金山で昼食をとった。富士山が真正面に見え、東に行くと十二ヶ岳、西に行けば鬼ヶ岳から王岳に続く地点だ。
・そこから北に向かい、節刀ヶ岳でパノラマの景色に見とれた。下の写真には左が十二ヶ岳から毛無山、そして河口湖と富士吉田の町が写っている。右の写真は南アルプスだ。アルプスの先には甲府盆地がひろがっていた。精進湖のパノラマ台よりもっとスケールの大きい風景で、まさしく絶景と言えるものだ。


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・山中湖から御殿場に行く途中にある籠坂峠を歩いた時に、帰りがけにストーブ用の薪を買った。断面積の総計が2立米で長さは2m、運び賃込みで35000円だった。2t車いっぱいの量で30本ほどだが、一冬使う量の半分だろう。もちろん、この冬ではなく、次の冬のために使うものだ。もうすでに一日中燃やしていて、積んだ薪もかなり使った。これから、家の南面をあけて、そこに新しい薪を積んでいく。切って、割って、積んでと大汗をかく作業だが、同時にペンキ塗りも始めた。薪に隠れて作業ができなかったところを、薪を移動させては塗っている。今年は暖冬だという予報だが、雪が積もる前にやり終わらなければならない。

2009年11月23日月曜日

ディランとスティングのクリスマス

 

・ディランの"Christmas in the heart"は楽しいアルバムだ。1曲目から「サンタクロースが今晩やって来る」と歌うディラン自身の声が弾んでいる。全曲が有名なクリスマス・ソングでおなじみだが、あのだみ声で歌われると、やっぱり、ディランの歌になってしまうから不思議だ。クリスマスまではまだだいぶ日にちがあるが、我が家では夕方暗くなり始める頃に毎日かけている。

・大不況でアメリカの失業率は10%を超えている。クリスマスどころではない人が大勢だが、ディランはこのアルバムの印税を全額寄付するようだ。ディランのオフィシャル・サイトには発展途上国の子どもたちに50万食、イギリスのホームレスに1万5千食、そしてアメリカの140万の家庭に 400万食の食事を提供するだろうと書いてある。もちろん、これは目標だが、このサイトでは印税の他に募金も求めている。今度のクリスマスには、ディランがサンタになって、大勢の人の飢えを癒すことになる。

dylanxmas.jpg・ディランに孫がいるのかどうか知らないが、このアルバムを聴いていると、ディランが小さな子どもに囲まれて歌っている姿をイメージしてしまう。しかも、何の違和感もなく自然に思える。ところが、ブログを検索していたら、孫の前で歌って泣かれた話が出てきた。本当なのかどうかわからないが、このクリスマス・ソングだったら喜ぶだろうと思う。
・彼は相変わらず精力的にコンサート活動をこなし、ラジオでは20世紀のポピュラー音楽の講義を続けている。今年は新しいアルバムも出した。きわめて自然体で、好きな音楽とともに生きている。どこに行って、誰の前で、どんな歌を歌うのか。その幅の広さは年の功だが、いずれにしても薄っぺらでない深みを醸し出すのは、彼が歩いてきた歴史以外の何ものでもない。

stingwinter.jpg ・ほぼ同時に出たスティングの"If on n winter night......"はきわめてまじめだ。静かで厳粛なサウンドでできあがっている。歌われているのはイングランドやスコットランドで歌われているクリスマス・ソングで、聴いているとジャケットの写真のような雪景色をイメージするし、イギリスに出かけた時に見かけた石でできた田舎の小さな教会を思い出す。まだ聴いていないが、スティングの前作もまた、イギリスに伝わる古謡を集めて、彼なりにアレンジしたものでできているようだ。クリスマスのアルバムを聴きながら、そっちも聴いてみたい気になった。

・ちょっと前にBSでスティングのライブを見た。アルゼンチンのブエノスアイレスでの収録だったと思う。例によってベースを弾くスティングのバックにはドラムとギターしかいなかった。シンプルなサウンドでいつもながらに歌うスティングの声や姿は10年前に大阪で見たのと変わらなかった。肌や声がしわしわになったディランはなるがままという感じだが、スティングからは節制に徹する求道者のような雰囲気を感じる。今度の2枚のクリスマス・ソングには、そんな二人の違いがくっきりと映し出されている。

・今頃になって、Youtubeを見始めている。公式に提供されたU2のコンサートをダウンロードして何度か聴いた。よくできたコンサートで、歌われている曲目も新旧盛りだくさんでなかなかいい。しかし、太ったボノはいただけない。若いままである必要はないが、それなりのふけ方が必要だ。なにより、ボノに贅肉は似合わないだろう。

2009年11月16日月曜日

ベルリンの壁

・ベルリンの壁が崩壊して20年になる。ドイツでは盛大な式典が催されたようだ。その特集番組がNHKのBSでいくつかあった。意外な気がしたのは、現状を批判して、壁の復活を望む人たちがいる反面で、壁の存在やその意味をほとんど知らない子どもたちがいることだった。それは、壁がなくなって20年も経つのに、ドイツ人の中にある意識の壁が未だになくなっていないことと、20年も経つと、壁自体の意味がなくなってしまっていることの両面を教えてくれた。

・第二次大戦後にドイツは東西に分割されたが、東ドイツに位置するベルリンもまた二つに分断された。とは言え、市民の中には東に住んで西の大学に通ったり、住居は西で職場は東といった人も少なくなかったから、道路も鉄道も自由に往来できた。だからまた、東から西への亡命も比較的簡単だった。壁ができたのは分断から16年たった1961年である。その時から、東から西への亡命はきわめて困難になったが、それだけではなく、ベルリンの東西を行き来して生活していた人たちの中には、家族や恋人、友人関係を分断され、職場や学校に通うことができなくなった人たちも数多くいた。ドイツで制作されたドキュメントには、突然行き別れにされた学生結婚をしたカップルの脱出作戦と失敗、拘留と裁判、そして再会が本人のことばによって再現されていた。

・ベルリンの壁は徐々に堅固なものになり、およそ30年の間、一つの都市を分断し続けた。一つの都市が政治体制の対立を理由に引き裂かれ、行き来が自由にできなくなる。しかし、ラジオやテレビの電波は、壁を乗りこえて伝播する。東と西の対立はまた、互いを批判し、自らの正当さを主張し合う情報戦争の舞台でもあった。西からは自由な言論や表現と、豊かな物質文化を謳歌する声が発信され、東からは国家が保障する平等で安定した暮らしが宣伝された。そのような対立は、ソ連の揺らぎと共産圏諸国の混乱によって崩される。ベルリンの壁はそういった第二次大戦後の世界情勢の象徴として存在し、冷戦構造の消滅の象徴として壊された。

・壁を懐かしむ旧東ドイツの人たちは、西側の貧富の格差や不安定な生活を批判する。物質的には豊かでなくても、国によって保障された安定した生活を懐かしむ。しかし、そういった態度が、旧西ドイツの人たちから、怠け者として批判される理由になる。壁のあった30年の間に生まれたイデオロギーから生活スタイルの違いが、東西に分断されて来た人たちの意識に壁を作っていて、それが対立の原因になっている。だからいっそ壁を作って、昔の東の世界に戻りたいという気持ちを募らせることにもなるのである。

・放送されたドキュメントには東ドイツのライプチヒで起こったデモと取り締まりの過程と、当時を振り返る人たちのコメントによって構成された番組もあった。監視され、統制された世界から自由な世界への希求が小川から大河になる。それは一大ドラマのようだが、20年経って実現した社会は、ユートピアにはほど遠かった。けれども、豊かで自由に思えるけれども、幸福だと感じにくい社会という実感は、旧東ドイツの人たちだけが持つ思いではない。東への郷愁と片づけるのではなく、西への批判として受けとるべきことだと思った。

2009年11月9日月曜日

インターネットの現在・過去・未来

 

ジョナサン・ジットレイン『インターネットが死ぬ日』ハヤカワ新書
ジェイムズ・ハーキン『サイバービア』NHK出版

internet1.jpg・新聞やテレビが死ぬ日ならわかるが、インターネットの死ぬ日というのはぴんとこない。そう思いながら『インターネットの死ぬ日』を読んでみた。原題は「インターネットの未来」で、この方が内容を的確に表している。
・この本によれば、インターネットの未来が問題なのは、あまりに巨大になりすぎた現状にある。ただし、それは大きさ自体にではなく、大きくなったゆえに政治力や資本に左右され、専門家や大企業だけに任されるようになってきた点、あるいは何より、安心して便利につかえることが最優先されるようになったところにある。インターネットは草の根の民主主義から生まれたメディアで、新聞や雑誌、ラジオやテレビとはまったく異なる形で発展してきた。その本来のメディア特性が、巨大化したことで失われつつあるというのである。

・20世紀に新しく生まれたさまざまなメディアや道具の多くは、完成品として特定のメーカーが生産し、商品として売られてきた。だから利用者には、そのハードもソフトも、自ら改良して使いやすくしたり、新しい機能を追加することなどはできなかった。不満を聞いて改善するのはあくまでメーカーの責任と権利で、それが次の新商品のセールス・ポイントにもなってきたのである。ユーザーが勝手に手を加えることは主として安全性の観点から法律で厳しく規制されてきた。しかし、パソコンとインターネットはまるで違う。

・インターネットとパソコンの特徴は,さまざまな人びとが夢を描き、アイデアを出し、実用化し、改良してきたことにあり、それを無料か少額の使用料で共有し合ってきたことにある。パソコンはAppleやIBMが商品化し、日本をはじめ世界中にメーカーが開発にしのぎを削ってきた。それを動かすソフトはMicroSoftの独壇場だが、新しい世界の開拓には、無数の人たちによる自由な競争や協力の成果であるものが少なくなかった。インターネットはまさに、その好例だと言えるだろう。

・ユーザーを利用だけに限定して、製品やサービスの機能の改善や開発はメーカーがおこなう。ジットレインは、パソコンやインターネットが、そういった発想の通用しないところで発展したことを力説する。そして同時に、巨大な企業によるユーザーを利用者として限定する新たな戦略の普及に危惧を抱く。ハードもソフトもブラックボックスになっていて、利用者には手も出せない。その例としてIphoneやXBoxの普及をあげるのだが、日本のケータイはその典型だと言えるだろう。

cyburbia.jpgg ・パソコンやインターネットの登場と草の根の民主主義の関係には60年代の対抗文化の影響がある。ジェイムズ・ハーキンが主張するのは、そのまた源流として、ノーバート・ウィナーのサイバネティックスの発想だ。サイバネティックスは情報は一方的な流れではなく相互のもの、つまり一つの情報が発せられた時には、すぐにそれに対するフィードバックがあり、そのやりとりがくりかえされることが重要だと考える。多様な人たちが平等に参加し、自由にやりとりすることで誤りや誤解が正される。それは権力による大衆操作に抗する力にもなる。パソコンとインターネットは、そんな発想に基づいて蓄積された情報の産物であり、それを可能にしたメディアだというのである。

・パソコンとインターネットはハードもソフトも、誰もが自由に参加して、新しい使い道を探し、改善できるメディアである。だからこそ、ウィルスが蔓延したりもする。商品として売られている映画や音楽が無償でダウンロードされて被害を被ったりもする。そういったリスクを防いで安全に使えるメディアにすることが何より必要だと考えれば、それに応じてさまざまな制限が施されることになる。しかしそれは、当然、これからも生まれるはずの可能性を摘むことになるし、人びとを受け身のユーザーに限定していくことになる。インターネットの未来は確実に、国家や企業のもとに舵きりがされはじめているのである。

2009年11月2日月曜日

秋の山歩き

 

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パノラマ台から本栖湖、その向こうの山は龍ヶ岳と雨ヶ岳

・10月になってから毎週山歩きをしている。車で出かけて3〜4時間ほど歩くのだが、すべて、付近の山ばかりだ。当然、山頂に登って見るのは富士山ということになる。冠雪して消えたと思ったら、また冠雪。そのたびに、雪の量が多くなり、やがて根雪になって、上半分が真っ白になる。山に登ると、そんな経過がいっそうよくわかる。

photo53-2.jpg・富士吉田市の東に杓子山がある。河口湖インターから高速に乗ると、すぐに右手に見えるひときわ高く、尖った山だ。いつも気になっていたが、その登山ルートの途中にある高座山(たかざす)まで行くことにした。明見(あすみ)から忍野に抜ける山道を鳥居地峠まで車で行くと、歩くのは1時間ほどで頂上に着く。ただし、ほとんど一直線の山道で、ロープがなければ上り下りが難しい場所もあった。木を切った後の茅場からは、忍野の村と北富士演習場、そして富士山が間近に見えた。長年、入会権を巡って闘ってきた「忍草母の会」のシンボル的な存在だった天野美恵さん(85歳)が亡くなったという記事を見たばかりだった。演習場からは大きな砲撃音が聞こえた。頂上には必死に登る小学生の一群。


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・百藏山(ももくら)は中央線の猿橋駅の北にある。中央高速で岩殿トンネルを抜け葛野川橋を渡る頃に左手に見えてくる山だ。大月市の百藏浄水場に車をとめて歩いたが、ここもきつい登りだった。汗びっしょり。1時間半ほどで頂上に着くと、眼下の桂川と遠くの富士山がよく見えた。

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・パノラマ台は精進湖と本栖湖の間にある。三つ峠から続く御坂山系の西端で、富士山に向かって突き出ている。この先にもうひとつ烏帽子岳があるが、眺めはまさにパノラマで、360度見渡せる。広葉樹の森はブナやケヤキなどをはじめ種類が多様で紅葉もすばらしい。栗やドングリがいっぱい落ちていて、栗ご飯用に十粒ほど拾った。

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左から精進湖、王岳、十二ヶ岳、遙かに三ツ峠、西湖、河口湖、手前の烏帽子岳、眼下の樹海、富士山、朝霧高原、龍ヶ岳