2003年6月30日月曜日

カメラ付き携帯のいかがわしさ

 

・ちょっと前にある週刊誌から電話取材を受けた。話題は「カメラ付き携帯について」。僕は持っていないし、街にもめったに出かけないから、その実体についてはほとんど知らない。で、どんな状況なのかをまず説明してもらって、それから、思いつくことを話した。
・時間にすれば30分ほど。その記事は数日後には発売され、僕の話も5行ほど紹介されていた。その記事で初めて知った事例などもあったし、僕が話したことの一部しか取り上げられていなかったから、この際、考えたところをまとめておこうと思う。携帯そのものには興味はないが、それをつかって人びとがする行為には、その普及のはじめから、気になるものが少なくなかった。まずは、そのあたりから………。
・携帯がでてまず問題になったのは、公共の場での突然のベルと大きな声での会話。混んだ電車の中での電話はひときわ大声になるから、周囲の人たちには迷惑なことこの上なくて、そのトラブルがマスコミで何度も取り上げられた。で、音を出さずに携帯を振動させて知らせる機能が開発されたり、メールのやりとりができるようになった。ところが、携帯の発する電波が心臓のペースメーカーに危害を加えるといったことが指摘されて、電車やバスなどの公共の場では、携帯の使用は自粛や禁止といったことになった。で、学生の話を聞くと、最近の電車内では、親指を使ってのメールのやりとりが目立つようである。メールのやりとりでも電波は出るはずだが、その害についてはあまり取りざたされていない。
・僕は車で通勤しているから、ドライバーが片手で携帯を使っている光景をよく見かけた。何となく挙動不審の車があると携帯を疑ったが、半数以上は案の定といった感じだった。これも問題になって条例で規制されたから、東京では目立たなくなった。しかし住んでいる河口湖周辺ではまだよく見かける。シートベルトや飲酒運転とあわせて、運転マナーは都会の方が周知徹底されている気がするが、これはマナーに対する意識というよりは、交通量や日常生活のなかで出会う人間関係の質の違いなのだと思う。ドライバー同士がすれ違いざまに挨拶、などといった光景は、東京ではめったにお目にかかることがないからだ。
・で、カメラ付き携帯だが、一方でデジタルカメラも普及して首にぶら下げて街を歩く人も増えているから、街中でシャッターを切る機会も、当然増加しているはずである。なのになぜ、カメラ付き携帯が問題になるのか。
・たとえば多くの人には、見ず知らずの他人に了解なしにカメラを向けるのは失礼だという意識があるから、特に素人にとっては、それは勇気のいる行為になる。おそらく、フィルムがデジタルに変わっても、それがカメラである限りは、この意識がカメラを向け、シャッターを切ることを躊躇させるはずである。しかし、カメラ付き携帯だとその意識は希薄だという。それはどうしてなのか。
・まず考えられるのは1)カメラ付き携帯は何より電話であって、カメラはその付属機能にすぎないこと、2)その小ささ、目立ちにくさ、だろう。カメラを人に向けているという自覚は希薄だし、あっても気づかれないと思えそうだ。撮られている側にとっても、カメラではなく携帯を向けられているのだから、撮られているという意識は少ないだろう。その互いの自覚のなさ、意識の低さがまず問題を起こすきっかけになっている。だから当然、その特徴をいいことに、覗きや隠し撮りをするといったずる賢さが入り込む余地もできるわけだ。
・このようなことが問題化すると、必ず、「だからマナーの徹底を」といった方向に動くことになる。そしてマナーで改善できなければ、条例で取り締まりをという方向に進んでいく。最近の嫌煙権から「タバコ条例」への展開がその好例だが、マナーの低さを理由に取り締まる条例が次々できたのでは、生活がしにくくなってしょうがない。それでなくても日本には、個人の責任であるはずのことをおせっかいに規制する法律がたくさんあって、大きなお世話と思うことが少なくないのである。
・欧米の社会には、見知らぬ他人同士のあいだで不要な関わりが生じるのを避けるための暗黙のルールがあって、E.ゴフマンはそれを「儀礼的無関心」と名づけた。見知らぬ他人に不快な思いをさせてはいけないし、危害を加えるのはもってのほか。あるいはみだりに関心も向けてはいけないというルールだが、ここには逆に、関心をむけられるような行動も控えるようにという暗黙の戒めもある。
・もちろん、日本人同士の場合にも、特に都会ではこのような意識は働いている。だから嫌煙権が正当な主張と見なされるわけだし、理由もなく写真に撮られることを拒絶する権利も当然のことと思われるわけだ。けれどもまた、一方で、電車内での飲食や女性の化粧が話題になったり、肌を露出させたファッションも目立つようになっている。少年少女の非行(家出、援助交際、アルコールやドラッグ等々)が話題になると、きまって彼や彼女たちが言うセリフは、「人に迷惑かけなければいいじゃん」だが、そこに「迷惑」についての自覚がどこまであるのか、はなはだ疑問に思うことも多い。
・このように「儀礼的無関心」に対する意識はその高まりと同時に低下という、相反する形であらわれているように見える。けれども、むやみに関心を向けられたくないという権利は関心を集めてはいけないという義務とセットのものだから、それは、権利意識ばかり自覚するようになって、義務については知らん顔という、利己主義的な社会のあらわれのようにも思えてしまう。
・異質な人間が共存する欧米社会と違って、日本人は同質性を前提にするといわれている。電車内で居眠りをしたり、財布の中身を確認したりといったことは、今でも珍しくない光景だ。都市に住んではいても意識は田舎の共同体と指摘されるゆえんだが、その意識が、ひったくり等の犯罪にあいやすいとかキャッチ・セールスを断りにくいことの原因として指摘されたりもする。
・有名な土居健郎の『甘えの構造』には、日本人が考える「世間」が顔見知りの他人とのあいだのことであって、その外にある広大な見ず知らずの人間との関係はほとんど無関係のこととしてすましているという指摘がある。「旅の恥はかきすて」だが、それは「知らない人ばかりだから、何やってもいいじゃん」という感覚につながっている。もう30年以上前に書かれたベストセラーだが、日本人の意識は一面では、まったく変わっていないのである。
・ところで電話はそれがコミュニケーション・ツールとして再認識されるようになってから、いろいろな問題を引き起こしている。「ダイヤル伝言板」「ダイヤルQ2」「テレクラ」、さらに携帯の「ワン切り」や「ジャンク・メール」。で、NTTはその都度、自らの責任よりはユーザーのマナーの問題として対処してきた。その態度は今回の「カメラ付き携帯」でも同じだが、商品化すれば覗きや盗撮の道具に使われることは分かっていたはずで、その責任と義務をもっと自覚してもいいはずである。
・このように考えてくると、今の日本人に欠けているのは、個人も企業も、あるいはマスコミも、社会の一員であることから生じるはずの「義務」の感覚のように思える。法律で規制されるのは窮屈だし、他人から指摘されれば、妙に激しくムカついたりもする。だからそうならないために、日頃から自覚を。これはもちろん、他人に向かって言うことである以前に、自分に言い聞かせることでもある。

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