2001年2月26日月曜日

2000年度卒論集『意外とイイ』

 

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「アメリカの死刑制度」井原通仁
「アメリカの対抗文化の始まりとビートニクについて」木倉正美
「現代日本の『化粧』」佐々木理恵
「吉本ばなな論〜克服から成長へ〜」丸田幸一
「読売巨人軍を暴け〜さようなら巨人軍〜」堀舞里子
「外国映画、字幕で見るか、吹き替えで見るか」岡澤好江
「ウェールズ音楽論」楠見学
「変わりゆく人間関係」徳井一仁
「『三国志』と日本における人気の秘密」石見大介
「メディアに見る少年法・少年犯罪とその危うさ」椚正嘉

「ポピュラー音楽におけるメディアの役割」角知洋
「新宿の時代〜60,70年代日本のユースカルチャー〜」平本芙美
「リカちゃん人形から見る日本の社会」島田理沙
「ガゼルパンチ」井上理恵
「地上波デジタル放送」坂巻哲也
「社会における笑いの効用〜お笑い論〜」間野杏梨
「クラシック論−歴史と現代コンサートホール−」松本容子
「グリム童話について 3つの時代背景と子供に与える影響」村上理恵

2001年2月19日月曜日

H.D.ソロー『ウォルデン』その5、青い雪と氷の花火



・家のまわりの雪は相変わらず30cm以上積もっている。日に照らされて溶けてはいるのだが、冷たい風にさらされた水はすぐに凍って大きなつららになる。それが地面に落ちて、下を氷面にする。1月27日のような大雪はないが、何度か雪も降った。そんなわけで、もう1カ月半以上、あたりは銀世界のままだ。
・最初は、精出して雪かきをし、ソリ滑りやカマクラづくり、あるいは雪だるまなどもやったが、もう雪が当たり前になると、地面が懐かしくなる。何より薪割りができないのがつらい。割るべき木は雪の下だし、掘り出してきても、しっかり凍っている。割ろうとしても刃が立たないのだ。周囲に湿気があるから過ごしやすいのだが、割った木が乾いてくれない。で、そろそろ、ストーブ用の槇が心細くなってきた。春が待ち遠しい。こんな気分になったのは久しぶりのことだ。 ・とはいえ、雪の世界にも何気ないところで驚くような発見がある。1mも積もった雪かきをしながら、思わず見とれてしまったのだが、積もった雪に穴をあけると、底が青い。カマクラを作って中にはいると、日中は光が微かに青く感じられる。この青さの秘密はわかるのだが、積もった雪を掘るとなぜ青いのか考え込んでしまった。

・雪がいつにもまして深いとき、街道からわが家へ帰りつくのに使っていた半マイルぐらいの小道は、間隔を大きくあけて点がくねくねとつづいて行く点線で表せないこともない。おだやかな天候が一週間もつづくと、毎日ぼくはぼく自身がつけた深い足あとをゆっくりと、分割コンパスもどきの正確さで踏みしめながら、きちんと同じ歩数と歩幅でたどったが、こんなきまりきった繰り返しも冬ならばどうしようもなく、それでもぼくの足あとは多くの場合天空そのものの青をいっぱいに湛えていた。(399頁)


・ソローもこの青に気づいたのか、と思ったらうれしくなったが、やっぱり空の色なのだろうか。

・雪が積もってはいても仕事には出かなければならないし、買い物にも行かなければならない。それに120リットルの灯油を週一回、ガソリンスタンドに買いに行く。だから、毎日のように湖畔の道路を車で一周している。今年は10年ぶりぐらいで湖面が全面結氷した。石を投げても割れないからかなりの厚さになったと思う。固めた雪を投げると、氷にあたった瞬間に割れて周囲に飛び散っていく。その様子が花火に似ていて何度も投げた。四方に飛び散った雪は信じられないほど遠くまで滑っていく。大げさではなく、対岸に届くのではないかと思うほどだった。そんなことをしていると、ちょっと氷の上に乗ってみたい気になる。 ・誰もがそう思うのか、拡声機で毎日やる地域の放送では、ここのところ、「湖面の氷は薄いから絶対乗らないように」と繰り返している。子どもたちなら、誘惑に勝てずに、つい一歩を踏み出してしまうかもしれない。どうせなら、歩けるほど凍ったらいいのにと思っていたら『ウォルデン』にまた次のような描写を見つけた。

池は固く氷が張ってしまうと、いろいろなところへ行くための新しい近道になってくれたばかりか、まわりの見慣れた風景も氷の上で見ると新しいものに見えるようにしてくれるた。(410頁)

 
・湖の真ん中へはボートでなら行けるけれども、氷の上を歩いていったら、確かに風景はまるで違って見えるだろう。第一、普段は自動車でぐるっと回っている対岸が、すぐ歩いて行けるところになってしまっているのだから。いつもと同じ場所がいつもとはまったく違う風景になる。季節とはそういうものなのだということを、この一年で身をもって体験した。

・そういえば、子どもの頃は田圃に水を張るとしっかり凍って、そこでスケートをよくやったことを思い出した。つけていたのは下駄スケートで、足袋を履いてひもで縛りつけるものだった。今はどこを探しても見かけないが、足の大きさにあまり関係なく使えたから、すぐに足が大きくなる子どもには便利な道具だった。今は子どもたちは靴のスケートを履いて、スケートリンクに出かけている。親にとってはバカにならない出費だろう。隣の山中湖では23年ぶりで氷の上でのワカサギ釣りができるそうだ。今年の寒さはそのくらいなのかとあらためて知らされた。おなかにいっぱいタマゴが入ったワカサギはフライにするとおいしい。これも、子どもの頃に経験しただけだが、たまらなく食べたくなってしまった。

 ・それはともかく、仕事のために東京とのあいだを往復していると、都市が季節を排除することで成り立っていることがよくわかる。いつもの場所がいつもと同じでなくなるのは、人が何かを壊したり、作ったりしたときで、暑さ寒さは感じても、一年中ほとんど同じ景色に見える。大学のある国分寺周辺はまだ、緑が多いからましだが、新宿や渋谷に行ったら、もうだめだ。 ・雪に飽きたら、それが溶けて土が顔を出すのじっと待つ。やがて森が緑に包まれて、そして紅葉して枯れる。そしてまた雪。思わず、泉谷しげるの「季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち、夢のない家を出て、愛のない人にあう」を口ずさんでしまった。 (2001.02.19)

2001年2月12日月曜日

"The Best of Broadside 1962-1988"


broadside1.jpeg・『Broadside』はモダン・フォークが華やかだった頃に出ていたリトル・マガジンで、レコード・デビューする以前のフォーク・シンガーが自作の歌を投稿する場だった。無名のシンガーたちはニューヨークのライブ・ハウスで歌うチャンスを見つけ、"Broadside"に歌が掲載されることを目指した。その雑誌は88年まで発行され続けたが、今回紹介するのは、その代表的な記事や歌を収めて出版されたものである。


『ブロードサイド』を支えていたのはすばらしい歌と記事、それに加えてしんどい仕事に耐える人たち。紙面の中には多くの笑顔をもあり、怒りの表情も見える。しかし、みんながこれに託していたのは、歌がこのちっぽけなページにとどまるのではなく、いつまでも歌われ続けて欲しいという願いだった。

・たとえば、ボブ・ディランの代表作である「風に吹かれて」はアルバム『フリー・ホイーリン』のなかの1曲として1963年にコロンビア・レコードから発表されたが、『ブロードサイド』にはその前年の62年に掲載されて、レコードもThe New World Singersというバンドによるもののほうが早かった。またヒットしたのはよりポピュラーなグループだったPPM(ピーター・ポール&マリー)の歌ったものである。
・『ブロードサイド』は当時の注目曲の発信源だった。しかし、そんな注目の雑誌も、スタイルはタイプライターで打ったものを切り張りして、簡易印刷するといったシンプルなもので、創刊号はわずか35セントで部数は300だった。売られたのはニューヨークのグリニジヴィレッジ周辺に限られた。発行者はシス・カニンガムとゴードン・フライセン。50年代から左翼的な活動をしてきた人で、ウッディ・ガスリーやピート・シーガーとつながりが深かった。
・「ブロードサイド」という名は1世紀前のロンドンで出されていた街頭売りの新聞の総称で、事件や問題、あるいはこまごまとした話題を多くの人びとに伝える役割を果たしたメディアだった。新聞はその後急成長して、大発行部数を誇るようになり、映画やラジオ、そしてテレビと新しいメディアが次々登場して急激に大規模化していった。だから『ブロードサイド』という名前には、ジャーナリズムの初心に帰って、大切なものをできるだけシンプルにという意味が込められた。
・フォーク・ソングは60年代の前半を代表するポピュラー・ソングになり、社会や政治を批判する内容がヒットするという現象を作りだしたが、後半になるとロックンロールと一緒になって生まれた新しいサウンドの影に隠れるようになる。さらに、新人はレコード会社が直接見つけだしたり、自らインディーズ・レーベルでレコード化するようになった。それにつれて『ブロードサイド』の役割は影に隠れるようになるが、しかし、フェミニズムや人種差別などの問題に沿って、地味な歌を掲載し続けてきた。
・"The Best of Broadside 1962-1988"にはそんな30年近い歴史が、何人かによって回顧され、掲載された主な歌が5枚のCDに89曲収められている。歌っているのはディランやフィル・オークス、アーロ・ガスリー、ピート・シーガー、トム・パクストン、ジャニス・イアン、エリック・アンダーソン他多数。
・このようなものを手にするたびに思うのは、アメリカ人の持続する志と歩いた道筋をたどって記録にとどめ、評価し直そうとする姿勢。それとは対照的な日本人の気まぐれさと忘れっぽさである。懐メロとしてノスタルジーに浸るのではない回顧という作業がもっとされてもいいのではと思うが、そんな気配は日本のどこにも見かけられない。

2001年2月5日月曜日

D.A.ノーマン『パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう』(新曜社)


・この本でノーマンが力説しているのは、けっして反コンピュータではない。逆にもっともっと使いやすいものになるべきだという主張である。「IT 」ということばが時代を象徴するものであるかのように使われているし、「ハイテク」なることばも相変わらず顕在だ。しかし彼は「ハイテク」は未熟なテクノロジーの別名だという。

・新しいテクノロジーは最初、その目新しさ、あるいは希少価値によって注目され、人の欲望を駆り立てる。高価でけっして使いやすいわけではない。というよりは使い道さえはっきりしているわけではない。初期のパソコンがまさにそれだった。しかし、「テクノロジーが基本的なニーズを充たす地点まで達したとき、テクノロジーの進歩は魅力を失う。」つまり、機械や道具はそれがハイテクと思われているうちは不完全なもので、成熟すれば、そのテクノロジーの存在は自覚されなくなるというのだ。

・考えてみればあたりまえだが、読んでいて目から鱗という感じがちょっとした。テクノロジーは何か便利な道具の裏に隠れて、何ら存在感を主張しないで機能する。ぼくはパソコンを主にワープロとして使っているが、同じ筆記用具である鉛筆や万年筆やボールペンをテクノロジーだとは思わない。手に持った感触や書き味、字の太さなどで道具を選ぶことはあるが、処理スピードだとか、記憶容量だとかいったテクノロジーの能力そのものなどまったく関係がない。相変わらずそのあたりが商品価値として喧伝されているパソコンの状況は、それが依然として幼稚な段階にあることを証明しているというわけだ。

・ノーマンは性能を売り物にする傾向を「なしくずしの機能追加主義」とか「蔓延する機能追加主義」と呼ぶ。それはまさに病だが、パソコンには、クロック・スピードがギガヘルツになったとか言って驚く風潮が顕在で、誰も、それが病気の症状などとは思っていない。ぼくはマックを使い始めて12 年になるが、その間に次々と8台ほどを購入した。理由はもちろん、CPUの能力や記憶容量で、買い換えなければ、必要な作業ができなくなるという不安におそわれたためだ。

・しかしこれはおかしな話で、まずまず満足がいく仕事をしてくれるパソコンは壊れないかぎりは、仕事をさぼることはない。能力が落ちるのはソフトをバージョンアップするからで、ハードとソフトは、絶えず買い換えさせるために、共謀して、いたちごっこを繰り返している。ぼくらは、その罠にまんまとはまりこんでしまっているのである。ぼくがこれまでソフトとハードに使った金額はたぶん500万円を超えているだろう。何しろ最初のMac SE30だけで100万したし、ソフトや周辺機器をあわせると150万円以上も使ったのだから………。

・ノーマンは「MSワード」が1992年に311のコマンド(機能)をもっていたことを、それでも多かったと言ったあとで、97年には 1033になったと指摘している。コマンドの多さは能力の向上を示すが、実際に使ってみれば、かえって煩雑で使いにくい。ぼくは数年前から文章を書くのは単機能のエディターにしてワープロ・ソフトは捨ててしまったが、学生からのレポートがワードのままで送られてくるから、仕方なしにMS Officeを買い直した。しかし、ワードはほとんど使っていない。ぼくは文章を書きたいのであって、パソコンの操作を楽しみたいわけではないのである。

・この本の原題は"Invisible Computer"と名づけられている。つまり、コンピュータをやめてアナログ的な道具で行こうというのではなく、コンピュータであること意識せずまるで鉛筆や筆のような感覚で使えるコンピュータを望む、という主張なのだ。

・前回書いたが、ぼくは大雪でえらい目にあった。雪道の運転は怖いが、それは同時に4つのタイヤの微妙な動きを意識させてくれる瞬間でもある。ぼくの乗っている車は4駆でABSやVDCといった機能がついている。メーカーのCMにはよく登場する文字で何となくよさそうだ、とか高機能で格好いいといった感じだが、それは雪道のようなところ以外では自覚できるものではない。たとえば、タイヤの一つがスリップをし始めると、コンピュータ制御された動力部分はスリップしたタイヤに送る力(トルク)を減らしてスリップをやめさせるようにする。ようするにスリップし始めても。車自体がそれを回避してくれる。長時間の運転のなかでくりかえしそれが働いて、ぼくはすっかり感心してしまったが、その機能は普段はまったく働かないか、働いてもドライバーに自覚されることはない。

・これはもちろん車に積まれたハイテクだが、パソコンにくらべたらその自己主張は謙虚で、しかも確実だと思った。逆に言えば、パソコンは何の役に立つのかわからないハイテクで飾られすぎているということになる。

2001年1月30日火曜日

美しくて、楽しくて、そして何より怖い雪

 

  • 雪雲は北にある御坂山系を越えてやってくる。


  • 大雪がおさまった翌日の朝、真っ白な御坂山系と、
    真っ青な青空、屋根に積もった雪。


  • 屋根に積もった雪が溶けると、巨大なつららができはじめる。


  • 雪かき、雪かき、雪かき。


  • スタックした車の救出。ブルで雪をどけて、
    押してもらって、何とか脱出。




  • 道路も開通、駐車スペースの雪かきもすんで
    車もやっと定位置に落ち着いた。
  • 2001年1月29日月曜日

    冷や汗、大汗の大雪物語

     

    snow4.jpeg・2001年1月27日、土曜日。この日のことは、たぶん死ぬまで忘れないだろう。
    ・雪は未明から降り始めていた。ぼくは試験監督や教授会、それに修論審査などで、今週はほとん出ずっぱりの一週間だった。木曜日からずっと東京で、河口湖には帰っていない。雪は昼になっても激しく降っていたから、今日も東京泊まりを覚悟しかけた。しかし、一日遅らせたからといって明日確実に帰れるわけではない。雪が降り積もってしまえば、かえって家までは辿り着けなくなるかもしれない。行くかやめるか迷った末に、高速の入り口まで行ってみることにした。
    ・「チェーン装着」の表示。動いている。車は4駆でスタッドレスをはいているからチェーンは必要ないはず。入り口での検査を通って高速に入ると車はほとんど走っていない。雪はシャーベット状になっているが、50kmぐらいでは走れた。これならいつもの倍の時間で着くかなと思った。時間はちょうど4時。到着は7時頃か、ちょっと気楽になった。
    ・八王子で再チェックを受け、小仏トンネル、相模湖、そして上野原。道路に積もった雪がでこぼこになっている。まるで洗濯板の上を走っているみたい。とても快適とは言えないが、流れそのものはスムーズだった。しかし、談合坂にさしかかる手前の鶴川橋でストップ。20分ほど待っただろうか。動き出してはじめて理由がわかった。急坂にスリップをして立ち往生する車が続出。しかも大型のトラックやバスばかりで、登れる車はその障害物を避けてそろそろ走らなければならなかったのだ。車を捨てた人たちは談合坂のSAまで歩くのだろうか。車を乗り捨てなければならなくなったら、と考えたら、急に恐怖心におそわれて冷や汗が出てきた。で、頻繁にタバコ。

    snow14.jpeg・坂を登り終わった後はまた比較的スムーズだった。猿橋、そして大月。この分なら後30分ほどで河口湖インターに着く。と思ったら大月で「通行止め、降りよ!」の表示。そのまま進入する車もあって、一瞬迷ったが、降りることにした。それが第一の選択間違い。国道139号線に入ると、車の列は止まったまま動かない。時間は6時。動き出したのは7時半だった。原因はカーブで坂道のところでの除雪作業。ヤレヤレと思っているとしばらく走ってまた停車。今度は、トラックの立ち往生だった。その後も立ち往生する車は続出で、都留に着いたときにはもう9時で、富士吉田にたどり着いたのは11時半だった。おそらく、そのまま高速を走ることはできたはずで、そうすれば、たぶん7時には河口湖の出口にいたはず。大月からは20kmちょっとで、それを6時間近くというのは、とても想像できないことだった。
    ・坂を登れない車は国道でも大型車ばかりだが、しかし、タイヤを取られて蛇行するのはどの車も例外ではない。特に急坂の急カーブは本当に冷や汗もので、ぼくは改めて4駆でABSのついた車に感謝した。それに、2駆でノーマルタイヤなどという無茶というか無知なやからが一人もいなかったことに感心した。感心したことはそれだけではない。車が立ち往生すると、ドライバーたちが相談して、流れを作る算段をしたり、地元の人が裏道案内をかって出たりする。これがなければたぶん、車に閉じこめられて徹夜ということになっただろう。

    snow10.jpeg・もちろん、感心したことばかりではない。雪かきのすんだはずの道路に、所々、雪の山があって、車で踏みつけられた後はスリップの原因になる。雪は道路端の民家や商店の人たちが自分の土地から放り出したものだ。ひどいのはコンビニで、駐車場の雪を機械を使って道路に吹き上げている。車が動けなくなったら客も来ないだろうに、自分のところさえきれいになればという「自己中」まるだしの行為。
    ・河口湖の湖畔を通って我が家に近づいてくると、急に疲労を覚えた。あと少し、と思って近道を選択。これが第二の選択間違い。除雪はしてないが車の轍が残っている。だから通れるだろうと思って進入したら、意外と雪は深かった。前進できなくなって、バックしようと思ったが、タイヤは空転して動かない。家はもうすぐそこなのに、と思うと、この道をうっかり選んだ自分が情けなくなった。で、車を降りて、轍をたどって歩くことにした。雪の止んだ空には星がきれいに出ていた。その明かりを頼りに轍をたどる。

    snow9.jpeg・ところが、家まであと100mというところまで来て目を疑った。まるで除雪がされていない。積雪は1mほどもある。そのきれいに積もった雪の中に足を踏み入れる。からだは腰のあたりまで沈む。次の足を出すのに一苦労。靴は冷たく、肺は息切れして、顔からは汗が噴き出してくる。やっとの事で、家に到着。12時半。大学を出てからちょうど9時間。つくづく、遠くから通っているなと思った。体を薪ストーブで温めてベッドに入ると、あっという間に眠りの世界に。
    ・翌日は早朝から雪かき。何とか道路までかいて、車2台分のスペースを作ったらもうお昼。午後からは、乗り捨ててきた車のところまで行って、また周囲や車の下の雪かき。運良く町のブルドーザーが来て、救出。ついでに家の前も除雪をしてもらって、無事駐車スペースへ。時間は午後の4時だった。大汗かいてくたくたの一日。手も足も、腰も痛い。積雪1mの世界は見とれるほど美しいが、今日ばかりは、今畜生と言いたくなった。昨夜に続いて爆睡。
    ・雪かきは二日目も丸一日かけての作業だった。

    2001年1月22日月曜日

    "海の上のピアニスト"


    ・大西洋を往復する大型客船ヴァージニア号のなかで産まれた男の子が、ピアノの上に捨てられた。1900年。客の大半はヨーロッパからアメリカへの移民たちだった。彼は、船倉で働く黒人に育てられる。その黒人も仕事中の事故で死んで、父も母も知らずに船のなかで育った男の子は、やがてピアノの演奏に天才的な能力を発揮するようになる。「海の上のピアニスト」。原題は「Legend of 1900」で、1900は主人公の名前である。


    ・監督のジュゼッペ・トルナトーレは『ニュー・シネマ・パラダイス』で有名だが、「海の上のピアニスト」を見ながら、つくづく、情感に溢れた物語を描き出すのがうまいな、と思った。見終わった後の虚脱感。映画にそれだけ没入した証拠だが、こんな感覚を味わったのは久しぶりだった。


    ・ピアニストは生まれてからずっと船で過ごして一度も陸にあがったことがない。もちろん港につけば、ニューヨークやジェノバといった街の風景を間近に見る。そして客たちは続々と降りて町の中に歩き出していく。多くはアメリカへの移民で、自由の女神が見えると一斉に狂喜乱舞しはじめる。彼らにとっては夢の実現を願ってやってきた「約束の地」なのである。その様子をくりかえし見ながらも、ピアニストは、降りてみたいとすら思わない。彼にとっては船が一つの完結した世界で、彼はそこで十分存在感を確認し、また人びととのつながりも確信している。父や母がいなくても、それで寂しいということもない。そもそも彼には父や母といった存在が意味のあるものには感じられていないのである。多くの船員たちが彼に愛情を注ぎ、また客たちが彼に注目する。ピアニストはそのことだけで十分満ち足りていた。


    ・見せ場の一つは「ジャズ」の生みの親というピアニストとの船上対決。プライドの固まりのような黒人ピアニストとは対照的に、1900は全くの平常心。相手が誰であろうと、そこは彼の世界であり、そこに入りこんだら、誰であれ、彼以上にはなり得ないからである。
    ・けれども、そんな彼が一人の少女に恋をすると、彼女の後を追ってニューヨークの街に出て行こうかという気持ちとらわれることになる。船を降りることを決心して、仲間との別れを惜しむ。しかし、タラップの途中まで進んだところで立ち止まってしまう。で、帽子を放り投げて、また引き返す。


    ・船はその後第2次大戦中も航行を続け、やがて老朽化して廃船になる。バンド仲間のトランペッターはその船が爆破して沈められることを知り、まだ中にいるはずのピアニストを探しに出かける。しかし、ピアニストは船を降りようとはしない。


    ・彼の世界はこの船とピアノ。どちらも世界の区切りがはっきりしている。だからこそ、世界の大きさも自分の居場所も、その中での可能性も確認できる。限られた数の鍵盤と10本の指。その限定が逆に、音楽の創造に無限の可能性を持たせる。しかし、ニューヨークの街に一歩足を踏み出したら、その途端に、自分の居場所も、行き先も、そして何より自分自身の存在感が不確かになってしまう。彼にとってはあまりに大きすぎて自分が消えてしまいそうな世界。ピアニストはすでにピアノが撤去され、爆破されるだけの船に残ることを告げる。物語には必ず終わりがある。自分の人生の終わりを船とともに迎えるという決心をトランペッターも納得する。


    ・評判を聞きつけたレコード会社が船上での録音を試みるシーンがあった。その時演奏されたのは即興曲で、たまたま窓の外に見えた少女に見とれながら弾いたものだった。レコード会社の者たちは、それが大ヒット間違いなしだと喜ぶが、ピアニストはその原盤を割ってしまう。録音された音楽など、彼にとっては聴く価値のあるものではないし、名声や富にも意味を感じなかったからだ。


    ・この小さな世界で生きた、俗物根性のまるでない存在が見せる充実した日々と終末。それは際限のない世界で生きる人間が苦慮する自らの存在感の確認や他者へのアピール、そのいつまでいっても果てることのないくりかえしとは極めて対照的である。そのような自分の世界を持ち得たことに羨ましさを感じるが、しかしまた同時に、船とともに海に散った主人公にたまらない悲しさを覚えてしまう。これは、俗物の世界にいささかうんざりしながら、なおかつおもしろさも感じている証拠なのかな、と思った。