・今年で93歳になった義父が亡くなった。3年ほど前から老人ホームに入っていて、時折訪ねると元気な様子で、笑顔で迎えてくれていた。しかし、今年になって肺炎にかかり、病院の入退院をくり返していて、先月お見舞いに行った時には、ずっと眠ったままだった。
・彼が老人ホームに入るまでは、僕の両親と年一回、那須にある義兄の別荘に泊まり込んで歓談の時を過ごしてきた。それができなくなって両親は残念がっていたが、僕の父も3年前に体調を崩し、昨年の母の病気を契機に二人そろって老人ホームに入った。二人とも今は元気だが、ほとんど外に出ることもない。義父の死を伝えるのはちょっとつらかった。
・義父は学徒出陣でフィリピンに送られた。アメリカ軍との戦争に負けて、セブ島を何日もさまよって捕虜になった。その体験について、彼はあまり話したがらなかったが、一緒に食事をしている時に口にした「上タン」ということばをきっかけに話をし出したことがあった。「上タン」とは上質のタンパクという意味で、セブ島をさまよっている時に食べるために捕まえた動物の中で、おいしくて栄養価のあるものを、こう呼んでいたというのだった。現地の人が飼っていたニワトリを盗んだこともあったようだ。
・その話を聞いて、もっといろいろ聞いてみたいと思ったのだが、彼はそれ以上には話したがらなかった。何しろフィリピンに送られた兵隊達の1割程度しか生き残って帰国できなかったのである。戦後も長い間、その体験に苦しめられてきて、自分なりの整理はできなかったようである。
・亡くなったという知らせがあったのは朝1時限目の授業のために早起きをして出かける用意をしているときだった。帰りがけに父母のいる老人ホームを訪ねて、クリスマスと正月用にと買ったシクラメンを届けるつもりでいたから、授業を終えるとまず、老人ホームに寄ることにした。母は一緒に那須に行ったときの話をして、気落ちした様子だった。
・通夜も告別式もせず、翌朝子どもたちだけで見送って、お骨にして義兄の家に持ち帰った。義母はすでに8年前になくなっている。親戚もそのほとんどは他界しているから、連絡も孫のところだけにした。人生の最後を老人ホームで過ごし、長生きをすれば、最後はこんなふうに静かなものになる。超高齢化社会では、都会で生活する者にとって、大がかりな通夜や葬式は不要のものになる。そんなことを実感した。
・それが寂しいとか冷たいなどとはまったく思わなかった。人の死は本人よりは、残った者の問題である。関係の記憶を強く持つ者だけが見送ればいい。僕の父母にそんな話をしたら、二人は何と言うだろうか。父はまだ、形式を気にするかもしれない。そうだとしたら、強制はしないが、説得しなければならない。帰りの車を運転しながら、そんなことを考えていた。家が近づくと風景が雪景色に変わっていた。