今福龍太『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』みすず書房
・ヘンリー・D.ソローは僕にとって灯台や北極星のような人だ。けっして近づくことはできないが、自分の位置を確認するためには欠かせない。都市生活を辞めて田舎暮らしを選んだのも、彼の『ウォルデン』を読んだことがきっかけだった。いつかは実現したい。そんなふうに思ってから20数年経って夢が叶った。そこからまた20年近く経って「森の生活」も板についてきたが、とてもとてもソローには及ばない。実際、森や山や川、あるいは湖の近くに暮らしてはいても、ソローの生き方とはずいぶん遠いところにいる。そんな思いをますます強く実感するようになった。
・ソローは19世紀の前半から中頃を生き、ボストン近郊のコンコードに住んで、森を散策し,湖で暮らし、街ではなく自然の中を旅して、いくつもの著作を残した人である。ただし、彼が書籍として書いたのは、ウォルデン湖の畔で過ごした記録とメイン州を歩いた『メインの森』の2冊だけで、後は死後に刊行された講演記録や、彼が残した膨大な日記である。その日記は彼が死んでから120年も経ってから出版されはじめて、21世紀になってもまだ、新しいものが出されている。
・今福龍太の『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』はその日記を含めて、ソローの残した記述のほとんどを素材にして,ソローという人の生き方や考え方を描き出している。著者のソローに対する姿勢は信奉にも近いものである。
・ごく短い教師の経験と,家業であった鉛筆製造の仕事を一時期手伝ったことを除けば、ソローは人生を通してほとんど仕事をせずに過ごした。結婚をせず、居候をして自分の家も持たなかった。彼が人生を通して熱中したのは自然の中に入ることで、コンコード周辺の野山を歩き、ウォルデン湖に小屋を建てて住み、マサチュセッツ州やメイン州を旅して回ることだった。
・なぜ、何のために歩いたのか。著者は「自分自身を既存の社会秩序から自立するための特権的な方法であった」と言う。それは「教会」「国家」「人民」の外にある「野生」というもう一つの世界である。
自然のなかに感知されるすべての神聖なものの顕れを待ちかまえ,それについて書き記すこと。私の仕事は,自然のなかに神を見いだすためにいつも注意深くあることだ。神の隠れ家を知り,自然のオラトリオ劇やオペラに立ち会うことである。
・ソローはもちろん,既存の社会を見限った世捨て人ではない。彼は奴隷制の存続やメキシコ侵略に抗議して人頭税の支払いを拒んで留置されている。そのことを「市民政府への抵抗」と題して雑誌に寄稿し、その主張はまたガンジーやマーチン・ルーサー・キングの「非暴力的な抵抗」の指針になった。あるいはまた、歩きながら見つけたインディアン(先住民)の矢尻などから、その生活の仕方や世界観を読みとり、移民たちが持ち込んできた自然に敬意を払わない言動を批判した。
・ソローに光が当てられたのは1960年代に発生した,若者たちの「対抗文化運動」のなかだった。環境を破壊し資源を収奪して,物質的な富を追求する。そんな世界の趨勢を批判し,拒絶する行動だった。それから半世紀経ってまた、ソローが残した思想が輝きはじめている。そんな感想を持ちながら本書を読んだ。何しろ今は、理性や正義ではなく、一時の感情や欲望、そして刹那的な楽しみが支配する傾向が増している。それが個人的なものから一国、或いは世界の動向を左右する動因になっている。
・ソローが描く世界は、アメリカを取り戻すと公言して大統領になったトランプには,まったく見えていないものだろう。それだけに、もう一度強い光があたって欲しいと思う。