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2020年5月25日月曜日

●音楽の聴き方、楽しみ方

 

・コロナ禍で音楽を生で聴く場が閉ざされている。感染を防ぐためには、社会距離と呼ばれるおよそ2mの距離をとりあうことが必要とされるから、ライブハウスはもちろん、コンサート・ホールや野外もダメということになっている。確かに、ライブハウスの多くは狭い空間で、そこに大勢の人が集まり、ステージのパフォーマンスに応えて歌ったり踊ったり、掛け声をかけたりすれば、感染のクラスターになりやすいだろう。実際、ライブハウスは流行のごく初期に感染しやすい場所として注目され、3密の好例として槍玉に上げられた。

・そんな場に自粛を要請し、休業を強いるのであれば補償をするのが当たり前だ。しかし政府の対応は無視に近いし、わずかな補償も遅々として進まないほどお粗末である。EU諸国の対応に比べて、文化の大切さに対する認識不足が、露呈されてしまっている。このままでは、つぶれたり、閉じたりするところもあるだろう。また、主な活動の場としている人たちにとっても、表現の場が制限され、収入が途絶えてしまっているのだろうと思う。

・いったいいつになったら、音楽をライブで聴くこと、楽しむことができるのだろうか。感染が一旦終息しても、2次、3次と流行することは避けられないから、免疫や抗体を作るワクチンが一般に提供されるようになるまで、ということになるのかもしれない。しかし、そうなったとしても、今までと同じようなスタイルで復活するのだろうか、できるのだろうかという疑問は残る。インフルエンザと同じように、冬の流行時には多くの人が感染し、死者も出ることは避けられないはずだからだ。たとえばインフルエンザは毎年日本人の1割が感染し、数千人が亡くなっている。今まで通りの再開には、新コロナによる感染をあわせて、流行を常態として受け入れることが必要になる。何しろ、日本では毎年、9万人を超える人が肺炎で亡くなっているという報告もあるのだから。

・ライブハウスはビルの地下室のように密室状態のところが多いようだ。しかもオール・スタンディングにして、ぎっしり詰め込んだりもする。決して居心地の良いところではないが、好きなミュージシャンのライブを楽しみに集まった人たちには、知らない者同士でも仲間意識は生まれやすい。だからこそ、盛り上がったりもするのである。それは野外で行われる大規模なフェスでも変わらないが、密閉状態ではないし、夏場だから、感染の危険性は少ないかもしれない。

・僕は既に退職したから、大学で今行われている遠隔授業をしなくて済んでいる。大変な作業に追われているようで、辞めた後でよかったと思う。しかしゼミなどでは、学生が積極的になったといった経験を話す人もいる。大学のゼミ室や教員の研究室では、学生たちは圧倒的にアウェイであると感じている。だから緊張し、牽制しあい、遠慮しあって発言を控えるようになる。ところが家での参加になれば、ホームで一人だから、自然に積極的になれるというわけである。

・それを聞いて、だったらすべての授業を大学内でやることはないし、教員同士の会議だって家から参加にしたっていいのではと思った。それはまた、テレワークで仕事がはかどるのなら、毎日会社に出勤する必要がなくなることにも繋がる。それでは人間関係が疎遠になってしまうと危惧する人がいるかもしれない。しかし、人間関係やコミュニケーションの仕方は通信機器や交通の発達で、この1世紀で激しく変わってきてもいるのである。もちろん、仕事の種類だってそうだ。

・音楽はそういうわけには行かないと言う人もいるだろう。しかし音楽を聴く仕方も、通信や交通同様に劇的に変わってきてもいる。記録して聴くレコードやCD、ウォークマン、そしてスマホはもちろんだが、ライブだって、ミュージックホールやパブ、あるいはコンサートホールが’できてからまだ200年と経っていないし、野外のフェスはまだ半世紀といったところなのである。ライブがいいと思うなら、それなりの方策を生み出さなければならないし、欲求が強ければ必ず、新しいスタイルが生まれてくるはずである。

・だから、今のコロナ禍を転機として、さまざまなことが大きく変わっていくのではないかといったことを夢想したくなる。もちろんそれは音楽にはかぎらないし、演劇やスポーツなどの文化全般、そして仕事の仕方や学校のあり方、あるいは近隣の人たちとの関係にも及ぶのではと思っている。できればそれが、環境問題や気候変動に本気になって向かう方向に舵が切れれば、もっといいのにと思う。そもそも、ウィルス禍が頻発するようになったのは、開発による自然環境の破壊が原因だと言われていて、そこを改善しなければ、これからも新種が瞬く間に世界中に蔓延することを繰り返す恐れがあるからである。

2019年6月2日日曜日

井上俊『文化社会学界隈』 (世界思想社)

 

inoue1.jpg・井上俊さんはぼくにとって社会学の先生である。ぼくは60年代後半にアメリカで盛んになった「カウンター・カルチャー」に興味があって大学院に進んだが、それをどう分析するかはさっぱりわからなかった。院の授業で、映画や文学、あるいはポピュラー音楽などについて、雑談のようにして話をしたり、「文化」についての最新の研究を教えてもらったりすることで、視点の取り方や分析手法みたいなことが少しずつわかってきた。「大衆文化」や「若者文化」が関心をもたれるようになり、それらを分析する社会学的な考察にもまた、従来とは異なる新しい波が押し寄せていた。70年代初めは、新しい文化現象を新しい手法で分析できる、おもしろい時代のはじまりだったのである。

・ぼくが書いた修士論文のタイトルは「ミニコミの思想 対抗文化の行動と様式」だった。「ミニコミ」については、やはり大学院で、この分野の第一人者だった田村紀雄さんから、いろいろ教わった。大学院には教員と学生の間に「教える者」と「教わる者」という明確な違いがあって、その垣根を越えることは、学生にとってはしてはいけない行為のように思われていた(今でもそういうところはかなりあるようだ)。しかし、二人とは最初から友達関係のようにしてつきあうことができた。その意味で、たまたま行った大学院で二人の方と出会うことができたのは、幸運以外の何ものでもなかったとつくづく思う。

・『文化社会学界隈』を読んでいると、そんな半世紀も前のことが思い出されて楽しくなった。とは言え、書かれているのは決して古いものではなく、大半は今世紀になって書かれたり、話されたりしたものである。たとえば「社会学と文学」の章では文学と社会学の関係を改めて整理している。社会学にとって文学とは何か。それは社会学の理論をわかりやすくする具体例の宝庫というだけでなく、先行研究として、その中にある社会学的な芽を見つけるべきものでもある。社会学が扱うテーマや視点、あるいは考え方は文学だけでなく、社会や人間を扱うさまざまな表現形態のなかにもある。映画や音楽、アート、そしてスポーツなど。まさにこの本の題名が示す「文化社会学界隈」である。

・また、「初期シカゴ学派と文学」では、その代表的な存在であったR.E.パークがジャーナリスト出身であることを取りあげて、社会学の調査とジャーナリズムの取材における類似性と違いについてふれている。社会の実態をより正確につかむためには、その表層だけでなく、非行や犯罪、浮浪者や売春婦などを研究対象にして、いかがわしさの側から見る視点が必要になる。そんな伝統は20世紀前半に、シカゴ学派から始まった。他方で社会学には統計調査をもとにした「科学的手法」もある。社会学は社会科学の一分野だから文学とは違う。こんな考えは現在でも根強くある。だからこそ、社会学は文学と科学の中間の営みとして発展してきたという指摘は、今でも大事だと思った。

・この本ではさらに、武道を中心にしたスポーツや、コミュニケーションと物語についての考察がされている。そう言えば、スポーツを社会学として本格的に研究すべきとして立ち上げた「スポーツ社会学会」では、井上さんは中心的な存在だった。そしてここから、スポーツを単に体育学の中だけではなく、その近代化の過程やナショナリズム、消費社会や商業化、あるいはメディアや芸術との関係としてとらえ直すことが始まった。今日のスポーツが、政治、経済、社会の多くの問題と絡みあっていることはいうまでもない。

・同様のことはコミュニケーションについても言える。コミュニケーションや人間関係を、「話せばわかる」といったコミュニケーションの理想型から見るのではなく、通じない、わからない部分、つまりディスコミュニケーションとの関係を前提にして捉えていく。このような考え方も、ぼくが学生の頃に指摘され始めたものだった。ここでは鶴見俊輔が作りだした「ディスコミュニケーション」という概念を取りあげながら、人間関係やコミュニケーションにおける「感情」の問題に目を向けている。「コミュニケーション力」の必要性が盛んに叫ばれているが、「ディスコミ」の部分や人間の感情の複雑さにもっと目を向けることは、今こそ必要なのである。

・井上さんはぼくより一世代上である。体調を崩して心配したこともあったが、本を出されたことでほっとした。ぼくは退職して、研究活動もやめてしまったから、このような本をいただいて恐縮している。論文を書く気はないが、文化社会(学)界隈についての関心は持ち続けようと思っている。

2019年4月15日月曜日

樽の中に閉じこもる

 

・新元号でメディアが大騒ぎをしているようだ。ようだというのは、そういう番組は、まったく見ていないからだ。「令和」については評判がいい。サウンドから来るのかもしれないが、安倍首相がその意味や由来を、まるで自分が決めたかのようにテレビで吹聴して廻ったらしい。おかげで支持率が8%も上がったという。ネットではさっそく、万葉集(国書)ではなく、その元は中国の張衡の歌『帰田賦(きでんのふ)』だとして、その意味が、首相の説明とはかなり違ったものだといった指摘もあった。

・元号を政権支持率の浮揚に使うというのは不謹慎だが、これであたかも時代が変わっていい方向に進むといったイメージ操作をするメディアの行いは犯罪的ですらあると思う。何しろ最近のメディアはイチローの引退でもお祭り騒ぎをしたし、ピエール瀧のコカイン使用でも大騒ぎをした。皆が同じものに興味を示し、賛美をしたり非難したりと同じ方向を向く。そんな傾向がますます強くなっている。国際的な教育を柱にする大学の入学式で、新入生の服装がまるで制服のように統一されていることに、学生部長の先生が驚いたというニュースがあった。空気を読む、忖度する。何より大事なのは回りに同調することであって、個をもち我をはることではない。そんな態度が社会にくまなく蔓延してしまっている。

tsurumi1.jpg ・鶴見俊輔と関川夏央の対談集『日本人は何を捨ててきたのか』(ちくま学芸文庫)には「樽」というキーワードがあって、今の日本人の大半がその中に住んでいて、それが明治以降、とりわけ日露戦争以降に創られたものだという指摘がある。明治政府は近代化を急速に進めたが、その政策の根本にあったのは、近代化には不可欠のはずの「個人主義」を軽視したことだったというのである。個人ではない何者かにとって重要なのは所属であったり役職であったりする。人が会えば先ず名刺交換をするし、手書きのサインよりはハンコが大事にされる。それは第二次大戦で負けても変わらなかった。個よりは集団、世界よりは日本というわけだ。この特徴は進駐軍も見抜いていて、壊すよりは残した方が、日本人をコントロールしやすいと考えたという。

・このような指摘はもちろん、土居健郎の「甘えの構造」、神島二郎の「擬制村」、そして井上忠司の「世間体の構造」などたくさんある。しかし、明治以降にこのような傾向が強化されたし、戦後も意図的に維持されたという見方には、なるほどと納得した。何しろこのような特徴は誰より若い世代に強くて、彼や彼女たちは就職のために大学に行き、その大学は偏差値によって選ぶのである。「樽」の中では何より同調性が大事にされるが、そこにはまた、自分の個性とは違う偏差値やブランドにもとづく序列づけがある。

・グローバル化の時代なのに、いや、グローバル化の時代だからこその内向き思考だと思う。そこで日本の、日本人の、ここがすごいといったナルシシズムに浸っている。それがガラパゴスだなどと言われても、ガラパゴスの島民である限りは、そのおかしさに気づかない。少なくても、知らないふりをすることができる。何しろ周囲のみんながそうしているのだし、政治や経済をリードする人たちが、そう言っていて、メディアがそれを増幅してるのだから。

・日本はすでに先進的でも豊かでもない社会に落ち込んでいる。収入は格差が広がって、多くの人は労働時間は減らないのに給料は減るばかりだ。軍事費が突出して社会福祉は削られている。国の借金は増えるばかりなのに、国の予算は100兆円を超えた。いつ破綻してもおかしくないのは、「樽」の外に出ればすぐにわかる。出なくたって「樽」の外に目を向けることもできる。しかしそうはしないし、させないようにしている。新元号騒ぎは、その端的な例だと言えるだろう。

2018年1月29日月曜日

日本発のアフリカと南米の音楽

 

Nyama Kante "Yarabi"
Irama Osno "Taki Ayacucho"

・アフリカの音楽は、これまでにも、フェラ・クティやユッスー・ウンドゥール、そしてアブドゥーラ・イブラヒムをはじめ、他のミュージシャンも取りあげてきた。遠くて行けそうもないけれど、その音楽には、ずいぶん前から興味を持ってきた。もちろんアフリカは大きな大陸だから、音楽を一つのものとしてくくれるわけではない。

・アフリカには、現在、54の主権国家と10の非主権地域がある。人口も急増しているし、言語の種類も多い。もちろん、ヨーロッパ列強の植民地だったから、ヨーロッパの言語を使う国も少なくない。多様な宗教、政治形態、経済発展の違い、紛争、公害や貧富の格差、そしてエイズやエボラ熱などの流行が問題になってもきた。そしてアフリカの音楽には、そういった問題をストレートに歌い、訴えるミュージシャンもいる。

kante.jpg・アフリカの音楽に興味を持つきっかけになったのは鈴木裕之の『ストリートの歌』(世界思想社)だった。あるいはそれ以前に彼が訳した『フェラ・クティ』(晶文社)だった。どちらも、このコラムで取りあげている。ニャマ・カンテはギニア生まれでコートジボアールで育っている。多くのミュージシャンがそうであるように、彼女もグリオ(伝統伝達の語り部)の家系である。ぼくはこのCDを出版社の編集者からいただいた。彼は僕の本を何冊か担当した方だが、同時に、鈴木裕之の『ストリートの歌』や『恋する文化人類学者』を担当している。そしてニャマ・カンテが鈴木裕之のパートナーで、日本でも音楽活動をしていることを教えてもらった。

・"Yarabi"にはグリオによって歌い継がれてきたラブ・ソングや祭りの歌などの他に、アメリカの伝説的な黒人ブルース・シンガーであるロバート・ジョンソンの曲などが収録されている。バックで演奏するのは日本人のミュージシャンで、中には娘と一緒に歌い、日本語も飛び出す曲もある。紛れもなくアフリカの音楽だが、そこに、アメリカや日本が混ざっている。

irama.jpg ・イラマ・オスノはペルーのアヤクーチョに生まれ、伝統的な音楽に囲まれながら成長した。彼女もまた、縁があって、現在では日本で暮らし、音楽活動をしている。そしてこの"Taki Ayacucho" もまた、友人から贈られた。このCDには、彼女の息子がパーカッションで参加しているのである。

・僕は南米の音楽についても、興味があってこれまでにもこのコラムで取りあげたことがある。いわゆるフォルクローレと呼ばれるもので、メルセデス・ソーサやビクトール・ハラ、そしてビオレータ・パラといった人たちだ。(→"Gracias A La Vida")

・しかし、イラマ・オスノの音楽は、それらとはまったく違う。フォルクローレにはスペインやアメリカの影響が強くあるが、彼女はペルーの公用語とは違うケチュア語で、伝統に基づいた発声法で歌うものである。しかも歌われているのはアンデスの自然(風、雨、滝、川、山、土、石、鳥、動物、祖先、精霊)であり、伝統的な世界観のようだ。そんな音楽をバックで支えているのは、やはり日本人のミュージシャンたちである。ギターやケーナといったよく使われる楽器のほかにバイオリンやベース、あるいは打楽器が使われ、土着の音楽であることを強く意識しているが、そこにはやはり日本が混ざっている。そんな彼女は今、ギタリストであるパートナーの笹久保伸と秩父に住んでいるという。

2018年1月15日月曜日

『カズオ・イシグロをさがして』

 

journal3-170.jpg・カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞は意外だった。僕は彼の作品を何冊かもっているが、一つも読んでいなかった。なぜ買ったのかも覚えていないが、映画の『日の名残り』の原作者だったということかもしれない。日本ではまた、ノーベル文学賞を日本人が取ったとか、それが村上春樹でなかったとか話題になったが、僕にとっては日本の組織も多く提携している「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」の平和賞受賞について、政府が何もコメントしなかったことに、いまさらながらあきれた。カズオ・イシグロは日本人かもしれないが、英国籍をもった現代のイギリスを代表する作家であって、日本とは直接関係ないはずなのにである。

・彼の受賞については、そんな程度の興味しかなかったが、NHKが放送した『カズオ・イシグロをさがして』をYoutubeで見かけて、見ることにした。大ファンだという生物学者の福岡伸一が故郷の長崎を訪ね、イギリスに出向いてイシグロ本人に会ってインタビューをした。そこで、イシグロ文学のテーマが「記憶」であることを知った。

・心に残る「記憶」はくり返されることで次第に美化されて、現実とは違ったものになる。福岡は、そのような記憶を「ノスタルジー」として小説のテーマにすることについて、イシグロに聞いた。その応えは、子どもが親の保護の元で暮らして残る「記憶」は、親によって「世界がまるで美しい場所であると装われた」ことでできたものだと言う。その意味で「ノスタルジアは決して存在しない理想的な記憶」なのだとも。だから大人になれば必ず、現実の世界について「失望感」を味わうことになる。

・そんなふうにして人々の中に蓄積された「記憶」は、親しく関係し合う人たちの間で、時に共鳴し、時に不協和音になる。そしてそれがまた、それぞれにさまざまな「感情」を抱かせる。イシグロ文学の核心がそこにあるのだということを、二人の話の中から感じた。

・イシグロが最初に書いた長編小説は長崎を舞台にしたものである。それは彼の幼い頃の記憶に対する強い関心から出発したものだが、自分のなかにある「記憶」はあくまで、自分の中で私的に創りあげられた「JAPAN」であって、現実の「日本」ではなかった。その『遠い山なみの光』は、長崎からイギリスに移り住んだ女性が、長崎の記憶を回顧することで物語られている。

・福岡は、彼の研究テーマである「動的平衡」をイシグロの作品からヒントを得たと言う。生物は外見的には変わらないように見えても、ミクロなレベルでは絶えず変化をしていて、数ヶ月もたてば完全に入れ替わってしまっている。そんな流転する存在を支えるものを彼は追求してきた。

・そんな福岡の語りについて、イシグロは「記憶」もまた流転すると言う。彼にとってその最大の「記憶」は、生まれ故郷の「日本」についてのものだった。だから、「日本」について抱き続けてきた「記憶」を、それが色あせないうちに小説として固定させたいと思ったと応えた。それ以来、人間と記憶の問題に魅了され続けているのだとも。

・カズオ・イシグロは作家ではなく、ボブ・ディランのようなシンガー・ソング・ライターになりたかったのだと言った。彼は僕より5歳年下だから、そんなふうに思った時点のディランは、表から退いて隠遁生活をしていた時期にあたるだろう。学生運動も終わっていたけれども、60年代の若者の運動から生まれた「ライフスタイル」は享受することができた。そんな話を聞いて、僕は彼に強い親近感を持つようになった。

・音楽との関わりについて、彼はまたノーベル文学賞の授賞式でのスピーチで、ほとんど完成していた『日の名残り』に最後の一筆を書き加えるインスピレーションをたまたま聴いたトム・ウェイツの「ルビーズ・アーム」から得たと話している。しかも、そんな経験は一度だけではないとも。「歌を聴きながら、『そう、これだ、あの場面はこういうものにしよう、こんな感じに近いものに』と、独り言を言っていました。それはしばしば、私がうまく文章にできないような感情でした。でも、そこに歌があり、歌う声を聞いて、自分が目指すべきものを教えられたのです。」

・昨年のノーベル文学賞がなぜボブ・ディランだったのか。そのことを自らの体験をもって証明した発言だった。積読だった彼の作品を読むことにしよう。そんな気にさせたドキュメントで、今は彼の小説を読み続けている。

2016年12月12日月曜日

「ボブ・ディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉」

・NHKスペシャルが「ボブ・ディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉」を放送した。ノーベル文学賞を授与されて以降、さまざまに取りざたされ話題になっているし、CDや書籍にも、それを記念して新たに発売されたり、宣伝されたりしたものも多い。今さらとも思うが、新たに興味を持って、彼の歌を聴いたり、彼についての、あるいは彼が書いた本が読まれるのは悪いことではないとも思った。何しろ日本では、ディランは一部を除いて、ほとんど興味を持たれていないミュージシャンだと、ずっと思っていたからだ。

・そのディランは、受賞を拒否するのではとか、まったく連絡が取れないとか、先客を理由に授賞式を断ったとか、そんな話題ばかりが先行していたが、授賞式には、彼に代わって晩餐会にパティ・スミスが出て「激しい雨が降る」を歌ったというニュースを耳にした。主催者からの依頼のようだが、彼女にしてみれば、ディランに影響を受けて歌を歌い始めたのだから喜んでピンチヒッターになったのだろうと思った。

・番組はまず、デビューからヴェトナム反戦を訴える歌を歌って支持を得たこと、フォークからロックに転身してファンとの間に物議を醸したことなどを伝えた。その後で、彼が作品を作るときに書き残したノートや便箋、あるいはたまたま持っていた紙ペラなどが集められているオクラホマのタルサ大学に出向いた。それはディラン自身の意向によるもので、デビューから最近の作品に至るまで、膨大な量になるということだった。

・ふとフレーズを思いついたら、すぐに走り書きをして、後で何度も書き直す。それはレコーディング中でもお構いなしだから、参加したミュージシャンは長い時間待たされることになった。インタビューに答えたアル・クーパーは、「ディランは詩人だから、音楽以上にことばに時間をかけていた」と話していた。

・この番組の中心は、このタルサ大学に寄贈されたディランのノートやメモを巡ってで、インタビューや取材は、今回に限らず一切受けないと言われたことをあげ、どこにいるのかわからないその秘密めいた存在を強調していた。しかし、彼は「ネヴァー・エンディング・ツアー」と名づけたコンサートを1988年にはじめて、今でも精力的に活動を続けている。会いたければそのライブに行けばいいのだし、新しい作品も発表し続けている。僕もこの4月に渋谷で彼に会っている。

・それ以上に何をする必要があるのかといった姿勢が不思議に思えるのは、誰もがテレビや雑誌に登場することで、人気を維持し、高めたい、忘れられたくないと考えているからだ。その方がよほど不自然で姑息なのだということがわからないほど、今のメディアはやかましいし、依頼すれば誰でも喜んで応諾すると、偉そうにふるまいすぎているのである。

・ところで、この番組で僕が一番驚いたのは、2001年にあったニューヨークの貿易センタービルに旅客機を突っ込ませた「9.11」の出来事の一ヶ月後に、ディランがマジソンスクエア・ガーデンでコンサートを行ったことだった。それはもちろん、ライブ盤としても発表されていないし、僕自身はそのコンサート自体を知らなかった。番組で映されたそのライブのなかで、ディランは珍しく、演奏途中に歌ではなく、話を始めて、「僕の歌はニューヨークで始まった。で、今もニューヨークでアルバムを作っている。そんな大事な街なんだ」と言った。

・その映像は隠し撮りされたものだが、ディラン自身が許可をしてYouTubeで見ることができる。「01 11 19 D1139」と名のついた映像は2時間半にも及ぶもので、その日のライブをまるごと映している。 いつものぶっきらぼうで飄々と歌うディランと違って、動きも多いし、何より話をするのが珍しい。なぜ、これがライブ盤として出ないのか。ディランの意向とすれば、なぜなのかと疑問が浮かんだ。ネットで探しても、このコンサートに関連するものは多くない。YuTubeの視聴回数も2万回を超えた程度にすぎない。不思議なコンサートだ。

2016年9月5日月曜日

文化としての食

  飽食と飢餓

・コミュニケーション学部では「現代文化論」を担当しています。「現代文化」というと学生たちは音楽やスポーツ、あるいはマンガやゲームのことを思い浮かべるようですが、僕が授業で主に話すのは「衣食住」と「ライフスタイル」に関連したことです。「文化」は「カルチャー」の訳語で、その語源には「耕す」という意味があります。つまり「文化」とは、基本的には「食べる」ことを含めて、人間が生存のためにしてきた独自の工夫の集積を表すことばなのです。で、「食」も数回にわたって話すことにしてきました。

・今は飽食の時代です。飢える経験をした人は日本ではほとんどいませんが、逆に食べ残したり、賞味期限切れだと言って捨ててしまったことは誰にでもあるでしょう。日本の食糧自給率は半分以下で、毎年5500万トンの食料を輸入していますが、また年間1800万トンを廃棄しています。金額にすると11兆円で、その処理にまた2兆円を使っています。他方で世界には飢餓のために死亡する人が年間1500万人もいて、その7割以上が子どもだと報告されています。これは私たち日本人が「食」を考える上で、避けることのできない問題だと言えるでしょう。アフリカから始まった「MOTTAINAI」キャンペーンは世界共通語を目指していますが、肝心の日本では「もったいない」はすでに「死語」と化しているのが現状です。

 食と人口の爆発
・ところで、現在の世界人口は70億人を超えましたが、その増え方はどんなものなのでしょうか。たとえばコロンブスがアメリカ大陸にたどり着いた頃の人口は3億人程度で、その半分以上はアジアに住んでいて、4分の一がアメリカ大陸、5分の一がヨーロッパだったようです。それが3世紀後の1800年には10億人に増え、1900年には20億に達し、2000年には60億人を超えました。このまま増えていくと2050年には90億人を超え、今世紀の終わりには100億人に達すると予測されています。

・この500年で人口が24倍に増えたのは食料生産技術の進歩によりますが、それ以上に大きいのは、食料にする植物や動物が、もともと生存していた地域を越えて「食料」として世界中に広まったことによります。チャールズ・C.マンの『1493』(紀伊國屋書店)は、それを「コロンブス交換」と呼び、アメリカ大陸からヨーロッパやアジアにもたらされたり、逆にヨーロッパやアジアから世界中に拡散した動植物を詳細に分析しています。

 食のコロンブス交換
・たとえば南米からジャガイモ、中米からはトウモロコシがヨーロッパにもたらされ、サツマイモが中国に伝わって、そこからさらに各地にひろがりました。これらは主に貧民層の食料として必需品になっていき、飢餓を減らし、人口を増やす原因になりました。またサトウキビはアジア原産ですが、適した土地がアメリカ大陸で探され、ブラジルやキューバに大規模なプランテーションが作られました。このように原産地から離れて新たな生産地が求められたものにコーヒー、カカオ(チョコレート)、バナナ、椰子などがあります。

・あるいは牛や馬、豚、羊、山羊などが家畜としてアメリカ大陸に持ち込まれてもいます。アメリカ映画を代表した西部劇には大量の牛を移送する馬に乗ったカウボーイが出てきますが、馬も牛も移民が持ち込んだものでした。あるいはイタリア料理には欠かせないトマトは南米原産ですし、キムチや焼き肉に使うトウガラシも同様です。今ではすっかり嫌われものになっているタバコも、この交換によって世界中にひろまったもので、ここには煙を吸うこと自体が、特にインテリや芸術家、あるいは文学者等が好んだ新しい嗜好の仕方だったという特徴もありました。

 食文化とグローバル化
・今日本では居ながらにして世界中の食べ物が食べられます。あるいは寿司や天ぷらといった日本食が、世界各地でブームになっていると言われています。まさに食のグローバル化ですが、しかし、世界各地の固有の料理も、その食材を吟味してみれば、上記したように、「コロンブス交換」以後に普及したものが少なくないのです。と言うことは、どんなものも人類の歴史の中ではほんのわずかに過ぎない数百年程度のものだということになります。

・あるいは和食を代表すると言われている天ぷらは室町時代にポルトガル人が持ち込んだ料理法だと言われています。庶民の大衆料理になるのは江戸時代で、その理由は江戸が侍にしても町人にしても圧倒的に男が多い偏った人口構成だったことにありました。手軽に食事を済ます「屋台」が普及したのですが、寿司も蕎麦も天ぷらもここから広まったのだと言われています。

・私たちが今日常的に食べている洋食や中華料理は明治以降に入ってきたものです。しかしカレーライスはインドのものとは大違いですし、スパゲッティ・ナポリタンはイタリアのナポリに行ってもありません。同様に中華丼や天津飯も中国では注文できないメニューです。これらはあくまで、日本人の好みにあわせて作り上げられた和洋折衷の日本食と言えるものなのです。

 食から文化全般へ
・海外旅行を何度か経験して、あちこちでその地の食べ物を口にしてきました。カレーやパスタ、あるいはパンやチーズなど、日頃食べているものとの違いを実感しましたが、けれどもまた、外から入ってきた食文化を、日本人ほどうまく日本文化に取り入れた国民はないとも思いました。そしてこのような特徴は「食」に限らないことだということにも気づきました。外から入ってきたものを自国に合うように手を加えることこそ、日本文化の大きな特徴で、そのことはすでに多くの人によって指摘されています。

・たとえば小さく、しかも高性能にするという特技は、第二次大戦後の経済成長を牽引した家電製品や自動車に見られた特徴でした。しかしまた、この特技が携帯に代表される「ガラパゴス化」の原因だとも言われています。漢字を輸入してひらがなやカタカナを作り出した日本人はまた、明治以降に流入した外来語をカタカナで表記して、独特の使い方をするようになりました。もちろんそれは有効に機能した側面を持ちますが、カタカナ語はまたもともとのことばとは似て非なるものになって、日本人以外には通用しないものにもなっているのです。日本人にとってグローバル化が必要だとすれば、そのことの自覚からはじめる必要があるかもしれません。

 マルサスの罠を乗り越えるために
・ところで、最初に述べた飽食と飢餓にもどって、今回の話を終わりにしたいと思います。「コロンブス交換」が人間の数を飛躍的に増大させたと言いましたが、イギリスの経済学者として有名なマルサスは、たとえ食料の供給量が増えたとしても、結局は人口増加が食料の供給量を追い越して、貧困や飢餓がもたらされるだけだと言いました。この「マルサスの罠」は、70億人を超え、やがて100億にもなろうかという人間をまかなう食料生産は不可能だという議論と共に、最近よく見かけることばになりました。

・日本は人口の減少を問題にしていますが、これから急増するのはアフリカだと言われています。貧しい国が豊かになろうとするのは当然ですから、増加を抑制するのは難しいでしょう。だからこその「MOTTAINAI」キャンペーンで、捨てる無駄をどうやってなくすかといったことや、食糧にするもの自体の新たな発見や改良が、そう遠くない未来に差し迫った課題になると言われています。ここにはもちろん、農薬や遺伝子操作などがもたらす問題も含まれます。あるいは「新自由主義」的な政治や経済がもたらしつつある先進国における格差の問題を、世界大のレベルでどう克服していくのかといった難問もあるでしょう。

・地球に住む人間がすべて、衣食の足りた生活を送れるようになるといった理想が現実化できるのかどうか。やがて人口増が抑えられて「マルサスの罠」が取り越し苦労に終わる世界になるのかどうか。21世紀が抱える最大の課題であることは間違いないでしょう。

 <東京経済大学コミュニケーション学部ブログ「トケコミ」から再録>

2016年1月25日月曜日

ミステリーとファンタジー

・僕はテレビドラマはほとんど見ない。マンガやアニメは全然と言っていい。ところが最近、大学院で指導したり、論文の副査をしたりする学生のテーマがミステリーやファンタジーであることが多い。今年は『相棒』と『陰陽師』だったし、去年は『ヴァンパイア』だった。そういったテーマに取り組む院生たちは、現在シニアか留学生で現役の日本人学生はほとんどいない。

・留学生(中国人)はかつてはインターネットや広告をテーマにする学生が多かった。しかし数年前から一変して、アニメ(宮崎駿『トトロ』など)やアイドル(ジャニーズ)などが多くなった。テーマにしないまでも、留学生は一様にマンガやアニメに興味があって、それは日本に留学する一番の理由だったりする。かつては見るからに苦学といった感じだったが、経済的に豊かになったことも明らかで、そんなことも理由にあるのかもしれないと思っている。そんな彼や彼女たちが修士号を取っても帰国せず、日本の企業に就職するようになったのも、ここ数年の大きな傾向だ。

・僕はマンガもアニメも研究対象にしたことがないから、学生を指導すると言うより知らないことを教えてもらうといった状態だ。だから『陰陽師論』について発表を聞いても、論文を読んでも、「へー」というしかないような感じだった。僕は25年間京都に暮らしたが、安倍晴明を祭った「晴明神社」なるものがあることすら知らなかった。そこは学生時代から自転車やバイク、そして自動車で通ったところだったのに、まったく気がつきもしなかったのである。

・その『陰陽師論』は、もともとは気象や天文をもとに占いをした陰陽師が、やがて呪術を使う存在としてフィクション化されるようになり、明治時代には忘れられてしまったこと。それが夢枕獏の詳説をきっかけに蘇り、その後にマンガやアニメ、そして映画やテレビドラマになって人気を博した理由を「事実」から「ファンタジー」への転換として論じた作品になっている。なるほどと思ったが、なぜ今「陰陽師」なのかといったところが、やっぱりわからなかった。これはもちろん、ファンになっておもしろがっている留学生と、まったく興味がない僕自身との間にある距離がもたらした疑問だった。

・『相棒』を修論テーマに選んだのは現役の新聞記者で、仕事をしながら大学院に通えるシニア・コースの学生だった。自分の仕事に関連してではなく、個人的関心をテーマにしたのだが、これも僕はほとんど見ていないドラマだった。最初は『刑事コロンボ』に『シャーロック・ホームズ』などを加味させたものだろうぐらいに思っていたのだが、全シリーズの全作品を詳細に分析した、本格的なテレビ・ドラマ論に仕上がった。

・テレビ・ドラマをテーマにした学術論文は多くはない。それは分析に値しない内容だという固定観念に基づくものかもしれないし、映画とは違って、放送が終われば忘れられてしまう、一過性のものだという性格によるのかもしれない。だから分析枠組みとしては、物語論や記号論を援用して、そこで多く用いられる二項対立的概念を抽出して分析をした。

・主役の水谷豊演じる杉下右京は警視庁で窓際に追いやられた刑事である。普通なら閑職で何もできないはずだが、相棒がつくことによって、自分の関心の向くままに事件を捜査することができる。捜査一課の刑事たちからは煙たがられるが、事件を解決するきっかけになるのはいつでも右京の推理だから、完全に拒絶することはできない。解決の手柄は当然、捜査一課のものだが、右京には手柄は一切関心がない。彼の興味は一点、「真実」を突き止めることだけにあるからだ。

・論文では、この物語を「異界」(右京)と現実(捜査一課)を仲介する「相棒」こそが主人公だとして、右京と相棒の間に生まれる「葛藤」を「真実」「正義」そして「幸福」といった価値観の対立として分析している。あるいは、右京と相棒が感じるはずの「孤独」の違いを「透明」と「分身」の違いとして論じてもいる。

・なかなかおもしろい論文に仕上がったと思う。ただし、やっぱりドラマを見なければ今ひとつぴんとこないところがあるから、僕は読みながら、ネットで『相棒』を探して視聴した。分析枠組みに沿って、当のドラマを見ると、きわめてわかりやすい。そんな感想を持った。

2015年3月9日月曜日

宮入恭平編著『発表会文化論』青弓社

 

miyairi8.jpg・発表会と言われて思い出すのは、子どもが幼稚園の時にあった「生活発表会」ぐらいで、およそ縁がなかった。だから興味もほとんどなかったのだが、編者をはじめ書き手の多くが僕のゼミに参加をして、報告などもしていたから、「発表会」という仕組みが日本の現代文化にとって無視できないものであることに気づかされた。そのいくつかの報告を中心に一冊の本にまとめたのが本書である。

・「発表会」はこの本によれば、明治時代に勉学の習得度を確認するために学校制度の中に取り入れられたもののようである。それは保護者や地域の人にとって、「運動会」と共に楽しみな年中行事としておこなわれてきた。もちろん、このような催しは現在でも学校でおこなわれている。そしてこの形式は音楽や踊り、美術などを習う教室のイベントとなり、練習や製作に励むための最大の目標になっているし、自治体が主催する文化教室的なものにも定着しているようである。

・「発表会」はそれが何であれ、素人が日頃の練習の成果を披露する場であり、その保護者や友人・知人が参加して、その成果を体験する機会である。だから、基本的には閉ざされていて、部外者が参加することは想定されていないし、また覗いてみたいほど興味のある内容でもない。そして会を催すために必要な費用は、私的なものであれば、その当事者か保護者が負担することになる。本書によれば、それはバカにならないほどの金額(数万円以上)のようである。

・もちろん、やりたい人たちが自分の意志でやっているのだから、それでいいじゃないか、と言われればその通りだが、編者の宮入恭平は、この本を作るきっかけになったのが、ライブハウスのノルマ制度にあったと書いている。つまり、ライブハウスはプロだけでなく、アマチュアのミュージシャンがパフォーマンスをすることができる場であり、ミュージシャンとは直接関係のない、たまたまライブハウスに集まった客が、その歌や演奏を楽しむ場であったはずなのだが、今や、ステージに立つ者と観客が関係者に限られた、閉ざされた空間に変質しているというのである。パフォーマンスをしたければ、店の採算に合うお金を払い、それをチケットとして売らなければならない。だから客の中には積極的にと言うよりは義理で買ってやってきたという人も少なくないようだ。

・それはライブハウスが店の運営を安定させるために導入したシステムで、ミュージシャンを育てたり、新しい文化を生もうといった目的とは無関係で、むしろ阻害するものでしかない。しかし、このような「発表会」システムは美術の世界で実力を評価する日展や二科展などにも見られることだという。受賞者や入賞者の枠が審査以前に主催者達の中で決められていて、それが事件として取り上げられたこともあったようだ。これでは優秀な新人の発掘や新しい流れは生まれようもないが、お茶やお花といった古くからある習い事のなかでは、きわめて当たり前のシステムでもあったから、特にやましい気にもならずにおこなわれるようになったのかもしれない。

・あるいは「発表会」には、政治や社会の問題を持ち込んではいけないといった不文律もあるようだ。また、学校や習い事の発表の場であれば、習ったとおりにやることが望まれていて、自分らしく好き勝手にやることは御法度らしい。だから我が子や恋人や友人でもなければ、見る気にも聴く気にもならないのが当然なのである。そんな人畜無害で無味乾燥な会なのに、けっしてなくならない。それどころか、今や一大文化産業として繁盛しているのだと言う。それはなぜか。答えは是非、この本を読んで見つけてほしいと思う。

・著者達の中には編者自身がミュージシャンでもあることのほかに、大学院生になってもピアノ教室に通っていたという、想像だにしなかった驚きの告白をした人(佐藤)もいる。あるいは、地域の合唱クラブで楽しくやっている人(薗田)もいる。その意味で、研究者であると同時に当事者でもあるという参与観察がうまくできていて、それが本書の大きな魅力にもなっている。

2015年1月19日月曜日

京都「ほんやら洞」が燃えてしまった!

 

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・朝起きると、京都の「ほんやら洞が全焼」という記事。いろいろ探すと店の入り口が見るも無惨に焼けた画像や、真っ赤に燃えさかる最中の画像が見つかった。もう「うわー」ということばしか出なかった。

・僕が「ほんやら洞」に入り浸っていたのは、もう40年以上も前のことだ。「関西フォーク」や「対抗文化」の西の拠点として、いろいろな人が集まり、コンサートや詩の朗読会、あるいは政治的・社会的なテーマのミーティングなどが開かれた。2階には長年マスターを務めてきた甲斐さんの蔵書や、彼が写してきた写真、さまざまな人からの贈書や、貯められてきた資料などがあって、誰もが手にすることができた。そんなものがすべて、灰になってしまったようだ。

・ネットに載っている新聞社の記事の多くには「文化発信拠点の名物喫茶店」とか「伝説の喫茶店」といったことばが書かれている。確かにそうなのかもしれなかったと思う。ただし、それは後から尾ひれがついて「名物」や「伝説」といったことばで形容されたからで、一番にぎやかだった70年代だって、活動は店の規模同様にきわめて小さなもので、大きなイベントなどで話題になったわけではなかったように記憶している。

・とは言え、定期的におこなわれた詩の朗読会は『ほんやら洞の詩人たち』(晶文社)にまとめられたし、中山ラビや古川豪、そして豊田勇造といったミュージシャンも育った。店はベトナム反戦運動に参加していた人たちが岩国基地前に「ホビット」という名の喫茶店を作った後に、手作りされた。人を当てにせずに自分たちでやる。これが、この店のルールになった。だからまだ意識されはじめたばかりの「フェミニズム」や「環境問題」「食」等を議論する集まりの場になったし、スリーマイル島の原発事故の後には「反原発」運動の拠点にもなった。一つ一つは地味だが、今なお問われ続けている問題に、いち早く気づいて動こうとした人たちが集まる場所だった。

・ただし、そんなにぎやかさも80年代後半ぐらいから減退し、90年代以降になると、実態よりは「名物」とか「伝説」ということばで形容される場所になった。僕も京都市の郊外に引っ越してからは滅多にいかなくなったし、東京に引っ越してからはほとんどご無沙汰だった。その意味では「ほんやら洞」の役割はとっくに終わっていたと言うことができるかもしれない。けれども、マスターの甲斐さんが閉じずにずっと続けてきたのは、その歴史的な価値を考えたからで、やっぱり、無念としか言いようがない。

・最近の文化状況の貧しさにうんざりし、また危機感も持っている立場からは、つくづく一つの時代が完全に終わったことを実感させる出来事だったと思う。

2014年10月13日月曜日

東京オリンピックと新幹線

・東京オリンピックと新幹線開通から50年でテレビも新聞もその特集を組んでいる。すべてを見たり読んだりしているわけではないが、その中身は、懐かしさばかりのようだ。当然、イベントも行われていて、次の20年のオリンピックを盛り上げる機会にしようという狙いもある。決まったことだから、それはそれでいいことだ、なんてとても思えない。オリンピックなんてやってる場合じゃないだろうと今でも考えているからだ。

・オリンピックのおかげで公共工事が増え、ゼネコンは大喜びだろうと思う。人手が足りなくて困っているという話もよく耳にする。そうすると当然、3.11の被災地の復興工事が滞るわけで、予算を使い切れていないというニュースも見かけた。地方再生が聞いて呆れる状況なのである。

・いったい、64年の主会場になった国立競技場はどうなるのだろうか。ばかでかい新国立競技場は神宮外苑を一変させてしまうほどの大工事である。反対の声が大きいのに、それにまともに応えずに解体工事を始めようとした。ところが、談合疑惑が起こり、業者に告発されたりしている。東京オリンピック50周年をふり返り、20年のオリンピックに向けて特集を組むというのなら、なぜ、メディアは、新国立競技場の問題や「日本スポーツ振興センター(JSC)」のうさんくささを問題にしないのだろうか。

・同様のことは新幹線の50周年にも言える。日本が豊かな社会になることを実感できる機会だったという話を取り上げて、次はリニアモーターカーでもう一度、豊かさを目指そうと言わんばかりの論調だ。それが全くの幻想でしかないことは、50年前と今の日本の状況を考えたらわかるはずで、人口の急激な増加と急激な減少を見たってありえないことなのである。

・リニアモーターカーは500kmの速度を出して東京名古屋間を40分で結ぶのだという。そんな必要がいったいどこにあるのかという話は、以前に書いたことがある。南アルプスをぶち抜いてトンネルを作ること、7割以上がトンネルになること、原発数基分の電力が必要になること、地方再生どころか、ますます東京一極集中を加速させるだけだということ、新幹線が赤字路線に転化してしまうこと、乗客や沿線住民への電磁波被害が置き去りにされていること等々、上げたら切りがないほどである。ところが、そんなことを大きく取り上げるメディアはまた、ほとんどない。

・御嶽山が突然噴火して大勢の登山者が犠牲になった。富士山周辺の自治体も、慌てて対応策を考える会を発足させたりしている。泥縄も最たるものだが、ほとぼりが冷めれば自然休会してしまうのだろうと思う。そんな場当たり的な発想をくり返しても何の役にも立たないのに、である。川内原発再稼働について、原子力規制委員会の委員長や官房長官が、マグマではなく水蒸気だから、川内原発には直接関係しないと言った。火山学の専門家でもないのになぜ、即座に、こんな意見を言えるのだろうか。

・それにしても、テレビも新聞も、御嶽山で犠牲になった人たちのプライベートな話を良くもまあ、次から次へと取り上げて、お涙ちょうだいの物語をつくるものだとあきれてしまった。そんなものは読みたくもないし見たくもない、と思うのは僕だけなのだろうか。亡くなった人がどういう人かではなく、なぜ死んでしまったのか、なぜ防げなかったのかということについて、本気になって取り組む必要性を強調しないと、悲劇の消費に終わって、しばらくたてばまた、忘れてしまうだけなのだろうと思う。

・オリンピックと中央新幹線でさらなる豊かな社会を実現しようというのは、けっして夢ではなく、悪夢そのものだと思う。日本はこれから間違いなく、人口が減り続け、経済もしぼみ続けるだろう。アベノミクスはそれに逆らって、経済成長や人口の増加、そのための女性の活用(躍)、地方再生などをスローガンに上げている。これらがどれほどインチキなものか。もちろん、この点を正面から批判するメディアはほとんどない。

2014年6月2日月曜日

ガリシアのケルト


Carlos Núñez "Os amores libres"
"Brotherhood of Stars"
『絆~ガリシアからブルターニュへ』

chieftains3.jpg・ケルト音楽は一般にはアイルランドのものだとされている。けれども、ケルト民族はかつてはヨーロッパ中にいて、今でもフランスのブルターニュやスペインのガリシア地方に住んでいる。文化的にも人類学的にも共通していないところがあるようだが、ガリシアには、アイルランドやスコットランドでよく使われているバグパイプとそっくりのガイタという楽器がある。カルロス・ニュネスはその奏者として第一人者と言われている。

・ガリシアのケルトは「チーフタンズ」の『サンチアーゴ』で知った。巡礼の道順にしたがってバスクからガリシアまでの音楽を辿り、最後はポルトガル国境のビーゴの町にあるダブリンという名のパブでのライブで終わっている。収録曲にはポルトガルのファドもあり、キューバで録音されたものまで入っていた。アイリッシュと似ているけど、どこか少し違う。そんな音楽に興味を持った。

journal-134-3.jpg ・『サンチアーゴ』にはライ・クーダーも参加している。キューバでの録音を主に担当したようだ。彼はアメリカにおけるカントリー音楽の大御所だが、アメリカ大陸で発展した音楽の採集と、そのルーツの探求に熱心でもある。キューバのミュージシャンを探して作った『ブエナビスタ・ソーシャル・クラブ』は大きな話題になったが、彼はまたチーフタンズと協力して、メキシコと米国にまたがる音楽を集めた『サン・パトリシオ』を作っている。僕がガリシアのケルトに興味を持ったのは、この2枚のアルバムがきっかけだった。で、ガリシアに行きたくなって、ガイタを演奏しているニュネスを聴くことにした。

nunez1.jpg ・3枚買ったアルバムは、タイトルがそれぞれ、スペイン語、英語、そして日本語だった。"Os amores libres"はニュネスのガイタや笛、オカリナが主役だが、共演者は多彩で、フラメンコやファド、それにアイリッシュも入り交じっている。一曲(Danza da lúa en Santiago )だけジャクソン・ブラウンが歌っている。言い歌だが、残念ながら、その理由や歌詞はわからない。

・"Brotherhood of Stars"はライ・クーダーやチーフタンズ。それにファド歌手のドゥルス・ポンテスも参加して、一層多彩な内容になっている。ガリシアという土地やそこに生きてきたケルトを感じさせるとは言えないが、混在が交響して聴き応えのあるアルバムになっている。
nunez2.jpg ・曲の多くはガリシアに伝わるもののようだ。しかし、この2枚のアルバムに参加しているミュージシャンは、イベリア半島の北にあるアイルランド、ガリシアの東に位置するピレネー山脈周辺に住むバスク、ガリシアの南にあるポルトガル、そしてスペインやポルトガルが大航海時代に侵略して植民地にした南北アメリカ大陸から集まっている。
・その意味では、ヨーロッパとアメリカ大陸の長い歴史を思い起こさせるような内容だと言える。ケルトがアイルランドやスコットランド、そしてガリシアにしか残っていないのは、ローマ帝国の支配が及ばなかったからだし、そのローマ帝国を衰退させたゲルマン民族の移動も、やっぱり大陸の果てまでは徹底しなかったからだ。

nunez3.jpg ・もう一枚の『絆~ガリシアからブルターニュへ』はフランスの北西部にある、やはりケルトの文化が残るブルターニュの音楽を集めたものである。ケルトの歴史を調べると、ここに住む人たちはイギリス本島から移ってきたようである。だからもともとの言語(ブルトン語)はウェールズに近いと言われている。
・ブルターニュの伝統音楽はアイルランドやスコットランドの音楽復興に触発されて、1970年代頃から盛んになったようだ。ニュネスはそんなブルターニュとのつながりを、このアルバムで表現している。

・グローバリゼーションの時代だが、音楽はとっくの昔からグローバルな存在だ。で、一つ一つがローカリティを意識して、自らのアイデンティティを模索し、表現している。ガリシアのケルトはまさに「グローカル」な音楽である。

2013年7月15日月曜日

「カルチュラル・タイフーン2013」報告

 

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・「カルチュラル・タイフーン2013」が無事終わりました。主催校の責任者としてほっとしています。スタッフとして手伝っていただいた人たちには感謝してもしきれないほどです。どうもありがとうございました。

・「カルタイ」は普通の学会大会とはずいぶん違いました。学会名は「カルチュラル・スタディーズ」ですが、あくまで協賛で、主催は「カルチュラル・タイフーン2013」実行委員会ということになっています。つまり、開催校を引き受けると、大学と折衝して会場や機材などを借り、できれば資金的な援助をお願いするといった仕事を任されますが、それだけではなく、実行委員会を組織し、事務局を置いて、大会の中身についても企画し、応募し、選考するといった作業をしなければなりませんでした。

・実行委員会や事務局のスタッフの多くが非常勤教員や院生、そして学生であることもほかには見られない特徴です。しかも、学会に所属しない人たちが大半でした。若い人たちの発想を重視して、自由な大会作りをするというのが趣旨ですが、彼や彼女たちには長い時間とエネルギーを割いてもらうことになりました。もちろん無休のボランティア仕事です。労をねぎらうために金銭的に余裕のある専任教員が差し入れをすることもありましたが、それで報われるわけではありません。若い人たちは何より、自分の勉学や業績作りのためにこそ、時間とエネルギーを使うべきだからです。

・この点が大会で行われた総会でも問題になりました。カルタイの趣旨を大事にすれば、若い人たちに過重な負担がかかること、学会であることを基本にすれば、カルタイの自由さを維持するのが難しくなること。そのあたりをどう解決していくか。それは長い時間をかけて準備をしてきた中で繰りかえし感じ、また話題にされてきたことでした。

・カルチュラル・スタディーズは既成の研究分野を横断する学際的な研究を特徴にしています。先生も生徒も一緒になって協力し、競争し合って研究するのが、その出発点にあった大きな特徴でした。しかし、現実には大学の専任教員と非常勤、院生との間には、経済的にも社会的にも大きな格差が存在します。そこを無視して一緒に仲良くというのは、あまりに非現実的でロマンチックな発想にしか過ぎません。

・「カルタイ」は他の学会とは違って研究発表だけでなく、パフォーマンスがあり、展示があり、映画の上映があり、そして物販や屋台で食べ物を売って作るといったこともありました。今回は食べ物の販売は認められませんでしたが、その他についても、なぜ学会なのにそんなことをするのか疑問をぶつけられることが多々ありました。学会らしくない学会だけど、学会の大会として続けていきたい。学会の総会では執行部からそんな意思も発表されました。であればなおさら、しっかりした基盤を作って、その上で、自由にやることについての戦略や戦術が必要だろうと感じました。

・もっとも僕はこの学会に所属していませんから、今回だけで、次回には大会に出かけるかどうかもわかりません。何事もなく終わってほっとしたところですから、しばらくはカルタイのことなど考えたくもないというのが正直な気持ちです。

2013年7月8日月曜日

「カルチュラル・タイフーン2013」にお越しください!

 

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・いよいよ今週末から、東京経済大学で「カルチュラル・タイフーン2013」が開かれます。12日は東経大が主催する学術シンポジウム「(アンチ・)デジタル時代におけるカルチュラル・スタディーズと人文学」で、17:00から6号館7階の大会議室で開催されます。デジタル化の波、就職難といった状況が大学における教育をどう変えてしまったのか。本学コミュニケーション学部所属の西垣通(「デジタル時代における身体と知の変容」)、深山直子(「<先住民>にとって知識とは何か」)、そして首都大学東京の西山雄二(「人文学と制度」)の各氏による報告と、中京大学の大内裕和、東京外国語大学の岩崎稔の両氏のコメントによって展開される議論にご参加ください。終了後に懇親会を予定しています。参加費は無料です。

・13日、14日は「カルチュラル・タイフーン」の本大会で、特別企画、パネル、ブース、そしてシネマタイフーンなどの企画が盛り込まれています。

特別企画

・「復興」への違和感、そして直視すべき問題
・「NEXT WAVE CULTURE-ポスト資本主義下の実践カルチュラル・スタディーズ
・文化と政治――音楽が鳴り止むとき
・抗うアジアの表現と情動 ―― オルタナティヴな<記憶-歴史>を想像する
・たまスタディーズ:国立編
パネル

・パネルは総数が27で、内容も「若者」「ジェンダー」「メディア」「スポーツ」「音楽」「文学」「移民」「沖縄」「東アジア」「多摩」「ポスト資本主義」「サブカル」等々と多岐に渡って行われます

・その他、ブース/グループワーク、シネマタイフーンがあり、演劇やパフォーマンス、ディスカッション、そして伝統工芸やものづくりのワークショップ、あるいは写真等の展示が行われます。シネマタイフーンは福島原発事故のドキュメントを中心に上映され、最後にディスカッションが予定されています。

・このようにカルチュラル・タイフーンは多様な発表を行う場として、すでに10年以上続いてきました。半年以上の準備期間のなかで、院生や学部生、そして一般の人たちが自発的に参加して協力してきたという面もふくめて、一般的な学会とは大きく性格を異にするイベントだと言えます。多くの方々の参加を希望します。

2013年6月17日月曜日

「カルチュラル・タイフーン2013」準備中です

 

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・7月12日(金)から14日まで、東京経済大学において「カルチュラル・タイフーン2013」が開催されます。2003年から始まり、今年で11回目になる今回のテーマは「たまる?たまらん!」。実行委員会での「あーでもない、こーでもない」という長い議論の末に決まりました。
・大学が多摩地区にあること、東京の郊外である以上に、多摩が歴史的に問いかける意味のある地域であること、あるいは忌野清志郎が歌った「たまらん坂」同様に、大学への通学路にはきつい坂道があること、そしてもちろん、原発事故の実態に目をつむって再稼働に動き出した自民党政権に「たまらん!」とnoを言い続けることや「アベノミクス」の口車に乗っても金は絶対に貯まらん!と言いたいこと等々、このテーマには多様な意味が込められています。

ct2013-2.jpg・「カルチュラル・タイフーン」は今回から「カルチュラル・スタディーズ学会」が協賛する大会になりました。しかし、いわゆる学会の大会とは違って、単に学者の研究発表の場に限定されない、幅広く雑多な内容を盛り込んでいます。プログラムの詳細は右のイラストをクリックして、PDFをダウンロードしてください。
・「カルチュラル・スタディーズ」は文化を単独に存在するものとしてではなく、政治や経済や社会との関連の中でとらえることを基本にしています。そのことは、プログラムを見ればすぐにわかると思います。福島の原発事故や沖縄の基地からアジアへ広がる政治的な問題を、文化との関係の中で捉えようとする一方で、音楽やスポーツ、あるいは演劇やアートにある、政治との関わりを見定めようとする視点が数多く見受けられるからです。

・一般的な学会と大きく異なるのは、大会を準備する実行委員会が大学院生や学部生によって担われていることです。大学教員の助手として働くのではなく、自ら委員会のメンバーとして主要な仕事を担当し、大会そのものにも積極的に参加をする。11回目を数える中で、そんな伝統ができつつあるようです。参加する学生はもちろん、都内各地の大学から集まってきていて、東京経済大学の学生達にとっても、他大学の学生との交流の場になってきました。

・大会の準備は昨年の10月からはじまり、毎月の実行委員会の他に、学生のための準備研究会も6回ほど開かれました。学部の学生達を集めて、カルチュラル・スタディーズとは何か、どんなテーマをどんな手法や視点で考え、分析するのかといったことについて、毎回二人の人に話をしてもらいました。

・このように「カルタイ」はきわめてユニークなイベントですが、それだけに、一般的な学会とは異なることを大学に理解してもらい、協力や支援をしてもらうことについては、何度も折衝し、説明をくり返すことが必要でした。そんな苦労と長期間に及ぶ準備の甲斐あって、何とか、開催にこぎつけることができました。大会はもう目前に迫っています。大勢の方の参加を願っていますが、同時に当日の運営に必要なスタッフも募っていますので、関心のある方々の協力をお願いしたいと思います。

2011年9月19日月曜日

韓流ドラマ批判よりずっと大事なこと

 ・フジテレビが韓流ドラマばかり放映しているという理由で批判され、お台場でデモまで行われたそうである。地上波を見ないのでわからないが、BSではどのチャンネルでも韓国のドラマをたくさん放映している。僕はほとんど見ないが、番組が多いということは見る人がたくさんいるわけで、それ自体を理由にテレビ局に対してデモをする理由が僕にはよくわからない。批判するのなら、韓流ドラマにかなわない日本のテレビドラマの貧困や、バラエティで埋めるしか脳のない番組編成の方にあって、それはしかも、文化批判として行われるべきもののように思った。

・夏に韓国を旅行して、明らかに韓流ドラマの影響と思われる日本人旅行者を見かけることがあったし、観光地での案内で、「日本でも見られている〜のドラマで登場した」などと、風景や建物などを説明することも多かった。僕はそう言われてもほとんどわからなかったが、それを見たり、体験したりすることを目的に来る日本人旅行者がかなりたくさんいることはよくわかった。

・韓流ドラマの人気やテレビ局の依存体制は、言ってみればそんな程度のことに過ぎない。ただし、お台場でのデモが千人規模の大きなものだったのに、フジテレビはもちろん、他のテレビ局もまったく報道しなかったのは、おかしなことと思った。原発事故以来、テレビや新聞の報道がいかに作為的なものであるかがあからさまになった。しかし、マス・メディアはそのことをあらためるどころか、一層露骨に続けるようになった。その好例は反原発のデモだろう。9.11には新宿で15000人集まって、警察の規制が厳しくて逮捕者も出たようだが、テレビのニュースはほとんど無視で、新聞でも大半がごく小さく扱われたに過ぎなかった。

一方で、政治家の発言に過剰なほどに反応して辞職に追い込むケースが続いている。所属を名乗らずに大臣を罵声する記者の存在にはあきれるが、問題になった大臣の発言の文脈もわからないし、どの記者に対してなのかもわからない。「放射能をつける」は明らかにオフレコで大臣と記者との間のプライベートなやりとりのはずで、そんなことが記事になること自体がおかしな話なのだから、問われるべきは一斉に報道して問題視したメディアの方なのである。

・「死の街」発言も、何が問題なのかよくわからない。どのような文脈の中で出てきたものかがはっきりしなければならないのに、ただ「死」と言ったことが悪いとされている。本当の理由は辞任した大臣が脱原発を推し進めたり、経産省の人事の刷新を考えていたところにある。こんな裏情報に接すると、メディアに対する批判を強め、そのことを理由にテレビ局や新聞社にデモを仕掛けなければいけないという思いを強くしてしまう。

・それにしても、新聞もテレビも、もうどうしようもないほどダメなところに来てしまっている。それは、政治家(政党)、官僚、そして電力業界のひどさと同レベルで、個々の出来事や人間を非難してすむようなものではなく、制度の根幹に原因があることが自明になっている。誰もがどこもが、保身にしか意識が向かなくて、既得権の確保にばかり精を出している。目を向けるべきものは、けっして韓流ドラマなどではなく、この国が陥っている現実そのものなのである。

2010年11月1日月曜日

ユーラシア大陸をバイクで横断

 

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toy2.jpg・戸井十月がユーラシア大陸をバイクで横断した記録をNHKのBSで見た。4回に渡る放送だったが、おもしろかった。30年間バイクに乗ってきた者としては、夢のようなツーリングだが、彼はすでに南北アメリカ、アフリカ、そしてオーストラリアを走っていて、今回が五大陸を走破する、締めくくりの走りだった。はじめたのが1997年で、彼はその時49歳、走破した去年の秋には61歳になっていたようだ。

・僕は彼と同年齢で、白髪頭や走行中に見せた疲れた顔には親近感を持ったが、僕はバイクを、すでに50歳を過ぎた頃にやめている。寒さや暑さが応えるし、肩もこる。バランス感覚や一瞬の判断力にも自信がなくなったのが、やめた理由だった。だから、50歳近くになって5大陸の走破を目指したことに、驚き、憧れ、そしてあきれもしたのだが、還暦を過ぎて走破したことには、もう、ただただ敬服するしかない思いがした。

・ユーラシア大陸をポルトガルから出発して、ロシアのウラジオストックまで、その距離は3万キロで旅程はおよそ4ヶ月だ。飛行機で飛べば 12時間ほどで、それでも長いと感じる時間だが、3万キロというのは実際走ってみなければ、その距離の長さはわからない。しかも、いくつもの国を走るのだから、国境を越える手続きや、ことばや食べ物の違いなど、苦労することはいくつもある。

・ 横断した国はポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、スロベニア、クロアチア、モンテネグロ、アルバニア、ギリシャ、マケドニア、トルコ、イラン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、中国、モンゴル、そしてロシアの19カ国で、緊張状態の地域ははずすとはいえ危険なところは少なくないから、ルート選びは大変だったろうと思う。バイクと伴走車はホンダ、ウエアはヘンリー・ビギンズの提供で、全行程をサポートするスタッフが3人で、その他に各地で同行者が何人もいた。当然だが、相当の費用がかかったはずだ。

・放送は4回で計6時間にもなったが、通過した土地それぞれにさく時間は多くはない。大きな都市でも一瞬だったりするし、通ったのにまったくふれないところもあった。その代わりに、国境の通過、宿探しと値段の交渉、通りすがりの人に道をたずねることやガソリンスタンドで出会ったツーリング・グループとのおしゃべりなどに時間を割き、これまでに走った他の大陸でのさまざまな経験や出会いを挟み込んだりした。だから、番組は、戸井十月がユーラシア大陸をバイクで駆け抜けるロード・ムービーで、これはこれで焦点をはっきりさせたものに仕上がっていたと感じた。

・番組を見た後ネットで検索して、戸井十月のサイト越境者通信を見つけた。ここには出発前から走破後までの毎日の日記や計画概要やルート、装備などに渡る細かな記事が載っている。もちろん、過去にした4つの大陸走破についても、同様の記録が残されている。テレビ番組には登場しなかった出来事や人物についての記述も多くて、これはこれでいくつもの頁を次から次へと読んでしまった。彼のような大胆で大がかりな旅はとてもできそうにないし、する気もないが、ほんのちょっとでも、似たような経験をしてみたい。そんな気持ちをかき立てる番組とサイトである。

2010年10月4日月曜日

そうかな?って思うことばかり

・ここのところ、目にするニュースに首をかしげることが多い。僕がへそ曲がりのせいなのかもしれないが、どこでも、誰もが同じようなことを言い過ぎる。余りに儀礼的であったり、社交的であったりするし、また無礼であったり、偉ぶっていたりもする。だから、そのたびに、「そうかな?違うんじゃない?」とつぶやいてみたくなる。

・例えばイチローが今年も200本を越えるヒットを打った。ものすごい記録だと思う。しかし、彼が所属するマリナーズは今年も地区最下位で、早々と優勝戦線から脱落している。孤軍奮闘のように書かれたりするが、本当にそうなのだろうか。野球はチーム・スポーツだから勝つことが一番で、そのためにどう貢献したかが最大のポイントになる。イチローの今シーズンの成績は、安打数は一番だが四死球は60位以下、得点は50位台で安打数だけが突出していることがわかる。

・マリナーズに来ると成績ががた落ちして、よそに移るとまた活躍する。そんな選手が結構いる。理由はわからないが、マリナーズには優勝に向かって選手の気持ちを鼓舞して一つにするリーダーが見あたらない。それは誰よりイチローが果たすべき役割のはずである。もっとも、その役割を担ったWBC では、極度の不振と胃潰瘍に悩まされたから、彼の一番苦手なところなのかもしれない。

・白鵬が千代の富士の連勝記録を超えて、今場所も全勝優勝をした。朝青龍とは違って心技体の備わった名横綱だと賞賛されている。来場所には伝説的な双葉山の69連勝を越えるかどうかで大騒ぎになるのだろうと思う。しかし、朝青龍が辞めさせられずに続けていたらどうだったかと考えると、彼の記録は、朝青龍に浴びせられた非難や批判があったればこそではないか、と言いたくなってしまう。白鵬が強いのではなくて、他の力士が弱すぎる。だからニュースにはなっても盛りあがらない。先場所はともかく今場所も、客席は閑古鳥の日が多かった。

・相撲について気になることをもうひとつ。魁皇が今場所もやっと勝ち越して、次の九州まで首をつなぐことができた。その姿勢に大絶賛で、死力を尽くしてよくがんばったと言った声が繰りかえされた。しかし、彼はもう何年も前から8番程度しか勝てない大関で、引退した千代大海同様、相撲をつまらないものにした張本人でもあったのである。

・とは言え、一番首をかしげるのは、何と言っても政治に関連した出来事だろう。尖閣列島を巡る中国と日本のやりとりについて、中国の強硬さには驚きを感じたが、それに対応した日本政府のだらしなさを批判する声にも驚くやらあきれるやらで、その感情的で短絡的な反応におもしろさと怖さの両方を感じてしまった。確かに、船長釈放の後に「謝罪と賠償」を請求されたり、フジタの社員が拘束されたりと、日本がやられっぱなしと言う印象は明らかだ。けれども、中国の態度は日本に向けられているばかりでなく、それ以上に、国内にも向けられている。そのことの意味を感じ取らずに、ただただ負けて悔しい、恥ずかしいと言った反応ばかりがめだったようだ

・政治はドラマであり、またゲームである。中国をはじめとした旧共産圏の国では、そういった色彩が過度に強調されてきた。そのわざとらしさは現在の北朝鮮の様子を見れば一目瞭然だろう。それに比べて日本の政治は、ドラマとしては三文芝居のようにお粗末で、客席からはヤジのかけ放題だ。政治家を名指しで「アホ」呼ばわりし、腰抜けだとバカにする。確かに、今の日本にはまともな政治家はいないのかもしれない。しかし、逆に言えば、誰がなってもうまくはいかないほどむずかしいのだとも言える。

・日中の問題は、中国の強硬さに対する欧米の政府やメディアの批判によって、ちょっと局面が変わってきた様子だ。ひょっとしたら日本の弱腰が「負けるが勝ち」「損して得取れ」といった流れになるのかもしれない。そうだとすると、それは日本人の得意なパターンだが、最初からそれを狙っていたわけではないはずだから、政治家は相変わらず、バカにされる対象でしかないのかもしれない。

2010年5月3日月曜日

アフリカの音楽が伝えること


Razia Said"Zebu Nation"
Youssou N'Dour"Egypt"

・アフリカのマダガスカル島は行ってみたいところの一つだ。バオバブの木やキツネザルなど、島独特の動植物があるし、アフリカとはちょっと違う島だからだ。しかし、現状はかなり違っている。そんなことを歌うアルバムを見つけた。教えてくれたのは「インターFM(76.1)」の「バラカン・モーニング」だ。

razia.jpg ・ラジア・サイードの"Zebu Nation"はマダガスカル島の環境破壊を告発することをテーマにしたアルバムだ。稲作と牧畜、コーヒー、そしてバニラといった農業の発展で森林が伐採され、土壌の浸食と砂漠化が深刻な環境破壊を招いている。ラジアの歌はアフリカの音楽そのままに明るく軽快に聞こえるが、彼女が伝えるメッセージは切実だ。現地のことばの他に英語とフランス語が混じる歌詞で直接聞き取ることはできないが、ジャケットには収録された曲の内容が、それぞれ説明されている。

・たとえば、"Yoyoyo"は貧困や悲惨、そして部族紛争に苦悩するマダガスカルへの応援歌だし、"Ny Alantsika"は植物や動物の泣き叫ぶ声に耳を傾けろという訴えだ。そのほか、このアルバムには、焼き畑農法で森がたった1割になったと歌う"Slash and Burn"や、自然の回復の大切さを訴える"Tsy Tara"、この地に伝わる雨乞いの歌"Lalike"、と太陽と会話をする"Tiako Ro"、そして、目を覚まして立ち上がれと人びとを鼓舞する"Mifohaza"などが収められている。
・歌の内容を説明するというのは、メッセージをできるだけ遠くに、多くの人に届けたいという気持ちのあらわれで、ジャケットには、このアルバムが、しばらくぶりに帰ったマダガスカルで出会ったミュージシャンと、改めて気づいた故郷の現状のひどさ、そして、母語で歌われた歌がもたらしたインスピレーションの産物であることも書かれている。聴きながら、レゲエというあたらしリズムに乗せて軽快に歌い、ジャマイカの惨状を告発したボブ・マーレーを思い浮かべた。

youssou1.jpg ・アフリカのさまざまな問題を世界に向けて訴えるアフリカ出身のミュージシャンは、もちろん、彼女がはじめてではない。というよりは、注目された人たちは例外なく、優れた音楽性だけではなく、その政治的な主張や明確な立場の表明によっても評価されてきたと言っていい。その代表的存在であるユッスー・ウンドゥールの"Egypt"は、これまで出したアルバムとは違って、エジプト人のミュージシャンをバックにして、イスラム教をテーマにしている。この作品がアフリカで物議を醸したことはNHKのBSで放送されたが、それは、イスラム教が偶像を禁止し、神について語ることも戒めているからだ。つまり、イスラム教やアラーの神については、それが批判でなくても、歌になどしてはいけないとされているのである。

・彼が宗教を歌にしたのはイスラム教に対する誤解をただすという狙いがあったようだ。彼の故郷であるセネガルでは、アラーの神は自分自身の運命と日々の生活を律する唯一の神として信仰されている。それはセネガルのことばで歌われているようだが、どれにも英語の対訳がついている。前記した"Zebu Nation"とあわせて、"Egypt"は歌が何よりメッセージを伝えるアートであることを思い出させてくれる。このコラムで何度も繰りかえしているが、日本人が歌う歌には、こういったメッセージという要素はほとんどない。

・ところで「バラカン・モーニング」だが、月曜日から金曜日の朝7時から10時の放送で、僕は家にいるときはほぼ毎日、そして仕事に出かける日もカー・ラジオで聴いている。カー・ラジオでは、雑音がずいぶん入って聴きにくいことが多いのだが、どういうわけか奇跡的に、我が家ではこの番組が雑音なしに聴けるのだ。毎朝かかる曲には、すでに持っているものが多いし、話題にするミュージシャンにもなじみの人がよく出てくる。イギリス人だが、同年齢で、同じような経験をして、同じような音楽を聴いてきた人で、僕にとっては、自分で選曲しているかのように思うことが少なくない。その分、ipodを聴く時間が減った。

2010年4月5日月曜日

トニー・ガトリフの映画

・トニー・ガトリフは一貫してロマをテーマにした映画を作ってきた。母親がロマ人という自らの「アイデンティティ」と、迫害を受け続け、無視されてきたロマの歴史と現状を物語にしている。そのうちの何本かをDVDで購入した。

tony1.jpg ・『ガッチョ・ディーロ』は1997年につくられている。題名はロマ語で「愚かなよそ者」という意味で、死んだ父が追い求めたロマの音楽をさがしてルーマニアを旅するフランス人青年の話である。雪道を歩いてたどり着いた村で、ロマの老人に出会い、そこで酒を飲んで、家に泊めてもらうのだが、最初はうさんくさいよそ者として怪しまれながら、少しずつ中に溶けこんでいく。受け入れてもらうために何より必要なのは、ロマのことばを覚えて使うことで、その相手は好奇心旺盛で彼のまわりに集まってくる子どもたちだった。
・老人はバイオリンの名手で、彼が率いる村の楽団はブカレストのレストランや結婚式に呼ばれて演奏をして現金を稼いでいる。そんなふうにして受けいられている反面で、ロマは嫌われ、差別もされている。老人の息子は不当な罪で投獄されていて、老人はそのことを繰りかえし怒り、また悲しむ。その息子は数ヶ月後に出所するが、酒場で投獄の原因になった村人たちに暴力を働いて、逆にロマの集落を焼かれ、殺されてしまう。
・登場人物のうち俳優は主人公の青年を演じるロマン・デュリスだけだ。彼と恋仲になるダンサー(ローナ・ハートナー)はロマの歌手だし、老人はガトリフがたまたま現地で見つけたバイオリン弾きだ。そんな人たちによって展開される物語が、まるで名優たちの演技のようにリアルに伝わってくる。噂話や猥談に花を咲かせる女たちや男たち、そして誰より登場する子どもたちの様子は、まるでドキュメントのように自然だ。

tony2.jpg ・ロマはインド西部から中近東を経てヨーロッパに移動し、各地でその地の音楽に独特の味つけをして発展させた人たちだ。ガトリフが映画のテーマにするのはそんなさまざまな音楽で、『ベンゴ』(2000)はスペインとフラメンコが主題になっているし、最新作の『トランシルバニア』(2006)が描くのはヴァルカン半島のロマと音楽だ。もちろん、音楽はそれぞれに違い、踊りもまた多様だが、映画を続けてみると、そこにはまた変わらないロマの特徴も感じられてくる。ガトリフの作品には千年に及ぶロマの旅を描いた『ラッチョ・ドローム』(1992)があり、ここでは、迫害を受けながらも、各地の音楽や踊りに欠かせない存在となったことが力説されている。けれどもまた、ロマはそれぞれの地でもロマとして独立し、けっして溶けこもうとはしてこなかったのである。

gypsy3.jpg ・もう一本、ジャスミン・デラルの『ジプシー・キャラバン』は、各地のロマが一緒になってアメリカを演奏旅行したドキュメントだ。スペイン、ルーマニア、マケドニア、インドから5つのバンドが参加したツアーはアメリカやカナダで大絶賛を受けるが、出演者たちの間には、共通性よりは互いの違いに対する違和感の方が強く出てしまう。インドの演奏や踊りに顔をしかめ首を振るフラメンコのダンサーなどの様子は、ロマ同士の間にはほとんど何の繋がりもない現状が浮かびあがってきて、興味深かった。
・もちろん、6週間に及ぶ講演旅行の間には、互いの間にある違いをこえた一体感が生まれてくる。ロマの血を引く人たちは、ヨーロッパに 600万から900万人、アメリカにも100万人と言われている。統計には出てこない人や混血をして溶けこんだ人などを加えれば、その数ははるかに多いようだ。そして、その人たちをつなげるルートや組織は、今のところほとんどない。