・「なぜ、メディア研究か」というのは、うまいネーミングだと思う。原題は"Why study the Media?" 。ぼくはこのタイトルに、最初、相反する二つの思いを持った。一つは「今さら何を言っているのか、メディア研究は腐るほどあるじゃないか」という冷ややかなもの。 もう一つは、そこに「何か新しい発想や提案があるのでは」という期待と好奇心。
・「なぜ、メディア研究か」。シルバーストーンは「メディアがわれわれの日常生活にとって中心的であるが故に、われわれはそれを研究しなければならない」と言う。メディアは私たちの「経験の総体的なテクスチャー」を成していて、「日常的で、同時代の経験の本質的な次元」となっている。たとえばテレビの仕事は表象の翻訳にあるという。それは「意味を生産するプロセス」であり、すでに制度化されたものである。
・メディアはその単一でも多様でもある表象を通じ、日々のリアリティを濾過し、枠づけている。つまりそれらは日常生活を方向づけ、常識の生産や維持に役立つような判断の基準を提供し、参照すべき情報を示している。私たちがメディア研究の出発点にしなければならないのは、この常識が通用していくレベルなのである。(31頁)
・「リアリティの濾過と枠づけ」。確かにそのとおりだ。しかし、そのような指摘はけっして新しくない。その理論的な方向として、たとえば、K.バークやR.バルトがあげられているが、それらがもてはやされたのは30年近く前のことだ。
・もっとも、日常生活のなかへのメディアの浸透は、むしろ、ここ30年ほどで加速度的に進行している。テレビが現在のように強力なメディアとして君臨し始めたのは80年代からで、メディアによる「リアリティの濾過と枠づけ」は一層巧妙になり、過激になり、そして私たちの意識に入り込んで自然なものにさえなった。
・シルバーストーンはその一つとして、パブリックな文化のプライベート化とプライベートな文化の公共化をあげている。ここにはもちろん、公的な出来事が私的な話題として、あるいは私的なコンテクストのなかで消費されること、逆に私的な出来事が公的な話題として登場することがある。しかし、この問題はそこにとどまらない。シルバーストーンはラジオが、そしてテレビがしたことは、誰にとっても私的な住みかである家庭を壊し、再発見し、再構成したことだったという。そして、破壊して再構成したものは、もちろん、ほかにもたくさんある。たとえば「消費」という形態。
・私たちはメディアを消費している。私たちはメディアを通じて消費している。私たちは、メディアを媒介にしてどう消費するか、何を消費するか、を学ぶ。また私たちはメディアを通じて消費するように説得される。メディアが私たちを消費する。(178頁)
・メディアなしには成り立たない公と私の出現とその関係の定着。まったくその通りだが、意地悪な読み方をすれば、これらもまた、J.ボードリヤールやS.ユーエンなどによって確認済のことだ。とは言え、そんな指摘や批判とは関係なしに、メディアはますます私たちのなかに浸透して、そこに結構楽しげで居心地のよい場所を次々と提供してきている。メディアに身を任すことではじめて自覚される「私」。それはすでに「自然」な感覚のようにも思えるが、そのような意識の有り様やメディアがさまざまな部分に深く複雑に入り込んだ状況を鮮やかに分析した研究は確かに少ない。
・大学生と接していて気になることばに、「みんな」「普通」「昔」といったものがある。すでに何度も指摘したことだが、僕がそのことばに奇妙さを感じるのは、そこには時間的にも空間的にも「多様性」が欠如していて、しかもそのことに無自覚だと思えるからだ。シルバーストーンが「記憶」について触れた箇所には、そこをうまく説明してくれる部分がある。
・私たちは次第に歴史と無関係に生活するようになっている。過去は、現在と同時に、分断と無関心によって無視されている。(269頁)
・歴史はアイデンティティが創出される場所であり、記憶は国民として、個人として、多くの要求が出され、それに対立する要求も出される場である。ポピュラーな歴史やポピュラーな記憶がある。それらは危険さを増している。非公式な記憶に対してメディアが横柄な態度を取り続けているからだ。(283-284頁)
・メディアにたよって生活する私たちの記憶は、また、メディアによってもたらされた経験を主に蓄積されたものだ。メディアが作り上げるのは時間も空間も好き勝手に切り刻み、分断し、「リアリティの濾過と枠づけ」をした「世界」。だからそこから「みんな」や「普通」や「昔」という感覚が生まれてくるのは当然のことで、そこに慣れ親しんでしまうと、そのような記憶の奇妙さに気がつくこともなくなってしまう。
・シルバーストーンは「メディア研究」の必要性のなかに家庭や消費のほかに、遊びやコミュニティについての考察をいれ、また「記憶」のほかに「信頼」や他者との関係をふくめている。そこには、メディア研究は個々のメディアだけの問題ではなく、生活や人間関係、あるいは自己意識にも及ぶトータルなものだという認識がある。目新しさに惑わされずに、歴史を辿りなおしてみることの重要さもふくめてメディア研究の必要を説得させられた。相反する思いがここで一つになって、納得。誰より、メディア社会の中で生まれ育った学生たちに読ませたい一冊である。