2002年4月8日月曜日

春休みに読んだ本

  • つかの間の春休み。入試やさまざまな会議があって、一週間通して休みという期間が少なくなった。スポーツ社会学会で福岡の九州大学に行ったり、マスコミ学会の編集委員会で早稲田大学に行ったりと、休みは休みで大学以外のお勤めがある。それでも、3月の中旬からは、家でのんびりできる日が増えた。今年は異常に暖かいから、河口湖のサクラは、すでに満開に近い。いつもより3週間は早い。勝沼の桃も満開。山ツツジも咲き始めた。陽気と花につられて、カヤックをしたり、あちこちドライブしたり、倒木さがしにうろついたりと、なかなか部屋で落ちついて読書という態勢にならないが、それでも、買いためた本を何冊か読んだ。今回はその中から、携帯とメールに関する本を3冊紹介しようと思う。
  • 前回書いたように、ぼくもとうとう携帯を持ちはじめた。以前から電話はほとんどつかわないから、携帯を持ったからといって、突然誰かと頻繁に話をするようになるわけも ない。電話番号も教えていないから、まったくかかってこない。使っているのはもっぱら、メールと大学のサーバーへの接続である。親指打ちは変換の特異さもあってなれるのに大変だ。カヤックにのりながらメールを出そうと思ったら、波に揺られて船酔いしてしまった。
  • 『ケータイのなかの欲望』(松葉仁、文春新書)は携帯電話の歴史をコンパクトにまとめたものである。「欲望」ということばに興味をもって買ったから、ちょっと期待はずれだったが、誕生から現在までのプロセスはよくわかった。携帯0円などという宣伝に首を傾げることがあったのだが、そのカラクリなどもよくわかった。
  • 次は『若者はなぜ「繋がり」たがるのか』(武田徹、PHP)。この著者の本は以前に『流行人類学クロニクル』など買ったことがある。若手のノンフィクション作家で、興味を覚えるテーマの本を、ほかにも数冊書いている。今回も、タイトルを見て、これは読まねばと思った。「なぜ繋がりたがるのか?」は、ぼくがずっと感じている、学生に対する疑問だからである。で、その疑問はとけたかというと、少しだけというところだ。
  • 本に書いてあったことを要約すると、若者が携帯で繋がりたがるのは、「共同体」の確認欲求とそれを満たすための作業である。それは他者を想定しないきわめて排他的なものである。だから、問題となるのは繋がっている関係以上に、無視してしまう他者や世界との関係になる。著者はそれを宮台真司を引用して「他者との社会的交流における試行錯誤で自尊心を形成するという経路」に重大な故障が生じているせいだという。あるいはこの点については、三森創の『プログラム駆動症候群』(新曜社)から「いまの若者は心がない」ということばを借用する。「心」とはここでは、「何かを自分で感じて、それをきっかけとして行動を動機づけていくメカニズム」をさすが、若者たちにはそのメカニズムが形成されていないというのである。
  • その「心」を持たない世代が、携帯電話で<ホンネ>をつぶやきあう。あるいはメールやチャットや掲示板でぶつけあう。しかしそのホンネはまた、「心」がないのだから、心とは別のある種のプログラムにしたがって語られるものである。このようなことはたとえば、中島梓が『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房)で10年以上前に指摘したことだが、ここ10年の携帯の普及のすさまじさを考えると、その二つの症候群の病状の進行はかなりのものだろう。つきあいたいヤツとしかつきあわない。したいことしかしたくない。思い通りになることが大好き。この本で指摘されるこのような若い世代の特徴には、ぼくもまったく異論はない。しかし、論文ではないのに、大学の研究者の引用に頼りすぎという内容には不満を持った。
  • 最後は小林正幸の『なぜ、メールは人を感情的にするのか』(ダイヤモンド社)。著者は不登校や閉じこもりの子どもをメールのやりとりでカウンセリングする心理学者である。だから、内容はすべて自分の経験がもとになっている。
  • メールは人格のごく一部を使ったやりとりだ。だから、自分を丸ごとさらす必要はないし、相手のことも一部しかわからない。だからそこには想像力が不可避になる。このような特徴がメールを感情的なものにする。錯覚、思いこみ、作り話………。誹謗中傷のメールや掲示板あらしがおこるゆえんだが、誰にも言えないことが言える可能性も同じ理由によっている。メールだからケンカになりやすいし、恋にも落ちやすいと言うわけだ。
  • メールによるカウンセリングの具体例があっておもしろかったが、メールのつかいかたのアドバイスなどはよけいな気がしたし、もうちょっとつっこんだ分析がほしいと思った。
  • 2002年4月1日月曜日

    携帯メールをはじめた


  • ついに携帯を買ってしまった。今日はエープリル・フール。だからといって嘘の話ではない。ごく少数の連絡をした人たちからは一様に、「またどうして?」というもっともな返事がかえってきた。ぼくは今まで携帯には批判的で、あんなものでトランシーバーごっこをしても時間とお金の無駄づかいだけじゃないかと言いつづけてきた。その気持ちは変わらないから、「じゃー、何に使うの?」といわれてしまうのは当然である。
  • では、なぜ買ったかというと、これが芋蔓式で、簡単には説明できない。話はシステム手帳をやめたところからはじまる。
  • ぼくはもう10年以上、厚さが5cm以上もあるシステム手帳を使いつづけてきた。どこに行くときにもこれは財布の次に大事なもので、忘れたときには不安でどうしようもないという気になるほどのものだった。毎日のスケジュール、住所録、電話番号はもちろん、書籍やCDの購入リスト、ガソリンの燃費記録、HPのカウンター、会議のメモ、ふと思いついたアイデアやことばの記録。ソフトのシリアル・ナンバー、授業時間表に出席簿。それに日本地図に世界地図。名刺やカード。一時はフロッピーも挟みこんでいた。
  • それを去年の秋にPDA(パソコンと連動できる電子手帳)に変えた。教員仲間で何人かがつかっているのを見て、変えてみようかと思ったのだ。持ち運びにはずっと手軽だし、データをマックと共有できる。もっとも、データを移しかえなければいけないからすぐに持ちかえるということはできずに、つい最近まで両方持ち歩いていた。しかし、新しいカレンダーやスケジュール帳は買い足さなかったから、4月1日からは、書き込む場所がない。持ち歩くのはPDAだけと決めたのである。手帳もアナログからデジタルへである。
  • 持ちかえるとなると、必要なことがすべて代行できなければならない。最初の不満はスプレッド・シートが標準装備でなかったことだ。エクセルのような表のことだが、エクセルほどの機能は必要でない。ただ記録ができる表であればいいのだが、気に入ったものがなかなか見つからなかった。ガソリンの燃費記録、HPのカウンター、それに出席簿と、これは頻繁に使用する必需品なのである。一応使っているが、もっといいソフトはないかとさがしている。
  • 次に必要なのが地図。これは、PDAに装着して使うGPS(カーナビと同じもの)を買った。人工衛星と電波のやりとりをして自分の場所を確認する。地図は25万分の1と1万分の1の全国図がCD-ROMに入っていて、PDAにデータを送って使うのだが、とてもすべては入らないから、必要なものだけその都度入れかえることになる。面倒だが1万分の1の地図は小さな通りや建物までわかるものだから、これはなかなか便利である。しかし、肝心なGPSはというと、電池ばかり食って感度が悪い。建物や木が邪魔するところではほとんど使い物にならない。ちょっと高い買い物だったと後悔している。
  • PDAにはホームページを閲覧できるブラウザーとメール・ソフトが標準添付されていて、携帯やPHSを使えばインターネットに接続できる。すぐにはじめる気はなかったのだがGPSにモデムがついているから通信もやろうということになった。もちろん携帯はiモードだから、メールもインターネット接続もできる。それをわざわざPDAでやるのは、大学に届いたメールを自宅や研究室以外からでもチェックできるようにするためだ。
  • そんなわけで、画像のように、持ち歩くものがかえって多くなってしまった。それぞれに充電しておく必要があるから、毎日の日課がまた増えた。番号やアドレスをわずかの人にしか教えていないから、電話がかかってくることはほとんどないし、メールもあまりない。ぼく自身も誰かに電話をかけることもほとんどしていない。
  • 先日「日本スポーツ社会学会」に出席するために九州大学に行った。今までなら、数日間はメールを見ずじまいなのだが、いつもどおりにチェックすることができた。無駄だったかなと反省しかかっていたのだが、モバイルにはまりそうな気配になりはじめている。
  • 2002年3月25日月曜日

    毛無山からの富士

     


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    forest15-7.jpeg・春になると近くの山を歩こうかという気になる。今回は河口湖と西湖の間にある毛無山。河口湖から西湖にむかう道は急な坂道で、登り切ったところにトンネルがある。その文化洞トンネル脇の駐車場に車を停めて登る。久しぶりの山歩きで5分もたたないうちに息が荒くなる。道が真っ直ぐ登っているから余計にきつい。毛無山は1500メートルで登り口は950メートル。今回は標高表示のできる時計、PDAに装着できるGPS、それにビデオカメラをもってきた。
    forest15-11.jpeg・しばらく登ってふりかえると、足和田山の裏から富士山が顔を出す。赤茶けた山の上から真っ白な富士。思わず、おーと声を出してしまう。30分ほどたつと河口湖と西湖が眼下にはっきりと見えるようになる。入り組んで長細い河口湖と、小さいが藍色に澄んだ西湖。真ん中に真っ白い富士。ひょっとしたら、周辺では一番の景色かもしれない。西湖の彼方には南アルプス。雪を抱いているのは赤石岳だろうか。遠くに富士山がもう一つという感じだった。
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    forest15-4.jpeg・山歩きをすると倒木が目につく。ストーブの薪集めに苦労しているから、倒れた木は涎がでるほどだが、担いで帰るわけにはいかないから、どうしようもない。しかも、麓から近いところは植林した松や杉や檜の森で、高くなると自生して伐採されない広葉樹になる。ストーブに使う薪は広葉樹がベターだから、欅の大木などが倒れているとため息をついてしまう。そんな林がなくなりかけたところに樅の木が一本、登山道をふさぐようにたっていた。まさに山の見張り役という感じ。




    forest15-9.jpeg・登りはじめてから1時間半ほどで頂上に着く。ここから西には尾根伝いに十二ヶ岳。そこから北に回り込むように御坂山系が続いている。金山、節刀ヶ岳、金堀山、そして不逢(あわず)山。その先は、黒岳、御坂山、三つ峠山と続く。一度ぐるっと回ってみたいと思っているが、今の体力ではちょっと無理。
    ・毛無山の頂上周辺には名前の通り木はあまりない。枯れた木、倒れた木が目立つ。環境はなかなか厳しいようで、横にのびた木はまるで象の鼻のよう。ほとんど根っこしか残っていない木からは、細い若枝が数本生えている。


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    2002年3月18日月曜日

    「Isamu Noguchi」(BS朝日)

  • 最近みるのはもっぱらBS放送。それほど熱心ではなかったがオリンピックもちらちらと見た。メジャー・リーグの情報もBSの方が詳しい。映画も追いきれないほどおもしろいものが流れる。今はアカデミー特集を数局でやっているからなおさらそうだ。しかし、一番おもしろいのは各局がじっくりつくったドキュメント番組。最近見たなかでは、イサム・ノグチを扱ったものがおもしろかった。レポーターは伝記を書いたドウス昌代。
  • イサム・ノグチは世界的に有名な彫刻家である。彼は日本人を父にアメリカ人を母にもち、20世紀の激動の時代を二つの国の間で翻弄されて生きた。ドキュメントはその生い立ちから死までをていねいに追った秀作である。
  • イサム・ノグチの父は野口米次郎、アメリカに留学中に詩人として注目された文学者で、母は滞米中に知り合ったアイルランド系アメリカ人の女性レオニー・ギルモア。恋愛というよりはレオニーが野口にいだいた一方的な思いだったようだ。ドウス・昌代は、米次郎にとってレオニーは英語で書いた詩のチェックをしてもらう人として大事だったにすぎなかったのではという。米次郎は妊娠をしたレオニーを残して日本に帰り、やがてイサムが産まれる。当然だが、20世紀初めのアメリカでは、白人と日本人の混血はきわめて奇異な目で見られた。
  • レオニーは米次郎のすすめにしたがって、イサムを連れて日本に行く。しかし、やがて米次郎には別に家庭があることがわかり、イサムも育つなかで日本の環境、とりわけ学校になじめなくなる。日本においてはアメリカ以上に、混血の子どもは異端視される。大工仕事や設計に興味をもち才能を示したイサムはアメリカに戻る決心をするが、レオニーは日本に残る。
  • イサム・ノグチは大学にすすむが、医者になるか芸術家になるか迷う。そこで進路の決めてとなったのは、自分の生い立ちだった。芸術家はその血や民族で評価を左右されたりはしない。ミケランジェロの再来といわれるほどの才能を見せたイサムには、周囲の期待する目も大きかった。彼は20代の前半で彫刻の技法はすべてマスターする。奨学金をもらってのパリ留学。
  • 一方で彼の才能は大きな注目を集めるが、しかし、他方で彼の血が問題になる。日米の開戦は彼の存在基盤を自他共に不安定なものにする。日系アメリカ人は戦争中に収容所に強制的に送られるが、彼も例外ではなかった。
  • 戦後になると、イサム・ノグチは石を素材にした大きな彫刻を作るようになる。京都の日本庭園に影響されたり、イタリアの大理石にも興味をもつ。発想の新鮮さはもちろん、その文化的な融合やスケールの大きさが魅力になる。彼の血と、その育った環境が、創造力の源泉になりはじめたのだ。
  • その名声は、たとえば日本では原爆慰霊碑の製作に、そしてアメリカではJ.F.ケネディの墓石の依頼というかたちになる。けれども、そういったプランにはかならず強い反対がおこる。広島に原爆を落としたアメリカ人の血が混じる人間に、慰霊碑など作らせては行けない。アメリカ大統領の墓石をどうしてジャップに作らせるのか。彼は、結局自分のなかの二つの国のどちらにも受けいれてもらえない自分を自覚してしまう。
  • イサム・ノグチの人生は自分を引き裂く二つのアイデンティティに悩みつづけたものだったと言える。しかし、彼の彫刻は引き裂かれてばらばらになるのではなく、二つがぶつかりあい、時に融合しあいながらつくりだすスケールの大きな斬新な世界だった。
  • 2002年3月11日月曜日

    "O Brother" Jerry Garcia and David Grisman "Grateful Dawg"

     

    o-brother.jpeg・ "O Brother"は今年のグラミーでアルバム賞をとった。コーエン兄弟の映画のサウンドトラックだ。コーエン兄弟は『ファーゴ』などどちらかといえばちょっとマニアックな奇妙な映画をつくっているから、その映画のサントラがアルバム賞を取るとは驚きだった。しかし、ほかの賞はU2が去年と同じアルバムで総なめ状態だったから、これしかなかったのかな、という気もする。要するに超不作の年だったのである。


    ・いい作品が生まれなければ、売上げも落ち込む。グラミーの授賞式では、その原因をインターネットでの違法コピーのせいにしていた。近いうちにCDはコピーができないようになるらしい。音楽は商品なのだから、その価値を守るのは当然だが、買いたい気をおこさせるほどのものがない状況の方がもっと深刻だろう。


    ・45回転のシングル盤が開発され、ロックンロールが誕生した1950年代以降、レコードの売上げは盛況と沈滞を交互にくりかえしてきた。たくさん売れた時期は、新しい音楽の波がうまれたときで、サウンドはもちろん、パフォーマンスもファッションも一新される。それに、考え方や行動の変化が伴う。音楽はまさに、若い世代の文化を左右する動因という役割を担ってきた。


    ・ところがである。90年代の女性シンガー・ソング・ライターが続出した一時期以降、新しい流れはまったくでていない。ユース・カルチャーに占める音楽の重要性もひどく低下した。ここ数年グラミーを取ったのは、ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、サンタナ、U2とベテランばかり。そして映画のサントラである。しかも"O Brother"はブルーグラスとカントリー、それにブルース。どちらかといえばトラディショナルといったほうがいいような地味な内容である。


    ・とはいえ、"O Brother"の内容そのものに不満があるわけではない。もともと音楽に興味をもったのもフォークだったから、ぼくはカントリーもブルーグラスも大好きだ。挿入歌の大半は地味な人たちが唄うトラディショナル。ぼくが知っているのはエミルー・ハリスぐらいだ。"I am a man of constant sorrow"が3種類入っているが、ぼくにとってこの曲はディランで聞き慣れていて、「いつも悲しい男」という題名とあわせて印象が強かったから、とても懐かしかった。

    dawg.jpeg・新しいものがうまれないときには、初心に帰る。そんな傾向があるのかもしれない。タワー・レコードでも気のせいかもしれないが、ブルーグラスやカントリー、それにブルースの棚がにぎやかだった。そのなかで見つけたのはJerry GarciaとDavid Grisman の"Grateful Dawg"。ジェリー・ガルシアはグレイトフル・デッドのリーダーでとっくに死んだ人だが、このアルバムは2001年の発売である。中味はロックではなくてブルーグラスとカントリー。ぼくは初めて知ったのだが、ガルシアは60年代半ばにグレイトフル・デッドでデビューする前は、バンジョウ奏者だった。


    ・ガルシアは60年代後半のサンフランシスコでヒッピー文化の中心にあって、音楽はもちろん、その言動や生き方で教祖的な存在になった人だ。グレイトフル・デッドのファンは「デッド・ヘッズ」と呼ばれる。ガルシアの影響力の強さを物語る名前だが、彼はポップな絵も描いたし、『自分の生き方をさがしている人のために』といった本も書いた。ガルシア本人のものだけでなく、デッドのアルバムも解散後に数多く発表されている。デッドは精力的にコンサートをこなし、カメラやテープレコーダーの持ち込みを禁止しなかったから、海賊版も数多いようだ。


    ・で、"Grateful Dawg"だが、これも映画のサウンドトラックである。David Grismanはマンドリン奏者でガルシアは生ギター、それにバンジョー。どちらも真っ白な長髪とあごひげ。同名の映画は、2人のコンサートやスタジオ録音、あるいは日常生活をおったドキュメントのようだ。だから、曲はほとんどがライブになっている。


    ・ぼくにとってグレイトフル・デッドは、何といってもディランとの共演『ディラン&ザ・デッド』での印象が強い。だからこのアルバムをみつけて、今頃になって、ガルシアの新しい側面を教えられた。もう死んでしまって残念だが、改めて、彼に注目して見たい気になった。

    2002年2月25日月曜日

    亀山佳明『子どもと悪の人間学』 (以文社)

  • 最近ブック・レビューのペースがおちた。愚痴やいいわけになるけれども、理由は、落ちついて本を読む時間がないからだ。読書は趣味であると同時に仕事でもあるから、時には何冊も積み上げてつぎつぎに読むこともしたいのだが、そんな態勢になかなかならない。しかも、去年のブック・レビューをふりかえると、自分でみつけておもしろいと思ったものよりは、友人関係のものの方が多い。たとえば、桐田さん、庭田さん、原田さん。中野さんのも「図書新聞」に依頼されたものだった。とはいえ、義理や礼儀で書いているのではない。むしろ、読んで書かねばと自分に言い聞かせている感じで、これがなかったら、ブック・レビューはもっと少なかったかもしれない。で、今回もそんな一冊である。
  • 亀山佳明さんは龍谷大学の社会学部の先生で、ぼくは去年の11月に彼の企画した「ビートルズ」のシンポジウムに招かれた。また3月には筑波大学で開催された「スポーツ社会学会」のシンポジウムでも同席した。もうすぐ井上俊さんの退官記念論集が出るが、彼はその編者で、ぼくも書いている。題名は『文化社会学への招待』(世界思想社)。同世代で、関心も重なっている。ともに、井上さんを師と仰いでいるが、2人とも、直接の教え子というのではない。
  • 『子どもと悪の人間学』 は10年ほど前に筑摩書房から一度出た本の改訂版である。実はこれも縁があって、ぼくもほとんど同じ時期に『私のシンプルライフ』と『メディアのミクロ社会学』を筑摩書房から出した。編集者もおなじで勝股光政さん。この本は、その勝股さんがつくった「以文社」から出ている。
  • 読んであらためて感心するのは、ぼくが10年以上前に出した2冊とちがって、時代遅れになっていないことだ。多作でないぶんだけ、一つひとつの論文の命が長い。それにくらべると、僕の書くものはことの本質よりは時代の雰囲気に目がむいていて、10年もたつと、ノスタルジックなものになってしまっている。今回読み直してみて、あらためてそんな思いを強くした。
  • この本がテーマにする「子どもの悪」は性と暴力と嘘。どれも最近の現象に関連するテーマだが、彼の視線は「近代」そのものにむかう射程の長いものだ。たとえば「嘘」を悪と考え、真実に価値をおくのは近代社会の特徴だが、子どもと嘘の関係はまた、子どもが成長して自己を確立していく上で不可欠のものでもある。彼によれば、子どもの嘘には二つの特徴がある。
    ひとつは「遊びの性格をもつうそ」であり、もう一つは「機能的な特徴をもつうそ」、なかでも「防衛の機能を持つうそ」である。(pp.102-103)
  • 子どもは空想と戯れる。それは想像力を育てることとして奨励される。またそれは、「ごっこ遊び」のように社会における自分の役割の取得にも欠かせない。けれども、もう一つの「防衛的なうそ」は、真実を曲げて他人に伝えることとして禁圧される。「正直モラル」が近代社会における人間関係の基本にあるからだ。利己的にうそをつく人間は人から信用されないから、子どものつく「防衛的なうそ」は親にとっては許されないことになる。
  • しかし、「防衛的なうそ」はまた、自我を確立する上で不可欠のものでもある。「パーソナリティの形成は、拘束からの漸次的な解放とともに達成されてゆく。子供の自己意識は、両親からの心理的分離が自覚されるときにはじまる。」だから、それを大人から抑圧されれば、子どもには自我の確立という機会が失われてしまう。といって野放しにすれば、「正直モラル」は根づかない。
  • 同じようなしくみが「暴力」や「性」にもあてはまる。一方での「解放」と他方での「抑圧」。その矛盾は、バランスを取ることで対処するしかないものだが、その取り方は多様で、またその結果も一様ではない。だから、直接子どもと関係し経験する親や大人たちは、その個々のケースではどうしたらいいのか途方に暮れてしまうほかはない。
  • この本には「子どもの悪」についての対処法は書かれていない。それを期待して読んだら、むずかしいだけで役に立たない本だが、子どもについて、あるいは大人と子どもの関係についてのしくみはよくわかる。どうしたらいいかではなく、どうなっているかを見つめる。それは社会学者としてきわめて誠実な姿勢だと思う。
  • 2002年2月18日月曜日

    通勤の風景(河口湖〜国分寺)

    2月11日の早朝、快晴、気温は-8度。入試の採点のために大学へむかう。今日から3日連続の出勤だ。祝日だが、湖畔に釣り人の姿はない。道もがらがら、湖畔から、河口湖駅、そしてインターチェンジへ。雪をかぶった富士山が、いつにもまして美しい。
    富士山にフジヤマ、新登場のドドンパ。富士急ハイランドには早朝から車の列。でもぼくはお仕事だ。ここで練習している、岡崎、三宮、田畑ガンバレ!!高速にはいるとすぐにスピード監視カメラ。いつも電源は切れているが、急ブレーキを踏む車が多い。
    10分ほどで都留から大月へ。ここで甲府・長野方面と東京に分かれる。その前に、リニア・モーターカーの鉄橋。残念ながら走っているところに出会ったことはない。大月ジャンクションにはいると車が多くなるが、ここまではほとんど貸し切り状態だ。
    談合坂まで来るとちょうど半分。ここを一気に下ると上野原、そして相模湖。小仏トンネルは秋の集中工事できれいになった。そこを抜けると、東京都。カーブがつづく道は、圏央道とのジャンクションの工事中だ。そこをすぎると視界がいっぺんに開けて八王子の料金所へ。そして、国立・府中の出口。
    甲州街道はいつもは大渋滞だが、今日は祝日でがらがら。目の前を走るオフロード・バイクが突然、ウィリーをはじめた。はしゃいでどこへ行くのか。府中の欅並木。府中第一中学校はぼくの母校。しかし、校舎はすべて建てかえられてほとんど昔の面影はない。東京農工大学、明星学苑、東八道路。
    大学への近道は新町商店街の一通。しかし、歩行者や自転車が多くて、いつも徐行。和菓子屋さんの「さくら餅」の看板が気になるが、道が狭すぎて、車を停めて買うことはできない。大学の東の塀づたいに中央線に突き当たる。左折して北門に到着。今日の所要時間は1時間15分。いつもよりちょっと早かった。