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・爆死した男のニュースに触れてピーターは、被害者が友人のサックスであることを確信する。それが物語のはじまりである。二人は作家で、ニューヨークの酒場で出会った。それぞれの仕事、夫婦や家庭の問題、そして互いの関係をたどりながら、ピーターは、サックスがアメリカ各地にある自由の女神像を爆発して回るようになった理由とプロセスを追い、そのことをひとつの物語として書いた。小説内小説という形式だが、「リヴァイアサン」はサックスが自ら書いた作品の題名でもある。それは言ってみれば、小説内小説内小説で、ピーターはそれをもとにサックスの物語を作り上げる。『リヴァイアサン』は形式的にも、人物やその関係も複雑だが、読んでいて考えることが多い作品である。
・サックスはベトナム戦争への徴兵を拒否して刑務所に入れられた経歴を持つ。服役中に小説を書きはじめた。妻のファーニーは美術を専攻する学生で、結婚したのは逮捕される1年前だった。ピーターはその時偶然、コロンビア大学の美学史の講義で彼女を見かけ、興味を覚える。だから、サックスに出会って彼女に再会したときには、心が乱れてしまう。ピーターはディーリアと結婚していてディヴィッドという子どもがいたが、二人の関係はいいものではなかった。
・ファーニーとサックスとの間には子どもがいない。それがファーニーの心をさいなむが、サックスもまた、そんな彼女の自罰的な心を和らげようとして苦悩する。だめな女と自覚するファーニーの前で、もっとだめな男を演じようとするサックス。ファニーはピーターに近づき、サックスもまた別の女性を誘惑する。欲望と自制、愛情と嫉妬、そして何より強いのは信頼することへの忠誠。サックスは執筆を理由に一人暮らしをはじめ、やがて失踪する。ファニーはもちろんピーターにも強い喪失感が残るが、しかし、閉塞感もなくなる。
僕は出ていく、などと宣言して彼女につらい思いをさせる必要はない。ジレンマ的な状況を捏造することによって、ファーニーの方から彼を捨てて出ていくように仕向けるのだ。彼女が自分を自分で救うように持っていくのだ。彼はファーニーがみずからを守り、彼女自身の人生を救う手助けをするのだ。
・サックスはある時ヒッチハイクをして、森の中で立ち往生した車を見つける。そこにいた男はいきなり銃を撃ってくる。サックスはとっさにバットで応対して男を殴り殺してしまう。男の名前はリード・ディマジオ。車の中には大金があった。サックスはその金をサンフランシスコに住むディマジオの家族に渡す。別れた妻の名はリリアン、娘はマリア。そこでまた、彼は奇妙な同居をはじめる。
・リリアンの家に閉ざされたままの部屋があって、中に入ったサックスはディマジオという男に興味を持ちはじめる。ディマジオはあるアナキストを主題にした博士論文を書いていて、ベトナム戦争を体験して以来、政治運動に関わっていた。サックスはディマジオが自由の女神を破壊して回わっていることを知り、その志を継ぐ決意をする。中途半端な生き方をしてごまかしてきた自分を恥じて、自分の命をディマジオに捧げることにしたのだ。彼は今まで感じたことのない強い幸福感と、自分が自由になったという自覚を持つ。
すべての人間の弱さ、もろさを受け入れておきながら、いざ自分のこととなるとサックスは完璧さを追求し、どんな些細な行為においてもほとんど超人的な厳しさをおのれに課した。結果として生じたのは、失望だった。人間としての自分の欠陥を思い知って愕然とし、そのせいでますます厳格な要求を自分に課すに至り、その結果、いっそう息苦しい失望感が募るばかりだった。あれでもう少し自分を愛するすべを学んでいたら、周囲にあれほどの不幸を作り出す力も持たずに済んだだろう。
・
理想主義が陥るジレンマ、と言ってしまえばそれまでかもしれない。自罰的でありながら、裏には強い自愛があり、結果として、自分を滅ぼすだけでなく、他人をも不幸に陥れてしまう。しかも、例えばサックスの理想主義のように、それは必ず他者との関係を通して現実化する。訳者の柴田元幸はあとがきで「現実と理想との隔たりに人間の悲惨があり、現実から理想に向かおうとする意思に人間の栄光がある」と書いている。滑稽さと邪悪さ、成熟と腐敗。現実と理想を巡る栄光と悲惨の物語。それはもちろん、フィクションの世界にとどまるものではなく、僕らの現実のなかに転がっている。
・「君が代」がさしたる反対もなく法制化された。小学校や中学校、そして高校の入学や卒業の時期には、必ずあちこちで「君が代」ボイコットの運動があったのに、この様変わりには驚くばかりである。猛烈な反発をおそれて自民党が出したくとも出せなかった法案や制度改革があっさり現実化してしまう。みんながおとなしくなったのか、あるいは無関心になったのか、とにかくいやな風潮である。
・「君が代斉唱」なんて場には出たくないな、と思っていたら、忌野清志郎が「君が代」をパンク風にアレンジして新譜として売り出すというニュースがあった。「おもしろいな」と興味を持ったが、すぐに、レコード会社が発売中止の決定をした。反響の大きさに、怖くなって自粛してしまったのである。日本の音楽産業の事なかれ主義は救いがたいほどだが、忌野清志郎はそのアルバムを自主発売した。なかなかやる。まだまだ悪たれ小僧のような素直な精神を持っていると思った。
・残念ながら、肝心の「君が代」は今ひとつの感じだった。しかしそれはやっぱり曲やことばのつまらなさのせいで、がんばってパンクにしようとしてもカッポレになってしまうほかはない歌なのだ。やっぱり、「君が代」は歌いたくないなと、再認識。
・このアルバムのタイトルは「冬の十字架」。ジャケットには青いシャツ、黄色いパンツ、金色のシューズ、それに赤い羽根のショールを肩にかけた清志郎がちゃぶ台に肘をついて座っている。部屋の感じからいって30年ほど昔のようだが、もちろん、本人は間違いなく現在の姿だ。で、なかなかおもしろい歌が入っている。たとえば、
川のほとりで 自殺を考えた / だけど怖いから、やめた
俺はだめな奴だ もう死んでるんだ
腐った心の持ち主 誰にも会わせる顔がない
クズクズクズクズ人間のクズ / クズクズクズクズ人間のクズ
クズクズクズクズ人間のクズ / クズクズクズクズ俺のことさ 「人間のクズ」
・もう一つ、一緒に買った頭脳警察の『1972-1991』。題名の通りBESTアルバムである。ラディカルなメッセージで伝説的な扱いを受けているバンドだが、改めて聞くと、やっぱりことばは勇ましく、サウンドはまっすぐで、期待通りに懐かしさを感じた。
・ロックは「路地裏の悪魔」として登場し「メインストリートの天使」に変身すると言ったのはイギリスの社会学者ディック・ヘブディジだが、頭脳警察は路地裏の悪魔と言うほどではないが、悪たれ小僧であることに徹したバンドだと言えるかもしれない。そのストイックさが魅力であることはもちろんだが、それがまた彼らを小さな存在にする原因にもなった。そこに行くと、忌野清志郎には客の期待に応えるショーマンシップがあって、ヴィジュアル系の先祖みたいないい加減さもあるが、それがかえってまた、現在に対する彼の誠実な態度と対照的で、スケールの大きさを感じさせたりもする。
・忌野清志郎は3月に武道館で30周年記念のコンサートをやる。ディランに遅れること10年。ずっと歌い続けていたという点では、日本では彼がやっぱり一番なのかもしれない。
私は思い知った。死んだ人間の遺していった品々と対面するほど恐ろしいことはない、と。それらは手で触れられる幽霊だ。もはや自分が属していない世界のなかで生きつづける責め苦を負った幽霊だ。たとえば、クローゼットいっぱいに入った衣服。