2008年6月1日日曜日

模索舎と有機本業


・春休み中にA4版の茶封筒が大学宛に届いていた。大学に出かけたのがしばらくぶりだったから、メールボックスは一杯で、いちいちチェックをせずに机の上に積み重ねたままにしておいた。新学期が始まって、そこに新しい手紙やら、書類、それに教材がたまったのを整理して、すっかり忘れていたその封筒に気がついた。差出人は五味正彦とある。「うわー、懐かしい名前」と思って中身を見ると、私信と一緒に何冊かの冊子(GREENSTYLE)や新聞記事のコピーが入っていた。僕が書いた朝日新聞のキャンパスブログを懐かしく感じて出したと書いてあった。読みながら、ずいぶんほったらかしにして申し訳ない気持で一杯になった。で、これはぜひ紹介しなければという気になった。

・五味さんは新宿で「模索舎」という名の本屋さんを営んでいた。御苑の入り口近くにあって、さまざまなミニコミを委託販売する書店だった。僕は、そのミニコミに関心があり、雑誌に時評を書いていたこともあって、その店を時折訪ねていた。もう30年以上も前の話だ。永井荷風の『4畳半襖の下張』を掲載した雑誌『面白半分』のコピー版を販売した罪で摘発され、長いこと裁判をしたことでも知られている。マスコミとはちがう情報を伝えるメディアとして、ミニコミが存在していた時代、だからこそ、危険な媒体として見られることもあった時に、圧力に屈せずに交流の場を維持しつづけてきた。

・ミニコミの変容や、僕の関心が他に向いたことなどもあって、模索舎への足は次第に遠のいたが、五味さんは一貫して初心を貫いている。封筒の中身を拝見して、そんな印象を強く持った。模索舎は今でも開店しているようだし、「ほんコミ社」という「世の中と暮らしを考え直す出版物の流通屋」も手がけてきた。で、最近、「有機本業」という新たな試みも始めたようだ。そのサイトを訪ねると、「『国内フェアトレード』というコンセプトで、持続可能な社会の実現、地域経済活性につながるものづくりを応援しています。」とある。その、樟脳の製造と販売という部分に強い興味を覚えた。

・実は最近、ぼくも偶然、樟脳に出会った。造園業ではたらく知人にもらった材木を家まで運び、斧で割っていると、突然、メンソールの匂いが立ち上ってきた。その木を手にとって匂いをかぐと、強い香りがする。さっそくネットで調べると、楠木で樟脳の原料になると書いてあった。樟脳は防虫剤としてよく使われてきたものだ。風呂に入れると薬効があるというので、それ以後、我が家では小さく割って何本も浮かべている。さわやかな香りがして、心なしか体も良く温まる気がしている。カビもつきにくくなるようだ。

yuuki_hongyo.gif・「有機本業」では間伐林を利用した割り箸やトレイなども扱っている。割り箸は木の無駄使いとして悪者扱いされたりするが、けっしてそんなことはない。植林して放置された森林や、伐採されても使われずに捨てられる木材を有効に利用する、数少ない方法のひとつなのである。

・たとえば、風が吹いて庭の木の枝が落ちることがよくある。その木をストーブや焚き火の焚きつけにしたりもするが、形のいいものはとっておいて、箸やスプーンなどに細工をする。そうすると、落ちた枝とは思えないモノに変身する。森に住みはじめてから何度となく味わった喜びである。ストーブで燃やすために集めた木のなかにも、桜や白樺など、細工用にとっておいて、灰皿や表札、靴べらやさまざまな台所用具に生まれ変わらせたモノがたくさんある。

・楠木は神木として神社などによく植えられている。その香りや薬効が、この木を大切にする気持を生みだした。楠木から抽出した樟脳は、かつては日本の重要な輸出品で、防虫剤の他に、プラスチックが普及する前のセルロイドの原料にもなったようだ。しかし、現在ではほとんど見向きもされない木になっている。「有機本業」では、その役割を再認識して、広く使われることをめざしている。エコブームはマーケティング戦略が露骨でうんざりするが、地道に本気で考えている人もいる。五味さんからの手紙を見て、改めて、その思いを再認識した。

2008年5月25日日曜日

うわっ、大講義


・今年度から「コミュニケーション論」を担当することになった。全学の学生がとれる科目で、受講生が多かったから、二つに分割して、その一つをぼくがやることになったのである。コミュニケーション学部での「現代文化論」も引き続き担当するから、負担増で、渋々引きうけたのだが、講義初日に教室に行ってびっくりした。

・4階にある教室に向かって階段を上っていくと、学生が大勢たむろしている。「何で?」と聞くと、教室に入れないという。「何の授業?」と聞くと「コミ論」という返事。思わず「ウソー!」ということばが出てしまった。多いから二つに分けたんだから、まさか、そんなはずはないと思ったのだが、 400人以上収用できる教室に一杯の学生がいる。もうどうしようもないから、すぐに学務課にいって事情を話して、もっと大きな教室に移動することにした。

・運良く、学内で一番大きな教室があいていたが、そこでもまだ立ち見が出る。いったい何人いるのか、空恐ろしくなった。授業で配るつもりで用意した資料は250 枚しかない。4人掛けの机に2枚ずつといって配布したが、当然、後ろの学生にまでは行き届かない。「来週また配ります」といって、とりあえず、予定した授業内容や成績などについてのオリエンテーションをやった。終わった時には汗びっしょりで、もうぐったり。

・僕にとって、こんな数の学生を相手に講義するのは初めての経験だ。ずいぶん前に関西の大学で400人程度の講義を非常勤でやったことはある。その時どうだったか、などと思いだしても、まるで思い出せないほど昔のことだ。どうしようかと考えても途方に暮れるばかりで、いろいろ考え始めたら、ひどく憂鬱な気持になってしまった。予定したことを大きく変更しなければならない。毎回配る予定の資料をどうするか。そもそも、授業内容は変えなくていいのか。授業中に何度か、講義に関連した小テストをするつもりだったのだが、それはどうするか。第一、試験はどうするのか。その採点に、いったいどのくらいの時間がかかるのか。

・とりあえず、ティーチング・アシスタント(TA)を至急申し込んだ。今年は院生の入学者がすくなくて、TAを希望しても見つからない人が何人もいるようだ。僕のところにいる院生は毎年ひっぱりだこなのだが、幸い、やるつもりのなかったK君にお願いしてやってもらうことにした。結局受講生は650人で、B4一枚の資料を作ると、厚さが10cmほどにもなった。それを授業の始めに配るだけでも10分はかかる。資料の印刷と授業開始時の配布、それに小テストの回収と名簿へのチェック、ついでに良くできた、おもしろい内容のものも抜き取ってもらったりと、大助かりだ。

・講義をして気づいたのは、ざわざわしている教室を静かにして話を始めても、全員の目をこちらに向けつづけさせるのは大変だということ。だから、できるだけ単純でわかりやすい話から始めて、ポイントになるところは、ここは大事だよと言って、何度も繰りかえす必要がある。資料に書くのは話の骨格だけで、学生はメモをとる必要があるのだが、こちらの話に応じて手を動かしている学生は多くはない。だから板書も少しやって、メモすることも促さなければならない。

・しかも、最近の学生に90分間緊張感を持続させること自体が難しい。そこで、ビデオを時折見せて、気分を変えたり、大変だが小テストも何度かやって、聞いていないと書けないという緊張感ももたせることにした。当然、講義内容は、予定の半分ほどに減ることになった。もっと知りたい、考えたい人は教科書や参考書を読むように、とその都度いうつもりだが、さて何割の学生が自主的に勉強するのだろうか。

2008年5月18日日曜日

チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』産業図書

 

taylor.jpg・「ほんもの」は英語では「オーセンティシティ」という。「リアリティ」とはまた違う意味で、アカデミックな世界ではよくつかわれることばだ。たとえば、「オーセンティック」なロック音楽、「ほんもの」のミュージシャンといった言い方がされる。それが、じぶんでも気にいったものなら、ほとんど疑問ももたずに、すぐに同調したくなる。ここで「オーセンティック」や「ほんもの」という評価の根拠となるのは、多分、音楽性や芸術性、あるいは文学性といったものだ。優れているからそう評価されるのだから、そこには当然、「名誉」や「称賛」の気持がともなうことになる。

・一方で、「ほんもの」にはかならず、その対比として、そうでないものが含意されていて、そこには、いんちき、偽物、屑といったことばがつかわれる。何かを高く評価するためには、低い評価のものとの比較が必要で、そうした方がぜったいわかりやすいし、説得力もあるからだ。
・だから、このことばを使うことにはある種の抵抗やためらいもある。たとえばポピュラー音楽でいえば、そもそもその価値はクラシック音楽との比較の上で、たえず偽物やがらくたとして蔑まれてきたという歴史をもっている。ロックは、その価値を転倒させた音楽だが、今度は、それをほんものとして、別の音楽を屑だと批判するようになった。その気持はわかるし、ぼくも、そう言いたくなることがしょっちゅうある。けれども、そこには何かすっきりしない、わだかまりものこってしまう。

・テイラーは、その点を「名誉」と「尊厳」の違いとして説明する。つまり、「名誉」は社会階層を基礎にして感じられるものだが、「尊厳」は、普遍主義的で平等主義的な前提にたつというのである。現在の社会通念では、階級や階層は差別意識の土台として非難され、「人間の尊厳」はすべての人に平等に分けもたれたものとして受けとめられている。だから、何かを指して「ほんもの」だとか「オーセンティック」だということに感じるわだかまりは、そうではないものの「尊厳」を否定するニュアンスを自覚するからだ、ということになる。
・テイラーは、「人間の尊厳」を否定せずに、なおかつ何かを、誰かを「オーセンティック」だとするやり方はあるという。彼によれば、「オーセンティシティ」は、じぶんよりも大きな社会、世界、宇宙といったところに立ったときに考えられる「重要な問いの地平」、あるいは「道徳的理想」を基準にして判断されるものである。すべての人の権利や尊厳を認める「平等」という原則は、基本的には相対主義的なものだが、現代のそれは「重要な問いの地平」や「道徳的理想」をきれいに捨象してしまっているから、人それぞれの多様性や雑多なものごとを横並びで共存させて、尊重しているふうを装っているだけだ、ということになる。

・だとすると、ロック音楽における「オーセンティシティ」は、まず第一に、この社会に対する批判精神の有無によって判断されるということになるだろう。それがなければ、どれほどの人気に支えられようと、音楽性が高かろうと、それは「ほんものではない」と言えるはずである。

・テイラーは「[自己の]外部からやってくる道徳的な要請や、他者との真剣な関わり合い」を軽視、あるいは認めずに「自己達成を人生の主要な価値とする」傾向を「ナルシシズムの文化」と呼ぶ。彼によれば、これこそが、ほんものという倫理を陳腐なものにした元凶である。「ナルシシズム的な自己達成」は何より自由を主張して、関心を自分にのみ向けがちになる。それは平等を基盤にした「人間的尊厳」に支えられる生き方だが、同時に、自分を他者より優った者、つまり、自己の「ほんもの性」をたえず確認したがる存在でもある。
・現在の消費社会、とりわけ「ブランド」イメージは、このような欲望に訴える。自己の「アイデンティティ」は「重要な他者がわたしのうちに承認しようとするアイデンティティとの対話のなかで、またときには闘争のなかで、自分のアイデンティティを定義」してはじめて、自他の間で了解されるものになるが、「イメージ」を消費してまとう限りは、そのような面倒なやりとりは必要ない。


人生の意味を追求し、じぶん自身を有意義な仕方で定義しようとする行為者は、重要な問いの地平に生きねばなりません。そしてそれこそは、自己達成にひたすら邁進して社会や自然の要求と対立する現代文化の流儀、歴史を隠蔽し、連帯の絆を見えなくさせる現代文化の流儀では、やろうにも自滅するほかないことなのです。

・何か、誰かの「ほんもの性」を問うことは、当然、自分に跳ね返って、自分の「アイデンティティ」を見つめなおせと問い詰めてくる。その自覚がないところでは、「ほんもの論議」はまた、無益に消費されるものでしかない。この意識は、世界中のどこより、現在の日本人に欠けているもののように思う。

2008年5月11日日曜日

ベテラン健在というアルバム

 

crow1.jpg・次々出るから、次々買う。で気がついたら、ベテランばかり、かなりの枚数になった。一番久しぶりと思ったのは、シェリル・クロウ。ただ、何度か聴いているうちに、どの曲も、もう何年も聴き続けているような気がしてきた。といっても、マンネリとかワンパターンというわけではない。アルバム・タイトルは "Detours"(「回り道」)。同名の曲はこれまでの人生、いろいろあって回り道しちゃった、と母親にうちあける話だ。離婚や乳ガンの手術など、たしかにいろいろあったようだ。ファッション・センスが悪いとか、恋多き女だとか、いい歳してコンサートでビキニになったとか、いろいろ揶揄されるが、彼女のアルバムはどれもよく売れて、きまってグラミーを何か受賞する。彼女はまさに、良くも悪くもアメリカ人そのものだ。

madonna3.jpg・マドンナの"Hard Candy"は下着姿のジャケットだ。シェリル・クロウより歳上なのに、この人が裸になっても、だれもけちをつけない。実際、二人を比較すると、対照的なことが多くておもしろい。野暮な田舎者と洒落た都会人、セクシーはマドンナの看板だが、最近の実生活ではシェリルの方が、奔放なのかもしれない。どちらもアルバムを出せば売れるのだが、マドンナにはグラミー賞は本当に冷たい。で、今度の二人のアルバムはどうか。"Hard Candy"はかなり売れているようだが、個人的には、"American Life"や"Confessions On A Dance Floor"を聴いたときほどの強い印象はない。

morrison4.jpg・ヴァン・モリソンも着実にアルバムを出しつづけている。タイトルは"Keep It Simple"、その名の通り、シンプルな曲作りや歌い方は、いつも通りかわらない。1年おきぐらいに新しいアルバムが出て、ぼくはそのほとんどを買っているが、どれを聴いても、その姿勢は変わっていない。彼の公式サイトを見ると、このアルバムがアメリカとカナダでよく売れているようだ。レイ・チャールズやハンク・ウィリアムス、それにジョン・リー・フッカーの霊がアルバムを漂っている。ジャズとカントリー、ブルースとフォークの究極的な融合。そんなべた褒めの新聞評もある。今さらという気もするし、やっぱりと納得したい気にもなる。

道ばたでワインを飲む 時間を潰し ありったけのおしゃべりをする
過ぎ去った日々の 儀礼の背後に 魂を見つける "Behind the Ritual"


browne.jpg ・ジャクソン・ブラウンのライブ版"Solo Acoustic, Vol. 2"は3年もたって、続きにしては間延びがした発売だ。ところが、中身もジャケットも、よく確認しなければどちらかわからないほど似ている。歌の間にきまってする長いおしゃべりは、英語がもっと聞き取れたら楽しいだろうな、と思う。けれども、CDで何度も聴いたら、覚えてしまって飽きてしまうかもしれない。男友達、女友達、仲間のミュージシャンを肴にした笑い話など、つくづく、ブラウンはおしゃべりだなと思う。そう思ってほかと比べると、フォーク・ミュージシャンはおしゃべりか無口の両極端で、真ん中がいないのではということに気がついた。もちろんヴァン・モリソンは、ライブではほとんどしゃべらない。

jd_souther1.jpg ・J.D.サウザーは地味なミュージシャンだ。ジャクソン・ブラウンやイーグルスの歌を提供していて、名前は知っていたが、どんな声や歌い方なのかはまったく知らなかった。ジャクソンブラウンのライブをAmazonでチェックしたときに、お勧めのベストアルバムを見つけたので、買ってみることにした。代表作が18曲も入って1643円。70年代から80年代にかけての録音だが、なかなか聴きごたえがあった。あたらしい人でなくても、まだまだ聴きのがしてきたミュージシャンがたくさんいる。先週紹介したグレイソン・キャップとあわせて、そんなことを再認識している。

2008年5月4日日曜日

冬の片づけと来冬の準備

 

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forest67-3.jpgforest67-2.jpg・5 月になって、やっとストーブがいらない日が続くようになった。で、連休中にと煙突のすす払いをした。我が家では薪ストーブをほぼ半年間使う。そのうちの 3ヶ月ほどは火をつけっぱなしだから、当然、煙突に付着する煤の量はものすごいものになる。それをきれいにそぎ落とすのだが、楽な作業ではない。
・まず、重たいストーブを少しずらして、煙突を上に抜いてはずす。次に、天井に据えつけられた部分の掃除からだが、煤落としの道具を中に入れ、大きなレジ袋を煙突に巻き付けて、煤が周辺に散らないように静かに、しかし念入りにこすりあげていく。そうすると、たちまちレジ袋には煤が一杯になる。

forest67-4.jpg・次に、はずした煙突の部分を外に出して、煤落としを中に入れる。筒の中を何往復かさせて、付着した煤をすべてそぎ落とす。そうしたらまた、ストーブに据えつけて、煙突が垂直になるように、ストーブの位置を調整する。周囲に落ちた煤を箒で払い、ぞうきんで拭き取る。
・いつもだったらこの後、屋根に登って煙突の先の編み目に付着した煤を落とすのだが、この冬はいつも以上に焚いたせいか、3月には、目詰まりを起こして、空気の流れが悪くなって、慌てて掃除をした。その後また少しくっついてはいるが、今回はこれは省略することにした。


forest67-6.jpgforest67-5.jpg ・屋根は急斜面で、とても登ることは出来ないので、折り畳みの梯子をおいて、それを足場にして煙突まで行くことにしている。大きな梯子をつっかえ棒のようにするのだが、その梯子には重石役としてパートナーが登っている。もう若くはない二人のする作業としては、決して楽ではない。
・煤払いが済んだら、次はストーブの扉につけている密閉用のロープ(ガラス素材)を取りかえる。錆や焼けついたゴミを落とし、耐火性の黒の塗料で化粧をする。これが済むと、ストーブは見違えるようにきれいになる。半年間我が家を暖めてくれたお礼と、この秋にまた、寒くなったらすぐに燃やし始められるように、これは毎年欠かせない作業なのである。(左が化粧前、右が黒化粧後)

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・もうひとつ、この時期にやらなければならない作業は薪割りだ。もちろん、昨秋使い始めた時から、薪を干す場所に新しい薪を補充してきている。けれども、その半年近く干した薪を日当たりの悪い西側に移動し、南の日当たりのいい場所を空にして、そこに新しい薪を積みあげていく。もう何時間も続けてやる体力はないから、毎日少しずつ、しかし休みなくやって、連休明けには終わらせたかったが、ごらんの通り、まだ一面残っている。梅雨が始まる前に、ここも一杯にしなければならない。

2008年4月27日日曜日

A LOVE SONG FOR BOBBY LONG

 

bobby1.jpg・最近のアメリカ映画には珍しい、静かでしんみりとした話だった。舞台はニューオリンズで、墓地のシーンから始まる。死んだのはクラブ歌手だったようだ。参列したのは2人の同居人と、遊び仲間や近隣の人たちで、その集まりからは、暑くてけだるい感じ、生きることに疲れた様子が伝わってくる。

・死んだ歌手の娘が母の住んでいた家にやってくる。幼い頃から祖母に育てられて、母の思い出はほとんどない。けれども、母が住んでいた家に来て、そこに住もうと思うようになる。ただし、同居人の男二人がじゃまくさい。一人は老人で、元大学教授。もうひとりはかつての教え子で小説家をめざしている。師を慕う気持と、それゆえに枠を破れないでいるもどかしさ。二人の関係はまた親密でなおかつ束縛的だ。

bobby2.jpg ・ストーリーは、そんな三人の関係の変化を巡って展開する。追い出そうとする娘と抵抗する老人。間に入る売れない小説家。彼女は母が遺した衣服などを整理していて、ひとつの手紙を見つける。老人のボビー・ロングにあてたもので、娘はその老人が自分の父親であることを知る。ありふれた話といえばそれまでだが、それが大げさでなく展開するから、引きこまれてしんみりした気分になった。

・キャストは地味ではない。老人役はジョン・トラヴォルタで娘はスカーレット・ヨハンソン。この映画を見て、トラボルタはいい感じで老けたな、とあらためて思ったし、スカーレット・ヨハンソンもなかなかいい(ただし、日本のテレビCMで荒稼ぎは興ざめだ)。疲弊したけだるい町と人びとのなかに咲いた一輪の花。彼女に母がつけた名はパースレインで、このあたりに咲く野生のハーブだった。

capps1.jpg ・この映画に引きこまれた原因はもうひとつ、挿入歌にあった。ブルース、カントリーといった歌がうまくつかわれていて、それぞれがなかなかいい。トラボルタがギターをもって仲間たちの輪の中で歌うシーンもある。ぼそぼそとした歌い方で"I Really Don't Want To Know"(知りたくないの)やイギリス民謡の「バーバラ・アレン」を歌う。さっそくアマゾンで注文したが、気になったミュージシャンはGrayson CappsとTrespassers Williamだった。改めて聴くとまた、なかなかいい。で、今度はまたそのCDが欲しくなった。

・この映画にはミシシッピー川も出てきた。この映画が出来たのは2004年だから、ニューオリンズ周辺を壊滅状態にしたハリケーンのカトリーヌが襲った1年前ということになる。映画に出てきたあの家や町も粉々で水浸しになってしまったのだろうか。ボビーは映画の中で病死したし、作家志望の青年は本を出したが、パースレインや町の住人たちはどうしたんだろう。この映画には、そんなことをふと感じさせるようなリアリティがあった。

・ニューオリンズには一度だけ行ったことがある。もう30年以上も前のことだ。夏休み中だったから、とにかくじとっとした暑さだけを覚えている。「欲望という名の電車」に乗って、フレンチ・クオーターでブルースやジャズを聴いた。音楽の町、フランスや奴隷制の面影をのこした歴史の町。若さにまかせてアメリカ中を40日以上、グレイハウンドバスを乗り継いで旅をしたが、いま思い出すと、ニューオリンズが、そのクライマックスだったような気がする。

・この30年のあいだに海外旅行が大衆化した。その変容に乗り遅れまいとして、世界中の都市が歴史や景観を魅力あるものに作りかえてきた。アメリカにもそれですっかりブランド化した都市がいくつもある。しかし、ニューオリンズはその流れに乗り損い、そのうえに猛烈な台風でやっつけられた。ブランド化したアメリカの都市にはあまり興味はないが、ニューオリンズにはもう一度行ってみたい。そんな気持が強く感じられた。

2008年4月20日日曜日

税金のかけ方、使い方


・期限付きのガソリン税がなくなって、負担がずいぶん軽減された。大学が始まって、毎週50Lほど使うから、1Lで25円安くなると、1200〜1300円ほども違う。とは言え、法案が衆議院で通れば、来月にはまた、もとにもどって、高いガソリンを買わなければならなくなる。道路を際限なく造るための税金なら当然、大反対だが、一般財源にするのも賛成という気にはならない。一般財源が必要なら消費税の税率を上げればいいのであって、批判の起こりにくいところ、既成事実として定着したところからとり続けようという発想が気にくわない。

・もっとも、ガソリンに税金をつけることに反対というわけでもない。無駄な消費を押さえるため、徴収した税金を環境保全などに使うことを明確にするのならば、僕は賛成だ。実際、EU諸国では、そういった名目でガソリンには高額な税金がかけられている。どこより、それをして欲しいのは、ガソリンを湯水のごとく使ってきたアメリカだが、日本だって、ガソリンに環境税として1Lあたり50円でも100円でもかけたらいい。無駄な走行をしなくなるし、コンビニとスーパーだけなら車はいらない、と思う人も増えるだろう。

・健康保険の制度が大きく変更されて、後期高齢者などという名称をつけられた75歳以上の人たちの負担が増えた。中には少額の年金から徴収されている人もあって、ぎりぎりの生活を余儀なくされたり、病院に行くことを控えたりする人もたくさんいるようだ。お年寄りを若い世代が支える形態を自己負担の割合を増やす方向で変更する。その趣旨自体に反対はしないが、健康保険の財源を確保する手段は、もっと他にもあるはずである。

・僕はタバコを吸う。大体1日一箱だから、月に1万円ほどの出費になっている。海外旅行をすると、多くの国でタバコが高額で売られていることに気がつく。一箱1000円なんてところも珍しくない。最初にそのことに気づいてびっくりしたのは、もう20年近くも前にカナダに行ったときだった。で、たばこ税は禁煙運動の高まりとともに多くの国に採りいれられてきたが、日本では、そんな議論すら起こらない。おそらくJTが強く反対するからだろう。

・僕は健康保険の財源としてタバコに高額な税金をかけたらいいと思う。一箱1000円。それでは吸えないというならやめればいいだけの話だ。そんなに高くしたらタバコを吸う人がいなくなるかというと、決してそんなことはないという気がする。実際、一箱1000円以上もするタバコを、ロンドンでもパリでもニューヨークでも、多くの人が吸っていたからだ。一日の食費を100円,200円と切り詰めて生活しなければならない高齢者からではなく、一箱のタバコに負担してもらう。それは極めて、理にかなった方法だと思う。

・で、タバコ代が月3万円にもなったら、僕はどうするか。実は今禁煙を実行しはじめている。海外旅行をするとどうしても、吸えない場所や時間が増えて、我慢せざるを得なくなる。そのことを何度か経験して、吸わなければ吸わないでいい、ということを自覚した。それにここのところ、原因不明の咳に悩まされていて、自然にタバコに手が伸びなくなった。「絶対吸わない!」というのではなく、吸いたくなったら吸ってもいいと思ってはじめて1週間が過ぎた。日に数本吸うことが今でもあるが、それはニコチンの禁断症状と言うより、口や手が寂しいといった欲求からくるようだ。

・他にも、必要な財源を確保する税金はある。高額な商品に10%でも20%でもあるいはもっと多くの消費税をかけることだ。おそらくそれに強く反対するのは消費者ではなく、生産者や小売業者だ。高くて買えないというなら買わなければいい。第一、日本で一番売れるブランド品などは、税金を何倍にもして、もっと高額にした方がかえって喜ばれるのかもしれない。自動車だって、高級車にはもっと税金をかけてもいいが、これもメーカーの反対が強いのだろう。

・もっとも、税収入を増やす前に、いい加減な使い方をしていないかどうか、もっともっと厳しいチェックが必要だ。既得権をいいことにいい加減な使い方をしているところは、おそらく社保庁や国交省にかぎらないはずで、呆れるような実体がポロポロとリークされて明らかになっている。