1999年6月1日火曜日

Van Morrison "Back on Top", Tom Waits "Mule Variations", Bruce Springsteen "18 Tracks"


・気になる3人のアルバムが相次いで出た。長い通勤時間には読書とウォークマンが欠かせないが、ここ数往復、ぼくはこの新しいアルバムばかりくりかえし聴いている。で、いまだに飽きない。京都から東京への朝の新幹線の中ではスプリングスティーンが目を覚ましてくれるし、東京から京都への夜の車内ではトム・ウェイツのけだるい声がたまらなくいい。そしてヴァン・モリソンはどちらでもごきげんだ。新しい人たちが悪いというわけではないが、やっぱり、同世代のミュージシャンの今を聴くのが一番だ。
・ヴァン・モリソンの活動はここのところ精力的である。心臓に持病を抱えているのにコンサートもして元気のようだが、"Back on Top"もなかなか充実している。友達や恋人について語り、季節を歌う。そしてアイルランド。過去への郷愁と現実への醒めた目、それにもちろん、生きることへの強い意志.......。

ハイウェイから脇道に一人はずれ
俺はまだ家庭を探し求めている
道ばたで朝目を覚ますと
頭は痛く、手は冷たい
雲の中の銀の裏地をまさぐって
俺は哲学者の石を探す
"Philosophers Stone"


・トム・ウェイツのアルバムは本当に久しぶりだ。ライナーノーツには6年ぶりとある。アル中で入院でもしているのではと思っていたが、相変わらずの声が聴けた。「裏通りの放浪者」とか「酔いどれ天使」といったイメージとは違って、奥さんとすてきな暮らしをしているようだ。このアルバムも田舎の農場で録音した。

俺が素材を集める役で、カミさんがコック。彼女が言うんだ。「うちに持って帰りなさい。そしたら私が調理してあげるから」ってね。...........彼女は俺の本当の愛だよ。音楽に関しても、人生に関しても、彼女のように俺が信頼できる人間は他にはいない。

・アルバムの1曲目は"Big in Japan"、「日本では大物」という意味だ。アメリカではすでに忘れられた人が日本では人気者で、コンサートをやったりコマーシャルに出たり。エンターテイメントの廃品置き場とちょっと辛辣な日本批判だが、そんなこと言わずにコンサートをやってほしいとぼくは思う。

・最後にブルース・スプリングスティーン。彼は他の二人に比べたらまだまだ昔のイメージに囚われ、煩悩に悩まされているようだ。地味な前作"the ghost of tom joad"とは違って、"Tracs"は4枚組のCDで同時に世界ツアもはじめた。日本でもちょっと前に1ページ全部の新聞広告が出された。"18 Tracs"はそのベスト盤である。
・今までの未収録曲を集めたもので、さらにそのベスト盤だから仕方がないのかもしれないが、アルバムとしてのまとまりがない。日の目を見なかった曲にもいいものがある。作った者にはそれぞれに思いや愛着があるだろう。そこに光を当てる。"Tracks"はそんな目的で作られたようだが、やっぱりいい曲は少ないなと思った。しかし、良い悪いを別にして、すべてをさらけだそうとする姿勢はいかにも彼らしいが、ぼくは時に食傷気味になってしまう。 (1999.06.01)

1999年5月19日水曜日

加藤典洋『可能性としての戦後以後』(岩波書店) 『日本の無思想』(平凡社新書)

 

tenyo1.jpeg・加藤典洋が続けて2冊の本を出した。彼の文章はわかりにくいとか、同じテーマにくりかえしこだわりすぎるとか言われるが、ぼくにはそんなことあまり気にならない。というよりは、いつも教えられることがあって、新しい本を読むのが楽しみに感じられる。今度の2冊でおもしろいテーマは「タテマエ」と「ホンネ」。ただ2冊はほとんど同じことを論じていて、部分的にはほとんど同じ文章というところもあるから、興味がある人はどちらか一冊だけ買って読んだらいいと思う。
・「タテマエ」と「ホンネ」は日本人がよく使い分ける処世術で、日本文化の中に深く根ざすものだと思われている。「裏」と「表」「面従腹背」など、類似する意味のことばは少なくない。けれども、加藤は「タテマエ」と「ホンネ」や「表」と「裏」が、戦後の、それも特に70年代から、それ以前とは異なる意味で使われるようになったと言う。


タテマエとホンネという考え方は、1950年代には登場しているが、たぶん戦前にはなかった。それは当初、欺瞞的な考え方として正当につかまれ、主に知識人によって用いられる。しかしやがて否定的なニュアンスを払拭する形で高度成長の時期に社会に浸透を始め、1970年代に入ると、一気に、日本独自の古来からの考え方であるかに思われる形で、メディアなどの前面に現れてくるのである。
『可能性としての戦後以後』p.141

tenyo2.jpeg・「タテマエ」は原則であり、「ホンネ」は本心から出たことば。それは「公」と「私」のはざまで、自分の意に沿わなくとも、あるいは不利益になることであっても、自分を殺して「原則」や「大義」に従うという「滅私奉公」の姿勢から引き出されている。その意味では「タテマエ」と「ホンネ」は「公」と「私」、「表」と「裏」に共通することばとして理解することができる。しかし、いま使われる「タテマエ」には「表向きの原則」にすぎないというニュアンスがあり、「ホンネ」にも「言うことをはばかられるが誰もが暗黙の内に了解する本心」といった性格が強い。加藤はそれを政治家の「失言」問題を例に取りながら説明するが、このような感覚は、多くの人に共有されたものである。
「タテマエ」が「公」の原則に基づくものならば、「ホンネ」の土台になるのは「私」の「信念」である。当然、二つの間に挟まれた人はその二律背反的な使命のあいだで葛藤することになるはずなのだが、現在使われる「タテマエ」と「ホンネ」にはそのような苦悩は感じられない。二つは相対的なもので、対処の仕方も便宜的なものでしかない。きわめて安直に使われて、何となく了解されるように感じられるから、突き詰めて問題にすることだとは思われない。加藤は、そんな信念や本心の消滅を、敗戦による戦前と戦後の「切断」に見る。

一つは天皇との関係における「切断」です。もう一つは憲法との関係における「切断」です。また三つ目は、戦争の死者との関係における「切断」です。そして最後は、旧敵国との関係における「切断」ということになるでしょう。
『日本の無思想』pp.67-68

「公」の原則に対する不信と形式的な追随、そして「私」の中での「信念」の不在とまかり通る私利私欲の追求。このニヒリスティックな状況の打開について、加藤は「私利私欲」の上に「公」をどう築くかという視点で考察する。福沢諭吉の「痩我慢の説」、鶴見俊輔の「大夫才蔵伝」、あるいはカントの「啓蒙論」を駆使して彼が力説するのは、敗戦時に「切断」してうやむやのままに放置した問題に立ち返るということである。いつもながらの結論ではあるけれども、それだけに、ぼくには彼の「信念」の強さへの信頼と共感が感じられた。

1999年5月14日金曜日

場所と移動

 

・4月から勤務先である大学が変わった。大阪から東京。しかし、いくつか理由があって相変わらず京都に住み続けている。だから、毎週のスケジュールは大学への出講日にあわせて水曜の朝に京都から新幹線に乗って、その日の午後と木、金と仕事をして、また新幹線で深夜に京都に帰る、ということになった。で、そんなパターンで1ケ月以上が過ぎた。「大変ですね」と言われるし、ぼくも最初はそう思ったが、今のところ、しんどさよりはおもしろさを感じることが多い。
・今さらながらに驚いたのは、早朝、あるいは夜更けの新幹線が満員であること、その大半が中年のサラリーマンであることだ。朝の新幹線は完全に関西から名古屋への通勤列車になっているし、金曜の夜は家に帰る単身赴任のお父さんらしい人で一杯だ。職住近接とかSOHOといったことばがはやっても、仕事のための移動に多くの時間を使う人が多いのは相変わらずのことなのである。今までほとんど電車にも乗らなかったぼくにとって、そんな通勤での体験は新鮮だ。
・毎週1000kmの移動をしているわけだが、もちろん旅をしているのだという感覚はほとんどない。片道4時間ほどをウォークマンで音楽を聴きながらの読書で過ごしている。これがなかなか集中できて、研究室よりもはるかに本が読めるから、かえって読書量は増えそうである。そんなふうにして読んだ今福龍太の『クレオール主義』に「場所と移動」についての記述があって、新幹線の中で読んだせいか共感する部分が多かった。

たとえば、ある場所に「住む」という経験について考えてみる。「定住」は従来から「移動」に対立する概念としてしばしばこれと対照させられてきた。しかし現代社会のなかで、「住む」ことは「移動する」こととますます「経験」として区別できなくなりつつあるように見える。......中略.......現代は、移動の論理の上にたってようやく危うい定住の形式を手に入れているにすぎない。

・今福はこのように書いたあとで、「私たちの日常の『生活』が、移動機関の内部から<場所>を眺めるかたちで遂行されている」と言い、移動手段を、日常を描く筆記用具にたとえて話を展開している。「たしかにそうだ」とぼくは思い出したように新幹線から外の景色を眺め、それから、ぼくが住むところ、働く場、生活の場所を思い浮かべた。「いったいぼくは、どこにいるんだろうか?どこから来て、どこに行こうとしているのだろうか?」
・ぼくは人生の半分ずつを関東と関西で生活してきた。だから学生にはずっと東京弁の先生と言われてきたが、東京で、関西弁の先生と言われてしまった。自覚がないわけではなかったが、関東弁と関西弁がチャンポンになっていて、聞き手はその聞き慣れないことばの方に関心を向けるのである。もちろん、だからといって「故郷喪失者」や「デラシネ」などといった心持ちになるわけではない。むしろ、今福の言う「クレオール主義」の実践者のような気になった。
・「クレオール」とは移動や交易によって生みだされた、一種の簡略化された言語で、ブロークンなものとしてみなされることが多いが、それはまた母語として、主要な表現手段としても使われている。そのさまざまな言語や文化の交差から生まれたという特徴に、今福は偏狭なナショナリズムや民族主義、あるいは定住への固執がもたらす弊害を乗り越える道を求めている。それほど大げさなものではないが、ぼくの使うことばや、文化的基盤には今、疑似クレオールと呼べるものがたしかに実感できる。
・だから、「ぼくはどこにもいない人」(nowhere man)ではなく、ここにも、あそこにもいる人。アイデンティティにこだわりながら、いつまでもそれを未成のままにしておきたい人。こんなことを勝手に考えている間に、「ひかり」は東京に着いてしまった。ひとときの同乗者たちがホームに降りて、それぞれに散っていく。ぼくは中央線に乗って国分寺へ、3講目に「社会学」の講義をしなければならないし、そのあとは2年生のゼミだ。研究室にテレビとコンポをいれて、早く居心地のいい部屋にしよう。(1999.05.14)

1999年5月6日木曜日

野茂の試合が見たい!!

 

・プロ野球が開幕して1ケ月が経った。今年はキャンプ前から話題は松坂と野村。巨人と長島さんはいつもながらだが、限られた話題に集中するメディアの悪癖にはうんざりしてしまう。そんなものは無視してメジャー・リーグと行きたかったが、今年はそれも、イチローのマリナーズ・キャンプ参加一色だった。野茂は、吉井は、伊良部は今年はどうなんだろう、と気になったが、そんなことをこまめに教えてくれるスポーツ・ニュースはほとんどなかった。

・2月の朝日新聞の小さなコラムに、日本からの取材がイチローに集中していて、野茂は例年になくのんびりとキャンプができているという話題を読んだ。それはいい、と思ったが、練習試合での投球は不安定のようだった。何より四球が多い。先発をはずされるのではと心配していたら、3月末にいきなり「メッツ解雇」というニュースが飛びこんできた。で「カブスとのマイナー契約」。去年は、中4日のローテーションで投げる野茂と吉井、それに伊良部の衛星中継を見るのに忙しかったのに、今年はかろうじて吉井が先発に残っただけ。その吉井も調子が悪くてローテーションをはずされそうだ。深夜の時には録画をし、大学に行く日はMLBのHPとReal Playerでのラジオ中継のチェックをしていた去年とはまったく違って、今年は何とも寂しいシーズンになってしまった。

・野茂は結局カブスともメジャー契約できず、最新のニュースではブリュワーズと再度マイナー契約を結んだようだ。いったいいつになったらマウンドに立つことができるのか、ぼくは今自分のことのように心配している。何と言ったって、彼は周囲の抵抗や批判を押し切ってメジャーに飛び込んで、新しい世界を見せてくれたのだから。豚饅頭のように太った顔でちゃらんぽらんにやっている(ように見える)伊良部や、野茂の切り開いた道を追いかけた他の選手とはその存在の意味は全然違うのである。それに、活躍していたときにはウンカや蠅のようにつきまとったくせに、今では知らん顔か無責任な中傷記事を書くスポーツ・ジャーナリズムには、あらためてうんざりしてしまう。というよりは、日本にスポーツ・ジャーナリズムなどというものは存在しないのだとあらためて実感させられた。

・ぼくは、今回の経緯は決して野茂の力が落ちたことが主な原因ではないと思う。コントロールが悪いのは昔からで、ボールになる決め球のフォークをバッターが空振りしなくなったのが一番の原因だろう。もちろん、ストレートの威力は年齢からいっても衰えはじめていることはまちがいない。だから野茂の将来は、カウントをとれ、緩急がつけられるボールを武器にすることができるかどうかにかかっていて、ぼくはそれは十分に可能だと感じている。

・確か野茂は今シーズンの契約を3億円近い額で済ましていたはずだが、ブリュワーズではその1割に減らされたようである。ぼくは、その契約のシビアさに、あらためて日本とアメリカの違いを思い知らされた。かつての同僚のピアザは今年からメッツと7年で100億円の契約をした。自分の力や魅力を商品価値としていかに高く評価させるか、それを代理人を介して有利に交渉し、成立させていくか。それは逆に、雇う側からすれば、マイナス材料を理由にどれだけ買いたたけるかということになる。

・野茂は3年間ドジャーズで目を見張るような活躍をした。爪を割ったり体調を崩しても、とにかくローテーションをはずれずに投げた。特に3年目の後半は明らかに変調を感じさせていたのに彼は優勝のためにと投げ続けた。そのひたむきさはアメリカ人にも賞賛されたが、オフに肘の手術をしたことから考えれば、あまりにきまじめにすぎたのではと思う。レギュラー・クラスの選手が半月から1ケ月程度故障者リストに入って休むことは珍しくはない。悪ければ無理をしない。それはたぶん選手に与えられた権利なのだ。そしてチームに迷惑をかけたなどとも感じないだろう。そうしなければ、いつ値を下げられたり、首になったりするかわからない。だから野茂に大事なのは、何より、力を保たせながら、いかに長くメジャー・リーガーでいつづけるか、それを第一に考えるという発想の転換なのである。それからもうひとつ、ことばの問題だ。現在の野茂の境遇に多くのアメリカ人が同情しないのは、彼がアメリカにとけ込んでいないと見られているせいだと思う。日本語でも口数少ない彼には、この方がもっと難しいのかもしれない。

・野茂がカブスを解雇されたとき、近鉄は野茂の復帰には前向きだが代理人交渉はしないと発表した。日本では相変わらず年俸交渉は球団と選手とのあいだでおこなわれる。「悪いようにはしないから、ごねるな」という慣習がまかり通っている。「タテ社会」とか「甘えの構造」として指摘された日本的な人間関係に典型的な特徴だが、それが、一歩国の外に出ればまったく通用しないものであること、閉ざされた世界だからといって当たり前のものではなくなりつつあることを、日本のプロ野球も、それに寄生するスポーツ・ジャーナリズムも全然気づいていない。野茂が苦闘する状況は、明日の日本や日本人にのしかかる問題でもあるのだ。
# とにかく野茂にはカムバックして、来シーズンの契約交渉を自分の思うとおりに運べるよう、がんばってほしいと思う。

1999年4月28日水曜日

Alanis Morissete (大阪城ホール、99/4/19)


・大阪城ホールはスティング以来だから5年ぶりぐらいだろうか。一部の超大物(?)を別にすれば、行ってみたいコンサートはほとんど2000人以下の場所でしかやらなくなった。
・たとえばこの欄でも取り上げているルー・リード、パティ・スミス、Yes、そしてボブ・ディラン。その誰もが、会場を一杯にすることができなかった。他方で大阪ドームといったばかでかいイレモノができて、そのチケットがすぐに売り切れたりする。フェスティバルや厚生年金でやるのは舞台との距離が短くて音もいいから、ぼくには好ましい。そして大阪城ホールまでなら許されると思っているが、ドームが音楽を聴く場であるとは全然思えない。話題性や有名性の一点で二極分化してきた傾向とコマーシャリズムの行き過ぎは、ぼくにとっては気分がいいものではない。

・ というわけで、ひさびさの大阪城ホールだが、コンサートは15分ほど遅れてはじまった。待ちくたびれたわけでもないのだろうが、途端にアリーナはもちろん、ぼくのいたスタンド席まで立ち上がった。「うわー、やばい」と思ったが、座ったままで聞き続けた。2時間もたちっぱなしで聴いたのではぎっくり腰が再発してしまう。人の谷間からのぞき込むのは面倒だが、どうせ舞台のアラニスは豆粒ぐらいにしか見えないから、ぼくは会場全体をきょろきょろ見回して客の生態を観察することにした。

・立つのは踊りたいからなのだろう、と思ったのだが、大半はただ突っ立っている。理由のわからない行動だと気になった。そんな人たちがスタンド席でも半数以上。体を揺らして踊っているのが2割、ぼくのように座っているのが3割ほど。アラニスの歌は何より歌詞の良さにある。だからじっくり聴きたい人が多いだろうと思っていた。しかし、舞台のアラニスは飛び跳ねたり、くるくる回ったりと忙しい。その元気に応えるように踊っている人が2割で、それはそれで自然な感じがした。ぼくの前の席の女の子二人はアラニスに負けないほど元気だった。で、ぼくの目は思わずその娘たちのお尻の動きを追いかけてしまった。

・けれども、やっぱり立ちんぼうの5割も気にかかった。踊るわけでもなく、座るわけでもない。その中途半端さは、時折座りかけてはまた立ち上がるといった行動で、さらにいっそう顕著になる。もっと体を動かしたいのにできないのか、それともまわりが立ったから何となく立って、まわりが座らないからそのままでいるほかなかったのか。あるいはアラニスに対する儀礼なのか。理由がわからなければ、何とも言えないが、ご苦労さんだなと思った。そんな観察にも飽きて、ぼくは後半を最後列の空き席に移動して聴いた。アラニスの姿はもっと小さくなったが、歌に集中することはできた。

・話は横道にそれてしまったが、最後に肝心のコンサートの話。彼女のパフォーマンスは1時間ちょっとでサヨナラになったが、その後3回もアンコールに応えて5-6曲を歌い、客の反応の良さに満足しているようだった。よく動き回って、ギターやハーモニカまでやって見せた。2枚のアルバムにおさめられた曲のほとんどが歌われた。イントロにインド風のサウンドを使って、CDとは異なる雰囲気を作りだそうともしていた。精一杯の演出とパフォーマンスだったと思った。が、それだけに、物足りなさも感じた。たぶん彼女はあと10年ぐらいたったら、もっともっと味のあるライブをやるだろう。しかしこれは、誰より同世代のミュージシャンに関心をもつぼくだけの印象なのかもしれない。

・6月にNHKのBSで東京でのライブが放映されるようだ。それが早くからわかっていたら、聴きに行かなかったのにと思った。コンサートはミュージシャンと聴衆の相互作用だから、そこに違和感を感じてしまっては、やっぱり、楽しい時間を共有することはできない。1枚のCDで気に入ったからといって、うかつにその気になってはいけない。これからは、気をつけてチケットを買おう。そんな教訓を持ったコンサートだった。 (1999.04.28)

1999年4月20日火曜日

M.コステロ、D.F.ウォーレス『ラップという現象』(白水社)ジョン・サベージ『イギリス「族」物語』(毎日新聞社)

 

・音楽と若者の風俗の変遷は、50年代のアメリカ以来、ずっとくり返されている現象だ。今はなんといってもラップとヒップ・ホップ。発信源はニューヨークのハーレムだが、音楽にかぎっていえば、ここ数年はグラミー賞を総なめするような勢いで、日本でも、ちょっとそんな雰囲気を感じさせる宇多田ヒカルが奇妙なほど受けている。理由は日本人離れしたリズム感とかつての演歌の女王・藤圭子の娘であることらしい。

・『ラップという現象』は1990年に出版されている。翻訳が出たのは去年(98)だから、そこには10年近いタイム・ラグがある。しかしそれだけに、まだまだマイナーな音楽だったラップがもっていた魅力や毒についての記述があって、ぼくはとてもおもしろいと思った。たとえば、次のような文章。


「たとえ僕らの外側の世界のできごとではあっても、僕らに十分感じとれる生身の人間の生きざまの真剣な表現」
「シリアスなハード・ラップを通過することで、白人市民も鬱積し破裂せんとするアメリカの都市内奥部のコミュニティが直面する、生/死の苦悶をダイレクトに知ることができる。」


・ラップは「黒人のあいだで完結した、白人にとって<他者>である音楽」として生まれ、存在し続けてきた。それは何よりアメリカが人種によって分離されてきた国だから生じた特徴で、「公民権運動」の過程で強く批判されたところだが、この本の著者たちは、ラップがパワーをもった音楽になりえたのは、黒人たちがその「円環」のなかに閉ざ」されてきたからだという。

・ラップは基本的には、早口でまくし立てることば(しゃべる歌詞)とサンプリングによって作られたリズムで成りたっている。セックス描写、金やモノに対する欲望、そして白人攻撃......。そのあまりに露骨なことばに白人たちは嫌悪感をもつが、同時に、そのリズムにはからだを反応させてしてしまう。怖さや気持ち悪さの感情を持ちながら、同時に窓の外からのぞき込みたい衝動に駆られるできごと。

・若い黒人たちにとってもラップは単に自己表現の音楽というだけではない。それは何より金や名声を得るための手段である。だから誰もが、メジャーのレコード会社と契約し、マスコミに取り上げられ、人種の垣根を越えて、自分の歌がアメリカ中や世界中でヒットすることを夢見ている。光の当たった「ポップ」の世界を否定しながら同時に、「ポップ」の舞台に登場することを目指す音楽。

・ラップにまつわる「アンビバレント」な要素はまだまだある。たとえば、きわめて単純で無骨にすら思える歌詞とデジタル技術を駆使した音づくりなど。それは何よりラップが90年代になってポップの1ジャンルとして確立していった理由の一つだが、同時にポップの歴史の中ではまた、それぞれの特徴に見られる「アンビバレント」な側面というのが、新しい現象が生まれたときには必ず見られた大きな特徴でもあった。たとえば、50年代に登場した黒人の R&Bとそれを模倣した白人のロックンロール、あるいは60年代のロック、そして70年代のパンクやレゲエ。

・もう一冊『イギリス「族」物語』は、60年代から70年代にかけてイギリスに登場した若者のサブカルチャー、たとえば、「テディ・ボーイ」「モッズ」「ロッカーズ」「スキンヘッズ」「グラム」、そして「パンク」などを取り上げている。上野俊哉が解説で書いているように「戦後のイギリスにおけるサブカルチャーのスタイル、風俗、身ぶり、儀礼的な慣習行為の細部」を丹念に追った本であることはまちがいない。しかし、読んでいて、S.フリスや D.ヘブディジが必ず問題にする「階級」という視点がないのがもの足りなかった。これでは、風俗の詳細はわかってもそれぞれの関係の社会的背景は見えてこない。

・学生とつきあっていると今のはもちろん、時折、60年代や70年代の若者のサブカルチャーに関心をもつ学生が現れる。で、その理由を聞くと、というより問いつめると、結局好みの問題として逃げられてしまうことが多い。ぼくはそんなときに、単にサウンドやファッションだけでなく、自分が生きている社会との状況の違いまで理解してほしいと思ってしまうが、そのために役に立つ本はまだまだ豊富だとはいえない。(1999.4.20)

1999年4月13日火曜日

職場が変わったことへの反応など

 

  • 4月から職場が変わったので、ずいぶんメールのやりとりがあった。一つはお叱り。これにはただただ「ごめんなさい」と謝るしかなかった。とりわけ追手門学院大学社会学科の1年生と2年生。「入門社会学」や「基礎演習」、それに「コミュニケーション論」を履修していた学生。大学を変わるのを直接話したのは3年生のゼミの学生だけだったから、4月になって気づいた人も多かったようだ。「先生のゼミに行こうと思って追手門に来たのに」などと言われると、あらためて、彼や彼女たちを裏切ってしまったのだなと、反省してしまった。
  • 同様のメールは学外からもあった。高校や予備校の先生で、このホームページやいくつかの新聞記事から生徒達に追手門の社会学科を推薦したのに、突然いなくなったのでは、文句を言われてしまう、という内容のものだった。予備校が「偏差値ではない大学選びを」と言い、別冊宝島が『学問の鉄人』という特集をした。それに合わせていくつかの新聞が研究室訪問といった連載をした。そんな場で紹介され、ぼくのHPに訪れる人の数も1週間に500人を越えるようになっていた。
  • 大学がどんなところで、どんな先生がいて、何を勉強し、経験できるのか。ぼくはそんなことを直接、受験生や高校の先生に発信することを意図してHPを作りはじめた。インターネットの高校への浸透度は、まだまだ低いものだが、ほとんどの高校生が自由に使えるようになるのにそれほどの時間はかからないはずで、その時になってあわてて対応しようとしても、間に合わない。そんな見通しがあった。反応を実感することはほとんどなかったが、職場の変更が、このHPの影響力を表面化させることになった。しかも、「予告もなしに突然いなくなったのでは困る」という言い訳のできない文面で.......。何とも複雑な気持ちに襲われた。移籍をHPで予告することはできないし、また、HPを理由もなしに終了させることもできなかった。
  • インターネットやHPがこんなにポピュラーにならなければ、たぶんこんなケースは起こらなかっただろう。それぞれに閉じられた組織や集団に所属する者が直接コミュニケーションをする。それは、立場やさまざまな垣根をいとも簡単に乗り越える。そのおもしろさや可能性に夢中になれば、当然、それゆえに生じる問題からも無関係ではいられない。
  • ただ、言い訳になるかもしれないが、その気になれば、HPやメールによって関係は持続できるわけだし、直接会うよりもっと有効なコミュニケーションができる。そんなことを実感させるメールのやりとりも出来はじめている。講義を聞いていた顔もわからない学生から「先生、梅田で〜という映画を見ました」といったメールが届くと、ぼくは何はさておき、うれしくなってすぐ返事を書いてしまう。卒論の相談だって遠慮なくしてくれたらいいなと思う。けれども、追手門にはいい先生がたくさんいるから、そのうちにぼくがいたことなど気にする学生はいなくなってしまうにちがいない。それはそれで、ほっとするような、またちょっと寂しい気になる予測だが......。もっとも、東経大の学生からもメールが来はじめていて、それはそれで楽しいから、忘れてしまうのはぼくの方が早いのかもしれないが、そんなことはしてはいけないと戒めている。
  • シニード・オコーナーのCDを欲しがったフィンランドの青年に「ぼくのを譲ってもいい」と書いたら、待ちきれなくてインターネットで探して手に入れたという返事が来た。忘れていたわけではなかったが、忙しかったし、見つからなかったから3ケ月もほったらかしにしてしまった。悪いことをしたけど、とにかく手に入れることができてよかった。
  • もうひとつペルーのリマ大学で「カラオケ」を卒論のテーマにしている学生から、日本での歴史についての文献をたずねるメールが来た。南米からははじめてで女性だったから、何とかしてあげようとも思ったが、あてがなかったのでこれは粟谷君にふることにした。