2018年12月10日月曜日

紅葉と暖冬

 

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forest154-2.jpg・今年の冬は暖かい。紅葉は色が鮮やかでなかったが、いつまでも落ちずに残っていた。だから、紅葉見物の観光客がにぎやかで、自転車で出かけるのを面倒にも感じた。撮るのに夢中で道のまん中に出て来たりするから、スピードを落として注意しなければならなかった。もっとも去年は12月になると零下になる日が続いて、自転車にもほとんど乗らなかったから、今年の方がずっと走っている。頑張っても少しも減量できなかったが、御飯の量を減らしたら、順調に体重が減り始めた。さて、この冬はあと何回走れるだろうか

forest154-3.jpg・もちろん、薪割りもせっせとやっている。ただし、暖冬で燃やす薪の量が少ないから、薪を積む場所ができない。もう一回原木を運んでもらうのだが、暖冬が続いて消費量が少なければ、少し減らしてもいいかもしれない。最低気温が5度以上だと、薪ストーブでは暑すぎて、寝苦しいほどになってしまう。この週末に初めて零下になったが、この調子で寒くなるのだろうか。切って割る量が少なくなるのは楽で結構だが、冬らしくないのは今ひとつおもしろくない。寒ければ寒いで文句を言い、暖ければ暖かいで物足りないと言う。勝手だなと、我ながら思う。

forest154-4.jpg・パートナーが積極的になったので、山歩きも始めた。10月の末に紅葉台に登ってから、毎週水曜日におにぎりを持って、富士山の大室山、都留アルプス、山中湖大平山、そして精進湖パノラマ台と歩いてきた。4km、5kmと頑張ってきて、コースタイムの倍かかっていたのが、1.5倍で歩けるようにもなった。さすがに足腰が痛くて音を上げるようになったが、暖冬のままだったら、これからも続けようと思っている。何しろ、しばらく行っていない海外旅行を早く再開したいと思っているから、体力的にも大丈夫だと、自信をつけてもらわなければならないのだ。

forest154-5.jpg・アメリカのポートランドに住む友人のKさんが、一人でごらんのような大きなリュックを担いでやってきた。2週間であちこち旅行をして、最後のところで我が家に1泊した。ぼくと同い年だが元気いっぱいで、手料理で歓迎してにぎやかに話した。パンプキン・プディングを久しぶりに作ったのだが、レシピ通りだとカボチャより卵の味が勝ってしまうので、量を三倍にして、裏ごしも念入りにした。御得意のかき揚げ天ぷらも、最近では蕎麦粉と白身で揚げている。粉の量が少なくなって、さくさく感があるから、小麦粉よりはずっとおいしい。彼女はそのどちらも「おいしい、おいしい」と言って食べてくれた。

・ 来年は海外旅行を再開して、まずはポートランドに行こう。そんな約束をしてお別れした。シアトルで大谷も見たいからいつにしようか。そんな楽しみが増えて、今から待ち遠しくなった。

2018年12月3日月曜日

『ボヘミアン・ラプソディー』

 

queen1.jpg・『華氏119』を見た時に『ボヘミアン・ラプソディー』の予告編をやった。なぜ、今「クイーン」かと思ったが、見たい気にもなった。で、勤労感謝の日に出かけると満席でびっくりしてしまった。何しろこれまで見た映画はどれも、数人の客しかいなかったからだ。祭日とは言え、わけが分からないと思ってネットで調べると、大ヒット中だという。30年も前に活躍したロック・バンドだが、若い人たちにも人気のようだ。なぜ、と思ったら、上映中に一緒に歌ったり足踏みや手拍子を叩く、新しい見方が魅力なのだと朝日新聞の天声人語に書いてあった。天声人語で話題にするぐらいだから、社会現象化しているのかもしれないと思った。

・出直して平日の昼に見たのだが、それでも客席の半分ほどが埋まっていて、ヒットしていることはよくわかった。ただし、客席は最初から最後まで静かなままだったから、一緒に歌ったり足踏みや手拍子をすることはできなかった。年配の人が多かったかもしれないし、やってもいいという許しがなかったせいかもしれない。ひさしぶりにクイーンの歌を聴き直し、YouTubeでもチェックしていたのだが、自分から率先してやる勇気はなかった。

・呼び物は、アフリカの飢餓救済に多くのミュージシャンが立ち上がった「ライブエイド」でのパフォーマンスの再現で、歌や楽器の弾き方はもちろん、コスチュームや舞台上での動きまでもそっくりそのままに演じていることだった。サッカーで有名なロンドンのウェンブリー・スタジアムを観客で一杯にしたのも同じだった。そこで「ボヘミアン・ラプソディー」や「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」、「レイディオ・ガガ」、あるいは「ウィー・ウィル・ロック・ユー」などをたっぷりやったから、観客が参加したのはこの場面だったのかもしれない。

・しかし、物語そのものはフレディ・マーキュリーを中心に、バンドの誕生から、彼がエイズで亡くなるまでを割とシリアスに追ったものだった。フレディはインド系イギリス人で、アフリカで生まれ、少年時代をインドの寄宿制の学校で過ごした後にイギリスに移住している。両親はゾロアスター教の信者だった。厳格な家庭で育ち、学校も技術専門学校やアート・スクールに通ったが、「クイーン」でデビューしてからは、奇抜なスタイルや奇行が目立ち、女性と結婚したが、自分がゲイであることに気づいて、悩み、苦悩することもあった。

・「クイーン」は結束の固い「ファミリー」のようなバンドだったが、それぞれに幸せな家庭を持つメンバーとの間には齟齬が生まれ、孤独を感じることもあった。そんな折にソロとして契約する話が持ちかけられ、バンドを抜ける宣言もして、メンバーとは絶縁状態になった。そして、自分がエイズに感染したことに気づくことになる。まさに波瀾万丈の人生で、移民と人種、エイズやLGBTなど、現在の大問題の多くを抱えながら突っ走った生き方への共鳴も、ヒットの要因なのかなと思った。

・ところでぼくは「クイーン」を好きだったわけではない。同時代にはイギリスでも「U2」やスティング、マーク・ノップラーなどのほうに魅力を感じていた。コスチュームやパフォーマンス、あるいはビデオ・クリップを重視したところに反発を持ったりもした。それを批判したマーク・ノップラーの「マネー・フォー・ナッシング」に共感したりもしていたからだ。ただし、10年ほど前にロンドンで、たまたまミュージカルの「ウィー・ウィル・ロック・ユー」を見て、いい歌があるなと思って、ベスト盤のCDを買ったりもした。ずい分遅くなってから好きになったバンドで、こんな例がたくさんあることを、あらためて実感した。

2018年11月26日月曜日

自動車を巡る騒動について

 

・ぼくはスバルに乗るようになって、もう30年近くになります。レガシー・ワゴンに一目惚れして以来、現在で6台目です。途中、パートナーと一台ずつの時期もありましたが、今は昨年の暮れに買ったアウトバックに乗っています。ちょうど購入時にスバルの検査不正というニュースがありました。それは改善されたはずでしたが、相変わらず不正が行われていたようで、新聞ではずい分大きく取りあげられてます。

・スバリスト(スバルファン)を自任する者としては当然、けしからんという氣持ちが強いですが、そもそも完成車を最後に検査する必要性の方に、より疑問を感じていました。何しろ検査を義務づけているのは国内販売だけで、輸出車には行われていないのです。ですから必要性の薄れてきた検査をいつまでも義務づけている国土交通省にこそ、批判の矛先を向けるべきなのですが、そんなことを指摘するメディアはほとんどありません。

・合わせていくつかのリコールも発表されましたから、今スバルは踏んだり蹴ったりの状態です。リコールはどこの会社からも出ていて、特にスバルに限ったことではないのですが、売り上げはずい分落ち込んでいるようです。マイナーな車だからこそ好きになったぼくとしては、運転途中で出会うことが少ないことを好ましく思っていますが、社運が傾いたのでは困ります。スバルはこれまでにもくり返し経営危機に陥って、そのたびに不安な気持ちにさせられてきました。

・自動車会社は日本の輸出を支える基幹産業です。その中の三菱自動車は経営危機によって一昨年に日産自動車傘下になりましたが、その日産も1999年の経営危機の際にフランスのルノー傘下に入っています。この3社は「ルノー・日産・三菱アライアンス」と名乗って、それぞれ独自の車種を作り続けていますが、その世界販売台数は1061万台で世界2位になっています。ちなみに1位はフォルクスワーゲン、3位はトヨタでした。

・世界第2位の巨大自動車メーカーである「ルノー・日産・三菱アライアンス」の代表取締役を務めるカルロスー・ゴーンが金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)容疑で東京地検特捜部に逮捕されました。役員報酬を50億円過小に記載した罪で、他にも会社の資金を私的に利用したことが上げられています。もちろんメディアは大騒ぎでしたが、ツイッターでは早くから、これほど大騒ぎするほどのことではないとか、日本の政治状況から目をそらすためのスピン(情報操作)ではないかといった発言や、森加計その他の政治家の問題には手をこまねいて何もしなかった東京地検に対する批判が多く見受けられました。

・一体なぜ今、ゴーンが逮捕されたのか。ルノーが日産・三菱の吸収合併に動いていて、日産がそれに抵抗する手段としてゴーン失脚を画策したのだといったことも言われています。実際、ゴーンは日産の取締役会によって会長と代表取締役を解任されました。ルノーはフランスの国営企業だった時代もあり、現在も政府が2割近い株を所有していますから、ことはフランスと日本の国同士の問題に発展しそうです。

・ゴーンが毎年20億円もの報酬を得ていたことに、今さらながら驚く人が多いようです。しかしグローバル企業のトップとしては当たり前の額のようです。日本のトップは一桁違う額のようですが、ぼくとしては、どれほど行政手腕が高かろうと、これほどの金額をもらう価値があるはずはないと考えます。それは各種スポーツのスター級の選手が手にする年俸にも言えることです。他方では暮らすこともできない低賃金で働く人が世界中で増えているという実情もあるわけですから、その不公平さや理不尽さにこそ目を向けるべきではないかと思いました。

・しかし、そもそもそんなに稼いでいったい何に使おうというのでしょうか。どんなに優れていても、金額を聞いたら金の亡者にしか思えなくなる。権力の亡者も含めて、そんな感覚を失いたくないものだと思います。どれほど仕事に対する責任や能力が違おうと、報酬が1000倍も1万倍も違うというのは、絶対に間違っています。安価な労働力を増やすために入管法を変えようとしていることと合わせて考えるべき問題でしょう。

2018年11月19日月曜日

米国の中間選挙について

 ・アメリカの中間選挙は四年ごとの大統領選の間に行われる。いつもさほどの関心もなく見過ごしてきたが、今度は違った。日本のメディアが事前から盛んに報道していたせいもあるが、トランプ批判の票が増えて欲しいという気持ちも強かった。何しろ彼の掲げる政策や、ツイッターでの発言に、世界中が混乱させられてきているからだ。ただし、報道機関の世論調査では、下院は民主党が増えて過半数を占めるが、上院は共和党が勝つだろうというものだった。

・アメリカの議会は上下両院に分かれていて、上院の定数は100議席で任期は6年、人口に関係なく各州二人ずつで、2年おきに三分の一ずつ改選をする。他方下院は定数435議席で、各州の人口比に応じて区割りが行われ、2年ごとに全員が改選される。人口の少ない7州では定数1で、カリフォルニア州は53と、地域差が大きいが、配分は10年に一度の国勢調査に基づいている。

・アメリカの議会について改めて調べてみて、日本との違いに気づかされた。まず、人口比からいって日本の議員の数が多すぎるという点だ。上院の100に比べて参議院は242だが、上院のように各都道府県を一律で2にすれば、定数は92になる。参議院無用論もあるが、少なくても数を減らして独自性を持たせるぐらいは必要だと思った。また下院については、選挙区の区割りが各州に任されているのも衆議院とは違っている。10年ごとに行われる区割りの調整について権限を持つのは州知事であって、下院ではない。自分のことは自分では決められないのだから、日本でも国会ではなく知事に任せたらいいと思った。

・前置きが長すぎたが、選挙の結果は事前の予測通り上院が共和党で下院が民主党の勝利だった。もっともすべての議席が未だに確定していないし、勝ったと言っても共和党は51議席で過半数をわずか1つ超えているに過ぎない。しかも今回の改選35議席のうち、共和党は9議席だけで、勝ったのも同じ9議席だったのである。確定していない3議席を除いて、共和党は9勝23敗で民主党に負けている、トランプが宣言した大勝利や、多くのメディアが言う勝利や善戦は、単に過半数を保った点に注目したに過ぎないのである。

・他方で下院は民主党の圧勝と言えるものである。ここでもまだ議席数は確定していないが、民主と共和はそれぞれ225対201で、民主党は議席を32増やしている。しかもその内訳は、女性が100名を超えたこと、イスラム教徒や先住民、そしてソマリア難民などが初めて含まれていることなど、きわめて多様な新しい顔ぶれになっている。マイケル・ムーアが『華氏119』で取りあげた候補者の多くが当選したことをみても、トランプ批判の票がずい分多かったことは間違いない。とりわけ目立つのは女性や若者の投票率が増えて、その多くが民主党に票を投じたことだろう。

・そこには、前回の大統領選の予備選挙で善戦したバーニー・サンダースの影響が強いと言われている。トランプがつぶそうとしているオバマ・ケア(医療保険)を維持し、さらに充実させようと訴えたし、トランプの移民政策にも強く反対し、また州立大学の授業料の無償化などを主張した。これでは共和党と民主党の対立が激化し、さらに民主党内でも分裂が起こるだろうなどと言われている。トランプがますます強硬になって、アメリカの政治がさらに混迷すると危惧する人も多い。しかし、大事なのは、トランプが突き進めようとする政策に待ったをかける勢力が増えたという点にこそある。そのための対立なら、むしろ歓迎すべきことだろうと思う。

・こんな感想を持ちながら、日本の現状に目を向けると、ほとんど同類の安部首相に対して、なぜもっと強い批判が起こらないのかという疑問である。森加計問題は税金の私的な流用だし、防衛費の増加はトランプの言いなりで買わされた兵器のためだし、消費税を上げるのは大企業への税金を減らしたり、金持ちに対する優遇税制のためである。こんな政策は将来に大きな影響をもたらすから、若い人ほど関心をもって反対すべきなのに、知らん顔を決め込んでいる。日本とは何の関係もないハロウィンで浮かれている場合ではないはずである。

2018年11月12日月曜日

最後のジョーン・バエズ

 

"Whistle Down The Wind"
"75TH BIRTHDAY CELEBRATION"

baez2.jpg・ジョーン・バエズが引退するというニュースを見つけた。おそらく最後になるアルバムを出して、今ツアー中だという。アルバムのタイトルは"Whistle down the wind"で、トム・ウェイツの持ち歌だ。ずっと暮らしてきた土地から出ようと思う気持ちと、離れることへの恐れを歌ったもので、今の彼女の心境をあらわしているのかと思った。

・このアルバムに収められている歌に彼女の自作はない。そう、バエズはシンガー・ソング・ライターではなく、彼女の心に触れた歌を世に広める役割をしてきた人だった。その典型はボブ・ディランの歌だろう。実際、もっとも有名とされる「風に吹かれて」も「時代は変わる」も、ディランではなくバエズの歌の方がずっとポピュラーだった。もちろん、「ドナドナ」のような埋もれてしまっていた伝承歌に光も当ててきて、多くのヒット曲を創り出してきた。そんなふうにして、半世紀以上もの間、ずっと歌い続けてきて、引退をするのだという。77歳になって、望むような声が出なくなったことが理由のようだ。

・アルバムを聴いていると、確かに、声がかすれている。しかし、以前のような澄んだ高音よりは魅力的に聞こえた。ぼくは彼女のアルバムは一枚ももっていなかった。それは彼女の歌のほとんどが誰かのカバーだということと、誰の歌であっても、綺麗な歌に変えてしまうことに反感すら感じてしまっていたからだった。

baez1.jpg・アマゾンには他に2年前に出た75歳の誕生日に行われたコンサートのライブ盤があって、多くのゲストが出ているから一緒に購入した。ジャクソン・ブラウン、エミルー・ハリス、ポール・サイモン、ジュディ・コリンズの他にダミアン・ライスなどの若いミュージシャンも登場している。客席にはハリー・ベラフォンテなどもいたようだ。ここでも彼女の歌うのは参加した人の歌はもちろん、ディランなどのカバーや伝承歌だった。自分に歌が作れないことに悩み、嫉妬したこともあったのだろうが、彼女は他の人にはできない大事な役割をはたしてきた。一緒についているDVDを見ながら、そんなことを思った。

・ジョーン・バエズはヴェトナム戦争や黒人差別に反対して歌い、行動もしてきた。その姿勢はずっと一貫していて、最近でも「LGBT」や「#me too」、あるいは貧富の格差の広がりなどについて発言している。ピート・シーガーに憧れて歌い始めたのだが、その歩いた道程もまた、シーガーに重なるものだった。オバマが大統領に就任した時、シーガーはワシントンに集まった人たちの前で歌ったが、その時彼は89歳だった。彼女は現在、最後のコンサート・ツアーをやっていて、その姿はYouTubeで見ても元気のようだ。おそらくこれからも、機会があれば出てきて歌うことがあるのではないかと思う。

・75歳の誕生日ということで検索したらジョニ・ミッチェルの誕生日を祝うコンサートがロサンジェルスで今月の6日と7日に開かれたというニュースを見つけた。モルジェロンズ病という難病を患っている。最近は公の場にも登場しているようで、このコンサートにも顔を出したのかもしれない。ここでもクリス・クリスファーソン、ジェームズ・テイラー、エミルー・ハリス、そしてノラ・ジョーンズなどが出ている。ミュージシャンの繋がりの強さを感じたが、そこにはまた、昔懐かしさではなく、政治や社会に抗議して立ち向かう姿勢も健在だ。その姿勢やスタイルがまた、トランプを批判する若い人たちに受け継がれている。フォークソングが持つ大事な一面だと、改めて思った。

2018年11月5日月曜日

マイケル・ムーア『華氏119』

 

fahrenheit119.jpg・マイケル・ムーアの『華氏119』はトランプ批判をメッセージにしたドキュメンタリーである。題名は『華氏911』に似ているが、続編というわけではない。しかし、前作がJ.W.ブッシュの大統領再選を阻止することを狙いに作られたものだから、トランプを糾弾し、上下両院選挙にぶつけた今回の内容は、続編といってもいいものになっている。いつもながら彼の作る映画は攻撃的で、音のすさまじさもあって、見ていて圧倒されるほどだった。

・アメリカ国民はなぜ、トランプのような人間を大統領に選んでしまったのか。大統領選ではそんな疑問を感じたし、就任後に彼が実行した政策や、常軌を逸した言動には、驚きや怒り、そして不安を抱かされ続けてきた。この映画には、そんな疑問に応えるヒントがあり、怒りや不安を増幅させるような恐ろしさがあり、また、それを食い止める可能性が盛り込まれていた。

・そもそもトランプはなぜ、大統領選に立候補したのか。それはなかば冗談の遊びだったかもしれないのに、予想以上に反響があり、集まった支持者の数に驚き、いい気持ちになって本気になってしまった。しかも言いたい放題に既存の価値観を批判すれば、支持者はますます増えてくる。他の多くの候補者は、きれい事を並べても、裏では利権と結びついているから、トランプの攻撃には耐えられない。そんな感じで共和党の候補にのし上がった。意外というのは大統領選でも例外ではなく、開票序盤でも、クリントン陣営は楽勝ムードだった。

・きれい事を並べても、実態は利権や既得権と繋がっている。それは民主党の候補になったクリントンも一緒だし、オバマ大統領も例外ではなかった。かつては自動車産業の町として栄えたフリントが、水道水に含まれた鉛の害に見舞われた。経費削減のために水源を汚染のひどいフリント川に変えたためだった。住民は大統領に訴えたが、オバマはその水を飲むふりをして安全宣言をした。フリント出身のムーアがオバマに向ける批判は強烈だ。

・表と裏が違うのは政治家に限らない。クリントンは選挙期間中にメールや政治資金を問題にして批判されたが、その批判の先頭に立った著名なジャーナリストの多くが、「ミーツー」以降に性差別やセクハラで訴えられている。これではタテマエとしての「正しさ」はホンネにかなわないというものだ。もっとも、権力や金とは縁遠かったサンダースが格差の拡大や差別の蔓延を批判して、クリントンに拮抗する支持を集めもした。ひょっとすると大統領選はトランプとサンダースという両極端の候補者で争われたかもしれなかったが、民主党大会では票数では劣るクリントンを支持する州が続出するといった不正が行われた。

・こんなひどい話を次々と見せられると憂鬱になるばかりだが、アメリカには何とか状況を変えようと立ち上がる人たちが数多くいる。既存の政治家に代わって上下両院や地方議会の選挙に立候補して、その人達を支援する動きも強まっている。ムーアが何より注目して期待を寄せるのは、学校内での銃乱射による無差別殺人事件に遭い、銃社会のおぞましさを糾弾した高校生達の存在だ。彼や彼女たちが主宰したワシントンでの銃規制要求デモには数十万人が集まって、その多くは未成年の高校生達だった。

・この映画ではトランプはヒトラーに重ねられている。彼が強調するのは、独裁者を生むのは人びとが諦めた時だという点だ。だからこそ政治の素人や女性が多く民主党から立候補した今回の選挙に期待をする。あるいは銃規制を要求する高校生に未来を託している。それは確かに希望の持てる光明だが、残念ながら日本にはそんな兆しも見られない。

2018年10月29日月曜日

見田宗介『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書)

 

mita.jpg・見田宗介はぼくにとって、学生時代から重要な人だった。真木悠介という名前で書いたものも含めて、ほとんどのものを読んできた。当然、ぼくがこれまでに考えたことや書いたものの中に、大きく影響したと思う。ところが、すでに80歳を超えているのに、『現代社会はどこに向かうか』というタイトルの新刊本が出た。退職と同時に研究者も「やめた!」と宣言したぼくとは違って、彼は生涯研究者であり続けている。まったく頭が下がる思いでこの本を読んだ。

・現代社会は一体、どこに向かおうとしているのか。最近の世界や日本の情勢からして、ぼくには悲観的なイメージしか浮かばない。しかし本書は違っている。この本によれば、現代は古代ギリシャから始まった巨大な曲がり角に変わる、第二の曲がり角にさしかかった時代である。第一の曲がり角以降二千数百年に渡って展開されてきたのは「貨幣経済」と「都市の原理」である。

貨幣経済と都市の原理と、合理化され普遍化された精神の力をもって、人間は地の果てまでも自然を征服し、増殖と繁栄の限りを尽くしこの惑星の環境容量と資源容量の限界にまで到達する。人間はどこかで方向を転換しなければ、環境という側面からも資源という側面からも、破滅が待っているだけである。(pp.ii-iii)

・社会学では「近代」を挟んで、それ以前を「前近代」、現代社会を「脱近代」として捉えるのが一般的だった。それが本書でははるかに長いレンジで捉えられている。それだけ、人類にとって現代が、大きな変化に遭遇した時代だという認識なのだと思う。その二千数百年ぶりに訪れた曲がり角の違いは、一言で言えば、世界の「無限」から「有限」への変化である。

・「世界」が有限であることがわかった人類は、未来をどう描いて実践していくべきなのだろうか。高度に産業化した社会はもうこれ以上の成長が望めないし、また望む必要もなくなっている。すでに高原に辿り着いた人間は、それを停滞として捉えるのではなく、競争ではなく交響、自然の開発ではなく交感を軸にした新しい社会を創造しなければならない。なるほど、そうだなと思った。有限な資源を使い尽くす前に、循環・再生型に変換しなければならないことは自明の理だし、環境問題についても、温暖化を食い止めることは喫緊の課題になっている。しかし政府は相変わらず経済成長の必要性を主張するし、利益や富を巡る争いはグローバルな規模で熾烈だ。

・競争ではなく交響、自然の開発ではなく交感。この可能性を著者は日本とヨーロッパ、そしてアメリカの青年達に特徴的な意識変化の中に見ている。さまざまな統計資料をもとにしながら注目するのは、「幸福度の増進」と「脱物質主義」、「寛容と他者の尊重」、そして「共存としての仕事」である。確かにこのような傾向は、最近の若者に見られるものである。しかしそれが、世界の政治や経済を動かす大きな力になるには、一体どれほどの時間がかかるのかと思うし、大きなうねりを起こす主役になるはずの若者はどこもおとなしい。

・他方で、グローバリズムの反動や、ヨーロッパやアメリカに押し寄せる移民などに対する内向きの動きなどが、国家主義的思想を強め、独裁的な指導者を支持する傾向にある。LGBTや障害者について改善されてきた人権意識にも、それを逆方向に戻そうとする動きもある。社会が大きく分断されて、互いの諍いが激しさを増してもいる。トランプ、習、プーチン、エルドアン、そして安部といったリーダーは、このような傾向を煽るだけである。

・もっとも「第二の曲がり角」は始まったばかりである。おそらくその流れが見えてくるのに数十年、数百年かかるのだろうし、実現するのは千年先かも知れない。その前に人類が絶滅してしまうことにリアリティを感じてしまうが、あるべき姿はこうだという「理想」は、捨ててはいけないと思う。