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2019年5月27日月曜日

加藤典洋の死

 

・加藤典洋の死は不意の訃報だった。ツイッターをチェックしていて信じられない気がしたが、同様のツイートがいくつもあって、本当のことなのだと理解した。同世代で信頼している人をまた一人失った。肺炎が死因のようだが、体調は以前から悪かったようだ。ただし、今年になっても新刊本が出ているから、病をおして書き続けていたのかもしれない。

・加藤典洋はぼくと同学年だ。1985年に『アメリカの影』(河出書房新社)でデビューして以来、ぼくは彼の著書の熱心な読者だった。彼の関心がぼくと重なることや、執筆活動を志すきっかけが鶴見俊輔だったこと、それに村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』(新潮社)を評論して1988年に出た『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』が、ぼくの『私のシンプルライフ』とほぼ同時期に筑摩書房から出版されたことなど、親近感を持つ理由はたくさんあった。

・ぼくはこのレビューで彼の本を四度取りあげている。『言語表現法講義』(岩波書店)は大学の教職について学生に文章を書かせる苦勞を書いたものだが、書かれていることの多くに強い同感をもった。彼は鶴見俊輔の『文章心得帖』(潮出版)を引用して、文章のおもしろさが「1.自分にしか書けないことを、2.だれでも読んでわかるように書く」ことで生まれてくると書いている。これはぼくが学生に対してまず最初からくり返し話していたことでもあった。そんな授業をして、彼は学生たちと『イエローページ村上春樹』(荒地出版)を出した。そしてぼくもまた、学生の書いた卒論を1990年に教職について以来、退職するまで『卒論集』としてまとめつづけてきた。ぼくも彼も、誰であれ、懸命に書いたものにはそれを読む読者が必要だと考えたからだ。

・『村上春樹は、むずかしい』は、村上自身の『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング)、内田樹の『村上春樹にご用心』(アルテス・パブリッシング)と一緒に紹介した。村上は狭い文壇社会から距離を置き、独特のスタンスを築いて、日本では異端の扱いをうけながら世界的な作家になった。加藤がこの本で試みているのは、改めて村上を、日本の近現代文学の枠内に位置づけることだった。そこにはまた、閉塞的な日本の文壇という殻を打ち壊す狙いもあった。そしてその村上もまた、僕等とは同学年である。特にぼくとは生年月日が3日しか違わない。そんな意味でも、ぼくは村上の小説にはずっと関心をもち、加藤の村上論にも注目しつづけてきた。ぼくが読んだ感想と、加藤のそれとはどこが一緒で、どこが違うのか。それはぼくにとっては、村上の小説を読むことと同じぐらい、興味のあることだった。

・2011年3月11日の東日本大震災と福島原発事故について書かれた『3.11 死に神に突き飛ばされる』(岩波書店)も伊藤守の『テレビは原発事故をどう伝えたのか 』(平凡社新書)と一緒に紹介した。両者に共通しているのは、震災や原発事故の報道に見られた「原発事故と住民の避難にかかわるさまざまな情報に関して、情報の隠蔽、情報開示の遅れ、情報操作等のさまざまな問題」への注目であり、被災した住民ではなく、政府や企業サイドについているメディアの立ち位置や姿勢に対する批判だった。加藤はそこから、政府もメディアも専門家も信用できなければ、事故処理の過程や今後の原発と電力の関係について、政治や経済、社会、そして専門的な科学知識も含めて、自ら考えて、自分なりの見通しや哲学を作り出す必要がある、と説いた。

・加藤にとって最近の一番のテーマは「戦後」だった。そこにこだわって何冊もの本を書いているが、このレビューでも『戦後入門』(ちくま新書)をジョン・W.ダワーの『容赦なき戦争』(平凡社ライブラリー)と一緒に紹介した。ダワーの『容赦なき戦争』は第二次世界大戦を「人種差別」の視点から考察し、ドイツと日本への対応の仕方の違いから「人種戦争」と結論づけたのだが、加藤の『戦後入門』では、戦時中にされた都市への激しい空爆や原爆投下を、日本がなぜ人種差別的な行為として抗議をしなかったのか、その理由を詳細に検討している。

・連合国が日本に降伏を迫った「ポツダム宣言」(1945)だけであれば、日本は1952年には独立して、占領状態は終わっていた。しかしアメリカと単独で1951年に結ばれた「サンフランシスコ講和条約」によって、米軍基地や「日米地位協定」が現在まで存在して、まるでアメリカの植民地のような状態になっている。この曖昧さは「日本国憲法」と自衛隊の存在、加害者としての戦争責任や被占領国への謝罪の少なさ、非人道的な空爆や原爆投下に対するアメリカへの抗議のなさ、さらには戦争で命を落とした人への態度の有り様など、あらゆる面に及んでいて、ほどけない糸のように絡まり合っている。

・僕は最近、この『戦後入門』を再読しているところだった。加藤が安倍政権を「対米従属の徹底と戦前復帰型の国家主義の矛盾」と捉えて、批判してからもう4年が過ぎた。安倍政権はますますひどいことになっているのに支持率が下がらない。その理由がどこにあって、どうしたら現状を打破することができるのか。読み直そうと思ったのは、そんな気持ちからだった。そんな現状に対する危惧は加藤の方がはるかに強かったのだろう。彼は『戦後入門』の後も、『敗者の想像力』(集英社新書)、『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(幻戯書房)、『9条入門』(創元社)と書いている。

・「日本国憲法」、特に9条についてもう一度、しっかりと考えてみなさい。そのことばを加藤典洋の遺言としてかみしめたいと思う。

2019年5月6日月曜日

高齢者の自動車運転について

 

・高齢者の起こす交通事故がくり返し話題になっています。池袋で起きた事故では自転車に乗って横断歩道を渡っていた母子が亡くなって、加害者への非難はもちろん、高齢者の運転をやめさせろといった声が大きくなりました。運転していたのは87歳の元官僚で、逮捕されずに入院し、報道で「さん」づけされたりしたことから、元官僚に忖度しているのではないかといった批判が出たりもしました。同じ日に神戸で起きたバスでの人身事故では運転者がその場で逮捕されていましたから、その対応の違いに注目が集まったのでした。どちらもひどい事故だとは思いましたが、あまりに感情的なテレビ報道には、やっぱり強い違和感をもってしまいました。何ごとによらず、一方的に煽ることしかしない最近のテレビにこそ、もっと批判の目が向けられるべきなのです。

・昨年(2018年)の交通事故での死者数は3532人ですから、およそ一日に10人前後が亡くなっていることになります。このすべての事故の中から大きく取りあげられるのは、加害者は誰か、被害者は誰か、事故原因は何か、その状況はどんなだったか、場所はどこかについての興味や感情をかきたてる特異性ということになります。死亡事故の多くは、新聞の地方面や地方新聞の記事で小さく扱われるだけでしょう。ですから、交通事故と死亡については、もっと実態を見る必要があるのですが、テレビはセンセーショナルに報道し過ぎるように思います。

・警察庁交通局の資料によると、交通事故での死者数が一番多かったのは1970(昭和45)年で16765人でしたから、昨年はその2割強にまで減少していることになります。その間、車両の保有台数は3倍以上、運転免許保有者数が3倍弱、そして走行距離も4倍弱になっていますから、死者を出す事故の割合は大きく減少してると言えるでしょう。最近の特徴として、死亡者に占める割合として65歳以上の高齢者が多いことがあげられますが、その多くは歩行中に車にはねられる場合で、その割合は70歳以上から増加し80歳以上が特に多いというものです。歩行中の死者数は全体の55%ほどですが、その70%以上が65歳以上の高齢者です。統計からは、高齢者にとって危険なのは運転よりは歩行中であることがわかります。

・それでは高齢運転者による死亡事故ではどういう特徴があるのでしょうか。免許人口10万人あたりの年齢層別事故件数で一番多いのは85歳以上(14.6人)です。80~84歳(9.2 人)も高いですが、この間に16~19歳(11.4 人)が入ります。続いて75~80歳(5.7 人)、20~24歳(5.2 人)、70~74歳(4.1 人)、そして25~29歳(4.0 人)となります。確かに高齢になれば死亡事故の確率が高くなりますが、それは10代から20代の若者層にも言えるのです。もちろんその理由は大きく違います。高齢者にとっては老化による心身の衰えが原因ですが、若者層では運転の未熟さや無謀な運転が原因になります。

・高齢運転者の事故で目立つのはもう一つ、免許を保有する人が急激に増えていることがあげられます。75歳以上の免許保有者は、この10年で2倍、80歳以上は2.3倍に増加していて、この数は団塊世代の高齢化によってますます増える傾向にあるのです。免許証を返納しましょうという呼びかけは、このような高齢運転者の増加を危惧してのものでしょうが、都市部ではともかく地方では、車がなければ生活できない人も多いのが現状です。たとえばぼくは現在70歳で、車がなければ買い物もできないところに住んでいます。ですから、車の運転をやめる時には、今住んでいるところから引っ越しをしなければならないことになります。しかし、そんな歳になって、どこに行けばいいのでしょうか。

・高齢運転者が起こす死亡事故で一番話題になるのはアクセルとブレーキの踏み間違いのようです。しかし原因として多いのは安全不確認や前方不注意のほうで、この面でもメディアの取りあげ方には偏りがあります。また高齢者の起こした死亡事故件数は免許証所持者の増加にもかかわらず、ここ数年漸減傾向にあるようです。それはおそらく、車に装備された安全運転装置の進歩や普及によるのだと思います。前方に障害物があったり人がいたりすれば、アクセルを踏んでも自動でブレーキがかかりますし、レーンをはみ出せば警告音が鳴ったり、自動で修正したりもするようになりました。前後左右に設置されたカメラが、運転者の目を補強する役割がかなり備わってきているのです。この進化はおそらく、今後もさらに強化されるでしょう。完全自動運転とはいかないまでも、運転者の不注意や反応の衰えを補強する技術によって、高齢者の起こす事故は減っていくに違いありません。

・だとすれば、高齢者の運転を頭ごなしに批判するのではなく、安全装置のついた自動車に乗り換えるよう、国が積極的に推奨して、補助金を出すようにすることが賢明な策だと思います。しかし、アクセルとブレーキの踏み間違いや高速道路での逆走などはもちろんですが、車庫入れや駐車、狭い道でのすれ違いなど、基本的なところで以前の運転ができなくなったと自覚した場合には、免許証の返納を考えるのが無難だと思います。いずれにしてもこの問題は、一つの悲惨な事故から感情的に一方的な結論を出すようなことではないのです。

2019年3月11日月曜日

辞める人、辞めさせられる人

 

・NHKがひどい。ニュースに関するかぎり、もう中国や北朝鮮と変わらない、国営放送そのものだ。『安倍官邸VS.NHK』(文藝春秋)を書いた元NHK記者相澤冬樹が、「大竹まことゴールデンラジオ」(文化放送)に出て、NHKが変節したポイントに、ニュース番組から大越健介を交代させ、「クローズアップ現代」から国谷裕子を降ろしたことをあげていた。2015年から16年にかけての頃で、古賀茂明が「報道ステーション」(TV朝日)、岸井成格が「ニュース23」(TBS)を辞めさせられたのもほぼ同時期だった。安倍首相がメディアに積極的に介入し始めた時で、この後も、辞めた人、辞めさせられた人、なくなった番組などは少なくなかった。ついでに言えば、最近問題になった統計不正が頻繁に行われ始めたのも、この頃からのようだ。

・安倍政権がどんなにひどいものか。テレビはそれをほとんど取りあげない。だからだろうか。政権の支持率は五割を超えたままだ。しかし、対照的に、ラジオには、キャスターやコメンテーターが日々の政治状況を強く批判する番組がいくつもあった。ぼくの家では東京のラジオは受信できないが、ネットからなら聞くことができる。TBSには「ラジオCLOUD」があり、文化放送には「ポッドキャスト」がある。さらにYouTubeにはさまざまな番組の全部や一部を聞くことができるチャンネルが数多くある。

・よく聞いている番組には「荒川強啓デイキャッチ」と「大竹まことゴールデンラジオ」がある。コメンテーターやパートナーによって聞かない日もあるが、夜にチェックするのが日課になっている。ところがその「デイキャッチ」が3月で放送を終了することになった。1995年以来24年も続いた番組で、今でも聴取率は高かったという。もちろんやめる理由は荒川本人のものではない。終わるのは「番組としての役目が終わった」ということだが、おもしろいとか役に立つと思って聞いている聴取者がたくさんいるのだから、終わってなどいないはずである。いよいよ政権の圧力がラジオにまで及んできたか。そう思わずにはいられない出来事である。

・もう一つ、よく聞いている「大竹まことゴールデンラジオ」は大竹本人の腰痛で、昨年から今年にかけては本人不在で放送されることが度々あった。荒川より若いとは言え、彼も今年70歳になる。コメンテーターにお笑い芸人を多数使っていることもあって、下ネタで笑いをとることも多いが、その話題が大竹自身の老化現象であったりするから、ぼくにも思い当たる節があって、笑いながらも、共感することが少なくない。

・ただし、政治や経済の問題については、テレビはもちろん、ラジオの他局よりも先鋭的で、一部で話題になってもメディアではあまり取りあげない人や事件を登場させることが多かった。たとえば、元文科省次官の前川喜平、TBS記者に強姦された伊藤詩織、不当逮捕され、裁判で無罪になった官僚の村木厚子等々で、他にも、大竹本人が本気で怒りをぶつけるような発言があって、これについても共感することが多いのである。体力や気力を理由に辞めたりしないようにと思うばかりである。

・この番組に限らず、ラジオにはテレビとは違って、政治問題を正面から取りあげて、批判的なコメンテーターに歯に衣着せぬ発言をさせる番組が少なくない。テレビとラジオは同じ系列下にあって、TBSは言うまでもないが、文化放送と日本放送はフジテレビである。フジテレビは産経新聞の系列で、朝日新聞とテレビ朝日、読売新聞と日本テレビ、日本経済新聞とテレビ東京など、日本ではアメリカでは禁止されている「クロスオーナーシップ」が当たり前になっている。

・系列化していれば当然、新聞とテレビは政治に対して似たようなスタンスをとる。読売新聞と日本テレビ、産経新聞とフジテレビ、朝日新聞とテレビ朝日、毎日新聞とTBSだが、ラジオの文化放送には同系列の日本放送以上に、産経やフジのスタンスとは違うものを感じている。ネットで調べると、フジサンケイグループでありながら独自色を強く出す方針があって、それは開局以降の歴史にもよるようだ。もともとはカトリック布教を目的に開局され、その後の労働争議などによる混乱時に旺文社や講談社といった出版社が参加して再建して「文化放送」という名になったようだ。だから、テレビ朝日や日本テレビとも野球やマラソン、駅伝などのスポーツ番組で連携する場合がある。

・ラジオはテレビに比べて聴取者の数が少ないし、年齢層も高いといわれている。音声だけのメディアだということもあって、その影響力はテレビの比ではないだろう。しかしそれ故に、テレビではできない放送も可能になる。そんなラジオの特性に魅力を感じて、死ぬ間際まで登場していたのが永六輔だった。そしてその姿勢を受け継いでいるのが久米宏である。彼が毎週土曜日に登場している「久米宏ラジオなんですけど」も、ぼくが欠かさずネットで聞いている番組だ。彼もまた70歳を超えていて、大竹同様、いつまで続けられるのか心配だが、本人はまだまだやる気があった荒川強啓のように、番組自体を終了させられたりしないように願うばかりだ。

2019年1月14日月曜日

平成とは

 

・もうすぐ平成が終わる。平成とはどんな時代だったのか。メディアにもそんな特集を組むものが出始めている。戦後の経済成長によって豊かな国になったのに、昭和から平成への変わり目を頂点にして下降線をたどり続けた30年だった。それが一般的な見方のようで、ぼくもそう思う。落ち込みは経済が一番だが、政治の劣化は目を覆いたくなるほどで、少子化や格差の拡大による社会の疲弊も無残というほかはない。

・4万円に届こうかという勢いだった株価が1万円を割り、アベノミックスで2万円に回復したとは言え、実態は日銀や年金機構が買い支えるというインチキなものである。日本の企業を支える大株主が日銀や年金機構だというのは、いびつで危険な状態である。国の予算の4割を借金でまかなうのも、今では常態化してしまっている。そのために、国と地方の借金は平成元年には250兆円だったのが、30年には1100兆円を超えた。なぜ財政破綻をしないのか不思議なほどの額になっているのである。

・テレビでは相変わらず「日本のここがすごい」といった特集をやっている。しかし、経済成長をリードした家電業界は、すでに見る影もなく衰退しているし、好調だと言われる自動車にも陰りが見え始めている。平成の30年はまたパソコン、インターネット、そして携帯からスマホへといった大きな変化があった時代だが、「ガラパゴス」という閉じた発想によって、日本は完全に取り残されてしまった。

・「グローバリズム」や「少子高齢化」といった現象に、政治はまったく対応できなかった。選挙制度を大きく変え、民主党が政権を取ったりしたが、その事がかえって、政治の混迷や横暴を招く結果をもたらした。優秀だと言われた日本の官僚組織の劣化は、特にここ数年ひどいものになっている。借金財政なのに防衛予算だけが大幅に増大し、福祉や年金が削られている。団塊の世代が退職をして高齢化していく時期を迎えても、ほとんど何も対策が採られていないのである。

・少子高齢化がやってくるのは何十年も前から分かっていたことだから、今になって騒いでも後の祭りというものである。労働者の不足を補うために外国人をもっといれようとしても、その対応策はほとんどとられていない。そもそも、移民としては認めないという身勝手なものになっている。格差社会をさらにひどくするものだから、人権無視や犯罪の増加といった社会不安も増すばかりだろう。

・平成のはじまりには、ソビエト連邦がロシアになり、ベルリンの壁が崩壊して、冷戦構造も終結した。中国の改革開放が本格化し、自由と民主主義を求める波が天安門事件で粛正されたのも、平成元年のことだった。EEC(欧州経済共同体)がEU(欧州連合)になったのが1991年。世界が大きく変わることを実感させる出来事が続いた。この30年で世界の人口は1.5倍に増え、世界の名目GDPも3倍以上になった。この増加をリードしたのは、中国やインドなどのアジアとアフリカ諸国だ。

・ユーゴスラビア紛争が起こり、連邦が解体する内戦になり、中東の混迷のきっかけになった湾岸戦争が始まったのも平成のはじまりだった。ニューヨークの貿易センターに旅客機を衝突させた9.11事件があって、アメリカがイラクのフセイン政権を倒し、リビアやシリアなど多くの国に波及して内戦状態になった。多くの難民が出て、豊かなヨーロッパに押し寄せた。それを嫌うナショナリズムの高まりが、極右の政治家や政党を生み出してもいる。改めて振り返ると、昭和から平成への変わり目が、世界的に見ても大きな変化をし始めた時期だったことが分かる。

・最後に個人的なことに目を向けてみよう。平成の30年はぼくが大学の専任教員として働いた年月でもあった。途中で大学を大阪から東京に代えたが、この30年はまた学生の気質や大学という場に大きな変化があった時期でもある。大学が勉強する場であることは、ぼくが学生の頃から薄れ始めていたが、レジャーランドと揶揄され、また就職予備校へと変貌していく過程は、ぼくにとっては居心地の悪さが募っていく変化でもあった。

・今は退職し、70歳になって、これから老後と言われる生活をするようになった。今の生活がいつまで続けられるか。それはぼく自身の心身の変化に関わる問題だが、同時に、日本や世界の政治や経済、そして社会や文化がもたらす変化とも関わってくる。それにしても、両面に渡って、何とも先が見えにくい。そんなことを改めて感じてしまった。

2018年11月26日月曜日

自動車を巡る騒動について

 

・ぼくはスバルに乗るようになって、もう30年近くになります。レガシー・ワゴンに一目惚れして以来、現在で6台目です。途中、パートナーと一台ずつの時期もありましたが、今は昨年の暮れに買ったアウトバックに乗っています。ちょうど購入時にスバルの検査不正というニュースがありました。それは改善されたはずでしたが、相変わらず不正が行われていたようで、新聞ではずい分大きく取りあげられてます。

・スバリスト(スバルファン)を自任する者としては当然、けしからんという氣持ちが強いですが、そもそも完成車を最後に検査する必要性の方に、より疑問を感じていました。何しろ検査を義務づけているのは国内販売だけで、輸出車には行われていないのです。ですから必要性の薄れてきた検査をいつまでも義務づけている国土交通省にこそ、批判の矛先を向けるべきなのですが、そんなことを指摘するメディアはほとんどありません。

・合わせていくつかのリコールも発表されましたから、今スバルは踏んだり蹴ったりの状態です。リコールはどこの会社からも出ていて、特にスバルに限ったことではないのですが、売り上げはずい分落ち込んでいるようです。マイナーな車だからこそ好きになったぼくとしては、運転途中で出会うことが少ないことを好ましく思っていますが、社運が傾いたのでは困ります。スバルはこれまでにもくり返し経営危機に陥って、そのたびに不安な気持ちにさせられてきました。

・自動車会社は日本の輸出を支える基幹産業です。その中の三菱自動車は経営危機によって一昨年に日産自動車傘下になりましたが、その日産も1999年の経営危機の際にフランスのルノー傘下に入っています。この3社は「ルノー・日産・三菱アライアンス」と名乗って、それぞれ独自の車種を作り続けていますが、その世界販売台数は1061万台で世界2位になっています。ちなみに1位はフォルクスワーゲン、3位はトヨタでした。

・世界第2位の巨大自動車メーカーである「ルノー・日産・三菱アライアンス」の代表取締役を務めるカルロスー・ゴーンが金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)容疑で東京地検特捜部に逮捕されました。役員報酬を50億円過小に記載した罪で、他にも会社の資金を私的に利用したことが上げられています。もちろんメディアは大騒ぎでしたが、ツイッターでは早くから、これほど大騒ぎするほどのことではないとか、日本の政治状況から目をそらすためのスピン(情報操作)ではないかといった発言や、森加計その他の政治家の問題には手をこまねいて何もしなかった東京地検に対する批判が多く見受けられました。

・一体なぜ今、ゴーンが逮捕されたのか。ルノーが日産・三菱の吸収合併に動いていて、日産がそれに抵抗する手段としてゴーン失脚を画策したのだといったことも言われています。実際、ゴーンは日産の取締役会によって会長と代表取締役を解任されました。ルノーはフランスの国営企業だった時代もあり、現在も政府が2割近い株を所有していますから、ことはフランスと日本の国同士の問題に発展しそうです。

・ゴーンが毎年20億円もの報酬を得ていたことに、今さらながら驚く人が多いようです。しかしグローバル企業のトップとしては当たり前の額のようです。日本のトップは一桁違う額のようですが、ぼくとしては、どれほど行政手腕が高かろうと、これほどの金額をもらう価値があるはずはないと考えます。それは各種スポーツのスター級の選手が手にする年俸にも言えることです。他方では暮らすこともできない低賃金で働く人が世界中で増えているという実情もあるわけですから、その不公平さや理不尽さにこそ目を向けるべきではないかと思いました。

・しかし、そもそもそんなに稼いでいったい何に使おうというのでしょうか。どんなに優れていても、金額を聞いたら金の亡者にしか思えなくなる。権力の亡者も含めて、そんな感覚を失いたくないものだと思います。どれほど仕事に対する責任や能力が違おうと、報酬が1000倍も1万倍も違うというのは、絶対に間違っています。安価な労働力を増やすために入管法を変えようとしていることと合わせて考えるべき問題でしょう。

2018年10月8日月曜日

沖縄と原発

 

・沖縄知事選でデニー玉城氏が勝った。久しぶりの朗報で、8万票という大差がついたのは驚きだった。それにしても自公の選挙の仕方は猛烈で、しかもえげつないほど汚いものだった。建設などの業界を締めつけて投票を強制させる。根拠のないデマを流す。最大の争点である辺野古は隠しておいて、知事には権限のない携帯料金の値下げを訴える。官房長官や人気者の小泉進次郎をはじめとして、自公の国会議員を大勢送り込む等々………。にもかかわらずの大差の負けだから、政権や与党のショックはさぞかし大きかっただろうと思う。

・前回の知事選も含めて沖縄県民は二度続いて辺野古基地の建設に「ノー」を突きつけた。その意思表示はきわめて重いものだと思う。安部首相は「残念だ」とか「真摯に受け止める」とは言ったけれども、辺野古については何も話さなかった。民意を無視する不遜な態度だが、ニューヨーク・タイムズは、民意に応えて沖縄の米軍基地を縮小すべきだと主張した。日本の新聞には、これほど明確に意見を出したところはなかったようだ。

・安部が三期目の首相になった。あと3年続くのかと思うと暗澹たる思いだが、沖縄での敗北や、自民党総裁選挙での党員票の少なさなどから、終わりの始まりだという声も聞こえてきた。改造内閣も全員が日本会議の会員で、主要ポストは変えずに、大臣待機組を抜擢というお粗末なものだった。女は片山さつき一人で、甘利や下村といった汚職問題で逃げ回っていた連中が党の要職に就いた。世論なんか気にしないといった態度があからさまで、その驕りようは救いがないほどである。改造内閣の支持率が下がるのも当たり前のことである。

・四国の伊方原発の再稼働について、広島高裁が去年の12月に出した仮処分決定を取り消して、再稼働を認めた。仮処分の理由だった阿蘇カルデラの破局的噴火は社会通念上想定する必要がないという理由だった。いつ起こるかわからない噴火などは気にする必要はないとする判断で、地震や噴火がいつでも、いつどこで起こるかわからないものであることを無視したひどい判決だった。熊本の地震も、今年あった大阪や北海道の地震も、予知情報では、ほとんど起こらないはずのものだったのにである。

・その北海道では、地震によって全道が一時停電した。電源の中心を担っていた巨大な発電所が地震によって壊れたためだったが、原発が稼働していれば全電源喪失にはならなかっただろうという意見が多く出た。しかし、動いていなかったからこそ、原発に支障が出なかったと言えるわけだし、もし震源が原発にもっと近い所だったら福島の再現になりかねなかったかもしれないのである。太陽光や風力を使った分散型の電源システムに舵を切っていれば、という反省にしなければならない事故だったはずである。

・山梨県では来年1月に知事選挙が行われる。現職の後藤知事は前回自公と民主の推薦を受けて当選したが、次の選挙では自公は推薦しない方向で動いている。何をやったのか、やらなかったのかわからない地味な知事だから、違う人が出てもいいとは思うのだが、現知事は続けたいようだし、自民はもっと自民色の強い候補を立てたいと考えているようだ。ただし、山梨県連は長いこと分裂状態が続いていて、今回もまたもめている。

・ただその中で、選挙公約として富士山にケーブルカーを作ることを目玉にして立候補を狙っている人がいる。この計画はずい分昔から出されているもので、目新しくはないが、反対運動も強くて実現してこなかったものだ。そもそも活火山である富士山にケーブルカーを作るなどという発想は3.11や御嶽山の噴火、そして最近の地震や東南海地震の危険性が叫ばれる状況の中で、その事を無視したひどいものである。

・富士山周辺は世界遺産になってから観光客が激増している。富士登山客もすでに限界に達するほどになっている。その上ケーブルカーができれば、富士山にはもっと多くの観光客がやってくることになる。自然環境の破壊はもちろん、もし噴火が起これば、その観光客をどうやって避難させるか。そんなことをまったく考えない、利益や選挙ばかりを考えた計画だと思う。何しろ東南海地震が起こる確率は30年以内に70%だというのである。地震が起これば富士山も噴火するというのは、江戸時代に起きた宝永噴火が証明済みである。

・目先のこと、自分のことばかり考えて、将来のこと、社会のことには目をつぶる。都合の悪いことは隠したり、嘘でごまかしたりする。何から何まで、こんな傾向で溢れている。その元凶が現政権であることは言うまでもない。早くつぶれて欲しいとつくづく思う。

2018年9月24日月曜日

言葉づかいが気になります

 

・日常生活でもですが、特にテレビを見ていて、言葉づかいが気になることが多くなりました。要するに、バカ丁寧と思われる話し方が、当たり前化しているのです。たとえば、テレビ番組に始めて出たタレントが「出させていただきました」というのは理解できるが、誰もがそんな言い方をします。それに影響されたのか、ゼミで学生が発表する前に、「発表させていただきます」と言ったりして、「いただきますはいらない、発表しますでいい」と言ったことも何度かありました。

・日本人の人間関係は上下を基本にすると言われてきました。言いたいことを言おうと思ったら、下手に出て相手の気分を害さないようにする。そんな態度は今に始まったことではありません。しかし、最近では、対等な立場の中にも、丁寧であることが望まれるかのような空気が漂っています。へりくだらなければ上から目線と思われるのではないかと恐れているのかも知れません。しかし、こんな言葉づかいをしているかぎりは、関係は少しも深まらないのではないかと思います。

・ぼくは、必要以上に丁寧な言葉づかいで話す人は信用しないことにしています。何か下心があるのではと疑りたくなるからです。こちらが客で、何とか買わせようとする店員やセールスマンはその好例でしょう。電話での売り込みには辟易としていますから、最近ではベルが鳴ると、ボタンを押して電話に「迷惑電話防止のため、お名前を名乗って下さい」と言わせることにしています。それで切る場合がほとんどですが、逆に、知人からの場合は、説明をして納得してもらうことも少なくありません。

・他方で、ネットでの見ず知らずの人に対する誹謗中傷や、ひどい言葉づかいも気になります。ヘイトな書きこみを躊躇せずにやったりする人も、現実の人間関係の中では、やっぱりバカ丁寧な言葉づかいをしているのではないでしょうか。その使い分けこそが、最近の言葉づかいに関わる最大の問題なのではないでしょうか。あるいは、店員や駅員に暴言を吐き暴力まで振るう人が増えたといった話も良く耳にします。自分が上であることがはっきりしている、とたんにそんな態度に出るというのも、同じことだと思います。

・気に入らないと言えば、政治家の発言の仕方です。「国民の皆様にご理解していただけるよう、丁寧にご説明申し上げます」などと言いながら、何の説明もしないのです。丁寧な言葉づかいさえすれば、中身の説明は丁寧でなくてもいい。都合の悪いことはすべて隠し通して、白を切る。国の政治を司る人たちがこんな態度ですから、国民全体に広まるのは仕方がないのかも知れません。

・ぼくはどんな人に対しても、対等であることを基本にしてきました。それは、高校や大学で習った先生などに、そんな態度で接してくれた人が何人もいたせいだと思います。目上であっても「〜さん」と名字ではなく名前で呼ぶ。そんな言い方を若い人からされるのは、距離が縮まった証拠と思ったものでした。しかし世の中の風潮は、それとは真逆に進行しているようです。

・もっとも、テレビですっかり定着してしまった感がある、知らない人に向かってタレントがする「おとうさん」「おかあさん」という呼びかけには、相変わらず抵抗があります。「おじさん」「おばさん」「おじいさん」「おばあさん」ではなく、なぜ「おとうさん」「おかあさん」なのでしょうか。結婚しているのかどうか、子どもがいるのかどうかわからない見ず知らずの人に、よく使えるなと思うのですが、そんなことをどこまで意識しているのか、と思います。

・妙に丁寧だったり、気安かったりすることに強い違和感を持つのはぼくだけなのかもしれません。しかし人間関係の親密さに応じた距離の取り方、それに伴う言葉づかいが壊れかけている。そんな印象を強く感じる今日この頃です。

2018年8月27日月曜日

ボキャヒン、高音、わざとらしさ


・夜の地上波はバラエティ番組ばかりで見る気もしない。よくもまあ、お粗末な番組を毎日毎日やっているものだとあきれるばかりだ。ちょっとおもしろそうなテーマだと思っても、見始めた時にひな壇にお笑いタレントが並んでいれば、もう駄目だと思ってチャンネルを変えてしまう、最近ではNHKでも似たような構成のものが目立つ。だからどうしても、見るのはBSということになるのだが、バラエティ形式の侵入はBSの番組でも顕著で、見たいものがどんどん減っていってしまっている。

・たとえば田中陽希が、今年は日本三百名山一筆書きをやっている。数ヶ月おきにその行程をたどる番組があるのだが、なぜ途中で、トレッキングなどやりそうもない女の子達が出てきて、わいわいやるのかわからない。以前は田部井淳子などが出ていたのだが、亡くなってから山歩きの専門家を出すこともなくなった。
・ほかにもトレッキング番組はよく見ているのだが、歩くのが若いタレントの場合には、途中でうんざりしてやめてしまうことが少なくない。ガイドに頼りきりで無知丸出しのうえ、発することばと言えば「すごーい」の連発だったりする。草花や動物を見かけても「かわいい」しか出て来ないし、「やばい」なんてことばも使われたりするからだ。「ボキャヒン」はすでに死語かもしれないが、このことばがよく使われた頃より、もっとひどくなっている。

・それは旅番組でも変わらない。いくら仕事とは言え、出かけるのなら、事前に予習をして、ちょっとでも予備知識を持って行けよと言いたくなることが少なくない。知らないから驚く。そこでおきまりのことばが出てくる。しかもテンションが上がって高音になるから、やかましいだけになる。うんざりするのは、そこにわざとらしさが丸見えになったりする場合だ。そうなったらもう、続けてみる気がしなくなる。
・もちろん、出てくるタレントのすべてがそうだというわけではない。自分でもトレッキングをしたり、旅に出かけたりしている人もいて、その落差が激しいから、この種の番組を見る時には、出演者が誰かを調べてからにするようになった。

・テレビを見ていてもうひとつ気になるのは、女子アナに高音で話す人が多いことである。甲高い声でしゃべられるのは聞きづらいものだが、ほかの視聴者は気にならないのかと不思議に感じることが少なくない。もちろん甲高くなるのは、緊張していたりするからということもある。新人アナは同時に表情も硬いから、これは経験不足と聞き流すこともあるが、いつまで経っても高音が直らないと、そのニュース番組はもう見たくないということになる。そんな人は天気予報をする人にも多い。高音はアナや予報士には向かないという基準がないのだろうか。

・NHKBSでやっている「クール・ジャパン」は、日本で生活している外国人が日本や日本人について、自らの経験にもとづきながらクールかクールでないかを議論しあう番組である。その中で、日本人の若い女の子達の声が高いことが話題になった。高い方がかわいらしく聞こえるからだと言って、それは子供っぽさの演技だが、自分の国ではばかにされるだけだという批判をしている人がいた。まったくその通り、とぼくは思わず声を出してしまった。

・かわいらしく振る舞うこと。これは今、テレビに出るタレントや女子アナばかりでなく、若い女達が共通に意識していることなのではないかと思う。だから知っていても知らないふりをする方がいい。予備知識など持っていない方がいい。教養などは必要ない。その方が、見ている人や相手は喜ぶに違いない。それをコミュニケーション力だと思っている人が増えたのだとすれば、とんでもない誤解で、こんな風潮は困ったものでしかない。

2018年4月30日月曜日

母の日記

 

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・僕の母の自慢は小学校の時から一日も休まず日記をつけてきたことでした。それは今でも口癖のように話すことですが、去年軽度の脳溢血を再発してからつけなくなりました。ですから、老人ホームに出掛けた時には、僕が来たことをなかば強制的に書かせたりしています。ホームの部屋で一日中過ごす生活ですから、今日が何日なのか、天気はどうなのかといったことも不確かになります。そんなことだけでも書く気になってくれればと思いますが、自分から何かをしようという気にはならないようです。

・ホームに引っ越した後、家の後片付けをしている時に、母が小学校や女学校の時につけていた日記を見つけました。懐かしがって最初は自分で読んだりもしていましたが、最近では自分からは読まなくなりました。けれども、一緒に読んだりすれば、その時のことを思い出して、いろいろ話が出てきます。ちょっと前のことが記憶に残らずに、何度もくり返して同じ話をするのですが、昔のことは、びっくりするほど鮮明に思い出したりもするのです。

・そんな姿を見ていて、もっと大きな字で印刷して冊子にすれば、自分で読むかもしれないと思いました。日記の字は小さくて、えんぴつが薄れたり、紙が茶色になったりして読みにくくなっています。表紙が外れ、ページがばらばらにもなりそうです。で、半月前程から母の日記をパソコンに入力し始めました。小学校四年生からの日記ですから、ひらがなばかりで旧仮名遣いで、よくわからない方言や地名が出てきます。それに毎日書いていても、その内容は、ほとんどおなじことのくり返しが多いです。学校へ行った、朝ねぼうをした、友達と遊んだ、兄弟とけんかをした等々です。しかし、自分で読むことが出来れば、いろいろ思い出すことも多いでしょう。

・残っている日記は小学生だった昭和十三年と十四年、それに女学校時代の十七年から十八年にかけてのものですから、戦争に突き進んでいく当時の社会状況が、子供の日常生活の中にも現れています。特に小学生の時と女学校の時の違いは、学校での教えはもちろん、毎日の生活の中でもはっきりしています。小学生の時には、親戚の人が兵隊に行ったとか、町で兵隊の行進があったといったといった記述もありますが、同時にのんびりとした学校生活や、お正月、ひな祭り、そして誕生日などの行事が楽しく語られています。

・それが数年後の女学校の日記では、授業が作業になることが多くなり、開戦後の戦況が綴られるようになります。十代の中頃にこのような社会状況の大きな変化を体験しているわけですが、その正直な思いは、残念ながら日記には書かれていません。日記の裏表紙には、もともと印刷されたものではない次のような校訓が紙で貼られたりもしています。


・ 私どもは皇國の女性たることを感謝して光栄ある天職を全うし優しき中にも正しく強く滅私奉公を以て報國の誠を效したいと思ひます。

・日記は学校から与えられた日記帳ですから、自発的に書いたものではありません。逐次提出して、先生が目を通して感想や、間違いの修正などをしています。ですから、先生の意に沿わないことは書けなかったでしょう。早寝早起きに努めること、毎日家で勉強すること、親の言いつけを守ること、目上の人への言葉づかいに気をつけることが大事なことであって、それが出来なかった時の反省がくり返し書かれています。

・しかしまた、そんな状況下であっても母親らしい性格を彷彿とさせる記述もたくさん見られます。おおらかで、心配性であってもくよくよしない、眠ることと食べることが何より得意科目であるのは、認知症が進んだ今でも変わりません。パソコンの入力をして印刷したのは未だ最初の一冊だけで、全部を冊子にするにはあと数ヶ月かかると思います。しかし、先日出来上がったばかりの一冊を持って老人ホームに行き、母に渡しました。自分で自発的に読むように、行く度に一緒に読んでやろうと思っています。

2018年3月26日月曜日

車と音楽

 

carnavi1.jpg・新しい車になって、最近の車の進化について驚いている。アクセルとブレーキの踏み間違いといった誤作動防止、渋滞時や高速道路を巡航するときの自動運転、雪道などで四輪それぞれが動いてスリップを最小限にすることなどである。カメラが前後左右に着いていて、バックの時はもちろん、狭い道を通るときの左右の状態を確認することもできるようになった。運転がますます車任せになる。そういう心配もあるが、高齢者の運転を手助けすることは確かだから、僕にとってはありがたい進化だと思う。

・同様の驚きはカーナビとカーステレオにも感じた。ナビとオーディオの一体化は、主にパートナーが使ったスバルXVからだが、僕が主に乗る車に純正のカーナビをつけたのは今回が最初で、これまでは取り外しができる「ゴリラ」をずっと使ってきた。オーディオはAUXにiPodや使わなくなったスマホを繋いで利用してきた。CDが複数枚入れられたが、ほとんど使うことはなかったし、MDなどは無用の長物だった。

・スバル・アウトバックは純正として、これまでマッキントッシュやハーマンカードンといったアメリカの音響メーカーを採用してきた。それはそれで興味があったのだが、買った車にはそれはなく、他に選択肢がなかったから、ディーラー・オプションとしてあった三菱のダイヤトーンをつけた。CDはもちろんだが、DVDで映像を見ることもできるし、SDカードもつかうことができる。しかし何よりの売りは、iPhoneを繋げば、音楽だけでなく、GoogleMapをカーナビとしても仕えるというものだった。

・IPhone接続には専用の接続ケーブルがある。しかし、そのほかにもBluetoothでもWifiでもつなげることができる。いろいろ試してみたが、接続ケーブルにiPodを繋げることにした。で、肝心の聴き応えだが、今までとはかなり違うものだった。音そのものが違うこともあるが、エンジン音が静かで、風きり音やロードノイズも気にならないから、高速道路でも、ボリュームを上げなくても聴くことができた。

・もちろん音は、座席によってずいぶん違う。前席で聴き応えのある設定をすると、後ろに座るとうるさいほどになる。と言って全体のスピーカーを同じボリュームにすると、運転席からは音が前や横からだけからしか聞こえてこないようになってしまう。後席に人を乗せることは少ないから、前席優先の設定にしてるが、後ろに人を乗せたときには、ボリュームを絞らなければならない。

・と言うわけで、運転しながら音楽を聴くことが、今まで以上に楽しくなった。長距離通勤をすることはなくなったが、時折、長距離の運転をすることがあって、その時には、ランダムに選曲する設定にしておくと滅多に聴かないものが聞こえてきたりする。何しろ四国遍路の時には、2週間で3000kmを走って、毎日の大半を車の中で過ごしたのだ。今日は何を聴くか。そんなことが、毎朝走り出す前に考えることになった。

・iPodは120ギガで手持ちのCDのほとんどが入っている。ジャンルを作っているし、アーティストやアルバムで選択することができる。しかしどうしても同じものになりがちだから、時にはアット・ランダムで聞き始めることもある。何しろiPodには16000曲も入っているから、選んでいたのでは全く聴かない歌や曲が眠ったままになっている。懐かしいものはもちろんだが、なんだかわからないものが聞こえてきて、何か、誰かを確かめることも少なくない。新しいものを増やすよりは、忘れていたものを聴き直すのもいい。そんな気にもなっている。

2018年3月5日月曜日

「そうですね」に違和感

 

・15日間の四国遍路の旅から帰ってきた。四国をぐるっと一周しておよそ3000kmを走ってきた。ずいぶんと時間がかかったが、八八カ所の寺以外の観光地はほとんど素通りだった。朝8時過ぎに出発して、午後の3時過ぎに宿泊先にチェックイン。ほぼ毎日、そんなスケジュールだった。宿の部屋に落ち着くと、一風呂浴び、明日のコースを確認して夕食。後は襲ってくる眠気のなかで、テレビを見るのが日課になった。

・折からテレビは平昌オリンピックばかりで日本人選手の活躍をくり返し伝えていた。「日の丸」「メダル」ばかりに注目し、大騒ぎするのは相変わらずで、見ていてうんざりすることが多かったが、メダルを取った選手も、取れなかった選手も、インタビューを受けたときの第一声が「そうですね」で始まるのが気になった。誰もがそうであることと、質問されるたびにまた「そうですね」とくり返されることに、奇妙な違和感を持った。

・もっとも、「そうですね」が気になったのは、今回が初めてではない。それは浅田真央の決まり文句で、何で「そうですね」から始めるんだ、と疑問に思ったことがあったからだ。それがこんどは、すべての選手に伝染している。選手のなかでの流行語だといってもいいかもしれない。銅メダルを取ったカーリング女子は「そだねージャパン」で話題になって、それがまたくり返し流された。

・「そうですね」は、相手の話に対する肯定の応答語である。だから、質問されて、「そうですね」と応えるのは、「肯定の応答語」ではなく、自分のなかで応えをさがすときに出ることばだと言える。質問に対してしばらく考えるときに出る「そうだなー」とか「うーん」とか「あー」に近いことばだろう。しかし選手の口から出る「そうですね」には、考えるために必要な時間を稼ぐといったニュアンスはない。きわめて機械的に出されるように感じられることばだった。

・なぜ、インタビューでの返答が、「そうですね」から始まるようになったんだろう。そんなことを疑問に感じて思ったのは、やっぱり、昨今のコミュニケーション力についての言説にありがちな、相手に対する丁寧な応対のつもりなんだろうというものだった。しかしそれは、日本人だけにありがちなもので、質問への返答が「そうですね」から始まったら、外国人のインタビューアは奇異な感じを持ってしまったことだろうと思う。

・さらに、みんながみんな「そうですね」から始めたことには、事前にインタビューについての答え方について、レクチャーを受けたのではと勘ぐりたくもなった。何しろ今は、大学の入試や就職試験の面接はもちろん、仕事やつきあい上の応対の仕方について、こまごまと、あーしろ、こうしろといったことが説かれることが多い。不祥事があってテレビで会見するときの様子が、どんな事例、どんな組織であっても、同じように陳謝し、同じように頭を深々と下げる。そのやり方は、テレビ局や広告会社が事前に指導するものである場合が多いという。

・しかし、丁寧に、謙虚にやればいいというものではないだろう。しかもみんながみんな同じものだと、それは慇懃無礼だというものである。つまり「言葉や態度などが丁寧すぎて、かえって無礼であるさま。あまりに丁寧すぎると、かえって嫌味で誠意が感じられなくなるさま。また、表面の態度はきわめて礼儀正しく丁寧だが、実は尊大で相手を見下げているさま。(新明解四字熟語辞典 三省堂)」に聞こえてしまうということだ。もっとも、「そうですね」と言っている選手たちには、そんな意識はないだろう。また、テレビを見ている多くの人たちにも、そんな意識を感じる人は少ないかもしれない。

・本来のことば使いとは違う、馬鹿丁寧な言い方が、コミュニケーション力として必要なものであるかのように思われ、当たり前のように使われるようになった。そんなことに違和感を持つことが少なくないが、「そうですね」はやっぱり、その典型のように思った。

2018年1月22日月曜日

先生卒業

 

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・4年生のゼミが終わった。これで正真正銘、「先生」と呼ばれる仕事から自由になった。もう誰にも「先生」などと呼ばせない。と言いたいところだが、卒業生にとっては、ずっと「先生」のままだから、これは仕方がない。しかし、それほど「先生」と呼ばれることが厭だったことを改めて実感した。もっとも「教授」と呼ばれるのはもっとキライで、学生がそう言うたびに、「先生」でいいと訂正し続けてきた。

・いずれにしても、これからは一人の「じいさん」でいい。だから、研究者であることもやめにした。論文なんて金輪際、一本も書かない。そう決めている。だからといって、大学の先生や研究者としての仕事自体が厭だったわけではない。先生や研究者であったけれども、極力その役割から距離を置いて振る舞い、また発言したり書いたりしてきた。先生だけど先生ではない。研究者だけど研究者ではない。そんな立ち位置を、面白がったり、冷や汗かいたりしながら過ごしてきた。

・大学で教え始めたのは20代の後半からで、専任教員になったのは40歳だった。長い非常勤暮らしで、しんどいことも多かったが、学生とのつきあいにしても、書いたものにしても、専任とは違って自由の範囲は大きかった。その都度の興味関心に応じて三冊の単著と一冊の共著を書いた。学会にも所属せず、つきあう人も少なかったが評価してくれる人もいた。大学の他に塾や家庭教師もやって忙しかったが、今思うと、一番勉強した時期で、頭も一番さえていたと思う。

・専任になると研究室と研究費が与えられて、もっと生産的に仕事ができるだろうと思った。そうはいかなかったのは、何より組織の一員になって、慣れないことをやらなければならなくなったせいだ。なかば強制的に勧められて、学会にもいくつか入って、すぐに紀要の編集委員だの、部会の司会やシンポジウムの発言者もさせられることになった。組合も初めての経験だった。ゼミの学生がいつでも研究室にいるといった状態にもなった。しかし、何より大きかったのは、ポストについてほっとしたことだった。

・もっとも最初に勤めた大学には、正当さや常識からはずれた個性的な人が多く、その人達に、学内政治に興味を持っていけないとか、学務に能力があると思われないようにといったアドバイスをされた。先生らしくない先生、研究者らしくない研究者といった立ち位置を見つけることができたのは、そんな人たちと過ごせたおかげだったろう。

・東経大に移ったのは50歳の時だった。大学院設置の呼びかけに応じたのは、「コミュニケーション」と名のついた学部に対する興味からだった。もともと東京出身だったこともあるが、住まいは都会ではなく、河口湖にした。都会ではなく田舎に住みたいと思ったのが一番だが、理由には、大学と距離を置くこともあった。そこで18年間勤めてきたが、やりがいがあったのは、大学院での決して秀才ではないけれど、個性豊かな人達とのつきあいだった。

・大学が就職予備校化し、大学院は留学生ばかりになった。学務を真面目にやる若い先生が目立つようになって、ここ数年、大学がどんどん変容していくことを目の当たりにしてきた。今となってみれば、僕のような先生を許容した大学という職場が懐かしくさえ思えてくる。自分がやめることにさみしさは少しも感じないが、大学の変わりようには、危惧の念をもつ。とはいえ、先生卒業。お役御免でほっとした。

2017年11月20日月曜日

不倫とセクハラ

 

・テレビや週刊誌は、もっぱら不倫とセクハラの報道で賑わっている。視聴者や読者が喜ぶからなのかもしれないが、もういい加減にしろと言いたくなる。と言って、そんなものにつきあって、見たり読んだりしているわけではない。週刊誌の見出しやテレビの番組欄を見ているだけで、反吐が出てきそうになるのだ。もっと報道すべき大事なことがたくさんあるじゃないかと思うし、性倫理を盾に弱い者いじめをする心理がおぞましい。そして何より、権力にとって邪魔な者を執拗に追いかけるくせに、権力の側についた者については、知らん顔をする。そんな姿勢があまりに露骨過ぎるのである。

・伊藤詩織さんが元TBSワシントン支局長の山口敬之にレイプされたと訴えている事件は、新聞やテレビではほとんど取りあげられていない。ジャーナリスト志望の彼女に近づいて、酒や睡眠薬を飲ませてレイプした事件は、警察の捜査で逮捕直前までいきながら、警視庁本部の刑事部長(中村格)の指示で中止されて不起訴になり、再審請求でも「不起訴相当」という判決が出た。山口は安倍首相お気に入りの記者だから、上からの力が働いたのだろうと言われている。しかし、彼女が本(『ブラック・ボックス』文藝春秋)を出しても、外国特派員協会で発言をしても、メディアはほとんど取りあげない。タレントの不倫どころではない、れっきとした犯罪なのにである。

・他方で、不倫ごときで執拗に取りあげられる人もいる。衆議院議員の山尾志桜里に対する週刊誌の取材は現在でもしつこく行われているようだし、議員が不倫などとんでもない、といった論調が相変わらずよく聞かれる。しかし、不倫は犯罪ではない。道徳心や倫理観を盾にすればもっともらしく聞こえるが、性に対する意識は人それぞれでいいし、議員としての能力に関係するわけでもない。そもそも、本人はずっと否定し続けているのである。そして何より、ここにも政権にとってやっかいな奴は叩いてしまえといった意図を感じざるを得ない。

・アメリカでは有名な映画プロデューサー(ハービー・ワインスティーン)が長年にわたって大勢の女優にレイプや性暴力を含むセクハラをくり返してきたことが明るみに出て、あらたに被害を名乗り出る女優が続出している。さらにそれを機に、有名なスターの性的スキャンダルが次々に話題にされるようになっている。力のある者がその地位を利用して行うセクハラはアメリカでも、明るみに出にくいことだった。そんなことを改めて実感した。

・こんなニュースが飛び込んできたら、テレビや週刊誌は、日本ではどうかと騒ぎはじめても良さそうなものだが、やっぱり力ある者には弱いのか、そんな話題はとんと聞かない。かつての映画スターたちの武勇伝の中に、セクハラと言うべき行いが数限りなくあったのではないか。あるいは現在の芸能界で、自らの地位を利用してセクハラ行為を強制する者がかなりいるのではないか。そんなことは容易に推測できるが、おそらく、踏みこんで取材をしようなどという人はいないのだろう。

・伊藤詩織と山尾志桜里。奇しくも同名の二人だが、僕はどちらも頑張って欲しいと思う。地位や権力を笠に着たセクハラに、泣き寝入りせず訴える姿勢が当たり前になるべきだし、有能な女の政治家として現政権を揺るがす力を持っていると期待できるからである。

・それにしても、日馬富士の暴行容疑に対する新聞やテレビの報道ぶりはあきれかえる。

2017年10月9日月曜日

「バリバラ」知ってますか?

 

・衆議院選挙を巡ってはドタバタが続いている。政策そっちのけの数あわせにばかり注目するテレビなど見る気もない。しかし、多くの人たちの情報源がテレビであることを思うと、そのはしゃぎようには腹が立つばかりである。「森友・加計」などなかったかのように選挙動向を報じたのでは、選挙はイメージ作りと人気取りに終始してしまう。ワイドショーやバラエティ番組は論外として、ニュース番組だって、変わらない。だから夕飯時に見るテレビでNHKのニュースにチャンネルを合わせることはほとんどなかった。

baribara.jpg・「バリバラ」はNHK教育テレビで毎週日曜日の午後7時から30分間放送されている。見始めて2年ほどだが、最近では欠かさずに見る番組になっている。さまざまな障害者が登場してバリアフリーをテーマに訴え、議論し、行動するバラエティ番組である。僕が見る唯一のバラエティ番組だと言っていい。

・この番組のコンセプトは「恋愛、仕事から、スポーツ、アートにいたるまで、日常生活のあらゆるジャンルについて、障害者が “本当に必要な情報” を楽しくお届けする番組。モットーは “No Limits(限界無し)”」である。2012年からから放送されているが、大きな話題になったのは、昨年の日本TV「24時間テレビ」の放送時間に「笑いは地球を救う」というテーマをぶつけて、障害者の感動物語を放送する「24時間テレビ」をお涙ちょうだいの「感動ポルノ」だと批判したことだった。

・障害者を感動的に描く姿勢には、得てして健常者からの視点が強調されがちになる。それは障害者にとってはしばしば、意に反する、不快な描き方として受けとられる。「バリバラ」は「24時間テレビ」に対してそのことを訴える番組をぶつけたのである。その姿勢は今年の「24時間テレビ」に対しても行われていて、この番組があくまで障害者の立場から明るいバラエティとして健常者に訴えるものであることを主張している。

・障害者にとってのバリアは、その障害によって多様に存在する。たとえば公共の場にあるトイレの問題。9月24日と10月1日の2回にわたって、主に多目的トイレについて、その使い勝手を検証していた。目が見えない、手が言うことを聞かない、車いすからトイレへの移動が難しいといった問題に、既存の多目的トイレがどの程度配慮しているかを、何人かの人たちが実際に使って報告したのである。現状は使いにくいものが多いというものだった。

・この番組の面白いのは、そういったことを福祉番組にありがちな真面目すぎるトーンで作っていないことだ。検証したのは全盲の「見えんジャー」と脳性麻痺の「揺れんジャー」で、あわせて「オベンジャース」。この二人がトイレで格闘するさまには、思わず笑ってしまったが、同時に、どれだけ大変なことかがよくわかりもした。あるいは男と女に別れたトイレに戸惑いを感じるLGBTの人たちの気持ちなども、言われなければ気づかないことだった。

・バラエティ番組は、政治や社会の問題を軽く扱って、事の本質を見えなくしてしまうことがよくある。その意味で、大事なことから目をそむけたり、無関心になったりする傾向を広げる役割を果たすことが多い。けれども「バリバラ」は、障害を抱える人たちがもつ多様な困難や問題を、バラエティとして面白く、明るく、しかし切実さを持った訴えを説得力のあるものにしている。裏番組の「ザ!鉄腕!DASH!!」とは大違いなのである。

2017年4月24日月曜日

『海は燃えている』

 

theatrecentral.jpg・甲府駅前の小さな映画館でやっているというので、『海は燃えている』を見に出かけた。甲府駅に近い繁華街にあったのだが、人通りがほとんどない。シャッターが閉まった店もあって、寂れた様子だった。映画館も上映の15分前にならないと鍵がかかったままで、観客は僕とパートナーの他に2人だけだった。割と新しいビルに二つのスクリーンがある映画館で、マイナーな作品も頑張って上映しているようだ。それだけに、いつまで持つのかと心配になった。

FUOCOAMMARE2.jpg ・『海は燃えている』はアフリカ大陸から船でイタリアに渡ろうとした難民たちをドキュメントした映画である。場所はイタリアといっても、むしろチュニジアに近いランベドゥーザという離島である。映画は松の枝を切ってパチンコを作る少年のシーンから始まる。それで鳥を狙うのだが、もちろん、それは難民とは何の関係もない。父親は漁師で、獲ってきたイカで母親(祖母?)がパスタを作る。それを3人で食べながら、いろいろ話をする。少年はまるでそばを食べるように、パスタをすすって食べている。

FUOCOAMMARE1.jpg ・そんな離島に住む家族の日常が映されながら、時折、小さな船に乗った大勢の難民たちのシーンが挿入される。救助艇が向かい、脱水症状などで気を失っている者や死んだ人の数を確認し、救助艇で難民たちを島まで移送する。この島にとって難民たちが船でやってくるのは、すでに日常化しているが、島民たちはそのことをほとんど知らないかのようだ。

・少年は左目が弱視だという。だから回復させるために、右目をふさいで左目だけを使うよう勧められる。そのような診断をした地元の医者は、難民の診療をしたり、検死ををしたりもする。難民が押し寄せていることを知る数少ない地元民だ。難民たちは収容施設にいて、島を出歩くことはない。その次にどこに行くのか.イタリア本島なのか、あるいはチュニジアに送り返されるのか。難民たちはアフリカや中東のさまざまな国から来ていて、今更送還されても、戻る場所はない。そのことは映画では何も語られない。

・この映画には役者は登場していない。少年をはじめとして島民と難民、そして救助隊員も実在の人たちだ。だからドキュメントなのだが、少年の家族の様子には日常を再現するようなフィクションが入り込む。難民と島民、その二つの世界を淡々と描き出すこの映画には、今まで見たことのない、リアルさを感じた。

・監督はジャンフランコ・ロージで、この映画は2016年度のベルリン国際映画祭で金熊賞〈最グランプリ高賞〉を獲得している。彼は前作の『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』でも2013年度ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞している。日本ではほとんど話題にならない映画だけに、これを甲府で見られたのは驚きだった。それだけに、観客が4人だけというのは、日本人にとって難民の問題が遠い世界であることを改めて実感した。

2017年3月20日月曜日

最後の教授会

 


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sr2.jpg・辞めるとなるいろいろやるべきこと、やってもらうことがあります。そんなことが1月からずっと続きました。最後の授業、最後のゼミ、最後の教授会、そして送別会。やるべきことはなんと言っても、研究室を空にすることでした。僕の研究室は二部屋を一つにした広いものでした。その部屋の真ん中に書架を6本置いて、半分はゼミ室として使ってきました。主に院と4年生のゼミでしたが、音楽を流し、お菓子も用意して、サロンのような雰囲気にしてきました。仕切りに使っていた書架は、本を家に持って帰り、後期の初めには撤去しました。それで部屋の感じはずいぶん変わったのですが、全てがなくなると、僕がいた時間そのものが消滅したような思いに襲われました。

・その片付けが終わった後、研究室には1度だけ出かけました。最後の教授会で、その後、学部の送別会がありました。ただし、教授会終了後に3時間ほどの間がありましたから、僕は空っぽの研究室で、村上春樹の『騎士団長殺し』の続きを読みました。送別会の始まる少し前に読み終わったのですが、ストーリーの面白さに数日で一気に読んだのに、後に何も残らない。研究室と同じ「空っぽの世界」という読後感を持ちました。窓から見える風景は夕暮れで、徐々に暗くなっていきました。

party1.jpg・送別会の主役は僕を含めて3人でした。たまたま歴代学部長が一度に辞めるというので、いつもとは違う会になりました。学部では3年前に7人が辞めていますから、ここ数年で一気に若返ることになりました。数年前から学部の改変作業も始まっていて、中身も大きく変わることになりそうです。インターネット元年に開設されたコミュニケーション学部はこの20年の間に、社会状況の変化に合わせてカリキュラムを何度も変えてきました。新しい領域だっただけに、その改変に追い回されてきたような記憶があります。就職を第一に考えて入学する学生が増え、それにあわせてキャリア教育の必要性にも迫られてきました。

・教員生活を振り返って思うのは、何より、大学が大学でなくなりつつあるという危機感でした。それはもちろん、この大学に限ったことではありません。補助金をちらつかせて言うことを聞かせようとする文科省の姿勢はあまりに露骨です。天下り批判は氷山の一角に過ぎないでしょうし、産学協同はもう当たり前で軍学協同が推進されようとしています。その意味では、よき時代を過ごすことができたと言えるかもしれません。逆に言えば、かつての大学、あえて本来のと言ってもかもしれませんが、それを知る人が少なくなることには、強い危惧の念を感じます。

・辞めるに際して、何人もの人から、これから何をするのかといった質問を受けました。辞めるとは言っても、もう一年非常勤で、週一回大学には通います。講義もゼミもやりますから、完全にリタイアというわけではありません。その新学期も来月から始まります。終わったような、終わっていないような、中途半端な気持ちでの区切りだと答えました。しかし同時に、なぜ何かをしなければならないんだろうといった問いかけを逆に返すこともありました。ただ、毎日の生活を充実させること。それで十分でしょうという返事に、納得した人は少なかったかもしれません。

2017年2月6日月曜日

最後のゼミ

 

・退職する教員は慣例として最後の講義をやることがあります。しかし僕はやりませんでした。何によらず儀式や儀礼的なことは嫌いで、これまでもできる限り避けてきたからです。しかし、今年度限定の特別企画講義「仕事、レジャー、そしてライフスタイル」の最後の時間には、終了時に花束をもらいました。毎回ゲスト講師を招いて話してもらう授業で、僕は最後だけ、まとめとライフスタイルの話をしました。もうこれで十分と思ったのですが、院の卒業生たちから要望があって、院の最後のゼミをやることにしました。

・大学院ではこれまで18年間で30名ほどの学生を指導してきました。数年前まで、院のゼミには卒業した学生も多数参加していて、毎回3時間を超える時間を使って、各自の研究発表を行ったり、僕が編者になって何冊かの本を作ってきました。ユニークな研究をする人が何人も育ったことは、僕にとっては何よりの喜びであり、また自慢になることです。

・コミュニケーション学部には『コミュニケション科学』という紀要があります。退職者には記念号を出す権利があるのですが、僕は最後の仕事として、卒業生を中心に記念号を出すことを提案しました。最後のゼミではその編集方針も検討されました。順調にいけば夏休み明けに原稿を集めて、来年の3月までには発行できると思います。

・最後のゼミには14名が集まりました。中には九州や四国、そして中国から駆けつけてくれた人もいて、懐かしい話に花が咲きました。もっともこのゼミのメインは来年度に博士論文を出す予定のY君の発表で、その進捗状況を報告し、大勢の人から厳しい批判やアドバイスを受けました。僕は来年度も、もう一人の修士論文と学部の卒論を指導するために非常勤講師として勤務を続けます。1年限定ですからY君には頑張っていい論文を書いてほしいものだと思います。

・ゼミの後は場所を変え、飲み会としておなじみの店でパーティをしました。ここには30名近くの人が参加してくれました。賑やかな会の主役になるのは何とも照れくさかったのですが、大勢の人に集まってもらえたのはありがたい限りと思いました。その後2次会、3次会とつき合って、お土産や記念品をいっぱい車に摘んで帰りました。

・実は研究室の片づけなどのせいで数日前から腰痛でしたが、何とかつき合えてよかったです。


2016年11月28日月曜日

車の運転について思うこと

 ・高速道路の逆走とか,アクセルとブレーキの踏み違いで起こす高齢者の事故が大きなニュースになっています。確かに事故は増えているのだと思います。しかし高齢者の人口も急増しているわけですから、高齢者の運転が急におかしくなったというわけではないでしょう。とは言え、どうしたらいいかは個人だけではなく,社会全体で考えなければいけない問題になってきたのは間違いないでしょう。

・僕の家には車が2台あります。一人一台で、公共の交通機関がほとんどないところに住んでいますから、これがなければ,引っ越しを考えなければならなくなります。僕は通勤に片道100kmほどを運転しています。1年の走行距離は3万キロ前後で、仕事帰りの夜道はさすがに目が疲れて,運転がきついと思うようになりました。もうすぐ退職ですから、こんな状況から解放されますが,しかし、運転はまだまだ当分続けなければなりません。

・所有する車には1台、自動のブレーキやアイドリング・ストップ、あるいは車線のはみ出しを警告する装置がついています。便利と言うよりは邪魔くさいと思うことが多いですが、歳を取れば必要な機能だろうと感じています。アクセルを踏んでも,目の前の障害物や人を感知すればブレーキが作動する。そんな装置もすでに実現されているわけですから、免許証の自主返納を声高に言う前に、高齢者が乗る車として広報をし、税金の軽減や購入の支援をすべきだと思います。

・高速道路で最近一番気になるのは、軽自動車のスピードです。100km前後で走行車線を走っていると、次々軽に追い越されるのですが、果たして危険な運転だと,どれだけの人が自覚しているのでしょうか。軽はその名の通り、軽量にできています。事故を起こせばすっ飛んでしまうかもしれないし、ぺしゃんこになってしまいます。高速道路を100kmを超えて走るようにはできていないのです。ですからターボをつけた軽は、僕には凶器(狂気)のように思えてしまいます。

・その速度ですが、実は車の速度メーターは実測よりは7〜10%程度高く表示されます。100kmで走っていても,実際には90〜93kmほどしか出ていないのです。高速道路の制限速度を部分的に120kmにし始めていますが、実測表示にしないという国の指導自体をまず改めるべきではないでしょうか。あるいは中央道は全線80kmに制限されていて、きつい坂道やカーブも3車線の広い道も一律です。長年走っていて、おかしな制度だと感じてきました。

・なぜ、道路状況に合わせて、細かく変更しないのか。3車線ではどの車もスピードを速めます。覆面にとってはまさに捕まえどころで、罰金を取りやすくするためではないかと勘ぐりたくなります。違反で言えば、ここ数年で2度捕まりました。ひとつは車線変更禁止、もう一つは右折禁止という軽微なものです。警察官が待ちかまえていて、もっともらしい説教をされましたが、反則金稼ぎが見え見えで、腹が立ちました。

・さて、僕はいつまで運転するのでしょうか。認知症などにならなければ80歳までは続けたいと考えています。その時はおそらく、今住んでいる家を離れて、出入り自由な老人ホームで暮らすことになるのでしょう。もっとも車の進化はめざましいですから、90歳になっても運転できるかもしれません。もちろん、それまで元気に生きていればの話ですが。

2016年10月24日月曜日

ハロウィンって何ですか?

 


halloween_img.jpg・街中に出かけることがほとんどないからいつの間に,という感じだったが、ハロウィンが日本でもすっかり定着したらしい。先日研究室に訪ねてきた卒業生が持ってきたお土産がハロウィンのヨックモックで、そんな季節かと思った。クリスマスは家族、バレンタインは職場の同僚の間の行事としておなじみになったが、ハロウィンはSNSで呼びかけた知らない者同士の仮装パーティやパレードになっているという。「キモカワ」の仮装祭りの聖地は渋谷が一番にぎやからしい。

・ハロウィンはケルトの祭りで、暦の最後の日を祝う行事だったと言われている。アイルランドからアメリカに移住した人たちによって収穫祭として広まったが、盛んになったのは第二次世界大戦後だったようだ。キリスト教とは無関係の祭りだが、カトリックはそれを取り込もうとし,プロテスタントは拒否したという経緯があるという。子どもたちが仮装をして地域の家々を回り、お菓子をもらう行事で、日本で話題になったのはアメリカに留学した日本人の高校生が射殺された事件だった。

・そんな異世界の怖い祭りが日本で浸透するきっかけになったのは「キティランド」とも「ディズニーランド」とも言われている。若者たちの間で流行りはじめると、100円ショップやネット通販で関連グッズが売られるようになり、お菓子のメーカーが乗って、ハロウィンを冠した商品を売り始めた。カボチャのお化けは収穫物の代表で、仮装は異界の扉が開いて悪霊や精霊がやってくるという祭りの趣旨に由来するようだ。

・SNSで拡散して渋谷などに集まってパレードやパーティをするというのは、反原発や戦争法案、あるいは憲法改悪に反対する行動と共通する、新しい動きだと思う。けれども裏に商魂たくましさがあるという点では、クリスマスやバレンタインデーのくり返しでもある。クリスマスを家族のパーティと親から子供へのプレゼントの日にしたのは,アメリカで発展した消費行動の結果だったし、赤い服を着たサンタクロースはコカコーラのキャラとして登場したものだった。バレンタインデーを日本で定着させたのがチョコレートを売るお菓子メーカーだったことは今さらいうまでもないほど有名だ。

・にぎやかになりはじめたハロウィンの市場規模が1000億円を超え,バレンタインを上回るようになったという報告もある。この祭りに好意的な人も多く,できれば仮装をして参加したいと思う人もたくさんいるようだ。外から入ってくるものには寛容で、中味には無関心で形だけ取り入れるといった特徴はハロウィンでも変わらない。それは何しろ、奈良や平安の昔から日本人が見せた大きな特徴の一つである。しかしそれはまた、本来の意味を換骨奪胎させて魅力的な商品にするという,きわめて現代的な経済行為でもある。

・若者の仮装好きはすでにコスプレで常態化していて、「クール・ジャパン」を代表する特徴にもなっている。それは逆に日本から世界に拡散してそれぞれ独自の発展をしたりもしているようだ。だとすると、なぜ若者たちはこれほど仮想に魅惑されるのかといった疑問も生じてくる。現実の世界や自己からの逃避だろうなどと言いたくなるが、それだけのことなのかどうか。今のところ説得力のある分析には出会っていない。

2016年10月17日月曜日

ディランとノーベル賞

 ・ボブ・ディランがノーベル文学賞を取った。村上春樹同様、何年も前から候補者に上がっていたから、それほど驚きもしなかった。そもそも、ノーベル賞自体に対して、「物理」や「化学」、そして「生理学・医学」は別にして、「文学」はもちろん、「平和」や「経済」については、いろいろ疑問があった。たとえば「平和賞」は佐藤栄作がとった時から信用しなくなったし、「経済学」があってなぜ、「哲学」や「政治学」、あるいは「社会学」がないのか、「文学」があってなぜ、「美術」や「音楽」がないのかといった疑問もあった。何より、取った、取らないで大騒ぎのメディアには,もう何年も前からうんざりしてきた。

・ノーベル賞はノーベルがダイナマイトなどで得た財産の使い道を遺言に残して生まれたものである。「人文科学」や「芸術」の分野が「文学」一つというのは、ノーベルの意思であるし、20世紀初頭の状況を表していたのかもしれない。その意味ではきわめて限定された個人的な賞に過ぎないと言える。しかしそれは今、科学(自然・社会・人文)の領域で最高の栄誉であるかのように扱われている。

・ディランの「文学賞」はそのちぐはぐさを如実に示したように思われる。その是正を意図して、「文学賞」が「文学」を超えて「思想」や「哲学」、あるいは「政治」や「社会」に広げはじめた結果だと言えるかもしれない。そう言えば,昨年の受賞者はチェルノブイリ原発事故を取り上げたジャーナリストだった。同様の傾向は「自然科学」の分野にも現れているという。平和賞などはとっくに迷走状態だが、であれば、「経済学賞」の狭さばかりが目立つということになる。いっそ「社会科学賞」に変えたらどうかと思う。

・ところでディランだが、ディランの作品に「文学性」はあるのかといった批判があるようだ。そう考える人にとって「文学」は活字になって本として発表されたものに限られているのかもしれない。しかし、「文字の文化」の前には「声の文化」があって、「文学性」は声(口承)から文字へという形で「文学」に凝縮されたという歴史がある。ところが20世紀になってレコードやラジオ、そしてテレビといった新しいメディアが相次いで登場して、「声の文化」が再生したのである。現在では「文字の文化」が隅に追いやられつつある。良し悪しは別にして、そういう流れは否定できないことなのである。

・ディランはフォーク・シンガーとしてスタートした。その先人はウディ・ガスリーでアメリカ中を放浪し、大恐慌の際に労働者や農民、あるいは浮浪者の中に入って、蒐集したり作った歌を歌って人々を慰め、鼓舞をした。その手法がピート・シーガーなどに受け継がれ、1960年代に新しいフォーク・ソングとして開花した。その先端にいたディランはやがてギターをエレキに変え、ロックというジャンルが生まれるきっかけを作った。そのうえで、労働者の音楽と差別されたフォーク・ソングやガキの音楽と馬鹿にされたロックが「文学性」「や「音楽性」、「政治」や「思想」、「哲学」を表現できるものであることが認知されたという経緯があった。ディランがその過程の中心に位置づけられた存在だったことは間違いない。

・ディランはこれまでに「芸術文化勲章」(仏1990年)「ピューリッツァー賞」(米2008年)や「大統領自由勲章」(米2012年)、「レジオンドヌール勲章」(仏2013年)を受賞している。グラミー賞は10回を超え、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の受賞歴もある。「ノーベル賞」を取って,取れるものは全て取ったという感じだが、本人はいつでも冷めている。おそらくノーベル賞も、サルトルのように辞退することはないだろう。「辞退」や「拒絶」はまたそれなりに強い意思表示だが、自分のあずかり知らないところで決まったことには謝意もしないし無視もしない。おそらくそんな態度だろうと思う。

・僕は高校生の時以来もう50年もディランを聴き続けている。彼は75歳になってなお精力的なコンサート活動をしていて、僕も4月に彼のライブに出かけた。ほとんど何も喋らないパフォーマンスで、昔懐かしい曲はほとんどやらなかった。ちょっとがっかりといった気持ちがなかったわけではないが、今のディランの姿には十分に満足をした。彼は今でも数年おきにアルバムを出していて、その都度、意外性に驚かされてきた。そこには何より、昔の俺など追い求めるなといったメッセージが込められてきたと言えるからだった。

・僕の人生はディランに出会わなければ今とは違っていただろうと確信できる。「文字の文化」を職業にし、始末に困るほどの書籍に囲まれているが、それほどの影響力を「文学」や「哲学」「思想」、そして「社会学」や「政治学」から受けた人はいない。そんな人であるだけに、僕にとってはボブ・ディランはアカデミーの「文学賞」に価するかどうかなどという判断をはるかに超えた存在なのである。

・もっとも今の彼は20世紀のポピュラー音楽を丁寧にふり返って、衛星ラジオで多くの曲を紹介したり、スタンダード・ナンバーを自ら歌い直したり、新曲を集めたアルバムに古いサウンドを取り入れたりしている。そこには何より、商業化されすぎてどうしようもない状況にある音楽や歌の現状に対する批判や抵抗の姿勢が強くある。それを一人のミュージシャンとして今でもステージで訴え続けている。こんなメッセージをどれだけの人が本気で受け止めているのか。少なくとも今の日本では、きわめて少数に過ぎない。だからオリンピックの金メダルのような調子の大騒ぎには,とてもついて行けない。