2024年6月10日月曜日

見事な伐採作業!

 

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すでにこの欄で書いたように、隣地を購入して、生えている松の大木を伐採することにした。新しい土地に何かを作ろうというのではなく、松の枝が折れて落ちて屋根に当たったりして危なかったからだ。それに、別の隣地の赤松が強風で折れてしまったこともあった。伐採には、ストーブを購入して、原木を運んでもらっている木材屋さんにお願いした。松は20m以上あるから、ただ切って倒すというわけにはいかない。家もあるし、大きな欅の木もある。それで大型のレッカー車を使うことになった。当日やってきたレッカー車の大きさにびっくり。よくもまあ、ここまでの細い道をやって来れたものだと感心した。

forest201-2.jpg 作業はレッカーに吊るした檻のようなものに乗って松の上まで行き、ワイヤーをかけるところから始まった。そうしておいて根元からチェーンソウで切り、宙づり状態にしてブルドーザーと連携して少しずつ寝かせて、4mほどの長さに刻んでいった。最初の松を20分ほどで片づけたが、他の木を傷つけぬようにして行うその手際の良さにびっくりした。レッカー車を操縦する人、ブルドーザーを操る人、そしてチェーンソウで木を切る人。三人の連携が見事だった。

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forest201-7.jpg 伐採する松は全部で6本、それに栗の大木と、別の場所の桜の木が2本だった。伐採した木は作業の邪魔にならないように、置き場所を次々変えて行く。そして次の木にとり掛かる。記録係としては、iPhoneを持って、あっちこっち動き回って忙しい限りだった。もちろん、邪魔にならないよう細心の注意を払いながらである。切った後の切り株の大きさにまたびっくり。一番の大木は4.5トンもあったということだった。作業はほぼ午前中で終わり,レッカー車はすぐに退場した。昼休みをはさんで,午後に桜の木を切り、松の木を一ヶ所に積み上げて終了,ご苦労様でした。

forest201-8.jpg さて、栗と桜の木は薪にするとして、積み重なった松はどうするか。考えていることはいくつかあって、それはまた、この欄で紹介しようと思う。いずれにしても,枝だってバカにならない量で、山のように積み重なっている。片づくのは果たしていつのことになるやら。明るくなったところには新しい木を植えようと思うが,これも何にするか。林檎などの実のなる木がいいのだが、鹿はともかく,熊が来たら困ってしまう。実際、家のまわりをうろついた形跡があるからだ。いずれにしても大変やら楽しいやらの出来事だった。

2024年6月3日月曜日

とんだ1泊旅行だった

 
花畑が見られる時期に伊吹山に行こう。これは何年も前から考えていたことだった。で、今年こそと実現しようとしたのだが、とんでもない天候で行くことが出来なかった。庭の松の木の伐採が終わったら伊吹山に行こうか。そんな話をして宿の予約をしたのは半月ほど前だった。1週間ほど前の天気予報では雨マークがついていたが、何しろ僕ら夫婦は晴れ男と晴れ女で、めったに雨に降られたことがない。そう思って予報の変化を期待していたのだが、2日ほど前になっても雨は変わらなかった。それどころか大雨の予報である。さて、どうしようか。ちょっと高い宿を予約したからキャンセル料がもったいない。そんな気持ちも働いて決行することにした。

最初の旅程は家から新東名に出て名神の関ヶ原インターで降りて伊吹山ドライブウェイを山頂まで行き、しばらく散策して郡上の山奥にある宿まで行くというものだった。2日目は高山から松本に帰るとしていたのだが、翌日が晴れだったから、伊吹山は2日目に行くことにした。宿までのコースだが、松本から高山を考えて、中央高速で出かけた。最初はそれほどの雨ではなかったのだが、諏訪湖に近づくあたりから土砂降りになって、これは高速を使った方がいいと思い、そのまま中央高速を走り、東海環状道から東海北陸道で郡上八幡で降りた。雨は断続的に土砂降りになり、時には前が見にくくなるほどだった。

gujo1.jpg 郡上八幡は一昨年に能登に行った帰りに通過したが、訪れるのは初めてだった。長良川と合流する吉田川沿いの谷間に出来た街で、雨にも関わらず観光客が大勢歩いていた。そば屋で自然薯入りの蕎麦を食べて、せめてお城ぐらいはと、傘を差して歩いたのだが、背中も足もびしょぬれになるほどの雨だった。そこからかなり早かったが、宿に向かい、2時前にはチェックインして温泉につかった。晴れていれば満天の星が見えるはずだったが、大雨で、すぐ近くも何も見えなかった。夕食時から警報を告げるチャイムが何度も鳴った。通って来た道路も通行止めになったようだった。

翌日は天気が回復して、伊吹山に行けると思ったのだが、カーナビで行き先をセットすると100 km先に通行止めがあるいう。ちょうど伊吹山の辺りで、スマホで調べるとドライブウェイで土砂崩れがあって終日通行止めと出てきた。それでは仕方がないと、高山経由で帰ることにした。時間的に余裕があるから下道を北上すると、長良川最上流の夫婦滝という表示を見つけた。水量が多くて豪快な滝だったが、普段は二つに分かれていて、だから夫婦滝というのだということだった。そのすぐ先には太平洋と日本海(富山湾)に別れる分水嶺があった。小川とも言えないほどの小さな流れで、それが左右に別れている。本当かどうか疑わしいほどの流れだが、きっとそうなのだろうと思うことにした。

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fallenbirch.jpg で、高山の町を通り抜けて、上高地から松本に出て、中央道で家まで帰った。走行距離はおよそ700kmで、何のことはない、ドライブしただけの旅行だった。ところが帰宅すると、あたりに枝が散らばっている。それどころか、庭の白樺の木が根こそぎ倒れて、工房に寄りかかっていた。留守中にものすごい風が吹いたことがわかる有り様だった。知らぬが仏だが、こんな日に出かけるとはいい歳をして何と無茶なと、反省するばかりだった。しかし、伊吹山には絶対行きたい。そんな気持ちもますます強くなった。



2024年5月27日月曜日

田村紀雄監修『郡上村に電話がつながって50年』 クロスカルチャー出版

 

tamura5.jpg 監修者の田村紀雄さんはもう米寿になる。毎年のように本を出しているが、今年も送られてきた。いやいやすごいと感心するばかりだが、この本は50年前からほぼ10年おきに調査を重ねてきた、その集大成である。彼と同じ大学に勤務している時に、同僚や院生、それに学部のゼミ生を引き連れて、調査に出かけているのは知っていた.その成果は大学の紀要にも載っていたのだが、半世紀も経った今頃になってまとめられたのである。

調査をした場所は岐阜県で郡上村となっているが、このような村は今もかつても存在していない。場所や人を特定されないための仮称で、現在は郡上八幡市に所属する一山村である。田村さんはなぜ、この地を調査場所として選んだのか。それは一つの小さな集落が、電話というメディアが各戸に引かれることで、それ以後の生活や人間関係、そしてその地域そのものがどのように変化をしていくか。それを見届けたいと思ったからだった。始めたのは1973年で、まさにこの村にダイヤル通話式の電話が引かれるようになった年である。そのタイミングのよさは、もちろん偶然ではなく、情報が田村さんの元に届いていて、長期の調査をしたら面白いことがわかるのではという期待があったからだった。

「郡上村」は長良川の支流沿いにある谷間の山村で、この時点の世帯数は1200戸ほどだった。村には手広く林業を営む家があり、そこがいわば名主のような役割をしてきた歴史がある。この家にはすでに昭和4年に電話が引かれていたが、それは個人で費用を負担したものだった。戦後になって1959年に公衆電話が設置され、村内だけで通話ができる有線放送も63年からはじまったが、村外との個別の通話が可能になったのは1973年からだった。

被調査に選んだのは数十戸で、調査の対象は主として主婦だった。この村ではすでに村内だけで通話ができる電話があって、村内でのコミュニケーションには役立っていたが、村外とのやり取りが当たり前になるのは、10年後、そして20年後に行った調査でも明らかである。ここにはもちろん、仕事や学業で家族が外に出る。あるいは外から婚姻などでやって来たり、外に嫁いでいくといったことが一般的になったという理由もあった。日本は1960年代の高度経済成長期から大きな変貌を遂げ、人々が都市に集まる傾向が強まったが、この村でもそれは例外ではなかったのである。

ただし、人々の都市集中や人口の減少で、眼界集落が話題になり、最近では市町村の消滅が問題にされているが、「郡上村」の人口は現在でも、大きく減少しているわけではない。そこには電話や今世紀になって一般的になったスマホやネットだけでなく、クルマの保有や道路の整備などで、近隣の都市に気軽に出かけることが出来るようになったという理由がある。あるいは工場が誘致されて、働き口が確保されたということもあった。

しかし、この半世紀に及ぶ調査で強調されているのは、結婚によって外からやってきた女性たちの存在だった。その人たちが、村の閉鎖的な空気を開放的なものに変えていった。面接調査を主婦に焦点を当てて行ったことが見事に当たったのだった。

2024年5月20日月曜日

SNSはもうやめた

 

SNSについては今まででも熱心ということはなかった。やっていたのはTwitterとFacebookだけで、lineもInstagramにも無関心だった。Twitterは、政治や社会に対して同意できたり、参考になったりする発言をリツイートするぐらいで、自分からツイートすることはほとんどなかった。だから、フォローする人も少なかったし、フォローしてくれる人もほとんどなかった。Facebookはすでに知っている人だけに限定して、知らない人と友達になることはなかったし、「いいね」で反応することもほとんどしなかった。

そんな程度のつきあいだったから、TwitterがXに変わったことをきっかけに、アクセすることも少なくなった。FacebookはCMが増えて、商業主義的な色合いが強くなり、やたら友達候補を並べるのにうんざりして、ちょっと前から全く見なくなった。もうどちらもやめてしまってもいいのだが、やめる手続きをすることも面倒だから、そのままにしている。

そんな具合だから、自分では見たことがないのだが、有名人を騙って投資を呼びかける投資詐欺が話題になっている。警察庁の調べによれば24年1月〜3月だけで1700件が確認され、被害額は200億円を超えているそうである。よくあるのは著名人の画像を貼りつけ、本人になりすまして投資の勧誘をするというもので、本人だと思った人が、言われるままに投資して、それをだまし取られるというものである。

自分の名前をかたった詐欺で被害を受ける人がいることに怒った著名人が、lineやFacebookに対応を求めたようだが、その反応は極めて消極的だったようだ。そもそもこの手の詐欺は、広告として掲載されているからサイトの大きな収入源になっているのである。これでは詐欺の片棒を担いでいるといわれても仕方がないのだが、今のところ取り締まる法律が整備されていないから、野放し状態のようである。

詐欺といえば電話を使った〔オレオレ詐欺」が有名で、その被害も未だになくなっていない。実際僕の家の電話にも、それらしいものがよくかかってくる。迷惑電話防止モードにして「お名前を仰ってください」と告げるようにしているから、何も言わずに切ってしまうことがほとんどだが、うっかりでたら、その話に乗ってしまうことが多いのだろうと思う。

SNSは地縁や血縁の関係が弱くなった現在の社会のなかで、それに変わる人間関係の持ち方として発展してきた。それを使っていい関係を作れる場合が多いのはもちろん、否定しない。しかし-このままでは、電話に変わる詐欺の手段として使われるようになってしまうだろう。くわばらくわばらである。一番の対応策は、SNSをやめることで、そのことで不便さを感じることはなにもないだろうと思う。


2024年5月13日月曜日

ポール・オースターを偲ぶ

 

auster.jpg ポール・オースターが死んだ。享年77歳、肺ガンによる合併症だった。同世代の作家として、僕は彼と村上春樹の二人を愛読してきたから、やっぱり大きなショックを受けた。オースターが書いた小説のほとんどは「消失」がテーマだったが、ついに彼も消えてしまった。

オースターは作家だから、この欄には馴染まないのだが、なぜかここに書きたいと思った。『偶然の音楽』という作品があるからなのか、脚本を書き、製作に参加した映画『スモーク』でトム・ウェイツが歌い、『ブルー・イン・ザ・フェイス』にルー・リードやマドンナが登場したためなのか。いやそうではない。キーワードは「アイデンティティ」である。

identity3.jpegロック音楽が好きだった僕は、それを何とかテーマにしたいと思っていた。それまでロック音楽を社会学的に分析した研究は少なかったが、「カルチュラル・スタディーズ」という新しい研究スタイルが生まれて、その手法がロック音楽の分析に役に立つのではと気がついた。1990年代の始めの頃である。そこからいくつかの論文を書いて、2000年に『アイデンティティの音楽』というタイトルで世界思想社から出版した。

「アイデンティティ」は自分が一体誰なのかを確認する根拠になるものである。僕はそれがロック音楽の中で共通して歌われるテーマであることに注目した。それは大人になる過程の若者についてであり、性や性別について悩み、不当さに怒る女達についてであり、人種や民族、あるいは階級の違いとそれにまつわる差別や偏見に晒されてきたマイノリティの叫びや主張であって、ロック音楽の中でよく歌われ続けてきた。

僕がオースターの小説を読んだのは、『アイデンティティの音楽』を書いていた時期に重なっている。彼の書く小説の主人公はほとんどが若者で、さまざまな理由や状況下で「アイデンティティ」に悩み、惑わされていた。それが理由で大学や仕事を辞め、放浪の旅に出る。そこで奇妙な、そして偶然の出会いや、出来事に遭遇し、時には成長して無事帰還したり、消え去ってしまったりする。その想像力に溢れた世界に魅了されて、熱心に読んだ。

若者が主人公である村上春樹の小説と違って、オースターは自分の歳に合わせるように、主人公を変えてきた。そこでも「アイデンティティ」は大きなテーマだったが、それは若者とは違って、すでに確立したものが消失するゆえに起こる悩みや苦悩になった。スーパースターになり、高齢になったミュージシャンの中には、同じようなテーマを歌にする人たちもいる。僕はそんな人たちのアルバムを好んで聴いているが、それをテーマに、また分析して見たいとは思わない。研究者という「アイデンティティ」はとっくに消してしまっているからだ。

なお、これまでにオースターについて書いたものは、検索欄にオースターと入れれば読むことが出来る。多くは一部に取り上げたものだが、コロナ禍で引きこもっている時に、ほとんどの作品を再読して、改めて紹介している。

2024年5月6日月曜日

いろいろと忙しい日々

 

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一昨年鹿に食べられたカタクリが、今年は少し回復してきたのに、また、鹿が食べに来た。夜だったからよく見えないはずだが、おそらく同じ鹿で、前に食べたところを覚えていたのだろう。これで一番密生したところが、きれいになくなってしまった。150近くまで増えた花が100ほどになって、今年はまた50ほど。がっかりしてすっかり落ち込んでしまった。

forest200-4.jpg道路から家までの道には5本の桜があった。花があまりつかなくなって数年前に一本伐採したが、家に一番近い富士桜も、枯れ枝が増えて花の数が少なくなった。そこで枝打ちをして養生をした。道に一番近い大島桜は元気だが、間の2本は花も少なかったから、これも切ってしまおうと思っている。後にまた桜の木を何本か植えるつもりだが、さて何にしようか。

今のストーブを使いはじめて12年経って、扉のガラスが割れたことから、分解掃除をしてもらうことにした。還元装置を支えるセラミックボックスの痛みがひどいのでこれを交換し、ダンパーにゆがみが出ているというので、それも換えてもらった。屋根に上って煙突掃除もしてもらって、15万円ほどかかった。大きな出費だが、これで、あと10年ほどは安心して使えるだろうと思う。

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前回のこのコラムで書いたように、隣地を購入した。交渉や手続きに手間取って、伐採する予定の木には葉っぱが茂ってしまった。実際に伐採するのはまだ先だからすっかり緑に覆われてしまうだろう。切るのは松が8本で、大きな栗の木が1本、それに桜の木も切ってもらうつもりだ。切った木はそのまま置いていってもらうつもりだったが、どれだけの量になるのか心配になってきた。栗と桜は薪になるが、松はどうしようか。トラック一台分ぐらいは持っていってもらおうかと思いはじめている。その後には林檎の木でも植えて実のなるのを楽しみにしようかなどと考えているが、鹿や熊を呼ぶだけかも知れない。

forest200-5.jpg こんなふうに、今年は人とのつきあいや交渉事が増えている。パートナー以外には誰にも会わないし、話もしない。コロナ禍の後、そんな日々が続いていたが、最近は社会との接触が増えている。湖畔に出れば、うんざりするほどのクルマや人混みだし、駅に行けば、ここはどこの国かという気持ちになる。だからまた、引きこもりがちにもなってしまう。
とは言え、野球でがんばっている孫を応援に1年ぶりで東京に出かけた。連休中だったから、下りの中央道は大渋滞だったが、上りは空いていて、いつもより早く着いた。ずいぶん上手くなって、キャッチャーをやり、ヒットも打って試合に勝った。

2024年4月29日月曜日

地震対応に見るこの国のお粗末さ

 



taiwan14.jpg台湾の花蓮で4月3日にマグニチュード7.7の大きな地震があった。ビルが傾いたりして被害の大きさが報道された。僕は2012年に台湾一周旅行をして、花蓮にも数日滞在し、太魯閣峡谷に出かけている。海でできた分厚い石灰岩が大理石に変成し、隆起した後に、長い年月をかけて雨によって削られた場所で、何千万年という時間が作り出した絶景だった。ところがこの地震で一番人的被害が多かったのがこの地域で、がけ崩れで埋まった人やトンネルに取り残された人、あるいは交通遮断で孤立した人たちなどが多数いたのである。一度行ってその景観に圧倒されただけに、その峡谷が崩壊したらと考えただけで恐ろしくなった。

しかし、もっと驚いたのは花蓮で避難所を設置する様子で、それほど時間が経っていないのに、体育館にずらっと個室が並んでいたのである。まだ被災者がほとんどいないのに食べ物や衣料など、必要なものも整えられているという報道だった。日本では正月に能登の地震があって、相変わらずの体育館に雑魚寝の様子が伝えられていたから、その違いに驚かされた。

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花蓮は最近でも2018年と22年に大きな地震に見舞われていて、その度に大きな被害を受けている。だから地震に対する備えが出来ていたのだろう。報道では、台湾の災害対応は1999年の地震以後に日本から学んだということだった。花蓮では2018年の地震でうまく対応できなかったことを反省して、必要なものの備蓄を整え、人々の訓練も行われてきたと報じられた。傾いたビルの撤去がすぐに始まったことにも感心させられた。花蓮では23日にも大きな余震があってビルが傾くなどの被害があった。おそらくまた迅速な対応をしているのだと思う。

ところが日本では能登地震から4ヶ月が過ぎようとしているのに、未だに避難所生活をしている人がいる。家が住める状態だとしても、上下水道が普及していないところが多いようだ。仮設住宅の建設もほとんど進んでいないのである。倒壊した建物や、破損したクルマがそのままに取り残された光景を見ると、4ヶ月も経っているのに、いったい何をしているんだろうと怒りたくなる。

もっともテレビは、そんな普及の遅さを批判的に伝えたりはしない。水道が使えないのにレストランやカフェを営業しているなどといった事例を美談のようにして紹介するものが多いのである。政府や県の対応のまずさ、というよりはやる気のなさが目立つのに、強く批判するメディアがほとんどないという現状には呆れるばかりである。ネットでフリーのジャーナリストの現地報告を何度か聞いたが、能登の人たちがまさに棄民状態に置かれたままであることを一様に話していた。被災した人たちの政府や自治体、そしてメディアに対する不信感はかなりのものようだ。政治もダメだがジャーナリズムもダメ。この国のお粗末さは、いったいどこまでひどくなるのだろうかと空恐ろしくなる。