2021年12月13日月曜日

品格と矜持

 政治や経済、そして社会を見渡してみて感じるのは、「品格」とか「矜持」といったことばが全く通用しなくなったことである。典型的には「今だけ金だけ自分だけ」といった風潮がある。何より利権によって動く政治家ばかりだし、大企業は内部留保を貯めこむことに精出している。そして人びとの中からも「相互扶助」の気持ちが見えてこない。こんな風潮に対して新聞やテレビといったメディアは何も問題にしない。それどころか、権力に忖度し、スポンサーの顔色を窺うことばかりをしている。

マスメディアは「ウォッチドッグ」であるべきだ。権力や社会を監視して、何か不正があれば吠えたてる。マスメディアの存在価値が何よりジャーナリズムにあるとすれば、「ウォッチドッグ」として仕事をすることが、ジャーナリストとしての矜持になるはずである。大学の「マスコミ論」には当たり前のように、こんな姿勢が強調されてきた。ところが最近のマスメディアは吠えることをほとんどしなくなった。そうなってしまった理由はいろいろあるだろう。

一つは安倍政権誕生以降続いているメディアに対する締めつけや圧力だろう。しかしここには、新聞社やテレビ局のトップが進んで首相と会食するといった擦りよりもあった。二つめには新聞の発行部数減やテレビのCM料の低減があって、何より営業利益を優先するといった方針変更がある。今メディアのトップにはジャーナリストではなく営業出身の人が就いていることが少なくない。そして三つめとしては、ジャーナリストの質の低下があげられる。権力者に対して厳しい質問を浴びせることが出来ないのは、官邸での会見の様子を見れば明らかである。

この三つの理由は経済、つまり企業の姿勢にも共通する。内部留保を増やすことばかりに精出して、社員の給料は据え置いたまま、というよりは正規を減らして派遣を増やしている。そして新たな可能性を求めて積極的に投資をすることもない。こんな経営者の姿勢に組合が抵抗どころか擦りよっているのは「連合」を見れば明らかだろう。

品格や矜持は自らの使命や理想を持っているところから生まれてくる。それがないのは、現状の日本にはどの分野にしても、使命や理想が失われていることに原因がある。経済の落ち込みや人口の減少は止めることが出来ず、国の借金ばかりが増加する。それがわかっていながら、いや、わかっているからこその、「今だけ金だけ自分だけ」の風潮なのだと思う。

そんな中で一人だけ、「品格」を口にする人がいる。メジャー・リーグでMVPをとった大谷選手だ。一流の選手には、記録や能力だけでなく「品格」がある。それを目指したいといった発言で、久しぶりにそんなことばを聞いたと思った。彼は今、日本に帰っているが、ほとんどテレビに出ることもない。タレントたちにちやほやされて浮かれてもいいはずだが、毎日トレーニングに励んでいるようだ。国民や県民栄誉賞なども断ったようだ。

メジャー・リーグはオーナーと選手会が対立して、オーナー側がロックアウトという強行手段を実行した。来春のキャンプまでには解決するだろうと言われているが、下手をすれば開幕に間に合わないかもしれないと危惧する声もある。金をめぐる対立だから、多くのファンはどちらも支持していないようだ。一人の選手が何十億も稼ぐのに、マイナーには食事や住居に苦労する選手がたくさんいる。超高額の契約更新が約束されている大谷選手は、そんな現状をどう思っているのだろうか。そんなことをふと考えた。

2021年12月6日月曜日

中川五郎『ぼくが歌う場所』(平凡社)

 

goro2.jpg 中川五郎は50年も歌い続けているフォークシンガーだ。本書はその半世紀を越える時間を個人史として辿ったものである。小学生の頃に洋楽に関心を持ち、ギターを弾きはじめた少年が、当時のヒット曲からフォークソングに興味を持ちはじめる。そのきっかけになったミュージシャンはウッディ・ガスリーやピート・シーガーだった。そして、彼らの歌には今まで聞いたことがない政治や経済、あるいは社会に対する批判的なメッセージが込められていることを知る。少年はその歌詞を訳して、日本語で歌うことに夢中になった。

そんな関心は中川五郎一人だけのものではなく、やがて「関西フォーク運動」と呼ばれる大きな動きになった。当時高校生であった彼は、ボブ・ディランの歌を替え歌にした「受験生のブルース」を作って歌ったが、それが高石友也によって「受験生ブルース」としてヒットすることになった。フォーククルセイダースの「帰ってきた酔っ払い」が大ヒットしてブームとなり、彼も入学したばかりの大学にはほとんど行かず、音楽活動に没頭するようになった。

1960年代後半から70年代初めにかけては大学紛争が各地で起こっていた時期であり、ヴェトナム戦争に反対する運動も盛んに行われていた。メッセージ性のある歌が大きな注目を集め、岡林信康や高田渡といった人気ミュージシャンも生まれ、時代の寵児としてメディアで扱われたりもした。この本には、彼らとコンサートなどの活動を共にしながら起きたさまざまな動きやそこで生じた問題が、彼の経験を通して振りかえられている。

レコードが売れ、コンサートに多くの人が集まれば、当然、金銭的な問題が起こる。所属したプロダクションとの契約は給料制であり、レコードは印税ではなく買い取りだった。だからどれほどレコードが売れても、コンサート活動が忙しくなっても、ミュージシャンには少額のお金しか払われなかった。ところが、新宿駅西口広場で始まった「フォーク集会」では、彼らの作った歌が歌われたにもかかわらず、金儲けのために歌う連中だと非難されたりもした。それほど有名でもなかった著者は、両方の中間にいてうろたえたり、また面白がったりもしている。

そんなフォークソングは大学紛争の鎮静化やヴェトナム戦争の終結とともにはやらなくなり、「四畳半フォーク」と呼ばれる極私的な内容になり、やがてメッセージ性の乏しいニューミュージックと呼ばれた歌に変容することになった。著者自身も音楽活動よりは雑誌の編集作業や洋楽のレコードに解説を書いたり、歌詞を訳したりといった仕事が中心になり、やがて小説の翻訳や自ら小説を書くようになった。

音楽活動とは縁遠くなった著者が再び歌いはじめたのは90年代になってからである。気になるミュージシャンとの出会いや、親しい人たちの死などがあって、改めて死や生について考えて歌を作ることもはじめた。2006年に25年ぶりのアルバム『ぼくが死んでこの世を去る時』(offnote)を出して、本格的な音楽活動をするようになると、目立たないけれども、政治や社会に対して抗議して歌う人たちが見えてきて、その人たちと一緒に歌う機会も増えた。

中川五郎が歌うことの必要性をさらに感じたのは、東日本大震災と福島原発事故だった。被災地で何を歌えばいいのか悩みながらも精力的に活動し、その中からアメリカのフォークソングにあるトーキング・ブルースという形式を使った時宜的な歌や、関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺事件などを歌うことも始めた。それは2017年に出したアルバム『どうぞ裸になってください』(コスモスレコーズ)にまとめられていて、今を見つめた数々の語り歌は、強烈でありながら優しさも滲むメッセージで溢れている。

この本のテーマは歌であるが、ここには同時に彼の私的な生活史も語られていて、恋愛や結婚、子どもの誕生と育児、そして不倫や別居などについても触れられている。決して品行方正ではないし、家庭を大切にしたわけでもない。そんな自分のダメな部分についても正直に吐露していて、私小説風にも読める内容になっている。その意味では本書は最新のアルバム同様に、自分を裸にして語った個人史であり、そこから見た日本の半世紀を歌ったトーキング・ブルースでもあると言えるだろう。

『週刊読書人』12月3日号に掲載

2021年11月29日月曜日

AmazonはもうCDを売る気がないようだ

 Amazonのトップ・ページがAmazon Basicsという名称になって、書籍とCDの欄がなくなってしまった。最近あまり買わないせいもあるのかもしれないが、その他の欄にも見つからないから、お目当てのものを検索して探さなければならなくなった。対照的に、プライム会員なら本は読み放題だし音楽は聴き放題だという知らせがやたら目立つようになった。ところが、そこでは読みたいものも聴きたいものも、ほとんど見つからない。そう言えば、あなたにお勧めの本やCDとか、新刊本やニュー・アルバムを知らせてくることもなくなった。Amazonは本とCDを売る店として始まったのに、もう初心を忘れてしまったのかと思いたくなった。

僕はインターネットを1995年から始めている。最初は大学の研究室でしか使えなかったが、すでにAmazonは本とCDを売る店を構えていて、洋書や洋楽を手に入れるのに重宝した。特に英語の専門書は、洋書専門店から注文して1ヶ月以上待たなければ届かなかったし、円レートも高く設定されていて、ずいぶん高額なものになっていた。それが、その時々のレートで買えて、航空便で注文すれば1週間とかからずに届くようになった。同じことはCDにも言えたから、大学から毎年付与される研究費の多くが、Amazonでの本とCDの購入に使われることになった。

そんなふうにしてAmazonを四半世紀に渡って使い続けてきたが、AmazonはGAFAとして世界有数の企業に成長した。ぼくも最近では、本やCDだけでなく、探し物を検索してはありとあらゆるものを買うようになり、コロナ禍以後は特にその傾向が強くなった。Amazonは客の購入履歴に基づいて、それぞれページを作るようになっているから、本やCDが目立たなくなったのは、大学をやめてから、僕があまり買わなくなったせいなのかもしれない。しかしそれにしても、本とCDは目立たなすぎる。

ここにはもちろん、書籍もCDも売れない時代になったということもあるだろう。モノそのものではなくデータで購入することが当たり前になったこともあるが、それ以上に本もCDも売れなくなっている。ごく一部のベストセラー作家や人気のミュージシャンを除けば、文筆業や音楽活動だけで生計を立てることが難しくなっている。コロナ禍で講演会やライブ活動もできなくなったから、文化的な衰退はこれからますます顕著になるだろう。

Amazonは一部の売れ筋だけではなく、街では見つけることが難しいレアなものでも見つけられることが売り物だった。「ロングテール効果」などと言われて、僕もずいぶん便利に使ってきた。スマホの普及で、その効果自体はますます一般的になっているようだが、Amazon自体の方針は、逆に売れ筋のものに特化させるという方向に変わっているのかもしれない。Amazonのトップ・ページの変更は、何よりそんな違和感を持たせるものだった。

2021年11月22日月曜日

批判は必要なことです

 衆議院選挙の後、立憲民主党や共産党の議席減の原因として、いつも反対ばかり、批判ばかりしているからという声が聞こえてきます。大阪維新がえげつなくののしるので、それが本当のように思われるかもしれませんが、政府が出す法案について、立憲も共産も多少の修正要求はあっても8割ほどには賛成しているのです。事実でないことでも大きな声を上げれば、それが本当であるかのようになっています。メディアがそれを大きく取り上げれば、否定し難いものにもなってしまいます。そんなことが多すぎるのです。

とは言え、問題なのは反対や批判をしてはなぜいけないのか、それは悪いことなのかといった方にあると思います。そもそも第二次安倍政権以降の特徴は、嘘と誤魔化し、隠蔽と無視に終始してきたといっていいでしょう。それを野党がいくら批判しても、メディアが忖度して取り上げなければ大きな声にはなりませんし、なってもすぐに鎮静化してしまいます。世論はすぐに忘れるから、放っておけばいい。ここ10年ほど、政府はそんな傲慢な態度を取り続けているのです。

今回の衆議院選挙で10代から40代にかけての層は、自公や維新に多く投票したようです。理由はいろいろあるでしょうが、それも当然と思える理由がひとつあります。大学で40年ほど教員をしていて感じてきた学生の変化として、ゼミで議論をしにくくなったという傾向がありました。特に最後の10年ほどはそれが顕著で、テーマを与えて学生に発言させても、それに対する反対や批判が出てこなくなってしまっていたのです。最後の頃には「批判してもいいんですか?」などと質問する学生が出るようになりましたから、もう呆れるやらうんざりするやらで、すっかりやる気を無くしてしまいました。定年前にやめた理由のひとつでした。

議論はスポーツとともに、近代社会の中で生まれた闘いの場です。ルールにのっとってやれば、互いの地位や立場や属性などは関係ないですから、勝負がつくまで全力で戦えばいいし、終われば「ノーサイド」で互いを讚えればいい。そんな話をしても全く通じなくなりましたし、そもそも、世の中のことについてほとんど関心を示さない学生が大勢を占めるようにもなっていました。彼や彼女たちにとって何よりの関心は、友達関係を表面上うまくやり過ごすことにありましたし、思い通りの就職をするためには、それに役立つこと以外はやる気にならないという態度でした。

今の政権に批判的なのは高齢者層だけで、中年から若者層にかけては、現状維持派が大勢のようです。世の中がどうなろうと自分のことが一番。それは理解できる考えですが、日本の現状はすでに、維持することが難しいところに陥っているのです。もちろん危機的状況にあるのは環境問題などでも明らかなように地球規模のことでもあるのですが、この点についても日本の政府の態度に対する若い人たちの批判や反対の声はほとんど聞こえてこないのです。

と書いていたら、福井の高校生が行った演劇について、原発などを話題にしたという理由で、テレビでの放送が中止されたというニュースが目につきました。「明日のハナコ」という題名の創作劇ですが、こんなふうにして表現の芽を摘むことが当たり前に行われているのですから、言いたいことがあっても言えないと思うのは、無理もないことだとも感じました。

ちなみに、日本の学校教育が世界の中でかけ離れて、批判的思考を促す教育をしていないかについて、次のようなデータがありました。批判精神を育てる重要性を無視した教育をしているのが日本だけであることがよくわかる数字です。

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2021年11月15日月曜日

紅葉と冠雪した富士山

 

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去年はいつまでたっても冠雪しなかったのに、今年は早々とたっぷり積もった。富士山はやっぱり雪があってこそだと今さらながらに思った。そう言えば、寒い日が続いて、ストーブもひと月早く火を入れた。去年は原木が手に入らないこともあって我慢していたが、今年は付近の倒木などを集めたから薪は豊富にある。そんなことも理由だった。とは言え、枝はすぐ燃え尽きるし、倒木は火力が弱い。そしてもちろん、切り倒した木はまだ乾いていない。今さらながらにストーブにはミズナラやクヌギが最適であることを実感した。

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forest179-6.jpg湖畔やわが家の紅葉も、今年はいつになく早く、しかもきれいになった。町が整備した紅葉回廊や紅葉トンネルには大勢の人が集まっているが、気づかれないところもたくさんある。何より御坂山塊の山肌が赤黄緑になっているのがいい。時折登っている裏山からの紅葉と富士山、そして足和田山と河口湖の眺めは、いつ行っても誰もいないからほとんど独り占めだ。

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ところが、富士山を眺める秘密の絶景ポイントだった新道峠が様変わりした。車で尾根の直下まで行けたのだが、今年はいつまで経っても道が閉鎖されたままだった。おかしいと思って検索すると、「新道峠ツインデッキ」なることばが飛び込んできた。笛吹市が作ったもので、市専用の無料バスでしか行けなくなっていたのである。さっそく出かけると、朝一番のバスが満員で、積み残しが出るほどの混みようだった。週末には800人来たと言っていたから、今頃は千人を越える賑わいだろう。もう秘密でも何でもないから、二度と行くかという気になった。

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2021年11月8日月曜日

衆議院選挙の結果について

 衆議院選挙の結果は、ちょっと意外というものだった。減るのが当然といわれた自民党は微減で、増えると思われていた立憲民主党が大幅減、逆に維新が4倍増というのは、どういうことなのだろうか。あれこれ言われているが、メディアのせいだというのが一番だろうと思った。メディアはコロナが猛威を振るった時期はオリンピック一色になり、その後は自民党総裁選を追いかけ回した。ところが肝心の衆議院選挙になると、特番どころかニュースでもあまり扱わなかった。そして選挙結果についてはまた大騒ぎである。

この露骨なやり方が自民党に有利に働いたことは明らかだろう。それは維新にも言えて、大阪のコロナ対策がひどかったにもかかわらず、吉村知事が毎日のようにテレビに出て、その奮闘ぶりを伝えてきた。それを吉本の芸人が後押ししたのだから、頼りになると思わせた効果はずいぶんあっただろうと思う。対照的に立憲民主党の枝野代表は、ほとんどいないも同然の扱いだった。

メディアの扱いがポイントになったのは、甘利や石原、それに平井といった脛に傷持つ候補者が落選したことでも明らかだろう。自民党の幹事長でも大臣経験者でも、疑惑が強く追及されれば批判票は集まる。石原については山本太郎の立候補宣言と辞退といった動きが、有権者に好意的に受け取られたと言われている。そしてもちろん、これらについてもメディアの取り上げ方が影響した。

出来たばかりの岸田政権には当然、何の実績もない。しかも総裁選であげた公約のほとんどが、新政権の政策には盛り込まれなかった。ハト派の首相とは思えない右寄りの政策があげられたが、それをめぐって論争が起こることもなく、短期間での選挙戦になった。争点を隠してイメージだけの選挙になったのは、メディア、とりわけテレビが協力した結果だったといわざるを得ないだろう。

そのイメージ作りという点では枝野はへたくそだった。対抗しようと思えば、総裁選の時から出来ることはあったはずなのに、彼はほとんど何もしなかった。と言うよりは、共産党との連携や連合との関係で右往左往して煮え切らない印象を与え続けた。統一候補について何とか選挙に間に合ったが、今度は自民党が「立憲共産党」などといって体制が変わる怖さを喧伝したこともマイナスのイメージになった。

僕は今回共産党の候補者に投票した。主張が一番納得できると思ったからだ。しかし立憲民主党同様に共産党も議席を減らした。政策としては優れているのになぜ受け入れられないのか。それは何より党名にあると思う。いくら関係ないと言っても、この党名を名乗る限りは中国や北朝鮮との関係をイメージされてしまうからだ。現状の方針から言えば「コミュニズム」ではなく「コモンズ」で、共有党とか共生党がいいのではないだろうか。

国会で嘘を連発しても、公文書の隠蔽や改竄をしても、汚職やスキャンダルにまみれた議員が続出しても、それでも自民党が安定した政権の座につき続ける。安倍や麻生の院政のもとで、これからどんなことになるのか。日本の将来がますますひどいことになるのは明らかだろう。

2021年11月1日月曜日

大谷選手のMLBだった

 
MLBが終わった。プレイオフには出られなかったが、今年は大谷のシーズンだった。ホームラン46本、100打点、103得点、打率0.257、OPS(出塁率+長打率).965、9勝2敗、奪三振数156、防御率3.18、投球回数130.1という成績で、MVPも間違いないと言われている。すでに野球雑誌が選ぶMVPを複数受賞しているし、「MLBヒストリック・アチーブメント(歴史的偉業)賞」 というコミッショナー特別表彰や選手間投票によるMVPも獲得した。

こんな成績はめったに出来るものではないが、彼はこの数字を最低の基準にして、来年以降がんばりたいと言った。ものすごい自信だが、今年はまだ肘や膝の手術からの回復途中であって、来年はもっとよくなるはずといった感覚があるのだろうと思う。

それにしても、この4月からはエンジェルスの試合を見るのが一日の中心だった。早朝の試合は5時起きしたし、出かけるのも試合が終わってからとか、試合のない日にということになった。何しろ彼は、投手として出場する試合の前後も休まなかったから、DHのないナショナル・リーグとの試合以外はほとんど出場したのである。特に開幕から7月末までは、また撃った、また走ったという勢いで、投げるほうも6月以降はほとんど負けなしという状態だったから、最初から最後まで見逃すわけにはいかなかったのである。

7月後半から8月にかけてのオリパラ期間中はNHKは中継をしなかったが、AbemaTVやYouTubeでも見ることが出来たから、スマホをテレビと接続して見ることになった。その時期は敬遠されることが多くなり、悪球に手を出して調子を落としたが、投手としては、四球が減って、まるでベテランのような力の配分を考えた投球をして、見ていて感心することが多かった。もっともエンジェルスは故障者続出で、大谷がホームランを撃っても、好投しても結局は負けという試合が多かったから、後味の悪さを感じることも少なくなかった。

これほどMLBの試合に夢中になったのは野茂以来だから20年ぶりということになるが、野茂と違って大谷は毎試合出たから、初めてのことだったと言える。しかも今は中継以外にもネットでさまざまに取り上げられている。試合が終わればすぐダイジェストが載るし、追っかけをやる人も大勢いて、内外野のあちこちから撃ったり投げたりする様子を映していたし、試合前の練習風景や、試合中のダッグアウトでの様子も見ることが出来た。そんなチャンネルには10万人を越える登録者がいて100万回を越える再生数になったりもしていて、遠征にもほとんどついていっているから YouTuberとして仕事にしてるのかもしれないと思った。

大谷選手は最後の試合後の取材で、もっとヒリヒリするような試合をして勝ちたいと発言して、契約終了後には優勝争いが出来るチームに移籍するのでは、といったことが話題になった。確かに、プレイオフに出てワールドシリーズまで出続ける姿を是非みたいものだと思う。そのためにはフリーエージェントになった有力選手を獲得せよといった意見が多く飛び交っている。しかし、大谷選手の契約が数百億円になるといった予測も含めて、お金の話は敬遠したくなってしまう。一方で一年で数十億円も稼ぐ一部のエリート選手がいて、他方ではハンバーガしか食えない大勢のマイナーリーグの選手がいる。それはとんでもなく歪んだ格差社会だから、彼がそこで最高の年俸をもらったりするのは歓迎したくないと思ったりしている。