2003年6月9日月曜日

有賀夏紀『アメリカの20世紀』(中公新書)

 学部では去年から「現代文化論」の講義を担当している。ぼくは「現代」ということばにおよそ100年、つまり20世紀全体をあてはめているし、「文化」についても日本よりはむしろ欧米に照準を合わせている。現在の日本の文化現象について話が聞けると思っている学生には、いささか当てはずれという印象かも知れないが、今のことを今だけに限定して考えても確かなことはわからないし、日本のことも日本だけで事足りるわけもないからだ。
たとえば若い世代が楽しんでいるはやりの音楽やファッションは、アメリカの50年代、60年代にルーツをもっている。それらがどのような社会的背景のなかで生まれ、世界中に広まったか、あるいは政治や経済にはどのように影響し、また、されてきたのか。感覚的に気に入って身につけたり、食べたり、聞いたりしているものが、今自分のところにある、その移動や変化のプロセスについて、なるべく自覚的に理解してほしい。そんなつもりで授業をしている。
話をしていてくどいほど念を押すのは、時間と場所のちがいの自覚。つまり、10年、50年、100年のちがい、日本とアジアとアメリカ、あるいはヨーロッパのちがいを実感として理解することだ。最近の学生には歴史や地理の感覚がおどろくほど希薄だし、国や民族のちがいを多様性として認識する能力も身につけていない。「昔」ということばで1年前のことも100年前のことも一緒くたにして平気だし、「みんな」とか「普通」ということばで、いとも簡単にあらゆるものを一括りにしてしまう。
原因はいろいろあるのだと思うが、彼や彼女たちと接していて感じるのは、情報や知識の入手が圧倒的にテレビに偏っていることだ。いろいろ知ってはいるけれども、意味解釈がすべて同じ。ちょうどファミレスのメニューやコンビニ弁当の味つけのようなもので、一見多様に見えても、実はきわめて画一的で平面な認識や知識だったりする。だから、本を読みなさい!としつこく言うことになるのだが、いきなり専門書は無理で、わかりやすくてしっかりした入門書を用意しなければならないことになる。
前置きが長くなったが、今回紹介する『アメリカの20世紀』は、現代のアメリカの姿を100年の時間を追って理解するには最適の本である。「なぜ、どうのようにして、アメリカはこれほどの強大な国になったのか?」「アメリカの影響は何が、どれほど世界中に及んでいるのか?」読みながら、あらためて考えたり、確認したりすることは少なくない。
20世紀が「アメリカの世紀」と言われるのは、その強大な政治力、経済力に合わせて文化力ももっていたからだ。それは「『自由』と『民主主義』の理念と豊かな消費生活とが一体となった『アメリカ文明』の世界への拡大」で、20世紀の一方の雄、ソ連と比べれば、文化的影響力の差は歴然としている。「マクドナルドやコカコーラ、ロックやポピュラー音楽、映画、野球、ジーンズやTシャツ、スーパーマーケット、さらに『自由』とか『民主主義』の考え、アメリカ英語などが世界中を席捲しているさま………」。しかもアメリカは、その文化の海外への宣伝や浸透に積極的だった。
好例は、占領下の日本に対しておこなった政策で、日本人は政治や社会や経済の建て直しに、アメリカのあらゆるものを目標にした。経済大国になった日本は、それ以後のモデルとしてしばしば使われたが、それはアメリカが示したイラク戦争後のプランにも如実に現れている。その意味では、日本はアメリカにとって、アメリカが描いたとおりに国を再建し、アメリカに都合の良い強国になったということだろう。
だから、今の日本文化について考えようと思ったら、アメリカの影響を表層の文化だけでなく、政治や経済からも見なければいけないし、20世紀全体を見通さなければならない。『アメリカの20世紀』はそんな問題意識に答えてくれる入門書として読める。

2003年6月2日月曜日

もう、梅雨のよう………


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forest25-4.jpeg ・連休中はずっといい天気で初夏のような暑さだったから、今年は暑い夏になるのかな、と思ったのだが、そのあとはずっと天気が悪い。気象庁は決してそうは言わないが、もうしっかり梅雨だ。6月になってもすっきりしない天気がこのまま続くのだろうか。朝起きて、真っ青な空が見えると、気持もすっきりする。残念ながら、このところそんな朝がない。


・天気が悪ければ、気温もあがらない。室温を1年中20度に保たせているから、今でも灯油のファン・ヒーターが動いている。9月の後半になったらまたヒーターを使いはじめるから、このまま天気が悪ければ、暖房がいらないのは3カ月ちょっとということになってしまう。

 

forest25-5.jpeg・そんな不順な天気にもかかわらず森の花は確実に、いつもの時期、いつもの場所に芽を出し、花をつける。冬の寒さや雪を考えると、まるで奇跡のように感じてしまう。去年買って庭に植えた三つ葉ツツジはろくに花もつけずに葉っぱばかりになってしまったが、近くから植えかえた勿忘草はしっかりと増えて長いこと咲き続けている。やはり野生のものは強い。適所生存。同じように植えかえた朴(ほう)の木は葉っぱが枯れて死んでしまったかと思ったが、今年はしっかりと大きな朴葉を何枚もつけた。実は最近ガーデン造りに目覚めてしまって、花壇をつくって森のあちこちから花や木を持ってきて植え始めている。高原の花は小さいが群生させると、その分、鮮やかになる。そんなふうにイメージしているが、結果が出るのは来年以降のことだ。

forest25-6.jpeg・このあたりで、群生で有名なのは芦川村のすずらん。家からは御坂の連山をはさんで距離的にはすぐなのだが、道を車で行くと、御坂峠から黒駒まで降りて、また山道を登りなおさなければならないから、甲府に行くよりも時間がかかる。山梨県のなかでも一番の僻地だろう。その山あいの村のどんつきにスズランの群生地がある。先日、そこに出かけてみた。時折陽もさすが雨も降る。そんな天気のなかでみるスズランは、白樺林の地面を緑の絨毯にしてきれいだった。フジテレビのニュースでも紹介していたから、かなり有名なのかも知れない。

・緑の中に肝心のスズランの花が目立たない。まだ時期が早かったせいもあるが、ここの花は北海道のものとはちがって花が小さいらしい。可憐といえばそのとおりだが、写真に撮るのも難しいほどでちょっと苦労した。群生とはいえ下草をきれいに刈り揃えていて、人を呼ぶにはそれなりの手入れが必要なのだとあらためて感じた。駐車場も整備されていて、その一角には地元の特産品を売っているテントが並んでいた。蕗(ふき)、蒟蒻(こんにゃく)、蕎麦、それに酵母で作るパンなどもあった。

・山梨県は今、町村合併が進行していて、芦川村も甲府市に吸収されるようだ。河口湖に抜けるトンネルも計画済で、もうすぐ工事が始まり数年先には開通するという。ずいぶん便利になるだろうが、おそらく、ひなびた山あいの集落は一変する。ほかにも河口湖町が中心になって周辺の村と合併する話も煮詰まっている。名前は今のところ、富士河口湖町。そうなると、西湖のある足和田村や本栖湖があり、オウムで有名になった上九一色村の名前が消えてしまう。開発と保存のジレンマである

2003年5月26日月曜日

なぜか懐メロ

 

・トヨタのエスティマのCMにザ・バーズのミスター・タンブリンマンが使われている。ボブ・ディランの曲で、僕が高校生のときにロックに夢中になるきっかけになったものだ。だから当然懐かしいが、思い入れがあるから、安っぽい使われ方をされると腹も立つ。ほかにも自動車のCMにはよく古いロックが使われるが、うまい使い方をしていると思えるものはきわめて少ない。
・なぜ古いロックがCMに使われるのか。CMを作っている人の趣味か、スポンサーの意向か。どうやら中年世代の男を消費のターゲットしているからのようである。たとえば車でいえば、最近のヒット商品は日産のフェアレディZ。これは60年代にデビューしたスポーツカーで、今50代の男たちにとっては憧れの車だった。若い頃には手が出なかったスポーツカーがリバイバルされて、それを中年世代が買っている。月産2000台というから、この勢いはかなりのものだろう。後を追ってマツダもロータリー・エンジンのRX7を8にして発売しはじめた。
・車はここ10年以上ワゴンやワンボックスが主流だった。セダンと違って人も荷物もたくさん積める実用重視なのだが、バンのように商用の安っぽくはない。それに最初に注目したのは今の50代で、家族みんなで出かけられる車を求めたからだった。買い物や食事、あるいは小旅行やキャンプ。「車に乗って感じる家族の繋がり」。僕の乗っているレガシーがその典型だが、テレビのCMはやっぱりロッド・スチュアートなどのロックが多かった。
・その50代が今、不景気をうち破る消費層としてあらためて注目されている。そんなコメントを最近よく聞くし、BSジャパン(東京12チャンネル系)は50代の男だけに限定した会員募集をしていて、その世代をターゲットにした番組も作っている。いわく「今、50代が一番格好いい」。その50 代のまん中にいる僕としては「へー、そうなの」という感じだが、そう、持ち上げられる理由も何となく分かる気がする。
・可処分所得、つまり比較的自由に使えるお金をもっているのは、独身の30代と子どもにお金がかからなくなった50代なのだそうである。 20代は薄給だし、40代は子育てで精一杯、そして60代になれば老後のためにと無駄づかいはしなくなる。確かにそうで、僕ももうすぐ子どもへの仕送りや学費の負担から自由になる。
・音楽がテーマなのに話が妙な方向にそれてしまった。5月20日の朝日新聞で、売れないCDについての特集記事が掲載されたが、演歌が売れはじめたことなど、やはり中年世代の購買力が指摘されていた。そういえば、50年代のロックンロールや洋楽のヒット曲、あるいは60年代、70年代のロックなどを集めた「〜全集」といったCDの新聞広告も目立つし、テレビの通販などもよく見かける。もちろん、日本のフォークやニューミュージック、あるいはJポップなどをまとめたものも多い。NHKのBSでは戦後の時代をヒット曲と映像でふりかえる番組を毎週やっている。僕と同世代のフォーク・シンガーなども、外見はすっかり変わってしまっているのに、まったく昔のままの歌を歌って、客席のおじさんやおばさんを懐かしがらせている。
・なるほど、そういう傾向なのかと思う。50代の消費が増えて不景気が少しでも改善されるのなら、それはそれで悪いことではない。「〜全集」がセットで何万円もしても、ほしいと思う人が多ければ、売上げはかなりのものになるに違いない。けれども、僕は首を傾げてしまう。その種のCDはちょっと前まで街頭の出店なんかで数千円、あるいは数百円で売られていたはずで、ぼくもそんなCDを何枚ももっているからだ。今でも探せばあるはずだ。それは著作権を払わない違法のCDだったのだろうか。それとも、レコード会社が考えた商品価値を高めるためにした工夫の結果なのだろうか。懐かしさにつられて財布の紐をゆるめるのは、あまり賢い買い物ではないと思うのだが………。

2003年5月19日月曜日

相変わらずのジャンク・メール

  相変わらずジャンク・メールが多い。とはいえ、傾向は少しずつ変わっている。今、毎日数十通も舞いこむのは英語のダイレクト・メールで、その3分の1はヴァイアグラのセールス。アメリカではこの薬がすっかり定着したようで、メジャー・リーグの試合を見ていると、バックネットに大きく宣伝されている。NHKはイニング毎の交代時には中継とは別の映像を流しているが、試合中に何時間もヴァイアグラの宣伝なんかしていていいのだろうかと首を傾げてしまう。特に松井一辺倒の番組編成に頭に来ている僕としては、「ヤンキースタジアムのヴァイアグラの広告を映しっぱなしでいいのか!!」と文句を言いたくなってしまう。


ヴァイアグラは男の性器を勃起させるための薬で、僕も興味がないわけではないが、そんなもの使ってまで無理することはないと思う。しかし球場のバックネットに広告されるくらいだから、アメリカ人はセックス好きというか、セックスに強いことに強迫観念的に囚われているんじゃないか、とあらためて感じてしまう。ご苦労なことだが、同じような意識で日本人にセールスのメールを送ってきても、いったいどれほどの効果があるのだろうか。


もっともアダルトサイトの広告メールは日本語でやってくるものも多い。一頃の出会い系サイトは減ったし、携帯向けのものも来なくなった。これは規制が入ったせいだと思う。また、時々やってくるものにはタイトルに「未承認広告」ということばが入っていて、文面には「当配信は送信に関する特定商表示義務規定に則り送信しています。」と書いてある。送信を請け負う業者が代行するという形式をとっている。規制がかかるとその網の目をくぐり抜ける方法が見つけだされて、今度はそれが問題化する。ジャンクメールの動向を見ていると、そんないたちごっこがよくわかる。


現在のインターネットは、ほとんど無修正のハードコアの画像や映像が見放題の状態で、ヴィデオやDVDのネット販売も簡単のようだ。男にとって結構な世の中になったと言えるかも知れないが、男の性に対する関心は「隠されている」ものに向かうから、こんなにさらけ出されてしまっては、かえって意欲を削がれてしまうのではないか、とも思う。


だからこそのヴァイアグラ。ということなら納得がいく。そうすると日本での市場の担い手は若い世代なのだろうか。「過剰な発情装置」→「欲望の発散」→「マンネリズム」→「ヴァイアグラ」→「欲望の捏造」。まさに欲望のゲームである。最近目立ちはじめたメールにドラッグのセールスがある。これにも性の媚薬などといった誘い文句があるから、やっぱり欲望を捏造<する道具のひとつにいれてもいいのかも知れない。


もっとも、このような仕組みは何も性に限るわけではない。「『消費文化』は 、欲望を抑えるのではなく、欲望をでっち上げ、拡大し、飾り立てねばならない。………資本主義が実現するものは、幻想と快楽の商品化である。」(B.S.ターナー『身体と文化』文化書房博文社)。このような仕組みのなかで重要な役割を果たしたのが広告であることは言うまでもないが、ジャンクメールはそのことをあまりに端的に、露骨にさらけ出している。


メールによる広告は新聞やテレビによるものとちがって、いかがわしくて、卑猥で暗い世界だ。当然、いまだに市民権は得ていない。これをこれから成長可能な広告メディアとして考えることはまだまだ難しいけれども、逆に形式を整え、制度化された既存の広告機構が本質的には、「欲望の捏造」システムであることを暴露する材料としては有効なのかも知れないと思う。


ジャンクメールはほっておけば、パソコンはもちろんサーバーにもたまるばかりだから、ほとんど読みもしないでどちらからも削除しているが、残らずためたら「広告メールの記号論」ができるんじゃないか。時折そんなことも考えるが、やっぱり、毎日何十通も入ってくると、興味よりは腹立ちの方が先に立ってしまう。誰か、こんな研究やっている人はいないのだろうか。

2003年5月12日月曜日

不況と少子化の影響


・SARSやイラク戦争のせいで連休中に海外に出た日本人の数は異常に少なかったようだ。国内の旅行より安いヨーロッパやアメリカ大陸行きの格安チケットが売り出されたりもしたが、たとえば、松井とイチローの初対決でNHKが大騒ぎしたヤンキースとマリナーズの試合は満員にはならなかったし、日本人でいっぱいというほどでもなかった。どう考えたって、外国旅行などという気分ではないようだ。


・それなら国内が混んだかというと、そうでもない。河口湖はさほど渋滞も起こらなかったし、高速道路の混み具合も大したことはなかった。友人のペンションのオーナーは、連休の間に平日が3日間もあったらゴールデン・ウィークにはならないと嘆いていた。そのせいなのかも知れないが、人びとの財布の紐の堅さは相当なものになっている。スーパーの売り上げも減り続けていて、日常の生活費も切りつめているのだから、レジャーでぱっと使うなどということは、もっと戒めているのかもしれない。


・大学生の身なりを見ていても質素になった気がするし、コンパも買い出しして研究室でやりましょうなどという。バブルの頃とは比較にならないが、数年前に比べても、景気の悪さは肌身で感じてしまう。僕の所属する研究科にはキャリアアップを目指す社会人が多く在籍していて、すでに何人もの人が修士論文を書き、博士課程に進んでいる人も多い。いわば研究科の柱になっているのだが、職場の不安定さで休学する人が続出している。


・少子化の影響で、東京の高校のかなりの部分が定員割れをおこしはじめているようだ。数年後には、同じ現象が大学でも起こる。東経大もそのような危機と無縁ではない。定員割れをしたら大学の評判はもちろん、中身もがたがたになる。そうならないためにどうしたらいいか。コミュニケーション学部でもその対応策を講じて、来年度からカリキュラムを大幅に変更することにした。そのための委員会をつくり長期間にわたってプラン作りをし、それをたたき台にして教授会でも激しい議論になった。


・それでも、なかなかいいアイデアは出てこないし、どこでも同じような検討をしているから、結局は差が出ないことになってしまう。それではかえって、何もやらない方がいいのではないか。そんな気にもなるが、結果が出なくてもがんばったという姿勢は見せなければいけない。


・もちろん、一番大事なのは入学してきた学生とつきあうことで、学力や知識や技術を身につけさせなければならない。大学は自分で勉強するところだという原則を、僕は今でも学生に言っているが、それでは不親切で教育熱心でない教師だと思われかねない。だから、「こんなこと自分で自覚してやなきゃだめだよ」と言いつつ、手伝ったり、アドバイスをしたりしてしまう。それが必ずしも学生のためになると思わなくても、そうしなければならないと感じはじめている。


・一方で文部科学省は大学に格差をつけようとしていて、補助金を出して大学ごとの共同研究を奨励しはじめている。いわゆる各分野におけるトップ30というやつだ。コミュニケーション研究科でも、院を担当する教員が中心になって共同研究を立案して応募した。もちろんぼくもそのメンバーになっている。最初から当たることはないとたかをくくっているが、実際に準備はしておかなければいけない。他に頼まれている仕事もあるし、自分でやりたいテーマもあるから、正直言って重荷だが、一人知らん顔をするわけにもいかない。何しろここでも、大学の生き残りがかかっているのだから………。


・少子化で少ないはずの高校生の就職率が悪いらしい。もちろん大学でも、就職が決まらないままに卒業していく学生が増えている。業績不振で減給や退職、あるいは倒産で失業といった話も周辺にあふれている。業績不振の建設業、巨額な不良債権をかかえる金融業の次は教育だと噂されている。大学の教師は他には何もできない人種で、その人たちが路頭に迷ったらどういうことになるか。人ごとならば、それは見ものと面白がるところだが、自分がそうなったらと考えるとぞっとしてしまう。僕には他に何ができるだろうか。誰が雇ってくれるだろうか。何よりふれたくない質問である。

2003年5月5日月曜日

ファイナル・カット


・「ファイナル・カット」は隠しカメラを使って友人の秘密をあばく話である。問題のビデオを撮ったのはイギリスの映画スターであるジュード・ロウで、彼はナイフで刺されて殺される。その葬儀の後で未亡人になったサディ・フロストが友人たちにビデオを見せ、その光景もまた記録する。物語はそのビデオをみんなで見る数時間のできごとで、映画は実名の出演者が演技ではなく撮られた現実の話のドキュメントのように映しだされるのだが………
・盗撮は、カメラを手にしたときに誰もがやってみたいと思うことのひとつだろう。通常のやり方では撮れない部分を写しとる。それは人との関係のなかでは隠された部分、秘密の一面、あるいは存在しないはずの顔などで、「ファイナル・カット」では、友人たちがそれぞれ、そんな一面を暴露される。友人同士が罵りあい、夫婦の間に不信感が芽生える。
・こんな光景は他人事の世界としてなら笑って見ることができる。けれども、自分の話として考えると、とんでもないことだと言わざるを得ない。たぶん友達関係も崩れ、夫婦なら離婚はまちがいないからだ。
・映画では、主人公が友人に殺される場面もまたビデオに記録されていることが示されるが、その原因は盗撮ビデオの存在を知った友人のひとりが逆上したからだった。ビデオには彼が主人公の妻を誘惑するさまや、彼の妻がトイレでおしっこをする様子、浮気願望の告白と実際の浮気シーンなどが写されていた。殺すのは短絡的で行き過ぎかも知れないが、こんな場面をビデオに盗撮されたら、僕だって逆上して「殺してやる」と思ってしまうかもしれない。
・悪趣味な映画だといってしまえばそれまでだが、「こんなことすると殺されるよ」という教訓話のようでもある。何しろ今では、それを可能にする道具は手近にいろいろある。他人、それも親密で気になる他人の秘密をちょっと見てみたい、自分でもやってみたい。そんな軽い気持がとんでもない結果になる。この教訓には説得力がある。
・私たちは、どんな人間関係にも表と裏があることを承知している。その関係が一面的で薄いものであれば、そこで示し合うのはきわめて表面的な作り物で、そのことを互いに了解し合ってもいる。だから、相手が表に出さない一面を知ってもそれほど驚かない。店員やセールスマンの笑顔は営業上のものであって、けっして「真心サービス」などではないけれども、無愛想よりははるかにいい。よく知らない人との関係は、そんな表面上の演技によって支えられている。
・しかしである。関係が親密なものであれば、そうはいかない。何でも話し合える関係、示し合える関係こそが親しさを証明する。親子、夫婦、恋人、友人………。ここでは裏がないこと、秘密をもっていないことが前提になるが、現実にはそんな透明な関係はつくれないし、またできたとしても、おそろしくつまらないものになってしまう。関係の維持には互いの距離をなくす努力は不可欠だが、同時にまた、距離がなくなってしまっては関係自体の魅力、それに対する興味も失われてしまう。

・お互いについての知識は関係を積極的に条件づけるが……また同じように一定の無知をも前提とし、ある程度の相互の隠蔽をも前提とする。
・いかにしばしば虚言が関係を破壊するにせよ、関係が存在するかぎりは、虚言はやはり関係の状態の統合的な要素である。(G.ジンメル『秘密の社会学』世界思想社)

・ジンメルは人間関係の維持に必要なのは「配慮」であって、それは、「1.他者の秘密への考慮、隠蔽しようとする他者の直接的な意志への考慮。2.他者が積極的に明らかにしないすべてのことについて、遠ざかること。」だという。親しくなれば、そんな配慮が不要になったり、無用になったりすると思いたくなるけれども、これは関係の絆の不確かさを忘れたとんでもない錯覚である。
・ジュード・ロウは友人たちに不信感をもったから盗撮をしたのではない。信頼感がそれを許容すると過信したのだ。友人たちとの関係を大事に思うなら、絶対にしてはいけないこと、そんな「配慮」の気持の軽視が、関係の破壊だけでなく、自分の死になって跳ね返った。「ファイナル・カット」はそんな人間関係の不確かさや危うさ自体を露骨に暴露しているし、死というオチによって強い教訓話にもしている。「それをやったらおしまいよ」である。

2003年4月28日月曜日

病気と病い 

・アーサー・W・フランク『からだの知恵に聴く』日本教文社
・ロバート・F・マーフィー『ボディ・サイレント』新宿書房
・アーサー・クラインマン『病いの語り』誠心書房

 半世紀以上も生きてくると、からだの具合がいつでも万全だというわけにはいかない。たとえば、今は50肩で右腕が十分に動かないし、腰の調子も不安定だ。胃の薬も欠かせない。痛い、重苦しい、むかつく、だるい………。どれも不快だが、こんな感覚が日常化すると、それとうまくつきあう術もわかってくる。


ところが医者に相談すると、食生活は?酒は、タバコは?睡眠、ストレスは?運動はしてますか?と、決まったことを聞いてきて、決まったアドバイスをしてくれる。「病気」にはかならず原因があって、それを治療する方法も、大概、確立されている。胃カメラ、血液検査、尿検査、CTスキャン、超音波………、で注射や薬を処方してくれて、不摂生や意志の弱さを戒めるというわけだ。


もちろん、医者の言うことは逐一ごもっともで、反論できることはほとんどない。けれどもいつでも、聞きたいこと、あるいは聞いてほしいこととはちょっと違うんだけどな、という気持を感じてしまう。教師というのは人に教えることはあっても、人からの教えを素直に受け止めない。このような気持は、そんな職業病と根っからのへそ曲がりのせいかもしれない。からだの調子が悪くなると、そんな反省の気持も出て、医者の忠告を思い出したりするが、回復すればすぐに忘れてしまう。


アーサー・W・フランクの『からだの知恵に聴く』はみずからの病気(心臓発作と癌)の経験を素材にした社会学である。ここで問われているのは、痛みや苦しみ、あるいは不安や焦りといった感情として経験される、自らの病いについてであり、それとはずれる医療や医学、医者や看護士との関係である。

・身体への治療は人に対してなされるべきことのごく一部にすぎない。私のからだがダウンしたときに起きたことは、からだだけではなく、私の生にも起きていたのだ。
・体験とはそれを生きるべきものであって、支配すべきものではない。からだは自分自身によっても支配されるべきではない。からだは人生の手段であり、媒体である。私はからだの中で、からだを通して生きるのだ。心とからだを切り離すべきではないし、からだを物ととらえるべきでもない。『からだの知恵に聴く』15頁

・医学は病気をからだの変調や不全としてとらえる。だから医者が立ち向かうのは病気、つまり病んだ身体であって、その症状を示す患者そのものではない。患者にとって特別の経験も医者や看護士にとっては日常的な仕事の一例でしかない。その感覚の落差が医療行為のなかではほとんど無視されてきた。もちろん、医者も看護士も毎日数十、数百人の患者に対面するから、その一人一人の心の中まで思いはかっていたのでは、仕事になりはしない。もちろん、町医者とは互いによく知っている関係をつくることができる。けれども、病気の正確な診断は、大きな病院に行かなければはっきりしないことが多い。病気と医療行為のあいだには、そんな根本的な断絶がある。


・ロバート・F・マーフィーはアマゾンをフィールドにする文化人類学者だが、やっぱり脊髄癌におかされた自分の経験を記録したものだ。病気になるとはどういうことか、他者の態度はどう変わるか、所属する集団の扱いは、そして死と闘い、それを受け容れることとは………。彼は病いによって身体に障害をもつことは「からだのあり方であると同時に、社会的アイデンティティのあり方」でもあるという。自らの経験や実感に基づく分析であるだけに、とても説得力がある。もちろんそれは『からだの知恵に聴く』にも言えることだ。


・アーサー・クラインマンの『病いの語り』は、前記した2冊とは違って、病いに冒された者の経験、その内的世界や周囲の人々との関係、そしてもちろん医療行為について、ひとつの研究領域として分析しようとしたものである。彼は医療が診断する「疾患」(desease)とは区別して、患者固有の体験を「病い」(illness)と呼んで区別する。その「病い」にとって大事なのは患者やその身近な人間たちが語る物語である。

・病いの語りは、その患者が語り、重要な他者が語り直す物語であり、患うことに特徴的なできごとや、その長期にわたる経過を首尾一貫したものにする。病いの語りを構成する筋書きや中心的なメタファーや、あるいは表現上の工夫は、経験を意味のある方法で整理し、それらの意味を効果的に伝達するための文化的、個人的モデルからひき出されるものである。『病いの語り』61頁
・「病い」とは単に身体的な変調に限定されるものではなく、それを経験する人の感情の起伏や、人生を通した意味づけ、周囲の人たちとの関係の変容に注目する視点である。医学のおかげで寿命が延びて、その分、病院の世話になったり、そこで死を迎える人が増えた。そのことで問題になるのは、病気そのものではなく、それを経験する人の心。これは医学にとってというよりは人間論や人間関係論にとっての新しい課題なのだと思う。