2024年3月4日月曜日

深澤遊『枯木ワンダーランド』築地書館

 

kareki1.jpg 原木を買って薪にしたり、倒木を探すことが多いから、『枯木ワンダーランド』という題名は気になった。確かに、木にはいろいろな生き物が寄生している。苔や地衣類がついているし、キノコや粘菌などもある。それに雨ざらしにしておくと、さまざまな色のカビも生えてくる。それぞれの名前などほとんどわからないから、それを教えてくれるかもしれない。そんな程度のつもりで読み始めたのだが、とんでもない世界に誘い込まれることになった。

『枯木ワンダーランド』は専門家しか読まない論文ではない。あくまで一般書として書かれたものだが、全体の3割ぐらいしかわからない難物だった。けれども、途中でやめる気はなく、何とか最後まで読んだ。それはわからないなりに、一本の枯木とその周辺の世界の複雑さや多様さ、あるいはダイナミズムを教えてくれたからだ。

『枯木ワンダーランド』に登場するのはコケ、粘菌(変形菌)、キノコ、腐生ランであり、リスなどの動物と昆虫、そしてバクテリアなどである。一本の枯れ木は腐って、やがて土に帰るのだが、そこにはシロアリやナメクジがいて、キノコやコケや地衣類が生えている。ここまでは目でも見える。しかしコケには窒素固定バクテリアが共生していて、その腐朽菌には枯木を白色にするものと褐色にする2種類があるといった話になると、かなりわかりにくくなる。しかも、変形菌の種類がこの白と褐色の腐朽菌によって色分けされるというのである。ここまでくると、もう想像の世界になって、目の前にある枯れ木や倒木を見てもわからなくなる。

植物も生き物であるから、自然環境から受ける試練を乗り越えて生き延びる必要がある。そのためには経験を蓄積しておく記憶装置がいるし、仲間とコミュニケーションをする必要もある。しかし、動物のような脳や神経組織があるわけではない。たとえばキノコは外に見える姿はかりそめで、実際には地中にある菌糸が本体だと書いてあった。さらにその菌糸体はネットワークのように広がって、数ヘクタールにもなるというのである。まるで巨大な神経組織や脳そのもののようなのである。キノコには食べられるものと毒のあるものがあって、その見分けが難しい。そんな程度の知識しかなかったぼくにとっては、まさにワンダーランドを覗くような思いになった。

この本にはこんな話が次々出てくるが、後半は地球環境へと視点が向いていく。雑木の生えた森と違って人工林は杉や檜などで覆われている。それは切り出されてしまうから、倒木はあまり残らない。だからコケも粘菌も生きにくい世界になっている。そして病気や虫の害によって枯れれば、森全体がなくなってしまうことになる。あるいは山火事や台風などもあって、世界から森がなくなる危険がますます増してきているのである。

ではどうしたらいいか。この点でも、目から鱗の話が多かった。人工林を間伐した木が放置されていると、森の手入れができていないと思うが、著者は枯木や倒木を残した方がいいという。それが炭素の貯蔵庫になるからだというのである。もちろん、それに寄生する生き物の住みかを奪わないことにもなる。そうすると、倒木を集めて薪にしているぼくの行動は、森にとってはいけないことだということになる。それはバイオマスにも、よく手入れされた里山にも言えることのようだ。見栄えのいい森にしたり、木を有効活用することと、森に炭素を蓄積させることは、実際には両立しにくいことだからである。温暖化を食い止めるためには、枯れ木が作るワンダーランドこそ大事にしなければならない。それがよくわかった一冊だった。

2024年2月26日月曜日

TVにもの申す市民ネットワークを

 

テレビがひどいことについては、このコラムでも何年も前からくり返してきた。しかしますますひどくなるばかりで、もう取りあげる気にもならないのが現状だ。しかも、ジャニーズや吉本関連など、TV自体がスキャンダルに深く関わっているのに、そのことについて、まともに発言すらしないのである。ぼくはそんなテレビに絶望しているが、何とか生き返らせようとして立ち上がった人たちがいる。

「テレビ輝け!市民ネットワーク」は田中優子、前川喜平などが中心になって始めた運動である。その趣旨は、1)報道機関としてのテレビに本来の役割を果たさせることで、具体的には、2)株主提案権の行使という取り組みにあって、テレビ朝日の株を3万株(約6000万円)購入して、株主総会で株主提案を行うのである。テレビ朝日をターゲットにしたのは「報道ステーション」におけるコメンテーターやスタッフの降板を、テレビ報道の危機の典型としているからである。

テレビに対する権力の圧力は安倍政権から強くなった。批判的なキャスターやコメンテーターが降ろされ、提灯持ち的な人が大きな顔をするようになって久しい。それはもちろん、テレビ朝日に限らないし、民放よりは NHKの方がもっとひどいと言えるだろう。だから今度の動きは、テレビ朝日をとっかかりにして、他の民放、そしてNHKに広げていくという流れを狙う、その第一歩なのである。

その共同記者会見で前川氏は「経営側は番組の制作や報道の自由に余計なことをするな、外部の権力に忖度や迎合をするなと。権力には政治権力もあるが、民間もある。ジャニーズ事務所や吉本興業は民間の権力。そういうのに忖度するのもいかん。放送事業者の独立性を担保する」と発言した。この会は前川喜平を社外取締役として推薦することも予定しているが、テレビ朝日がこの動きにどう対応するかは見ものだろう。その株主総会は6月に開催される。

もちろん、これだけでは動きは単発に終わってしまう。おそらくテレビ各局は、これをニュースとして報道することをいやがるだろう。テレビ局と新聞社は「クロスオーナーシップ」(相互依存)で繋がっているから、当たり障りのない取り上げ方しかしないに違いない。だから、つづけて他の民放でも同じような動きをしていく必要がある。果たして賛同者が増えて、大きな運動になるのだろうか。

1年ほど前に会長の任期満了を控えたNHKに前川喜平を会長にという動きがあった。 NHKの会長は公選ではなく経営委員会が任命するから、現実的には不可能なことだったが、ある程度の話題にはなった。今回の市民ネットワークの動きはこれにつづくものだったのだろう。その意味では一時的なものではなく、これからも持続する動きを狙っているはずである。テレビが輝きを取り戻すことなど期待しないが、せめて膿を出すぐらいの力にはなって欲しいと思う。

2024年2月19日月曜日

小澤征爾逝く

 

ozawa1.jpg"小澤征爾が亡くなった。ぼくはクラシック音楽をほとんど聴かないし、彼のレコードやCDも持っていない。けれども彼に対する関心はあって、ずい分やせ衰えた最近の姿は気になっていた。
小澤征爾は斎藤秀雄に師事し、24歳の時にヨーロッパに武者修行に出かけている。その指揮者としての才能がすぐに認められ、いくつもの賞を取り、カラヤンやミンシュ、そしてバーンスタインといった巨匠に師事することになる。その勢いでNHK交響楽団の指揮者に招かれるのだが、その指揮者としての立ち居振る舞いを楽団員から批判され、演奏をボイコットされることになる。以後彼は、日本を去って音楽活動を海外に求めることになるのである。

ぼくはこの出来事について、音楽に限らずスポーツなどで海外に出向き、成功した人がしばしば経験する、やっかみや拒絶反応を最初に味わった人だと思っていた。それは帰国子女に対する扱いにも共通する、未だに改まらない日本人の島国根性なのだろう。それでつぶされる人もいるが、中には世界的に認められた超一流の存在になる人もいる。そうなると、最近の大谷翔平選手のように、今度は一転して、まるで英雄か神様のように扱うのもまた、相変わらずの現象である。

小澤征爾は1973年から30年近くをボストン交響楽団の音楽監督として活動した。しかし国内においても、1984年から師を偲んで「斎藤秀雄メモリアルコンサート」を国内で開き、「斎藤記念オーケストラ」を結成して、松本市などでのコンサートを定期的に行ってきた。YouTubeを検索すると、さまざまな場での活躍を見ることができるが、おもしろいのは、コンサートそのものではなく、そのリハーサル場面を収録したものである。彼は事細かに楽団員に指示し、そのたびに理由を明確に伝え、時には楽団員の意見を聞きながら、一つの作品を仕上げていく。そのやり方は、一流の演奏家に対しても、小学生に対しても変わらないのである。

クラシック音楽に疎いぼくには、指揮者は単に飾り物にしか見えなかった。小澤征爾の指揮者としてのパフォーマンスは独特で見栄えがいい。そこにカリスマ性を見る人もいて、彼の評価は何よりそこにあるのだろうと思っていた。しかし彼のリハーサル風景を見て、指揮者は脚本をもとに舞台を作り上げる演出家であり、なおかつコンサートの場で聴衆の視線を一点に集中させる主役的な存在であることを改めて認識させられた。

小澤征爾が20世紀後半から21世紀にかけて、世界を股にかけて痛快に生きた人であることは間違いない。とは言え、申し訳ないが、彼の死をきっかけにして、彼が指揮した作品を改めて聴いてみようかという気にはなっていない。彼の指揮した音楽が、他とは違っていることが、やっぱりぼくにはよくわからないからである。クラシック音楽音痴としては、彼の魅力はやっぱり、その生き様と立ち居振る舞いにある。

2024年2月12日月曜日

原木入手と倒木騒ぎ

 

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朝ストーブの掃除をしようと思ったら、ガラスにひびが入っている。ストーブ屋さんはあいにく正月休みでしばらく直せない。で一週間ほど、おそるおそる使って、交換してもらった。ねじが固着してガラスを外すことができなかったので、扉ごと持って出かけた。取れないヤニでくすんでいたから、きれいになったガラス越しに見る炎の美しさに見とれてしまった。やっぱりストーブはいいと思ったが、何より心配なのは薪集めだった。


forest198-3.jpg ところが知人が突然やってきて、薪にする木があるがいらないかと言う。久しぶりに会う人だったし、耳を疑うような話だったが、本当なら願ったり叶ったりで、即座に要りますと返事をした。そうするとトラックで何度も運んでくれて、ご覧のような量になった。
さっそくチェーンソーで玉切りにして積んだが、なまっていた腕が筋肉痛になった。すべて玉切りするのに数日かかり、それを斧で割って、上のように積み上げるのにさらに一週間以上。まだ終わっていないが、半月ほどで何とか片づけることができた。背後に見えるのは、倒木を割った薪だ。これで再来年ぐらいまで何とかなるだろう。ちょうど誕生日のプレゼントのようで感謝、感謝!!。ぼくのホームページを見てくれていて、薪不足を気にかけてくれたようだった。

forest198-4.jpg しかし、いいことばかりではない。強風が吹いた夜に隣地の赤松が折れて、我が家の桜の木に引っかかって宙ぶらりんになった。さっそく持ち主に連絡しようと地元の不動産屋さんに電話をして調べてもらった。そうすると所有者は東京の不動産屋だと言う。電話をして状況を説明すると、すぐにこの地区の管理をする会社から電話があった。しかし、この管理会社は下水道だけの扱いで対応できないというので、また不動産屋に電話をした。受け答えに何かいい加減な感じがしたが、どう対応するか、しばらく待つことにした。

forest198-5.jpg けれども一週間経っても何の動きもない。そこで怒鳴るように電話をして、やっと伐採業者に頼むということになった。悪徳とは言わないが、要領を得ないし不誠実きわまりなくて、不快な思いをした。
こんな調子で仕事をしている会社はまったく信用できないと、つくづく感じた。
伐採には3人がやってきて、およそ2時間ほどかけて片づけてくれた。枝が絡まっていたから、専門業者でも手こずっていた。やれやれ、ご苦労さんでした。


forest198-6.jpg そんな1月が過ぎて2月になると、この冬初めて、本格的な雪が降った。倒木騒ぎも片付き、薪割りもほぼ終わったところだったから、助かった。さらに、3月までかかると言われていた車の修理が、数日中に終わるという連絡も入った。何か宿題が終わった後のような、ほっとした気分で久しぶりの雪かきをやり、雪だるまを作った。
車も戻ったことだし、どこか遠出をしようかな。

2024年2月5日月曜日

国政を改革する法律は国会議員には作れない

 

自民党の安倍派を中心にしたパーティ収入のキックバックの問題は、大山鳴動ネズミ一匹で、収束してしまった。数名の議員と会計責任者の逮捕でしかなかったのだが、自民党は刷新改革と称して、派閥の解消でやり過ごそうとしている。しかし問題は自民党の改革ではなく、議員の不正行為については議員自身に罪を負わせる連座制を法律に定めることにある。もっともパーティで得た収入を裏金にしたのは脱税だから、やる気になれば検察は有力議員の逮捕に踏み込めたはずだが、それをしなかったのは、政権に忖度をしたといわれても仕方がないだろう。

日本の国政は衆議院と参議院の二院政で、定数はそれぞれ480人と242人である。この数は決して多くはない。と言うよりはOECDの中ではアメリカに次いで少なく、100万人あたり3.7人である。ちなみに韓国は6.2人、イギリス、イタリアは10.4人で、北欧諸国は30人台で、一番多いのはアイスランドの210人である。しかし、私利私欲に走る国会議員ばかりが目立つから、議員が多すぎると感じてしまう。

国会は立法機関で、さまざまな法律を決めることを主な仕事にしている。しかし、安倍政権以降、行政機関である内閣が「閣議決定」を連発して国会軽視の姿勢を取りつづけている。実際安倍首相は「私は立法府の長」と言い放ったのである。衆議院も参議院も自公の安定多数だから、国会の採決に任せたって政権の意向通りになるのだが、国会での議論もすっ飛ばしてしまえという傲慢な姿勢が、10年以上もつづいているのである。これでは国会議員は無用の長物になってしまっている。

ろくに仕事をしていないのに、歳費は高く、活動費などももらい、議員一人あたりの収入は4000万円を超えるようだ。もちろん、新幹線のグリーンや飛行機もただである。この額はシンガポール、ナイジェリアに次いで世界第3位で、アメリカの2倍、イギリスの3倍である。このお金にはもちろん、税金が使われているが、政党にはそのほかに「政党助成金」が交付されていて、総額は300億円を越えている。他方で、国民の平均収入はバブル崩壊以降停滞しつづけていて、OECD34カ国の中で20位以下に落ちているから、議員の収入の多さが一層際立つのである。

にもかかわらず、自民党の議員はパーティと称して企業献金を集め、それを明記せずに隠し金を蓄えてきた。さまざまな面で、日本が今難しい状況におかれていて、それを解決するために働かなければいけないのに、やっているのは「今だけ金だけ自分だけ」なのである。今肝心なのは、議員の収入を国民の年収に合わせて下げることと、政治資金規正法を厳格にすることだろう。それを国会で決めるのは、泥棒が泥棒を取り締まる法律を作ることになるわけだから、第三者機関を作って決めて、ざる法にならないよう監視する以外にないだろう。それを認めさせるのは世論の高まりだが、メディアの論調は頼りない。

2024年1月29日月曜日

災害対応のお粗末さに想うこと

 

能登の地震から一ヶ月近くが過ぎました。真冬の季節の中、未だに一万人以上の人たちが体育館などの避難所で過ごしているようです。生活していた土地を離れて金沢などに二次避難する人が増えているようですが、土地や近隣の人たちから離れることを拒否する人も多いようです。高齢者ばかりの小さな集落が多いという特徴が、今後の復興にも大きな影響を持つかもしれません。誰もいなくなった集落が廃墟になっていく。それが現実にならないよう願うばかりです。

能登半島には一昨年の10月に出かけました。主に海岸沿いの道を先端の狼煙灯台まで行きましたが、黒い屋根瓦の家が点在する風景が印象的でした、ところが地震によって倒壊した家のほとんどがまた黒瓦の家だったようです。いかにも重そうな感じがしましたし、地震に備えた補強もしていなかった家がほとんどだったようです。能登の地震はすでに何年も前から群発していて、大きな地震も数回ありました。その時に倒壊した家もあったわけですから、なぜ、その後に対応しなかったのかと、行政の怠慢を非難したくなりました。実際大きな地震が起きる危険性があることは、以前から指摘されていたことなのです。

新幹線が金沢まで延伸されて、金沢をはじめ能登も観光客で賑わっていました。風光明媚で温泉もあり、食材も豊かな土地ですから、観光客の増加を目指す気持ちはわかります。しかし今回の被害の大きさやその特徴を見ると、しっかり対応しておけば、もっと小さなものにできたのではと思いました。経済重視の政治の無策がまた露呈したわけですが、復興に全力投入するために万博は中止という声は、少なくとも政治家からは聞こえてきません。停止中だったために大きな被害をかろうじて免れた原発についても、相変わらず見直す動きは起こらないようです。自分の懐を肥やす以外に能のない政治家をのさばらしておいた結果というほかはないでしょう。

東日本大震災以来、熊本や能登と大きな地震に見舞われてきました。これからも大きな地震の危険があると言われている地域はいくつもあります。それに対して対策をという声は聞こえてきますが、今回の対応を見ていると、何度被災しても何も変わらないことが多すぎるという印象を持ちました。一番は被災者が体育館で雑魚寝をしているという相変わらずの風景でした。体育館などに敷き詰めるように作られた段ボール製の仮設小屋やベッドなどがあるようですが、なぜ備えておかないのでしょうか。各自治体が全国的に備えておけば、被災地にすぐに提供できるはずですから、避難所の風景はずい分違ったものになるはずです。

大きな地震には停電と断水がつきものです。暖房ができない、トイレが使えない、そしてもちろん風呂にも入れない。そうならないために何を用意しておいたらいいのか。地震大国の日本ですから、このような備えについてのノウハウがもうとっくに出来上がっていていいはずです。必要なものを全国的な規模で分散的に備蓄しておいて、災害が起きたらそれをどういう手段で被災地に運ぶかを考えておく。そんな備えがなぜできないのでしょうか。用もない兵器を爆買いしたり、隣国を敵視して有事を煽る前に、やらなければいけないことが山積みのはずなのです。


2024年1月22日月曜日

中村文則『列』(講談社)

 
中村文則については、毎日新聞に月一で連載している「書斎のつぶやき」という名のコラムで知っていた。時事的な問題について分かりやすい文章で、彼の発言には共感できることが多かった。小説家で、芥川賞を取っているし、新潮新人賞や野間文芸新人賞、大江健三郎賞の他に、英語に翻訳されて、アメリカでも賞を取っている。読んで見たいと思って、さて何を選ぼうか迷っていたら『列』という新作が発表されて、話題にもなっているという記事を目にした。「列」とはタイトルだけでも面白そうだ。そう思ってアマゾンで手に入れた。

retu1.jpg 列に並んでいる主人公には、それが何のための列なのかわからない。それでもそこから外れるわけにはいかないと思っている。その列はほとんど前に進まないから、いらいらしたり、不満を漏らしたりする人もいる。身体を左右に揺らす動きを、気になると後ろから注意されてムッとするが、そこからやり取りが始まったり、前にいる女性と親しくなったりもする。まったく進まないと諦めて列を離れる人がいて一歩進むと、それが無上の喜びのように感じられたりもするのである。

主人公はニホンザルの生態を研究していて、大学では非常勤講師の肩書きである。いつかはあっと驚くような論文を書きたいと思っているのだが、観察している猿からそんなヒントを得ることはほとんどない。だからいつまで経っても、大学のポストを得られないでいる。で彼の助手のようにして一緒に調査をしていた大学院生の若者が、自分も応募していたポストを得たり、以前につきあっていた彼女といい仲になっていたりということになる。

読んでいくうちに「列」とは「序列」のことなのだと気づくようになる。実際私たちは、物心ついた時から「序列」を意識させられるようになる。勉強や運動の能力はもちろん、親の収入や社会的地位などが’、自分を評価する尺度になっている。そしてその意識を外れて生きることはなかなか難しい。何しろ人間が「序列」の中で生きる生き物であることは、社会学でも基本的な特徴だとされているのである。

僕が若い頃に流行ったことばに「ドロップ・アウト」がある。「列」を意識して立身出世のために努力することなどばからしい。僕が社会学に興味を持った理由には、そんな「列」に囚われる人間の特徴に対する疑問もあった。けれども、僕もやっぱり、この分野で生きていくには評価される論文を書いて、どこかの大学のポストにつかなければ、という競走の「列」に巻き込まれることになった。しかも、長い間非常勤がつづいたから、主人公の気持ちは痛いほどわかった。


主人公は結局最後まで列に並んでいた。先が見えず、最後尾も見えない列に、地面に「楽しくあれ」と書いて並んでいる。何とも切ない気になるが、これが確かに現実なのだとも思った。そんなにがんばらなくたって楽しく生きる仕方はないものか。豊かな社会になったはずなのに、ますます、「列」に囚われるようになった社会はやっぱりおかしい。退職して少しだけ「列」から自由になって、つくづく感じることである。