押井守『友だちはいらない』テレビブロス新書
蛭子能収『ひとりぼっちを笑うな』角川新書
高田渡『マイ・フレンド』河出書房新社
・大学生が入学してまずやるのが友だち捜しであるのは、今さら言うまでもないことだ。で、大学の4年間を通したつきあい方はつかず離れずで、卒業してしまえば、それでおしまいといったもののようだ。「そういうのは友だちと言わないんじゃないの」といった批判をして、卒業した後もつきあえるような友だちを作った方がいいよといった話を何度となくしてきた。
・けれども他方で、僕自身が十代や二十代の頃に出会った友だちと、今どんなつきあいをしているかと考えた時に、たまに会う程度以上の人は誰もいないな、と思っても来た。親密につきあっていたって、それが長続きするわけではない。だとしたら、いったい友だちって何なんだろう。学生に話しながら、同時に矛盾する気持ちを感じていたのも事実だった。
・押井守の『友だちはいらない』は、そんなはっきりしない気持ちにひとつの答えを出してくれるものである。彼にとって一番大事なのは、友だちではなく、仕事仲間である。一緒に仕事をする仲間は、仕事上のつきあいであって、必ずしもプライベートな世界にまで入りこむものではない。プライベートなつきあいは家族で十分だし、ペットがいればもっといい。
・だからといって仕事仲間は表面的で形式的なつきあいだとも限らない。互いに協力したり、競争したりしながら、それなりに太くて深い関係になることもある。もちろんこれは映画監督ならではの発言で、どんな仕事にも共通するものではないかもしれない。あるいは、日本の企業は今でも、仕事だけではなく、プライベートなつきあいまでにもずるずる繋がるものだから、仕事仲間はもっと限定的にして、別の関係を作りたいと思う人も多いだろう。
・蛭子能収は漫画家で、テレビにもよく出るタレントでもある。周囲の空気など気にせず言いたいことを言う。その態度が人気の理由でもあるようだ。その彼もまた、友だちはいらないと言う。それは小さい頃からいじめられた経験によるようだ。周囲に同調するよりはできるだけ自由に生きる。この本はそんな生き方の提案書でもある。
・「ひとりぼっち」と言いながら、彼もまた仕事上の仲間の重要性を認めている。しかしやっぱり、そのつきあいをプライベートな世界にまで入れようとはしない。私的なつきあいは、彼にとっては奥さん一人に限られる。だからその奥さんの死が、彼にとってひどくつらいものであったことが書かれている。彼はその寂しさに耐えられず、テレビ番組で新しい奥さんを公募したようだ。「ほとりぼっち」になれないじゃないか、と言いたくなったが、一緒に生活する人こそ、いちばん大事だと思うのは、僕にもよくわかることである。そのことを、パートナーの脳梗塞と入院で痛感した。
・高田渡の『マイ・フレンド』は、彼が十代の頃につけていた日記につけた名前だ。彼はその日記を友だちと思っていて、日記に語りかけるように、相談するように書き続けている。もちろん、現実に友だちがいなかったわけではない。家族もいたし、仕事仲間もいた。しかし、ウッディ・ガスリーやピート・シーガーを知り、そのレコードを聴き、歌詞を書き、バンジョーやウクレレを自作し、演奏や歌う練習をした。アメリカへの留学を考え、ピート・シーガーに手紙を書き、音楽評論家の家を訪ねて、聞きたいことを聞き、いくつもの資料をもらってきた。
・そんなことを友だちに話すように日記に書く。それは彼の自伝のようだし、私小説のようでもある。何でも打ち明けられるし、相談もできる。それで自分の考えもはっきりする。フォーク・シンガーとして独特のスタイルを作った人の若き日の日記であるだけに、一人の物語のようにして読んだ。実は僕はこのノートを、彼がデビューする前に井の頭公園で見せてもらっている。もう半世紀も前の話で、僕も同じようなノートを作っていたが、もうとっくに捨ててしまっている。
・友だち、仲間、そして家族。その関係の重要性は、一人一人それぞれだろう。また、誰にとってもそれぞれの関係の重みや意味合いは、歳とともに変わっていく。恋愛は結婚によって持続的な関係になる。仕事仲間もまた、ある程度の持続性を前提にする。ところが友だち関係には、持続的であることを保証するものは何もない。だからこそ、一次的にせよ、親密な関係になる。そして必ずしも生きた他人である必要はない。そんなふうに考えると、僕にも思い当たる出会いはいくつかあったと思う。