・「ウッドストック99’」をWowow
で見た。7月23日から3日間、ニューヨーク郊外の空軍基地ローマで開催されたものだが、Wowowがそのほとんどを8月7日から12日にかけて放送した。ぼくはもちろんすべてにつきあったわけではないが、おおよその雰囲気はわかった。新聞では、火をつけて暴徒と化した聴衆に、30年前の「愛の祭典」との落差を見るものが多かったが、いかにもとってつけたような解釈だと思った。
・そもそも「ウッドストック99’」はどんな趣旨で催されたのか。たとえば、30年前に登場したミュージシャンがほとんど出ていなかったし、このコンサートに政治や社会に関する何らかのメッセージが掲げられたわけでもなかった。夏には恒例になった大野外コンサートのなかでも、とりわけ規模が大きいもの。ぼくは最初からそんなつもりで開催の話を聞いたし、実際にコンサートの模様を見ても、出演者にも聴衆にも、それ以上の思い入れがあったようには見えなかった。何しろ、演じる者も聴く者も、その大半はウッドストック以後に生まれた人たちばかりなのだから、何かつながりをつけようとすること自体が不自然なのだ。
・見ていて特に目立ったのが「裸」。ステージから遠く離れたところにいくつもの小さなステージ(?)があって、そこに乗った女の子が男たちにそそのかされてブラジャーをはずし、パンティを脱ぎ、場合によっては足を広げてお尻を振る。ストリップ・ショウそのものの光景があって、テレビではモザイクつきだが、その様子を頻繁に映していた。裸になっているのはそればかりではない。ステージに近いところでは、女の子が男の子に肩車をされて、やっぱりブラジャーをはずしている。群衆の上を滑るクラウド・サーフィンをする男の子や女の子たちも上半身はほとんど裸で、女の子はどさくさに紛れてオッパイをつかまれたりしている。「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のメンバーは一人素っ裸で登場し、時折ギターの脇からオチンチンを見せていたが、そんな彼も見るに見かねたのか「オッパイが近くに見えるからって勝手にさわるな!女の象徴なんだからもっと大切にしろ!」といったことを言っていて、ぼくは笑ってしまった。彼らのパフォーマンスの途中から、焚き火が手に負えなくなって消防車が出動ということになったが、主催者が落ち着くようにアナウンスした後で「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」がやったアンコール曲は「ファイアー」だった。これでは、火は消えるはずはない。
・この30年のあいだにロックのサウンドはずいぶん変わったが、それ以上にメディアなどのテクノロジーの革新はめざましい。何しろ、アメリカでのコンサートがほとんど時間差なしに、しかもその全体を見ることができるのだから。ずいぶん手軽になったが、それだけ、感激も、思い入れもなくなった。ただあるのは、その気になって楽しむこと。サウンドシステムの進化は言うまでもないが、場内には大きなテレビモニターがあって、ステージの様子は遠く離れた人にも手に取るように分かる。カメラが聴衆に向けられると、彼や彼女たちは「クラウド・サーフィン」や「肩車」をしてパフォーマンスをする。その呼び物が「オッパイ」の露出というわけである。
・30年前のフェスティバルに出演したミュージシャンが聴衆の印象を聞かれて、「明るくて、元気だし、未来があると思った」と答えていた。ずいぶんおめでたい感想である。「コンサート」という場だから、誰もが明るく楽しく振る舞っている。「状況」をそれなりに楽しむすべは最近の若い人たちの得意技である。だからといって、彼や彼女が未来を明るいものと感じているとは言えない。むしろ、日常の不安やストレスを忘れるために、つかの間だけでもスカッとするためにロックで盛り上がる。その落差こそ、30年前にはなかった感覚のように思った。
・8月21日に岐阜県で「フォーク・ジャンボリー」が開かれるそうである。日本のウッドストック「中津川フォーク・ジャンボリー」の再現で、こちらは当時の出演者が主体のようだ。どこかのTVが中継してくれたら見ると思うが、懐メロ大会だけにはしてほしくないなと心配している。「ノスタルジー」以外に伝えるものがないのなら、ぼくには張り切ったオッパイの方がまだ見ていて楽しい気がするからだ。