2014年6月9日月曜日

MLBの日本人選手

・MLBでプレイする日本人選手が去年に続いて好調だ。新人の田中は9勝を挙げて、防御率でリーグ1位になっている。寝違えでたびたび登板を回避させているダルビッシュも6勝をあげて防御率は2位だ。けがで出遅れた岩隈も安定したピッチングを持続させていて、4勝をあげて防御率も2点台になった。打ち込まれることが多くて苦戦していた黒田も、調子が上向きになってきている。今年のボストンは10連敗したりして、去年の勢いがないが、田沢と上原は好調だ。肘の手術から復活した松坂は、慣れないリリーフで実績を上げて、何度か先発もしている。日本人の投手を追いかけていると、毎日のようにTV中継を見て、ネットで戦況や成績を確認しなければならないほどだ。

・対照的に日本人の野手は苦戦している。レギュラーでがんばっているのはカンサスシティの青木ぐらいで、イチローも控えに甘んじているし、その他はマイナーに落とされている。日本ではオールスターや全日本のレギュラーに選ばれる実力があっても、メジャーでは通用しないことが定着してしまったようである。一番の理由はパワー不足ということになるのかもしれない。けれども、活躍している投手がすべてパワーがあるというわけではない。上原や岩隈、そして黒田も、好投できる理由はコントロールや駆け引きのうまさにあるわけだから、打者だって、通用するやり方はあるはずだ。

・そんなわけで、MLBには今年も注目しているのだが、どの試合でもスタンドがガラガラなのが気になっている。開幕時は寒さのせいだろうと思っていたのだが、暖かくなっても閑散としている試合が多いようだ。とは言え、観客の少なさについて触れている記事はまだ見たことがない。逆に発表されている観客数は減っていないから、年間契約のシートは売れているのかもしれない。ちなみにヤンキー・スタジアムの今年の1試合平均観客数は42250人で85%になっている。

・ヤンキースの田中は7年で1億5500万ドル(160億円)の契約をした。その額に見合う活躍をしているとされているが、ヤンキースはこのお金をどうやって回収できるのか、閑散としているスタンドを見ていると、不思議な気がしてしまう。バブル状態の選手の年俸を支えているのは、テレビの放映権料だと言われている。各球団は地元のケーブルTVと独占的な放映権の契約を結んでいるが、その他に、全国ネットのテレビ局との契約についてはMLBが結んで、各球団に分配している。それらの収入が、多い球団では100億円を超える仕組みになっているようだ。MLBの試合はもちろんネットでも見ることができる。今シーズン全試合を9500円で見ることができるようだ。

・プロスポーツがバブル状態なのは野球だけではない。ヨーロッパのサッカーも同様で、有名選手を高額で引き抜きあっている。けれども、いくら選手を集めても勝てるわけではないのは、香川が所属するマンチェスター・ユナイテッドの成績を見れば明らかだろう。同様のことは田中に160億円も払うヤンキースについても言える。今年のヤンキースはけが人続出や移籍選手の不調で、やっと5割を維持する程度なのである。対照的に、他球団からけがや不調を理由に解雇された選手を再生させることがうまいオークランドが、今年も快調に勝ち続けている。

・MLBの試合を見はじめて、もう20年ほどになる。野茂から始まって、ずいぶんいろいろな選手を見てきたが、選手の稼ぐお金の桁違いの増え方に今さらながらに驚いてしまう。もっとも、一度けがをしたり、成績不振で解雇されれば、安い報酬でマイナー契約をしなければならない。メジャーに復帰しても、数年好成績を残さなければ元の額には戻らない。現在、そんな境遇にいる日本人選手もまた、松坂、和田など少なくない。僕はこんな選手も気になっているが、NHKではもちろん、あまり見ることができない。

2014年6月2日月曜日

ガリシアのケルト


Carlos Núñez "Os amores libres"
"Brotherhood of Stars"
『絆~ガリシアからブルターニュへ』

chieftains3.jpg・ケルト音楽は一般にはアイルランドのものだとされている。けれども、ケルト民族はかつてはヨーロッパ中にいて、今でもフランスのブルターニュやスペインのガリシア地方に住んでいる。文化的にも人類学的にも共通していないところがあるようだが、ガリシアには、アイルランドやスコットランドでよく使われているバグパイプとそっくりのガイタという楽器がある。カルロス・ニュネスはその奏者として第一人者と言われている。

・ガリシアのケルトは「チーフタンズ」の『サンチアーゴ』で知った。巡礼の道順にしたがってバスクからガリシアまでの音楽を辿り、最後はポルトガル国境のビーゴの町にあるダブリンという名のパブでのライブで終わっている。収録曲にはポルトガルのファドもあり、キューバで録音されたものまで入っていた。アイリッシュと似ているけど、どこか少し違う。そんな音楽に興味を持った。

journal-134-3.jpg ・『サンチアーゴ』にはライ・クーダーも参加している。キューバでの録音を主に担当したようだ。彼はアメリカにおけるカントリー音楽の大御所だが、アメリカ大陸で発展した音楽の採集と、そのルーツの探求に熱心でもある。キューバのミュージシャンを探して作った『ブエナビスタ・ソーシャル・クラブ』は大きな話題になったが、彼はまたチーフタンズと協力して、メキシコと米国にまたがる音楽を集めた『サン・パトリシオ』を作っている。僕がガリシアのケルトに興味を持ったのは、この2枚のアルバムがきっかけだった。で、ガリシアに行きたくなって、ガイタを演奏しているニュネスを聴くことにした。

nunez1.jpg ・3枚買ったアルバムは、タイトルがそれぞれ、スペイン語、英語、そして日本語だった。"Os amores libres"はニュネスのガイタや笛、オカリナが主役だが、共演者は多彩で、フラメンコやファド、それにアイリッシュも入り交じっている。一曲(Danza da lúa en Santiago )だけジャクソン・ブラウンが歌っている。言い歌だが、残念ながら、その理由や歌詞はわからない。

・"Brotherhood of Stars"はライ・クーダーやチーフタンズ。それにファド歌手のドゥルス・ポンテスも参加して、一層多彩な内容になっている。ガリシアという土地やそこに生きてきたケルトを感じさせるとは言えないが、混在が交響して聴き応えのあるアルバムになっている。
nunez2.jpg ・曲の多くはガリシアに伝わるもののようだ。しかし、この2枚のアルバムに参加しているミュージシャンは、イベリア半島の北にあるアイルランド、ガリシアの東に位置するピレネー山脈周辺に住むバスク、ガリシアの南にあるポルトガル、そしてスペインやポルトガルが大航海時代に侵略して植民地にした南北アメリカ大陸から集まっている。
・その意味では、ヨーロッパとアメリカ大陸の長い歴史を思い起こさせるような内容だと言える。ケルトがアイルランドやスコットランド、そしてガリシアにしか残っていないのは、ローマ帝国の支配が及ばなかったからだし、そのローマ帝国を衰退させたゲルマン民族の移動も、やっぱり大陸の果てまでは徹底しなかったからだ。

nunez3.jpg ・もう一枚の『絆~ガリシアからブルターニュへ』はフランスの北西部にある、やはりケルトの文化が残るブルターニュの音楽を集めたものである。ケルトの歴史を調べると、ここに住む人たちはイギリス本島から移ってきたようである。だからもともとの言語(ブルトン語)はウェールズに近いと言われている。
・ブルターニュの伝統音楽はアイルランドやスコットランドの音楽復興に触発されて、1970年代頃から盛んになったようだ。ニュネスはそんなブルターニュとのつながりを、このアルバムで表現している。

・グローバリゼーションの時代だが、音楽はとっくの昔からグローバルな存在だ。で、一つ一つがローカリティを意識して、自らのアイデンティティを模索し、表現している。ガリシアのケルトはまさに「グローカル」な音楽である。

2014年5月26日月曜日

音楽の変遷

吉成順『<クラシック>と<ポピュラー>』ARTES
南田勝也『オルタナティブロックの社会学』花伝社

yosinari.jpg・音楽は大きく「クラシック」と「ポピュラー」の二つにジャンル分けされる。単純には、前者は古くて後者は新しいと思われているが、実際には、音楽の種類の違いであって、時間や時代に制約されるものではない。一般的には、コンサートホールの座席に座って音だけに神経を集中させて聴く「集中的聴取」が「クラシック」なら、「ポピュラー」は、立ち上がって踊ったり、手拍子したり、あるいは飲食をしながら聴く「散漫な聴取」が許される音楽だと思われている。

・『<クラシック>と<ポピュラー>』は音楽にこの違いが生まれたのがいつ、どこにおいてなのかを探求した研究書である。「クラシック」はもともとはヨーロッパの宮廷などで、上流階級の人びとが集まる社交の場で演奏される音楽として発展した。当然、そこには流行があり、古くなれば忘れられていたのだが、古いもののなかで良いものを厳選して再演しようとする動きが現れた。そのための演奏の場やジャーナリズムを支えたのは、近代化のなかで台頭した「ブルジョア」階級だった。本書の前半は、その過程をドイツを中心にして解き明かしている。

・他方で、近代化によって大発展した都市には地方から移住した人びとの中から生まれた音楽もあった。それらは主にパブやミュージックホールで歌われたり演奏されたりして「ポピュラー」と称せられることになるが、「クラシック」とはっきり区分けされるのは19世紀の後半のことである。その前の一時期には、たとえばパリのシャンゼリゼ通りの一角に特設された会場で行われる「プロムナード・コンサート」が流行して、そこでは二つのジャンルに分離される音楽が混在したかたちで演奏されたそうである。

・音楽の混在は、当然、そこに集まる人たちにも当てはまる。つまりこのコンサートには「ブルジョア」も「労働者」もいて、一つの音楽を一緒に楽しんでいたはずなのである。上流階級から生まれた音楽が「ブルジョア階級」によって「クラシック」になり、労働者階級が楽しんだ音楽が「ポピュラー」になる。しかし、そう区分けされる前の一時期に、両者が混ざり合ってストリートで演奏され、楽しまれたことは、ヨーロッパにおける近代化や都市の発展、そして階級の成立過程を見る上でも、きわめて興味深い分析だと言える。

minamida.jpg ・音楽におけるこのジャンル分けは、種類の違いというだけでなく、芸術的、知的レベルの違いとして序列付けされるようになった。その序列を揺さぶる動きは、20世紀の前半に登場したジャズにはじまり、後半に登場したロック音楽によって大きくなった。ロック音楽はアメリカの黒人音楽と、それに影響されて生まれたイギリスの労働者階級育ちの若者によって作り出されたものである。この新しい音楽の興隆がアメリカにおける黒人の位置やイギリスにおける階級の問題と深く関連していることは言うまでもない。

・南田は以前に『ロック・ミュージックの社会学』(青弓社)で、ロックとアートの関係を分析しているが、『オルタナティブロックの社会学』は、ロック以後やロックの現在形を対象にしている。既成の政治や社会、そして文化に対して痛烈な批判をして共感を呼んだロックは、商業的にも成功したことで、新しい流れによってくり返し批判され、乗り越えられてきた。パンクやレゲエ、ゴシック、あるいはヒップホップといったものである。著者はその現在形をグランジに見て、ロックの核心にあるロックたるものと、「ポピュラー」であるゆえに逃れられない商業性との確執に揺れ動く様子に焦点を当てている。

・ロック音楽はアートであり、文学であり、また政治的、社会的、そして文化的批判のための武器でもある。そこに本物性(オウセンティシティ)という価値をおけば、商業性やポピュラリティは両立しにくい要素になる。ポピュラー音楽が産業として大がかりなものになり、巨大な市場となった現在では、本物であることとポピュラーであることを具現化できるミュージシャンは希有の存在だと言えるかもしれない。本書では、その狭間で悩み、自殺をした「ニルヴァーナ」のカート・コバーンに注目している。

・そのコバーンが死んでからすでに20年になる。その間のオルタナティブ・ロックは小粒で、目立ったものはポピュラーに振れている。くり返しロックは死んだという言説で批判された音楽が、今ではクラシックとして一ジャンルを形作っている。1世紀半ほどの時を隔てて、クラシックとポピュラーが再構築されたと言えるのだろうか。僕はもちろん、その両方に興味がある。

2014年5月19日月曜日

K's工房個展案内


「棚田:生きものたちのいるところ」
2014年5月29日〜6月3日
JR国立駅南口「ギャラリーゆりの木」

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・一年おきに東京と京都で開かれているK's工房の個展が、今年はJR中央線国立駅南口の「ギャラリーゆりの木」で開かれます。今回のテーマは「棚田:生きるものたちのいるところ」。棚田には、蛙をはじめ、蛇やカタツムリ、そして魚などが住み、犬や猫が飛び回ります。そんな楽しい展示を楽しんでください。





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2014年5月12日月曜日

薪割り完了

 

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・連休が終わって、やっと薪ストーブの役目も終わった。煙突を外し、ストーブを分解して掃除もした。次の冬に向けて、すでに8㎥の原木を切って、割って干してある。例年なら、これでおしまいなのだが、この冬は寒くて、用意した薪のほとんどを燃やしてしまった。だから予備として、もう3㎥注文して、連休中に薪割りに精出した。

・原木がトラックでやってくる。それを積んでもらって、チェーンソーで5等分に玉切りする。それを積み上げて、一つ一つ、斧で割っていく。割りにくいものはくさびを打ち込み、それでもだめなものはチェーンソーで立て切りする。



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・割った薪は家の周りに積むのだが、すでに満杯だから野積みにすることにした。円形に積むのだが、これはネットで見つけたやり方で、チベット積みという名がついていた。2mを超える高さになると崩れる心配があるから気をつけて、一つでは足りないから二つ作った。家の周りの分と合わせると、ご覧の通りで、一冬に燃やす薪の量の多さに、改めて驚かされてしまった。


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2014年5月5日月曜日

テレビよりラジオ

・テレビはおもしろくないし、見ていて不愉快になったり、けしからんと思ったりすることが少なくない。ずいぶん前から言っていることだが、最近は特にひどい。NHKは唯一見ていた7時のニュースでさえも見なくなった。民放は2局しか見えないが、よくもまあ、毎日毎日、タレントを集めたバラエティばかりやっているものだと呆れてしまう。

・だからあまり見ないのだが、その代わりにラジオを聞く時間が多くなった。と言っても、我が家で聞けるラジオは限られていて、InterFMのバラカン・モーニングぐらいだ。東京でもカーラジオでは聞きにくいのに、我が家では鮮明に聞こえるから不思議だが、かかる音楽はもちろん、話題についても、彼とは興味や関心について、共有できる部分が多いと思っている。

・FMはほかにいくつか入るのだが、どれもおもしろい番組はほとんどない。中波はまったく入らないから、InterFMに固定したままだが、朝以外につけることはほとんどない。代わりに聞いているのは、YouTubeで探して登録したラジオ番組である。TBSラジオの「荒川強啓デイキャッチ」「荻上チキsession22」、文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」、それにMBS「報道するラジオ」といったものだ。

・どの番組にも共通しているのは、時事的なテーマについて、フリーのジャーナリスト(青木理、神保哲生など)や研究者(金子勝、宮台慎司など)をレギュラーにしていて、テレビや新聞では見えてこない側面や視点に目を向けていることだ。このような役割については、もちろん、ネット自体のなかにもいくつもの発信局があって、「デモクラテレビ」や「ビデオニュース」は頻繁にチェックしている。

・こういったルートで伝わってくることは、新聞やテレビとはずいぶん違っている。たとえば、来日したオバマ米大統領の発言や、共同声明について、新聞やテレビは日米の同盟関係の強さや尖閣諸島が安保保証の領域であるという発言を強調したが、実際には、中韓との関係の改善を強調し、安倍首相には言動に対して慎むよう釘を刺してもいる。それはホワイトハウスが発表した公式文書にも載っているのに、日本の新聞やテレビは、まったく無視したり、表現を和らげたりしている。

・小保方とSTAP細胞の問題や韓国のフェリー沈没は呆れるほど取り上げるのに、福島原発の現状や沖縄の基地問題については小さくしか扱わない。原発の再稼働には、事故が起きたときの避難などが、どこでも何の対策もできていないのに、そのことを問題視するメディアがほとんどない。そんな傾向は、消費税の増税やリニア新幹線の着工にまつわる問題など、枚挙にいとまがないほどである。

・マスメディアのこれほどにひどい状況について、そのことを批判する声はネットを通してしか聞こえてこないのだが、ラジオのなかにまだ、聞くに値する番組がわずかに残っている。それらをネットに乗せることは大事だし、ありがたいと思う。

2014年4月28日月曜日

リニアと原発

橋山禮治郎『リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」』集英社新書

本間龍『原発広告』亜紀書房

linear.jpg・リニア新幹線が実験段階から実用化に向けて動き出したようだ。僕の住む山梨県には実験線があって、新幹線のルートになっているから、ニュースではよく話題にされている。おかしいのは、駅ができたら山梨がどう変わるかといった夢のような話ばかりで、そもそも、こんなものがなぜ必要なのかといった議論がほとんど起こらないことだ。

・『リニア新幹線』は、問題点を完結にわかりやすく指摘している。まず、東京・大阪間を1時間で移動する必要性がどれだけあるかということ、そのために、南アルプスをぶち抜くトンネルを作ること、ルートの7割以上がトンネルで、場所によってはかなり深いところを走ること、乗客はもちろん、沿線住民が強い電磁波にさらされること、そして原発数基分の電力が必要であることなど、リニアは実際、無意味で危険なことこの上ない鉄道なのである。

・JR東海はこの新幹線を国の援助を仰がずに自力で作るという。けれども、実際に収益が上がるのかどうかについても疑問があるようだ。輸送力の増強というけれども、東海道新幹線の乗車率は、現在6割程度で、けっして満杯状態ではないから、リニアができれば、赤字路線に転化してしまうようだ。東海地震が起こったときの輸送経路を確保するといった理由もあるようだが、両方だめになる危険性を想定するのが賢明なのは明らかだろう。

genpatu.jpg・こんなに問題があるのに、なぜ、メディアは大きく取り上げないのだろうか。そんな疑問を感じながら、もう一冊、『原発広告』を読んだ。原発は電力会社が独自に必要性を自覚して開発したのではなく、国が積極的に推進したものだった。地域独占なのになぜ、テレビや新聞に膨大な費用を使って広告を出し続けてきたのか。それによって、メディアはどんな態度を取り、世論をどのように操作し続けてきたのか。この本を読むと、その露骨な情報操作の歴史がよくわかる。

・原発広告は大きな事故やトラブルがあると静かになり、そのほとぼりが収まると、以前にも増して大がかりになる。そのくり返しで、3.11前までに総額で4〜5兆円が費やされてきた。著者はその狙いが、国民の洗脳とメディアの懐柔にあったと断言する。安全であること、温暖化を抑え、資源を浪費しない環境にやさしい電力であること、低コストであることなどを専門家を使って説明し、タレントを使って、便利で豊かな暮らしに不可欠であることを吹聴してきた。本書を読むと、その情報操作の露骨さに改めて驚かされる。

・もちろん、メディアへの巨額な出費は、メディアによる原発批判を抑える役割も果たしてきた。その効果が、原発事故後のメディアの腰の引けた東電批判にまで及んでいることは言うまでもない。新聞もテレビも、原発について、電力会社との関係について、反省はもちろん、振り返って検証する姿勢すら見せていない。

・リニア新幹線は全国的にはほとんど話題にならず、したがって議論も起こらずに、工事が始まろうとしている。この静けさは奇妙である。動かすためには原発の再稼働が不可避になる。それは地理的にも浜岡原発以外にはあり得ない。列島を貫く大断層であるフォッサマグナにトンネルを掘ることなど、危険性は数知れない。そもそも、これから人口が減少し、経済的にも成長は望めない日本に、こんな鉄道がなぜ必要なのだろうか。

・工事がいつの間にかはじまり、本格的になった頃に、リニアには原発が必要だといった宣伝が大々的に行われる。大きな地震がなければ、原発の再稼働も本格化する。この2冊を読んで、そんな悪夢を想像してしまった。