2001年11月12日月曜日

T.ギトリン『アメリカの文化戦争』(彩流社)

  • トッド・ギトリンはぼくと同世代で、60年代にはアメリカの学生運動組織であるSDSのリーダーだった。その後、ニュー・レフトを代表する社会学者として精力的に仕事をしてきている。『アメリカの文化戦争』(原題は"The Twilight of Common Dreams")はヴェトナム戦争以後のアメリカの文化や政治の状況をふりかえって見つめ直すといった内容で、前作の"Years of Hope, Years of Rage"(邦訳は『60年代アメリカ』<彩流社>)の続編といった内容である。
  • 『60年代アメリカ』は、自らの学生運動の経験や少年から青年に至る成長のプロセスをドキュメントのように、あるいは物語のようにつづっていて、ぼくは日米のちがいを越えて、共有する経験の多さに喜んだり、そのラディカルな言動に驚いたり、あるいは、時代や社会状況をふりかえって見つめる目の確かさに感心しながら読んだ。アメリカでは10年刻みで時代をひとくくりにしてまとめるのが一般的で、それぞれいくつもの本が出ているが、『60年代アメリカ』はD.ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』(新潮社)と並んで、その種の本の最良のものだと思う。
  • 『アメリカの文化戦争』は『60年代アメリカ』のように、読みながら興奮を覚えるといったものではない。それはしかし、ギトリンのせいではなく、アメリカの変容が原因である。アメリカが世界でもっとも豊かな世界になったのは50年代だが、60年代には、はやくもその栄光が揺らぎはじめる。ギトリンによれば70年代以降のアメリカは、特に白人にとっては、かつての栄光とそれにつづく衰退のプロセス、あるいは理想や正義の形骸化と、それでもそこにしがみつこうとする意識のズレに悩まされた時代だった。なぜアメリカは、それが独りよがりであることが明白であるにもかかわらず、なお理想や夢、あるいは善なるもの、正義や正直さに執着するのか。これはなにより、貿易センタービル破壊に対する国を挙げての報復行為とその意味づけについて、アメリカ人以外の人たちが持つ違和感だと思う。
    国家を「夢」といった実体のないものと同一視することは全く例外的なことである。夢は何ものかを喚起し、照らし出し、美しく、恐ろしくもある。しかし夢は既成事実では決してありえない。証明すべき実体をもたない。ただ修正だけがきく。もともと曖昧なものであるがゆえに、いろいろに解釈されるようにできている。夢とはあらゆる経験の中で、もっとも個人的で不可視なものである。
  • ギトリンは、それをアメリカが「自由な人間が平等に生きるという理念」をもって生まれ、世界中にそのような期待をいだかせ、またそれを実現しして見せることを運命づけられた国だからだという。それは「国家というよりは一つの世界」「一つの生き方」といったものである。アメリカは誰もが夢を持てる国、もたなければならない国。アメリカの魅力は何よりそこにあるが、しかしまた、アメリカ人が抱える不幸やアメリカの怖さもおなじところから生まれる。夢は基本的には個人的なものだから、他人とは違う夢、異なる価値として持たなければならないが、それは他者を尊重しないという方向にも働く。
  • アメリカはその栄光が揺らぎはじめた70年代から、人種的なマイノリティや女たちが自らの声を出し始めた。夢を持つのが白人の男の特権ではないことが主張されるようになった。そのような傾向は80年代、90年代、そして21世紀へとますます強くなっている。ギトリンは音楽やスポーツに顕著なほどには、マイノリティの持つ夢は実現していないという。しかし、アメリカ人であれば誰でも、何らかの夢を持って生きること、その権利が当然視される時代になったことはまちがいない。
  • けれども、それは同時に、たがいがそれぞれ勝手に生きるバラバラな社会が到来したことを意味する。アメリカ人とは一体何者なのか?アメリカのアイデンティティはどこにあるのか?それがこれほど不確かになった時代は未だかつてなかったとギトリンはいう。
  • この本を読みながら、ぼくは今現在のアメリカの精神状態に気がついた。アメリカを襲う大きな危機、それがもたらす不安と憎悪。それによってバラバラな人たちが、アメリカという国、アメリカ人としてのアイデンティティを自覚する。テロの被害者、それに立ち向かう正義の戦士。それは一方でアメリカ人の心を一つにする働きをする。けれども、その心は同時に、アメリカ以外の国や人びとの思いに対する想像力を遮断し、彼らの生きる権利やその主張を無視する結果ももたらす。
  • その心の偏狭さに気づくのが、アフガニスタンで数万、数十万、あるいは数百万の犠牲者が出た後になるのだとしたら、それは恐ろしい悪夢だとしかいいようがない。
  • 2001年11月5日月曜日

    シンポジウム「ビートルズ現象」

    11月2日に大津の龍谷大学社会学部で「ビートルズ現象」というタイトルのシンポジウムがあった。ぼくはパネリストの一人として出席するために、前日に車で河口湖を出た。快晴、紅葉、雪をかぶった富士山、と気持ちよく出発したのだが東名に乗ったとたんにしまったと思った。10月22日から11月2日まで集中工事。さっそく清水から静岡までの20kmたらずで1時間以上も渋滞したから、もうお先真っ暗である。確か中央高速は11月5日から集中工事だとあちこちに掲示がされていた。確認しておけばよかったと悔やんでも、もう遅いし、今さら中央高速に乗り換えるわけにもいかない。


    シンポジウムは翌日だからその心配はないのだが、追手門学院大学で同僚だった田中滋さんと琵琶湖でカヤックをやる約束をしていたのだ。出発したのは9時半。予定では4時間、余裕を見ても5時間あれば十分と思っていた。ところが、1時近くになってもまだ浜松。しかも掲示板には、岡崎まで2時間で名古屋は空白になっている。おもいきって浜松で降りて浜名バイパスと1号線を使う。再度岡崎から東名に乗って名古屋をすぎたのが3時。カヤックをする約束の時間である。しかし、着いたのは4時半で、せっかく積んでいったカヤックはやらずじまいだった。


    がっかりしたし、ついていないとも思ったが、今回の目的はシンポジウムである。目的を公私混同してはいけない。それに、久しぶりに田中さんと会って、ワインを飲みながら楽しく話した。琵琶湖畔のいいホテルに泊まって疲れもとれた。午前中に一人でカヤック、と思ったが、話すことをメモを取りながら確認して時間を過ごした。
    シンポジウムの仕掛け人は亀山佳明さん。今年は何かと彼と一緒に仕事をすることが多い。3月には「スポーツ社会学会」のシンポジウムに一緒に出たし、夏休みは井上俊さんの退官記念論集の原稿を書いた。そして「ビートルズ現象」。彼は最近、いろいろな企画の仕掛け人になっている。それからもう一つ、桐田さんの葬式でも一緒になった。

    シンポジウムは、ぼくが、ビートルズの登場した時代のイギリスについて、その社会背景を話した。それから、東芝EMIの水越文明さん。彼は昨年出して300万枚の大ヒットになった「ビートルズ1」の宣伝担当の責任者で、その戦略を披露した。そして最後は和久井光司さん。彼もまた昨年暮れに『ビートルズ』(講談社メチエ)を出している。ミュージシャンでもあることは知っていたが、ギターをもってきて歌うということを聞いて驚いた。ビートルズの話を歌いながらしたし、ロックミュージシャンらしく、おとなしい学生をあおったりもしたから、ただ話すだけのぼくは全然かなわないなと思った。しかし、シンポジウム自体は、なかなかおもしろいものになった。

    ビートルズに代表されるポピュラー音楽が20世紀後半の文化を代表することは明らかだ。ぼくはそのことを『アイデンティティの音楽』に書いた。その意味で、ロックはすでに歴史の対象になったといってもいいのだが、今でも若い人たちが一番好む文化であることはまちがいない。ところが今の音楽状況は、一方でミリオンセラーを連発するミュージシャンが多数出て活発なようにも見えるが、レコード会社やメディアによってつくりだされる傾向が強い。他方で、40年も前の音楽がもてはやされたりする。「既成の枠組みや固定観念を破るのがロックで、それをなくした音楽はだめ(和久井)」「メジャーが状況を支配する時期は音楽にとっては沈滞期(渡辺)」「いい音楽が生まれてくるためにも、インディーズにがんばってほしい(水越)」と、それぞれ立場は違いながら、音楽の現状にたいしては批判的な見方で一致した。


    それにしても、どこの大学に行っても、学生たちの目に輝きを感じない。希望に溢れるわけでもなく、不満に怒りを爆発させるわけでもない。管理が行き届きすぎたのか、幸せになりすぎたのか。教師としては面倒がなくて楽だが、かなり物足りない。

    2001年10月29日月曜日

    坂本龍一"Zero Landmine"


    sakamoto1.jpeg・アメリカによるアフガニスタン空爆がまだつづいている。今朝読んだ新聞には「破壊を破壊する」ということばがあって、まさにその通りと思うと同時に、たまらなく憂鬱になった。一方で、アメリカ国内では「炭疽菌」騒ぎが恐慌をおこしている。憎しみや妬みが怨念となって世界中に漂っていく。それとは対照的に日本では、恥をかくまいという一心で自衛隊を派遣しようとする法改正に賢明だし、片栗粉を封筒に入れた愉快犯が続出しているという。多くの人は対岸の火事とほとんど無関心のようにも思えるが、狂牛病と合わせて、不安感が充満していることは確かなようだ。
    ・ただただ爆撃だけがくりかえされる現状を見ていると、一体どこに、アメリカがアフガニスタンを空爆する正当な理由があるのだろうか、とあらためて考えてしまう。それで結局どうしようというのだろうか。どうなるのだろうか。どう考えても、暴力が暴力をひきおこし、憎しみが憎しみをつのらせるだけ、そして結局、破壊が破壊を生み、破壊を破壊と際限なくつづくだけなのに………。

    ・BSi(TBS)で坂本龍一がつくった、地雷廃絶のためのキャンペーンCD"Zero Landmine"の製作過程のドキュメントを見た。このCDは4月に発売されていて、一時ちょっとだけ話題になったが、後はほとんど注目されていないものだ。

    ・ぼくが地雷の問題に関心をもったのは、そんなに前のことじゃない。生前、ダイアナ妃がアンゴラまで出かけて、対人地雷廃絶を訴えていたのは何となく知っていた。ICBLという組織がインターネットで活動を拡大し、ノーベル平和賞を授与されたことも知っていた。しかし、この地雷の問題に深く動かされることになったきっかけは、某TV番組だった。それは、地雷撤去中に片手と片足を失った白人の男が、地雷の問題について自分の母校で、子供たちに教授するというものだった。その中で、白人の男は義手義足でフルマラソンを走っていた。ぼくはそれを見ながら、この白人男性の不屈の精神に感嘆した。(坂本龍一)

    sakamoto2.jpeg・坂本龍一はこのCDをつくるためにモザンビークに行き、地雷の被害にあっている国の人たち、とりわけ音楽家とコンタクトをとった。あるいは彼の友人に参加を呼びかけた。そうやってできたのが"Zero Landmine"で、45分ほどの作品になっている。「イヌイットの少女の素朴な歌から始まり、………朝鮮半島を通り、カンボジア、インド、チベットを抜け、ボスニアでヨーロッパをかすめ、アフリカのアンゴラに行き、人類発生の地、東アフリカに位置する「大地溝帯」の南端、モザンビークに達する『音楽の旅』」。登場して歌い演奏し、話す人たちは数多い。その中でくりかえされる歌は次のように訴える。


    ここがわたしの家 / おかあさんに育てられ
    懐かしい兄や妹と / 遊んだところ
    あなたにも見える? / 地面には木が根を下ろしている
    暴力はもうたくさんだ / この地にもう一度平和を
    ここはわたしたちみんなの世界で
    わたしたちみんなの救いがある
    だから、国も、国境も、関係がない
    (「地雷のない世界」デビッド・シルヴィアン、村上龍訳)

    ・ジャケットには何種類もの地雷が並んでいる。形やデザインなどを見ていると、まるでブローチのようで、これが足や手を吹き飛ばす爆弾だとはとても思えない。人は、こんな残酷な兵器にさえも、デザインの工夫をしようとするのか、と思うと、何ともむなしい気がしてくる。もっとも、戦闘機や戦艦、あるいは鉄砲や刀も、形だけ見れば格好良かったり、美しかったりする。「殺しの美学」などという言い方もある。その道具としての野蛮さとの対照は、ひょっとしたら人間の本性を映しだしているのかもしれない。
    # 美と醜、善と悪、真と偽、あるいは正と邪。人は価値を対照によって意識する。なによりこわいのは、価値の意識にはそれぞれ強い感情が伴うことだ。醜いものは消えてしまえ。悪いものは退治せよ。きわめて人間的な発想がおそろしく非人間的な心根をもたらす。だからこそ、地雷を踏んで手足をもがれる人、アフガニスタンで空爆される人から目を離さないことが大事だ。彼や彼女らは、そんな価値意識とは関係なく生きていて、不当に傷つけられたり殺されたりする普通の人間なのである。

    2001年10月22日月曜日

    喜寿からのインターネット

  • 僕の父は今年喜寿を迎えた。母ともにそろって、いたって元気だ。それぞれに、趣味をもっていて、書道、水泳、太極拳、鎌倉彫、人形作りなどをやっている。都営の交通機関が無料ということもあって、よく都心にも出かける。元気で何よりだが、年寄り夫婦の二人暮らしはやっぱり、ちょっと心配でもある。
  • 実は去年の暮れに、父は近所で、自転車同士でぶつかって大腿骨を骨折した。3週間ほど入院して、一時は大騒ぎだったが、リハビリも順調にこなして、今は依然と変わらないほど元気になった。
  • 退院直後に誕生日を迎えたこともあって、僕はそのお祝いにパソコンをプレゼントしようと思った。以前ほどには気楽に外出できなくなるかもしれないから、家で過ごす時間が増えるだろう。何かやれるものが必要になる。そんなふうに考えたからだ。
  • 最初は、気乗り薄の返事だったが、3カ月ほどたって、やってみる気になりはじめた。外出もしはじめるようになったから、それに慣れることもかねて、新宿までパソコン教室に通うか、と言った。僕は、気が変わらないうちにと、すぐにiMacとプリンターをプレゼントした。
  • 父は以前にワープロを使っていたこともあったから、全くの初心者というわけではない。しかし、インターネットやメールをやるならと、ローマ字変換を勧めた。だからマウスはもちろん、キイボードの扱いも最初はひどく面倒のようで、見るからにぎこちないものだった。戦中に学校に行った世代は、アルファベットは苦手のようだ。「か」は何? 「ka」だよ。「きゃ」は? 「kya」。ちいさい「っ」は?………。70歳というか80前の手習いである。一緒に母もはじめることにしたから、たまに行くと質問責めでたいへんだった。しかも、説明してもなかなかわかってもらえない。
  • そんなふうにして最初は文字の打ち込みの練習がつづいた。パソコン教室で習ってきたことの復習でも、かなりの時間が必要だったようだ。で、教室が終わって、いよいよネット・デビューということになった。
  • プロバイダーはケーブル・テレビを勧めた。月6000円とちょっと値段は高かったが、つなぎっぱなしのブロードバンドで、遅いだの繋がらないだのといったトラブルが少ないと思ったからだ。うまくつかえれば、ぼくのところよりもずっといい環境になるはずだ。実際やってみると、早い早い。大学でやるよりもサクサクといく。
  • で、とりあえず興味関心がありそうなサイトを見つけてブックマークをつけてやる。近所のバスの時刻表から天気予報、新聞社やテレビ局、さらには小泉首相のページまで、いろいろとアクセスして、便利なこと、おもしろいことを説明した。そのあとは、メール。
  • ソフトの概観の説明から始まって、メールの打ち方、出し方、来たメールの読み方、そして、整理の仕方。もちろんいっぺんに話したって、すぐにはわからない。とりあえずは自分のメール・アドレスを登録して、自分宛に出してみる。次は父と母がそれぞれ相手宛に、そしてぼく宛のメール。
  • そんなところまでで、僕は夏休み。東京に出かけることもなくなったから、お互い連絡することがあれば、メールで伝えることにした。「出したけど着いてない?」「着いてないよ」といったやりとりを電話で数回。慣れてくると、「〜のアドレスを教えてくれ」と言い始めた。僕の息子(孫)や親戚でメールをやっている人たちを教えたが、出したって、すぐに返事があるわけではない。つなぎっぱなしのブロードバンドだから、しょっちゅうメールチェックをするのだが、どこからも届いていない。使いこなせるようになると、今度はそれを試す相手が必要になる。
  • ここまではもっぱら父がリードをしていたが、ここからは母の舞台。日頃から電話をつかうのはもっぱら彼女で、相手はほとんどが友達だ。父は用事がなければほとんど使わない。これはぼくのところでも同じで、おしゃべり相手と日常的に接触するのは、どこでも女性の方が活発のようだ。だから、母は友達とのメールのやりとりをはじめたが、父にはそれをする相手がいない。何とかと思うが、こればっかりは自分で探してもらうしかない。
  • と、こんなわけで、父と母は新しいコミュニケーション手段を使い始めた。若い学生たちとはちがって歩みはのろいが、そのうちにホームページの作り方でも教えようと思っている。「インターネット」「メール」「ホームページ」「IT」などといったことばを耳にしながら、自分では何のことやらよくわからない。そう感じると、自分が世の中からひどく遅れてしまっているのでは、と不安になってしまう。そうならないための、あるいはボケ防止のための手習い。動機づけがうまくいって、やれやれといったところだ。
  • 2001年10月15日月曜日

    BSディジタル放送について

  • 何度も書いているが、山間部のわが家ではテレビの地上波の映りがきわめて悪い。アホくさいバラエティや遊戯会のようなドラマは見る気もないから、ケーブルも契約しないままだ。それで十分と思っていたのだが、新聞に載るBS放送欄が気になってもいた。時折興味のある番組が載っていて、見たいな、と思うことがあったからだ。
  • 実はBSディジタル放送がはじまったときにチューナーを買おうかなと思った。しかし、値段が高いし、たいした番組もなさそうなのでもう少し待つことにしたのだ。それから一年、電気屋でたまたま見かけたら、チューナーが6万円台になっていた。パラボラ・アンテナは今のままでいいというし、Wowowが3チャンネルに増えて、視聴料はあまり変わらないという。夏休みの後半にはいったところで、家でテレビをつける時間が多いのに、見たいものがないと感じていた時期だった。
  • ところが、買ってすぐに見たのがニューヨークの貿易センタービルへの旅客機突撃だった。夜中のニュースはBSでも、民放の地上波と同じものを流していた。新しいリモコンを片手に、ぼくは明け方まで見続けてしまった。そのあとも、ニュースを中心によく見たから4、5日すると目が痛くなった。
  • BSデジタルは電話回線を使った双方向のやりとりをうたい文句にしている。クイズ番組への参加や通販程度のもので、各チャンネルに登録しなければならないから、今のところやる気はない。ラジオやデータ放送などのチャンネルもかなりあって、充実していけば、インターネットと同じような使い方ができる可能性をもっているようだが、これも可能性であって、今のところはほとんど役に立ちそうにない。民放はそれぞれ3チャンネルずつ確保しているのだが、聴取料を取るNHKとWowow以外にはそれぞれ別番組をやっているところもほとんどない。
  • 思ったように普及しないから、あまり力を入れない。中味が貧弱だから、いつまでたっても注目されない。そんな停滞状態のように思えるが、番組の中にはおもしろいもの、意欲的な試みもある。たとえば長時間のインタビュー番組や地味だけどじっくり時間をかけて作ったドキュメンタリー番組、あるいは、昔の番組の再放送などがある。しかし、全体としていえば、何をしたらいいのかわからない感じだし、それほど本気で取り組んでいるふうでもない。
  • 一方、衛星放送にはCS放送もあって、こちらはたくさんあるチャンネルに一つひとつ視聴料が必要だ。各チャンネルは専門特化していて、ニュース、映画、音楽、スポーツ、アダルトと盛りだくさんのようだ。もっとも、経営的にはスカイ・パーフェクトがほとんど独占状態で、ぼくはマードックが好きではないからこれからも見るつもりはない。
  • BSは現在アナログとディジタルの二本立ての放送をしている。数年後にアナログが廃止されれば、さらにディジタル・チャンネルは増えるだろうと思う。そうなると、BSとCSあわせて、見ることができるチャンネルは数百にもなるし、地上波がディジタル化されれば、さらに多くなる。一体誰がどんな理由で、一つひとつのチャンネルを選択するのだろうか。
  • 多くの人にとってテレビは、見たいから見るよりは、生活習慣の一部としてとか、日常会話の材料として見るという意識の方が強いようだ。だからチャンネルが増えても、相変わらず、20%とか30%といった数の人たちが同じ時間に同じ番組を見る。この習慣や指向は頑なで、なかなか変わりそうにない気がする。
  • 衛星放送は今のところ、技術的な進化だけが目立っている。中味、つまりソフトの開発はまだまだ手探り状態といったところだ。だから、衛星放送がテレビの主体になれるかどうかは、視聴者の視聴行動を変えるかどうかにかかっている。けれどもそれはまた、魅力のある内容を先行させなければどうしようもないことでもある。
  • 課題はいろいろあると思う。お金もそうだが、知恵を絞ったり、若い素材や新鮮なアイデアを工夫する必要がある。何より、実験の場として考える発想が大事だろう。そんな意識をもって見ると、残念ながら、あまり期待できそうにない気もする。とはいえ、わが家では、きれいな画面で見られるチャンネルが増えたから、しばらくはそれだけでも十分である。
  • 2001年10月8日月曜日

    庭田茂吉『現象学と見えないもの』(晃洋書房)

  • この本は、ぼくにとっては思い出ふかいものだ。庭田さんは同志社大学の哲学の先生で、ぼくとは30年のつきあいになる。今年亡くなった桐田克利さんたちと一緒によく酒を飲んだり、議論をしたり、それにちょっと勉強会もした。それぞれに、恋愛のこと、結婚のこと、子どものこと、そして仕事のことなどで悩ましたり、悩まされたりもした。庭田さんはその私生活では、仲間内では一番のトラブル・メーカーで、もういい加減にしろとみんなからあきれられることも多かった。しかしそれだけに、会えばいつでも彼の話題でもりあがった。
  • 庭田さんは青森出身で、寺山修司に似たしゃべり方をする。深刻な問題を抱えこんだときでも、その独特の口調で、おもしろい話にしてしまう。ぼくの周辺では希有のストーリー・テラーで、ぼくは小説家になったらいいのにとずっと思ってきた。実際彼の人生は、波瀾万丈で、ぼくに才能があったら、彼をモデルに小説を書きたいほどである。もちろんそれができたとしたらスタイルはコミカルなものになる。
  • 『現象学と見えないもの』は彼の博士論文で、その完成には就職の成否がかかっていた。数年前のことだ。あきらめずによく頑張るな、と半ば感心、半ば呆れながら、うまくいくとイイねという月並みな激励をした覚えがある。書きあげたら、プリントしてくれないかと言われて、おやすいご用と引き受けた。そうしたら、完成したという連絡のかわりに、パソコンのハードディスクが壊れて、書いたものが消えてしまったと電話をしてきた。「バック・アップは?途中で印刷したものは?」と聞いたが何もない。途方に暮れた様子で、人ごとながら、ぼくもぞっとしてしまった。しかし、彼は気を取り直して、記憶をたよりに書き直すと言った。ドジの多い人だが、へこたれない人なのである。
  • できあがったという連絡がはいったのはそれから半年後で、ぼくの家で数日かかって提出用の博士論文を作成した。で、博士号をめでたく取得して、就職も決まった。めでたしめでたし。といいたいところだが、ぼくはその中味をまるで読んでいない。印刷の際には読む余裕などなかったのだが、何とも難しそうで、読んでみたいという気にもならなかった。しかし、それが本になって、ぼくのところに送られてきた。あとがきには、作成過程のいきさつとぼくに対するお礼の文がある。これは、気をいれて読まねばと思った。
  • この本の内容は、簡単に言えばメルロ・ポンティの仕事をミシェル・アンリに依拠してとらえ直したものだ。コギトの問題、他者の問題、身体の問題………。メルロ・ポンティは庭田さんが大学院生になり始めのころから読んでいたものだから、一冊にまとまるのに25年以上を費やしたということになる。会うたびに、こんな話は聞いていたような気がする。しかもいつでもわかったような、わからないような理解しかできなくて、しかもいつでもそのままで、関心があるようなないような気持ちのままに放置してきた。それだけに、四半世紀にわたってひとつのテーマを追いかけるその持続力としつこさにはまったく脱帽という感じだ。
  • デカルトの「我思う、ゆえに我在り」はきわめて有名なことばだ。で通説としては、「私」という存在は「私が私のことを思う」ところから自覚されるものということになっている。存在する「私」と、その「私」を思う「私」。ぼくはもう、それをアプリオリにして十分自我論も他者論も関係論もできるのでと考えてしまうのだが、哲学では、そう簡単には済ませられないようだ。
  • 「在る私」と「思う私」という二つの「私」を考えると、次々に「思う私を思う私」と続けざるを得なくなる。「無限背進に陥りかねない意識の生の逆説的な根本的特性との出会い」というわけだ。その難問をどう打開するか。もう一人の自分を自覚することなしに思う。「自分が思っていることを脱自の隔たりを置くことなしに、直接的に無媒介的にそれ自身において知る。」わかったようなわからないような。まるで禅問答のように感じてしまうが、出てくることばには興味深いものも多い。「無言のコギトと語られたコギト」「自己への配慮と自己の認識」………。読み終わるまでにはまだまだかかりそうだが、本来、読むことは書くことに負けないほどの努力を必要とするものなのだから、数ヶ月かかるのは当たり前なのかもしれない。気をいれて持続させなければ………。
  • 2001年10月1日月曜日

    ムササビ、その後


    forest11-1.jpeg・ムササビは今も屋根裏にいる。しかも数週間前から、僕が寝ている部屋に移動してきた。朝4時半に帰宅するから、どうしてもその足音で目が覚める。しかも、爪とぎなのかガリガリ始めるから、寝ていられない。そのうるささに我慢がならず、杖で天井をついたりしても、いっこうにやめようとしない。頭に来て、この「ムサ公!」などと怒鳴りながら、壁や天井を叩く。そんなことが数回あった後、住んでいる気配がしなくなった。
    ・そうなると、家出でもしたのかと心配になったりするから、いやになってしまう。で、数日後にまたごそごそしてほっとする。3カ月も一緒にいると、知らず知らずのうちに同居が当たり前になってしまっているのだ。よくしたもので、ガリガリやってもたいして気にならなくなった。ムササビは雨の日でも出勤する。台風の時は行かないだろうと思ったが、やっぱり明け方に帰ってきた。いったいどこで何をしてくるのだろうと、これも気になる。

    forest11-2.jpeg・せっかくつくった巣箱が見向きもされないので、作り直すことにした。さっそくパートナーが河口湖町にある「山梨県環境科学研究所」にメールを出すと、そこの小口さんが直接訪ねてきてくれた。彼は小学校の先生で一時的に研究所に派遣されているのだという。で、家や周囲の木を見て回ったのだが、後で巣箱やムササビについての資料をメールで送ってくれた。
    ・そのあと台風やテロ事件でずるずるとほったらかしにしていたのだが、久しぶりに晴れた日に朝から巣箱づくりにとりかかった。前のよりも縦長にして入り口の穴をなるべくうえにつける。穴から入って、すとんと落ちるような構造をムササビは好むようだ。そして中には、杉の木の皮を敷いておく。ついでに余った皮で周囲を覆うことにした。これで木の隙間から雨漏りすることもない。一日仕事だったがずいぶん豪華な巣になった。これなら気に入ってくれるだろうと思うが、さてどうだろうか。後はどの木にくくりつけるかだ。

    forest11-3.jpeg・今年の夏は雨が少なくて河口湖の水も減って岸辺が増えたから、そこにテントを張る人も多かった。しかし台風がものすごい雨を降らせて、ふだんは水のなかった近くの川もものすごい勢いで流れた。だから台風がすぎた直後に湖まで行ってみると、いつもカヤックを組み立てていたところも水没して、泥流で色が変わってしまっていた。当然、湖には釣り客も水上スキーも遊覧船もない。本当に久しぶりの富士山だが、その姿を見る人は湖畔には誰もいない。雨上がりの日差しは強く。風はなま暖かいというよりは蒸し暑かった。


    forest11-4.jpeg
    ・今年の気候のせいなのかわからないが、猿の群が山を下りていて、周辺の畑がずいぶん荒らされているようだ。別荘地区の管理人さんは、丹精込めてはじめて作ったカボチャをイノシシに全部食べられてしまったという。栗やクルミが実をつけているが、山の食べ物は減っているのかもしれない。
    ・台風一過で久しぶりに北の御坂山系が夕焼けになった。今までに見たことがないほどきれいな色に染まった。空気が澄んで、しかも湿気があったせいだろうか。しばらくすると季節は確実に秋になった。真っ青な空。気温も下がって、明け方には10度を切るようになった。ストーブで薪を燃やすのもそろそろ必要になりそうだ。
    forest11-5.jpeg・カヤックに乗る回数は少なくなった。雨の日はだめだし、風が強い日も避ける。温度が下がったから、夕方ではなく日中の陽の出ている日を選ぶ。そうすると、なかなかいける時が見つからない。とはいえ、気温はこれからどんどん下がるから、へたをしたらまた来年の夏ということになってしまう。T シャツ一枚が、長袖になった。そろそろウィンドウブレーカーも必要になる。セーターやダウンを着てもやるつもりだったが、はや億劫になりはじめている。(2001.10.01)