国家を「夢」といった実体のないものと同一視することは全く例外的なことである。夢は何ものかを喚起し、照らし出し、美しく、恐ろしくもある。しかし夢は既成事実では決してありえない。証明すべき実体をもたない。ただ修正だけがきく。もともと曖昧なものであるがゆえに、いろいろに解釈されるようにできている。夢とはあらゆる経験の中で、もっとも個人的で不可視なものである。
2001年11月12日月曜日
T.ギトリン『アメリカの文化戦争』(彩流社)
2001年11月5日月曜日
シンポジウム「ビートルズ現象」
・ 11月2日に大津の龍谷大学社会学部で「ビートルズ現象」というタイトルのシンポジウムがあった。ぼくはパネリストの一人として出席するために、前日に車で河口湖を出た。快晴、紅葉、雪をかぶった富士山、と気持ちよく出発したのだが東名に乗ったとたんにしまったと思った。10月22日から11月2日まで集中工事。さっそく清水から静岡までの20kmたらずで1時間以上も渋滞したから、もうお先真っ暗である。確か中央高速は11月5日から集中工事だとあちこちに掲示がされていた。確認しておけばよかったと悔やんでも、もう遅いし、今さら中央高速に乗り換えるわけにもいかない。
・シンポジウムは翌日だからその心配はないのだが、追手門学院大学で同僚だった田中滋さんと琵琶湖でカヤックをやる約束をしていたのだ。出発したのは9時半。予定では4時間、余裕を見ても5時間あれば十分と思っていた。ところが、1時近くになってもまだ浜松。しかも掲示板には、岡崎まで2時間で名古屋は空白になっている。おもいきって浜松で降りて浜名バイパスと1号線を使う。再度岡崎から東名に乗って名古屋をすぎたのが3時。カヤックをする約束の時間である。しかし、着いたのは4時半で、せっかく積んでいったカヤックはやらずじまいだった。
・がっかりしたし、ついていないとも思ったが、今回の目的はシンポジウムである。目的を公私混同してはいけない。それに、久しぶりに田中さんと会って、ワインを飲みながら楽しく話した。琵琶湖畔のいいホテルに泊まって疲れもとれた。午前中に一人でカヤック、と思ったが、話すことをメモを取りながら確認して時間を過ごした。
・シンポジウムの仕掛け人は亀山佳明さん。今年は何かと彼と一緒に仕事をすることが多い。3月には「スポーツ社会学会」のシンポジウムに一緒に出たし、夏休みは井上俊さんの退官記念論集の原稿を書いた。そして「ビートルズ現象」。彼は最近、いろいろな企画の仕掛け人になっている。それからもう一つ、桐田さんの葬式でも一緒になった。
・シンポジウムは、ぼくが、ビートルズの登場した時代のイギリスについて、その社会背景を話した。それから、東芝EMIの水越文明さん。彼は昨年出して300万枚の大ヒットになった「ビートルズ1」の宣伝担当の責任者で、その戦略を披露した。そして最後は和久井光司さん。彼もまた昨年暮れに『ビートルズ』(講談社メチエ)を出している。ミュージシャンでもあることは知っていたが、ギターをもってきて歌うということを聞いて驚いた。ビートルズの話を歌いながらしたし、ロックミュージシャンらしく、おとなしい学生をあおったりもしたから、ただ話すだけのぼくは全然かなわないなと思った。しかし、シンポジウム自体は、なかなかおもしろいものになった。
・ビートルズに代表されるポピュラー音楽が20世紀後半の文化を代表することは明らかだ。ぼくはそのことを『アイデンティティの音楽』に書いた。その意味で、ロックはすでに歴史の対象になったといってもいいのだが、今でも若い人たちが一番好む文化であることはまちがいない。ところが今の音楽状況は、一方でミリオンセラーを連発するミュージシャンが多数出て活発なようにも見えるが、レコード会社やメディアによってつくりだされる傾向が強い。他方で、40年も前の音楽がもてはやされたりする。「既成の枠組みや固定観念を破るのがロックで、それをなくした音楽はだめ(和久井)」「メジャーが状況を支配する時期は音楽にとっては沈滞期(渡辺)」「いい音楽が生まれてくるためにも、インディーズにがんばってほしい(水越)」と、それぞれ立場は違いながら、音楽の現状にたいしては批判的な見方で一致した。
・それにしても、どこの大学に行っても、学生たちの目に輝きを感じない。希望に溢れるわけでもなく、不満に怒りを爆発させるわけでもない。管理が行き届きすぎたのか、幸せになりすぎたのか。教師としては面倒がなくて楽だが、かなり物足りない。
2001年10月29日月曜日
坂本龍一"Zero Landmine"
・アメリカによるアフガニスタン空爆がまだつづいている。今朝読んだ新聞には「破壊を破壊する」ということばがあって、まさにその通りと思うと同時に、たまらなく憂鬱になった。一方で、アメリカ国内では「炭疽菌」騒ぎが恐慌をおこしている。憎しみや妬みが怨念となって世界中に漂っていく。それとは対照的に日本では、恥をかくまいという一心で自衛隊を派遣しようとする法改正に賢明だし、片栗粉を封筒に入れた愉快犯が続出しているという。多くの人は対岸の火事とほとんど無関心のようにも思えるが、狂牛病と合わせて、不安感が充満していることは確かなようだ。
・ただただ爆撃だけがくりかえされる現状を見ていると、一体どこに、アメリカがアフガニスタンを空爆する正当な理由があるのだろうか、とあらためて考えてしまう。それで結局どうしようというのだろうか。どうなるのだろうか。どう考えても、暴力が暴力をひきおこし、憎しみが憎しみをつのらせるだけ、そして結局、破壊が破壊を生み、破壊を破壊と際限なくつづくだけなのに………。
・BSi(TBS)で坂本龍一がつくった、地雷廃絶のためのキャンペーンCD"Zero Landmine"の製作過程のドキュメントを見た。このCDは4月に発売されていて、一時ちょっとだけ話題になったが、後はほとんど注目されていないものだ。
・ぼくが地雷の問題に関心をもったのは、そんなに前のことじゃない。生前、ダイアナ妃がアンゴラまで出かけて、対人地雷廃絶を訴えていたのは何となく知っていた。ICBLという組織がインターネットで活動を拡大し、ノーベル平和賞を授与されたことも知っていた。しかし、この地雷の問題に深く動かされることになったきっかけは、某TV番組だった。それは、地雷撤去中に片手と片足を失った白人の男が、地雷の問題について自分の母校で、子供たちに教授するというものだった。その中で、白人の男は義手義足でフルマラソンを走っていた。ぼくはそれを見ながら、この白人男性の不屈の精神に感嘆した。(坂本龍一)
・坂本龍一はこのCDをつくるためにモザンビークに行き、地雷の被害にあっている国の人たち、とりわけ音楽家とコンタクトをとった。あるいは彼の友人に参加を呼びかけた。そうやってできたのが"Zero
Landmine"で、45分ほどの作品になっている。「イヌイットの少女の素朴な歌から始まり、………朝鮮半島を通り、カンボジア、インド、チベットを抜け、ボスニアでヨーロッパをかすめ、アフリカのアンゴラに行き、人類発生の地、東アフリカに位置する「大地溝帯」の南端、モザンビークに達する『音楽の旅』」。登場して歌い演奏し、話す人たちは数多い。その中でくりかえされる歌は次のように訴える。
ここがわたしの家 / おかあさんに育てられ
懐かしい兄や妹と / 遊んだところ
あなたにも見える? / 地面には木が根を下ろしている
暴力はもうたくさんだ / この地にもう一度平和を
ここはわたしたちみんなの世界で
わたしたちみんなの救いがある
だから、国も、国境も、関係がない
(「地雷のない世界」デビッド・シルヴィアン、村上龍訳)
・ジャケットには何種類もの地雷が並んでいる。形やデザインなどを見ていると、まるでブローチのようで、これが足や手を吹き飛ばす爆弾だとはとても思えない。人は、こんな残酷な兵器にさえも、デザインの工夫をしようとするのか、と思うと、何ともむなしい気がしてくる。もっとも、戦闘機や戦艦、あるいは鉄砲や刀も、形だけ見れば格好良かったり、美しかったりする。「殺しの美学」などという言い方もある。その道具としての野蛮さとの対照は、ひょっとしたら人間の本性を映しだしているのかもしれない。
# 美と醜、善と悪、真と偽、あるいは正と邪。人は価値を対照によって意識する。なによりこわいのは、価値の意識にはそれぞれ強い感情が伴うことだ。醜いものは消えてしまえ。悪いものは退治せよ。きわめて人間的な発想がおそろしく非人間的な心根をもたらす。だからこそ、地雷を踏んで手足をもがれる人、アフガニスタンで空爆される人から目を離さないことが大事だ。彼や彼女らは、そんな価値意識とは関係なく生きていて、不当に傷つけられたり殺されたりする普通の人間なのである。
2001年10月22日月曜日
喜寿からのインターネット
2001年10月15日月曜日
BSディジタル放送について
2001年10月8日月曜日
庭田茂吉『現象学と見えないもの』(晃洋書房)
2001年10月1日月曜日
ムササビ、その後
・ムササビは今も屋根裏にいる。しかも数週間前から、僕が寝ている部屋に移動してきた。朝4時半に帰宅するから、どうしてもその足音で目が覚める。しかも、爪とぎなのかガリガリ始めるから、寝ていられない。そのうるささに我慢がならず、杖で天井をついたりしても、いっこうにやめようとしない。頭に来て、この「ムサ公!」などと怒鳴りながら、壁や天井を叩く。そんなことが数回あった後、住んでいる気配がしなくなった。
・そうなると、家出でもしたのかと心配になったりするから、いやになってしまう。で、数日後にまたごそごそしてほっとする。3カ月も一緒にいると、知らず知らずのうちに同居が当たり前になってしまっているのだ。よくしたもので、ガリガリやってもたいして気にならなくなった。ムササビは雨の日でも出勤する。台風の時は行かないだろうと思ったが、やっぱり明け方に帰ってきた。いったいどこで何をしてくるのだろうと、これも気になる。
・せっかくつくった巣箱が見向きもされないので、作り直すことにした。さっそくパートナーが河口湖町にある「山梨県環境科学研究所」にメールを出すと、そこの小口さんが直接訪ねてきてくれた。彼は小学校の先生で一時的に研究所に派遣されているのだという。で、家や周囲の木を見て回ったのだが、後で巣箱やムササビについての資料をメールで送ってくれた。
・そのあと台風やテロ事件でずるずるとほったらかしにしていたのだが、久しぶりに晴れた日に朝から巣箱づくりにとりかかった。前のよりも縦長にして入り口の穴をなるべくうえにつける。穴から入って、すとんと落ちるような構造をムササビは好むようだ。そして中には、杉の木の皮を敷いておく。ついでに余った皮で周囲を覆うことにした。これで木の隙間から雨漏りすることもない。一日仕事だったがずいぶん豪華な巣になった。これなら気に入ってくれるだろうと思うが、さてどうだろうか。後はどの木にくくりつけるかだ。
・今年の夏は雨が少なくて河口湖の水も減って岸辺が増えたから、そこにテントを張る人も多かった。しかし台風がものすごい雨を降らせて、ふだんは水のなかった近くの川もものすごい勢いで流れた。だから台風がすぎた直後に湖まで行ってみると、いつもカヤックを組み立てていたところも水没して、泥流で色が変わってしまっていた。当然、湖には釣り客も水上スキーも遊覧船もない。本当に久しぶりの富士山だが、その姿を見る人は湖畔には誰もいない。雨上がりの日差しは強く。風はなま暖かいというよりは蒸し暑かった。
・今年の気候のせいなのかわからないが、猿の群が山を下りていて、周辺の畑がずいぶん荒らされているようだ。別荘地区の管理人さんは、丹精込めてはじめて作ったカボチャをイノシシに全部食べられてしまったという。栗やクルミが実をつけているが、山の食べ物は減っているのかもしれない。
・台風一過で久しぶりに北の御坂山系が夕焼けになった。今までに見たことがないほどきれいな色に染まった。空気が澄んで、しかも湿気があったせいだろうか。しばらくすると季節は確実に秋になった。真っ青な空。気温も下がって、明け方には10度を切るようになった。ストーブで薪を燃やすのもそろそろ必要になりそうだ。
・カヤックに乗る回数は少なくなった。雨の日はだめだし、風が強い日も避ける。温度が下がったから、夕方ではなく日中の陽の出ている日を選ぶ。そうすると、なかなかいける時が見つからない。とはいえ、気温はこれからどんどん下がるから、へたをしたらまた来年の夏ということになってしまう。T
シャツ一枚が、長袖になった。そろそろウィンドウブレーカーも必要になる。セーターやダウンを着てもやるつもりだったが、はや億劫になりはじめている。(2001.10.01)
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12月 26日: Sinéad O'Connor "How about I be Me (And You be You)" 19日: 矢崎泰久・和田誠『夢の砦』 12日: いつもながらの冬の始まり 5日: 円安とインバウンド ...
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・ インターネットが始まった時に、欲しいと思ったのが翻訳ソフトだった。海外のサイトにアクセスして、面白そうな記事に接する楽しさを味わうのに、辞書片手に訳したのではまだるっこしいと感じたからだった。そこで、学科の予算で高額の翻訳ソフトを購入したのだが、ほとんど使い物にならずにが...
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・ 今年のエンジェルスは出だしから快調だった。昨年ほどというわけには行かないが、大谷もそれなりに投げ、また打った。それが5月の後半からおかしくなり14連敗ということになった。それまで機能していた勝ちパターンが崩れ、勝っていても逆転される、点を取ればそれ以上に取られる、投手が...