ラベル Society の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Society の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年11月7日月曜日

村瀬孝生『シンクロと自由』(医学書院)

 

僕の両親は10年前に老人ホームに入り、父は数年前に亡くなって、母はまだお世話になっている。コロナ以降会えずにいて、直近の記憶が怪しくなっていたから、今会っても、僕のことはわからないかも知れない。淋しい思いをしているのではと考えたりもするが、子どものことがわからなくなっているなら、それも感じないのかもしれない。いずれにしても、老人の介護は大変で、それを免れているのは、正直なところ助かっている。

murase1.jpg 村瀬孝生の『シンクロと自由』は介護の現場におけるレポートだ。介護現場では、どうにもならない認知症の老人に対して、我慢の限界を超えて暴力を加えてしまうことがあるようだ。犯罪のように扱われるが、そうなることはあるだろうな、と思うことが少なくなかった。そうならないために、介護する人はどうしたらいいか。この本に書かれているのは、介護する人とされる人が右往左往しながらも、やがて互いの心が通じ合う瞬間に出会うという物語だ。それがまるで漫才のぼけと突っ込みのようにして語られていて、面白いと思った。

食事を食べてくれない。どこにでも排泄してしまう。身体を触られるのを拒絶する。預金通帳が無くなったとくり返し言う。夜中の徘徊。家に帰ると言って聞かない。それを無理やり強制したり、叱ったりするのではなく、なぜそうするのかを探り当てようとする。そうするとその原因が分かり、改善する方法が見えてくる。何かを教えるのではなく、逆に教えてもらう。そんな発想の大切さが「シンクロ」ということばでくり返し語られている。

そんな発想は「自由」と言うことばにも及んでいる。不自由な身体には新たな自由がもたらされているはずだし、時間や空間の見当がつかなければ、そこから解放されてもいるはずだ。子どものことがわからなければ、親の役割も免じられているし、忘れてしまえば毎日が新鮮になる。「それらは私の自己像が崩壊することであり、私が私に課していた規範からの解放でもある。私であると思い込んでいたことが解体されることで生まれる自由なのだ。」

father1.jpg この本を読んで、この欄で紹介しようと思っていたら、たまたまアンソニー・ホプキンス主演の『ファーザー』をAmazonで見た。認知症が進んで、徐々に昔の記憶が薄れ、娘や近親者との関係があやふやになっていく。その過程を、主人公と周囲の人の両方の立場から描いていて、そのリアルさに引き込まれた。老人はやがて自分が誰だか分からなくなっていくが、映画ではそれがつらいこととして結論づけられる。

『シンクロと自由』と『ファーザー』は、心や身体の解体をまったく異なる視点で捉えている。心や身体がまだ正常だと思っている立場からは、映画の方にリアルさを感じるが、実際にそうなった時の自分を想像した時には、それが新たな自由に思える心持ちになりたいものだと感じた。

2022年10月3日月曜日

やめられない、とまらない!?

 

大多数の反対にもかかわらず安倍の国葬が強行された。反対が多くて国葬を国葬儀と変えたりしたが、これを国賊葬だと思った人は少なくなかっただろう。もちろん僕もその一人だ。だからテレビ中継などは見ていないし、新聞記事もいっさい読まなかった。腹が立つより反吐が出る。反対が多かったら止める。それができないのは今度も一緒だった。これを日本人が持つ精神性として理解する人もいるが、そうではない理由も、オリンピックにまつわる利権で明らかになりつつある。

安倍の蓋が外れたせいで、検察がオリンピックにまつわる疑惑を追及しはじめている。オリンピック委員会理事の高橋治之が五輪スポンサーの選定をめぐって衣服のAOKIや角川書店等から賄賂を受け取っているという疑いだ。すでに1ヶ月半も拘留されているが、疑惑はさらに広がりを見せている。オリンピックを支援するスポンサーには4ランクあって、問題になっているのは一番下の「オフィシャルサポーター」である。ここに入るためには10億円程度の支援金が必要とされているが、高橋は、それを安くする見返りとして賄賂を要求したというのである。

もちろんこれは高橋一人に留まるものではない。委員長であった森喜朗やJOC会長だった竹田恆和の名前が取りざたされている。そもそも竹田はオリンピックの招致活動の際にアフリカ諸国の票を集めるために賄賂を使ったとして、フランス検察から疑惑を投げかけられてJOC会長を辞めているのである。そしてここには、買収資金をめぐって菅義偉や嘉納治五郎財団の名前も挙がっている。さらに、招致活動の裏には神宮外苑再開発にまつわる利権の話もあって、それを実現させるためにオリンピック招致を口実にしたのでは、といったうがった見方もする人もいる。オリンピックをだしに使って利権を手に入れようと画策したとしたら、これはとんでもない大疑獄事件になるだろう。

こんな話を耳にすると、たとえコロナがひどいことになっても強行せざるを得なかったはずだと納得させられてしまう。止められないのは利権のせい。そう考えると、原発政策も、コロナに対する対応のまずさもストンと腑に落ちる。地震と津波であれほどの被害が出たのに、再生可能エネルギーに大転換できなかった。コロナについてもワクチンや治療薬の開発ができていない。日本のIT開発の遅れは致命的だと言われているが、これも大企業と官が繋がって、新しい開発や流れを押さえ込んだからだとされている。輸出を牽引した自動車産業も、ハイブリッドや水素にこだわるトヨタのせいで電気自動車が開発できていない。

最近の円安と物価高の原因がアベノミクスの失敗にあるのは明らかだが、何の手だてもない日銀には、もはやどうすることもできない。円安と物価高はますます嵩んでいくし、日本の財政破綻といった危機的状況だって考えられないことではない。政治も経済も社会もめちゃくちゃにした安倍は国賊ものだ。そう言ったのは自民党議員の村上誠一郎だが、そんな声はわずかで、メディアの多くも押し黙っている。やめられない、とまらないの先に何が待っているか。末恐ろしい限りである。


2022年8月15日月曜日

国葬なんてとんでもない

 

安倍元首相が亡くなってすぐに、岸田首相が国葬にすると言いました。耳を疑うことばでしたが、今のところ行われる予定のようです。戦後の国葬は吉田茂以来ですが、安倍晋三に一体どんな功績があったと言うのでしょうか。功などはなくて罪、それも大罪ばかりだったと言えるでしょう。そのことを確認するために、この場で書いたものを挙げてみました。(ブログで安倍アベと検索すれば、すべてを読むことが出来ます。)
・厳冬の時代へ(2014/1/2) ・NHKはAHK(2014/2/3) ・自滅解散に追い込まねば(2014/12/8) ・こんな選挙は無効にすべきだ!(2014/12/15)
・メディアの翼賛体制構築を批判する声(2015/2/16) ・メディアの自由度(2015/4/6) ・「ダブル・スピーク」乱発と無関心(2015/5/18)
・空恐ろしい「アベ」の時代(2015/5/25) ・無責任体制の極み(2015/8/17) ・世論操作の露骨さ(2015/12/7) ・2015という年(2015/12/28)
・2016という年(2016/2/8) ・中立公正とは政府に従うこと(2016/2/15) ・桝添イジメで隠されたもの(2016/6/20) ・NHKは大罪(2017/5/29) ・卑劣な解散に怒りを(2017/9/25) ・立憲民主党に(2017/10/30)
・政権が倒れない不思議(2018/3/12) ・最後まで嘘の安倍政権(2020/9/14) ・テレビは政権の広報機関になった(2020/10/5) ・拝啓菅総理大臣様 (2021/9/6)
・安倍元首相の死で見えてきた闇 (2022/7/18) ・ニュースはネットで(2022/7/25)
安倍の功績として言われるのはアベノミクスと外交ですが、日本の経済がこの10年にどれほど落ち込んだかは、円安と賃金安、GDPの低下、それに日銀の政策破綻で明らかです。彼は国会で100回以上の嘘をつきましたが、その間におきた森友加計や桜問題などで政治を大混乱させました。国会の軽視や官僚の堕落、そしてメディアへの圧力など、あげたらきりがないほどです。

頻繁な外遊でばらまいたお金は途方もない額になっています。防衛費の倍増の多くは、アメリカの言いなりで約束した武器の購入費に当てられます。その武器の多くは実際に役に立つのかどうか、わからないものが多いのです。プーチンとも何度も会いましたが、北方領土は結局帰ることがない状態になってしまいました。台湾有事は日本有事などと発言して、中国の脅威を煽っていましたが、中国や韓国との関係を悪化させたのも、彼の外交政策が原因でした。

「今だけ金だけ自分だけ」といった風潮を招き、浸透させたのも彼の言動によるところが多かったでしょう。結局は地位や金がモノを言う。社会や他人がどうなろうと自分さえよければそれでいい。これこそ安倍政治が招いた風潮で、そんな態度が政治や経済、そして社会のトップにいる人たちに共有され、それに忖度する下の人たちに蔓延してしまっているのです。

ですから、彼が凶弾に倒れたのは自業自得だと言えるかもしれません。銃を自作してまで殺そうと思った山上容疑者の思いは、その成長過程で味わった苦悩で十分に理解できるものでした。その後に発覚した安倍と旧統一教会の関係、多数の自民党議員との癒着と、それに対する言い逃れを聞いていると、日本の政治も落ちたものだとあきれるばかりです。岸田首相は慌てて内閣改造をやりました。統一教会に関連する議員を排除するといいましたが、新しい閣僚の中にもごろごろいます。

世論調査では国葬に対する支持は半数を割って反対より少ない状況です。おそらく支持の数はもっと減ることでしょう。それでも国葬を強行すれば、それは日本という国自体の葬儀になるでしょう。旧統一教会が韓国で集会を開き、安倍の追悼をやりました。各国から要人も出席し、トランプのメッセージもあったようです。もうこれで十分ではないかと思いました。

2022年7月18日月曜日

安倍元首相の死で見えてきた闇

 
安倍元首相が選挙演説中に手製の銃で撃たれて亡くなった。実行した山上徹也容疑者は、母親が入信した旧統一教会で自己破産をさせられたために、彼自身の人生が台無しにされたことを恨んでの犯行と自供しているようだ。安倍は実際、統一教会の広告塔のような役割をやってきたから、韓国にいる教会の教祖を襲うよりは狙いやすいと判断したようだ。奈良の西大寺駅前での犯行は、警護の不備もあって容易だった。

統一教会は文鮮明によって第二次大戦後に韓国で始まり、1954年に「世界基督教統一神霊協会」という名で創設された。日本では64年に宗教法人の認可を受け、「原理研究会」という名で大学生への伝道が始まり、68年には共産主義に反対する「国際勝共連合」が設立された。この設立には安倍の祖父である岸信介が協力したと言われている。統一教会は霊感商法や合同結婚式などで話題になり、批判を受けて、現在では「世界平和統一家庭連合」と名称を変えている。

このように、安倍と統一教会との関係は祖父の岸信介から繋がっている。岸は戦犯として裁かれることをまぬがれ、1950年代の後半に首相になり、60年に大きな反対運動があった中で安保条約を改定させた人である。その裏には当然だが、アメリカの思惑が働いていた。それだけでなく、戦後の日本の政治体制をどう作るか。平和憲法を制定し、同時に共産主義に対抗できる政党を組織して、アメリカに従う体制を作り上げるにはどうしたらいいか。その役割を担う人として岸が使われたと言われている。そして、統一教会を立ち上げた文鮮明との関係を取り持ち、国際勝共連合を設立したのもアメリカの働きによるものだったようだ。

安倍と統一教会との間にはこのような深い闇のような関係がある。そう思えば、彼が主張してきた政策の多くに統一教会の教義との類似点を見つけることはたやすい。反共産主義は言うまでもないが、「世界平和統一家庭連合」という名称のように家庭や家族に対する考えも似通っている。社会を支える基盤には家庭がある。だから夫婦別姓も、子どもを生産しない同性婚も認めることはできないし、LGBTなどのジェンダーフリーも性教育ももってのほかという主張だ。もちろん憲法を変え、軍備を増強させるという方向性にも共通点がある。そしてこのような主張は日本会議や神道政治連盟といった極右の勢力とも一緒だ。

安倍が首相として在任した間にやったことは、まさにアメリカの言うなりの「アメポチ」外交だった。安倍政権が長く続いたのは、その服従的な姿勢の他に、キリスト教原理主義を後ろ盾にリベラルな政策を逆戻りさせたトランプ元大統領との共通点の多さにもあった。何しろアメリカにとって、日本が属国のままでいてくれることが、何より重要なことであるから、安倍ほど扱いやすい政治家は他にはいなかったのである。長期政権を可能にした一番の理由がここにあったことは言うまでもない。

自民党を始めとして政治家の多くは、「世界平和統一家庭連合」が提供する資金や無償で働く秘書の世話になっているという。そのリストも公にされているが、マスメディアはそのことをいっさい追求していない。何しろマスメディアは選挙が終わるまでは統一教会の名前を出すこともしなかったのである。しかし、週刊誌やネットなどでこういった隠された実態が暴露されはじめてもいる。安倍という大きな箍(たが)が外れた今、これからどんな事実が闇からあからさまになっていくか。興味津々だが、それはまた日本の混乱と衰退を進める要因になるだろう。岸田首相は安倍を国葬にすると発表した。僕にはそれが日本自体の国葬のように聞こえた。

2022年7月4日月曜日

デジタル化できない手続きにうんざり

 従兄弟が死んで仮の喪主になった時に、火葬の手続きの書類で難儀をしました。直筆で印鑑が必要だというので書類を郵送してもらい、届くとすぐに書いて送り返したのです。また、生命保険の受け取り人が僕になっていて、それを受け取るための手続きも直筆の書類でした。しかも免許証とマイナンバーのコピーを添付しろということでした。保険金自体は入金と同時に後処理を任せた甥っ子に振り込みましたが、その手続きはパソコン上で瞬時にすることができました。

退職をしたこととコロナの影響で、東京にはほとんど行かなくなりました。これからも特に用事がなければ行かないでしょうから、東京の金融機関に預けてある定期預金を解約しようと思いました。ところが解約は口座を作った支店に直接出向かなければできないのです。定期預金とは言っても利息は0.001%といったもので、ほとんど増えてはいません。ところがその解約にクルマで出かければ、高速道路料金とガソリン代で1万円近くかかってしまうのです。あまりに阿呆らしいので、いつになるかわかりませんが、何か用事ができた時についでに行くことにしました。

近くの金融機関で少額づつ貯めていた定期預金を解約してひとつにまとめることにしました。すぐにできるだろうと思って出かけたのですが、解約には一口ずつ書類を書く必要がありました。日付は令和で、住所は郡から、口座番号や預金番号を書いてハンコを押す。そんな作業を何枚もしなければなりませんでした。ハンコはどこでも買える三文判ですが、きれいに押してないものはすべてやり直しをさせられました。で、待つこと数十分。次にお金をまとめた新しい定期預金のための書類を書いて、また十数分。1時間以上もかかる作業でした。

こんな面倒な手続きは他にもたくさんあります。その多くはデジタル化すれば、家にいてパソコンやスマホでできるはずのことばかりです。直筆で記入といったって筆跡鑑定をするわけではないですし、押印といっても印鑑登録をしたものでなくてもいいのです。今までの慣例だからという以外に何の理由もないでしょう。マイナンバーを記入して、それを証明するカードや紙をコピーして添付するのは、一体何のためなのでしょうか。そもそもマイナンバーは今のところほとんど役に立たないもので、懸命の宣伝にもかかわらずカードは一向に普及していないのです。

こういう経験をすると、日本のデジタル化の遅さをつくづくと実感します。デジタル庁を作ったってうまくいくはずはないのです。ひとつひとつデジタル化できるところから地道に実現していく。そんな姿勢が国にも自治体にも企業にもまったくなかったのです。もちろん、今まで通りのアナログのやり方がいいという人はいるでしょう。けれども、アナログとデジタル、その二本立てでやれば、そういう人たちに無理やりデジタル化を強制する必要はないのです。

日本の経済が凋落した最大の原因が、このデジタル化の失敗にあったことは明らかです。率先してデジタル化を進め、ソフトを開発すれば、ハードの需要も増して、日本の半導体産業がこれほど衰退することはなかったでしょう。その遅れに気づいた時には中国はもちろん韓国や台湾にも負けて、立ち直れないほどになってしまったのです。さらに不幸なのは、政治家も官僚も企業家も、こういった現状に危機感を持っていないことにあります。ですから、日本はますます落ちていく。煩雑な手作業の手続きにうんざりしながら、こんな文句を言いたくなりました。

2022年5月9日月曜日

ウクライナについての本

 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)
オリガ・ホメンコ『ウクライナから愛をこめて』(群像社)



ukraine1.jpg ウクライナには多くの民族や国が争ってきた長い歴史がある。その地を求めたのは温暖で肥沃な黒土にあったし、近代以降では鉄鉱石や石炭が産出されたからだ。紀元前からキンメリアやスキタイといった遊牧民が住み、古代ギリシャが植民都市を作った。2世紀の東ゴート族,4世紀のフン族の支配などがあってスラブ民族が住みはじめたのは6世紀以降だと言われている。ウクライナやロシアの起源となったキエフ大公国が生まれたのは8世紀のことだった。欧州最大の国家となるほど隆盛したが、モンゴル帝国の侵攻によって13世紀の初めに滅ぼされている。

黒川祐次の『物語 ウクライナの歴史』にはこれ以降の中世から近代、そして20世紀の終わりまでの歴史が書かれている。これを読むと,ウクライナは絶えず、周囲の国が争って占領をくりかえしてきた土地であったことがよくわかる。東にはキエフ大公国から派生したモスクワ大公国(後にロアシ帝国)があり,南にオスマントルコ、西にはポーランドとハンガリー,そして北にはリトアニアがあって,クリミア半島にはモンゴルの末裔であるタタール人のつくるクリミア汗国もあった。

ウクライナが国家として最初に成立したのは第一次大戦後だが、第二次大戦後にはソ連に併合され,現在のウクライナになるのはソ連崩壊後の1991年である。だから新しい国だと言えるが、ウクライナに住んで農耕の民として生きてきた人の中には、どこの国に占領されようと独自な民族だという意識が続いていた。その象徴がコサックと呼ばれた軍事的な共同体で、17世紀には一時期,国家として成立しかかったこともあった。

この本を読むと、ウクライナがロシアの一部であるかのように主張して侵攻するプーチンの言動とはまったく異なる,ウクライナの民であることと、独自な国家であることを求めて戦ってきた長い歴史があることがよくわかる。

ukraine2.jpg オリガ・ホメンコの『ウクライナから愛をこめて』は20世紀のウクライナの歴史を、身近な人たちの経験として語っている。ロシア革命によって53ヘクタールもあった土地を取り上げられたひい爺さんのこと、チェルノブイリ原発事故が原因で白血病で若死にした再従兄弟(はとこ)のこと、ユダヤ人ゆえににシベリアに避難して、ドイツ軍を助けたことを理由に赤軍に炭坑へ連れて行かれて、あるいはロシア革命からパリに逃れたために結婚できなかった、いくつもの男女の話などである。

ソ連によるウクライナ支配は70年続いたが,その間にことばや宗教が否定された。そのことばを取り戻すために子守歌を集める人がいる。あるいはキリスト教の聖像(イコン)を探して町で巡回展する人もいる。都市に住む人が田舎に別荘を持って、そこで野菜や花作りを楽しむ人が増えている。白パンに憧れて教師になった母のこと、出版の仕事をしていたが,本当はパイロットになりたかった父のこと。どんな話の中にも、ドイツやソ連に占領されたことで負った傷が見え隠れする。

著者のオリガ・ホメンコはキエフ大学で日本文化を専攻し,東京大学に留学して,現在ではキエフの大学で日本史を教えている。だからこの本も日本語で書かれている。中にはキエフの町を散歩しながら,名所旧跡を案内するところもあって、今はどうなっているのか気になった。行ってみたいと思わせる案内だが、今はとても無理。

彼女は2月に『国境を越えたウクライナ人』(群像社)を出している。その直後にロシアの侵攻が始まったのだが、彼女のTwitterにはキエフ周辺やウクライナ全体のこと、そしてもちろん、占領されたリ避難したりしている、友達や教え子のことなどが日本語で書かれている。

2022年4月25日月曜日

SNSは誰のものか

 
Twitterの株をテスラ社CEOのイーロン・マスクが買い占めて、買収を提案したようだ。Twitter社は拒否したからマスクは敵対的買収に乗り出すと言われている。その目的はTwitterをもっと自由な表現の場にして、「世界各地で言論の自由のためのプラットフォームになる可能性」を実現させることだとしている。もっともらしい言い分だが、どこまで信じられるだろうか。彼はこれまで表現や言論についてほとんど発言をしてこなかった人である。ただし彼の発言は主としてTwitterでなされてきたから、不満を感じていたのだろう。

Twitterのアクティブユーザーは2億人程度だから、20億人も持つFacebookやYouTubeに比べたら、規模の小さなものである。時価総額でもFacebookやInstagramを有するメタ・プラットフォームズ社の約70兆円の一割以下の約5兆円でしかない。ただし、Twitterには影響力のある政治家やジャーナリスト,あるいは学者の発言の場という性格があって、国内はもちろん,世界的に世論を動かす力にもなっている。トランプ前アメリカ大統領は,自らの政策をまずTwitterで発表したりもしていたのである。

そのトランプは現在Twitterを追放されているが、マスクはトランプと懇意だというから、表現の自由を理由に,復帰を認めさせるかもしれない。制限を大幅に緩和して、誤報もフェイクも差別発言もありということになれば、Twitterの信頼感は地に落ちるということになりかねない。

もっともマスクの資産の多くはテスラ社の株だから、それを売らなければツイッターを買収する資金は得られないようだ。現実的には無理なことを,話題作りにぶち上げただけだと批判する人もいる。あるいは仮に、時価より高い買収提示額で買おうとしても、Twitter社の株主は,容易には売らないだろうとも言われている。Twitterをマネーゲームに巻き込むことで,かえって大きな反感を買うことになるかもしれないのである。

個人が友達の輪を広げるために使うFacebookや、高収入を得ることを目的にした人が活躍するYouTubeには巨額の広告収入が得られるメリットがある。しかし言論の場という性格が強いTwitterは広告も少ないから、経営的に決して儲かる会社ではない。実際これまでに倒産の危機を迎えたこともあった。その意味では。世界的に重要なメディアになっても、常に収入確保に苦心しているWikipediaと似たものだと言えるかもしれない。

僕は時折やってくるWikipediaの要請に応えて少額の寄付をしている。スポンサーや広告収入に頼らずに,非営利の財団を作って運営しているものを利用するからには,それなりの対価を払うのが当然だと思うからである。すでに世界中の人が利用して,政治や経済,そして社会に大きな影響を持つ場になったTwitterも、個人が所有するものではなく、利用者の代表によって管理運営されるべきものになっていると思う。もちろんその仕方は世界共通のものではなく、国ごとに異なるものになる。そんな面倒なことにいちいちつきあうほどイーロン・マスクは暇ではないはずである。


P.S.Twitter社が一転,イーロン・マスクの買収提案を受け入れたようだ。一部の大株主の意向のようだが、すべて買い占めるのに年内はかかると言う。世界的な言論の場が一人の所有物になったらどうなるか。株主の中には,このTwitterの持つ社会的・政治的意味を考えて,高値だって売らないという人がいないのだろうか。 

2022年4月18日月曜日

見田宗介の仕事

 

見田宗介さんが亡くなった。一度もお会いすることはなかったが、若い頃から大きな影響を受けた人だった。だから当然、訃報に接して、彼の著書を読んだ時に驚いたり納得した様子がよみがえってきた。

僕が最初に読んだのは『価値意識の理論』(弘文堂、1966)だった。修士論文を書いていて、「価値」について整理された本はないかと思って見つけたものだった。何をどう引用したのかは覚えていないが、「まえがき」に、これが彼の修士論文だったと書いてあって、驚いたことを良く覚えている。社会学を勉強しはじめたばかりの僕にとって、社会科学や人文科学の理論や学説を網羅させて、うまく整理された精緻な文章を同年令の人が書いたというのは、とても信じられることではなかった。ちなみにこの本は400頁もある大著だった。

見田宗介には真木悠介という名で書いたものもある。そのことに気づいたのは『展望』(筑摩書房)という当時定期購読していた雑誌に載った「気流のなる音」という題名の連載だった。カルロス・カスタネダの『呪術/ドン・ファンの教え』(二見書房、1972)を取り上げてコミューン論を展開したものだが、たまたま僕も夢中になって読んでいた本だった。

内容はメキシコのヤキ族の呪術師ドン・ファンが弟子入りしたカルロス・カスタネダにさまざまな薬草を使いながら、ヤキ族の生き方や世界観を伝授するといったもので、四部作で構成されていた。僕は、特殊なキノコやサボテンがもたらす世界や、それによって起こる意識変革にばかり興味を持ったが、「気流のなる音」は山岸会や紫陽花村といった日本のコミューンの分析に当てはめていて、ここでも、その視点の見事さに圧倒されるばかりだった。

僕が大学院に行って勉強したいと思ったのは、フォークソングやロック音楽に興味を持っていて、将来的にはそれを研究テーマにしたいと思ったからだった。それをどうやって社会学の研究対象として分析するか。どうしたらいいかわからないまま放っておいて、本格的に始めたのは「カルチュラル・スタディーズ」に出会った1990年代の中頃のことだった。しかし、その前に『近代日本の心情の歴史――流行歌の社会心理史』( 講談社、1967)は読んでいて、その時にも同じような分析が日本の流行歌ではなく、ロックやフォークでもできるはずだと思わせてくれた。

他にも印象に残る彼の著作は少なくない。連続射殺犯として死刑に処された永山則男が獄中に書いた『無恥の涙』を元にした「まなざしの地獄」(展望、1973 後に『無恥の涙――尽きなく生きることの社会学』河出書房新社、2008)や『宮沢賢治-存在の祭りの中へ』( 岩波書店、1984)、あるいは『白いお城と花咲く野原 -現代日本の思想の全景』 (朝日新聞社、1987)や『自我の起原 ――愛とエゴイズムの動物社会学』 (岩波書店、1993)等がある。社会や世界、そして人間の現在や未来に対する観察や思考は最近まで続けられていて、このコラムでも『社会学入門――人間と社会の未来』(岩波新書、2006)や『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』 (岩波新書、2018)を取り上げた。

このコラムを書くために、何冊かを改めて確認した。この際だから見田宗介(真木悠介)さんが残した著作をもう一度読み直してみようか。そう思ったのは、鶴見俊輔さんが亡くなった時以来のことだった。

2022年4月11日月曜日

Stingの新譜 "The Bridge" と 'Russians'

 
sting1.jpg"スティングの新譜は5年ぶりだ。前作の『57th & 9th』はニューヨークの通り名をタイトルにしたもので、久しぶりにロックのアルバムだった。『The Bridge』のサウンドにはバラエティがある。すべての歌が新しく作られたもののようだが、何かに似ていると感じさせるものが少なくない。もちろんどれもスティングらしくてなかなかいい。

『The Bridge』はコロナ禍のなかでリモートによるセッションで作られたという。会議や講義だけでなく、レコーディングもリモートでできるのかと、再認識させられた。離れたままの人たちを繋ぐ「橋」という発想が生まれたのは、そんな作業の中からだったのだろうか。離れたところにいて、一つの曲、一つのアルバム作りをする。そんなふうにしてできた「橋」には次のようなフレーズがある。

あそこに橋があると言う人がいる
霧の中のあそこだと
嘘だと言う人もいるし
あるはずがないと言う人もいる
………
しかし橋は心の奥深くにある
………
門を開けて渡ることのできる橋を架けよう
メイン・テーマは「橋」のようだが、曲としては「愛」と名のついたものが3つある。愛することの難しさが物語られているが、それは男女の恋愛にかぎらず、コロナ禍の分断はもちろん、荒んだ町に対するものであったり、国境におけるものだったりする。「愛」は離れたものを繋ぐ「橋」になるが、また繋がりを壊す凶器にもなる。人は分離されていると感じれば、それを結ぶ「橋」をかけたがるが、繋がっているものを分断させたりもする。「橋」はそんな人間の心理を喩えるものとして良く使われてきたが、今はまさに、そのことが切実に語られる時代なのかもしれない。

ロシアのウクライナ侵略で、とんでもない蛮行が繰り返されている。子どもたちが避難する劇場や、人びとが集まる駅にミサイルやクラスター爆弾が撃ち込まれたり、民間人への拷問や虐殺が多数報道されたりするのに直面すると、戦争がいかに人間を狂気に陥らせるかを改めて実感させられる。プーチンはウクライナのネオナチが、ウクライナに住むロシア人を殺してきたからだというが、そんな理由は、決して正当化できるものではない。独立した国であるウクライナを「大ロシア」として統合したいという野望は、悪魔の夢想でしかない。スティングはそんな思いを込めて、デビュー時に作った 'Russians' を歌って、YouTubeに公開した。
ロシア人だって子どもを愛すると思いたい
そういう私を信じて欲しい
私やあなた、私たちを救うのは
ロシア人もまた、子ども愛しているかどうかにかかっている
米ソの冷戦時代の対立を批判して1985年作られた歌だが、世界中の人たちが抱く思いを直接訴えることばだと思う。

2022年3月28日月曜日

北丸雄二『愛と差別と友情とLGBTQ+』 (人々舎)

 
kitamaru1.jpg 「LGBT」ということばが日本でも良く聞かれるようになった。当たり前とされていた異性愛だけでなく、同性愛もあれば両性愛もあるし、自らの性を変える場合もある。こういった自覚を持つ人たちは、かつては非難や差別を恐れて秘密にせざるを得なかったが、今では社会的にも制度的にも認知されて公言できるようになった。このような性についてのマイノリティの立場を認めようとする動きは世界的な趨勢だが、そこには当然、差別に苦しみ、抵抗し、抗議する人たちの歴史があった。この本はその歴史をアメリカ、とりわけニューヨークを中心にしてまとめたものである。

著者の北丸雄二は東京新聞の特派員として1993年にニューヨークに赴き、任期が終わった後も帰国せずに、フリーのジャーナリストとして2018年まで25年間滞在を続けた。その間はまさに、ゲイの一語で一緒くたにされていた人たちが、それぞれの違いを主張し、認められるようになる時期と重なるが、その行動を取材しながら、自らもゲイであることをカミングアウトするようになる。僕は週一回ニューヨーク事情を紹介するTBSラジオの番組で彼を知って、その報告を楽しみに聞いていたが、彼がゲイであることは、この本が出るまで知らなかった。

性について、性別について、あるいは人種差別についての不当さが糾弾されるのは1950年代のビートニクや60年代のヒッピーに代表される対抗文化以降だが、ゲイが問題視されるのは、ずっと遅れて80年代になってからである。それもゲイ特有の感染症とされたエイズが流行したことで、忌み嫌われたことがきっかけだった。この本を読むと、ゲイの運動がそこから偏見や差別に抗して公然となされるようになり、やがて力を持って市民権を勝ち取っていったことがよくわかる。著者がニューヨークに留まり続けた理由も、何よりその動きのダイナミズムにあって、そのことが社会や政治の動きだけでなく、映画や音楽、そして何より彼が精通している演劇やミュージカルの世界を話題にしながら語られている。

他方でこの本が問題にするのは、そのような流れとは対照的な日本の動きである。日本でも「オカマ」と呼ばれた人たちの存在は古くから知られていて、テレビタレントとして人気になる人も少なくなかった。けれども世間では、性別ははっきりしたもので、その転換や同性愛などは異常なものだという考えが根強く残っていた。世界的な趨勢で「LGBTQ+」を認知しようという動きは数年前から日本でも起きているが、その力は決して大きなものになっていない。というより、同性婚はもちろん夫婦の別姓すら認めようとしない力が強く働いていて、世界から取り残されている感すらするのである。その意味で、この本が訴えるメッセージは大きいと思う。

この本のタイトルは「愛と差別と友情と」だが、恋愛と友情の違いについての言及があって、改めて考えてみたいテーマだと思った。常識的には友情は同性間にはあっても異性間では成り立たないと言われてきた。要するにその違いは両者の間に性関係があるかどうかということなのだが、性関係があっても友情が成り立つとしたら、恋愛と友情の違いは何なのだろうか。

2022年1月24日月曜日

マスクがパンツになった?

 マスクがパンツ化しているという記事を見かけた。つまりマスクはもはや「顔パンツ」となって、めったに外せないと思う人が増えているというのである。もちろん多くは若い女達で、化粧の手間が省けるといった事情や、自分の鼻や口に劣等感を持っていたからといった理由もあるようだ。そうすると、コロナがおさまっても、マスクをしたままの人が普通になるのだろうか。へぇ!と思ったが、風邪が蔓延する冬や、花粉が舞う春には、これまでも多くの人がマスクをしていたから、それほど珍しい風景ではないかもしれない。しかし、真夏でもマスクをした人が多くなるのは、やっぱり異様な光景に感じるだろう。

他方で欧米では、マスクに対する抵抗感が強くて、それが感染数を増やす大きな要因になっていると言われている。確かに、マスクをして顔を隠すのは、強盗や強姦をする奴だけだ、といった感覚もあるから、抵抗感が強いのも理解できる。そうすると日本人に抵抗感が薄いのは、犯罪率が少ないからということになるが、それだけではない気もする。風邪をひいているわけでも、花粉症に悩まされているわけでもないのにマスクをすることは「ダテマスク」などと言われて、ずいぶん前から指摘されていたからだ。

顔の一部を隠すのは、他にサングラスがあって、これは欧米では日本より一般的なものである。青い目は黒目に比べて太陽光に弱いといった理由もあるが、おしゃれの一つとして考えられていることもあげられるだろう。日本ではサングラスは不良がかけるものだといったイメージがあって、真夏ならともかく、それ以外の季節や夜につけるのは異様に思われてきたはずである。もっとも最近では、こんな考えはかなり薄れてきていると言えるかもしれない。

サングラスをかけると格好良くなった気がするのは、多くの人が感じることだろう。しかし、マスクはどうだろう。マスクも色やデザインなど工夫するようになったから、格好いいと思ってつけているのかもしれない。そう言えば若い人たちがつけるのは、ウレタン製の黒いマスクが多いが、それは感染を防ぐ効果がほとんどないと言われたりしている。そこにはやはり、効果よりはおしゃれを優先といった気持ちがあるのだろうか。

とは言え、パンツはおしゃれのために身に着けるのではなく、本来、陰部を隠したり保護するために履くものである。だから、マスクを顔パンツのように感じるのは、鼻や口を陰部のように思う人がいるということになる。外すことに羞恥心を感じるのは、鼻や口そのものに原因があるのではなくて、隠すのが常態化したことに理由を求めることができる。それは、パンツで隠された部分にも言えることのはずである。陰部はパンツで隠すようになったから、さらけ出すのが恥ずかしくなったのである。

そうすると、コロナがおさまっても、マスクをしないで人前に出るのは恥ずかしいことだといった感覚が常識化してしまったりするのだろうか。十分にありそうなことだが、それは日本人にかぎったことになるから、これもやっぱりガラパゴスと言われるようになるだろう。

2021年6月21日月曜日

「原子力村」から「五輪村」まで


・国内の世論はもちろん、世界中から中止せよと言われているのに、オリンピックは強行開催されるようだ。そのために東京都などに出ていた「緊急事態宣言」が解除され「蔓延防止等重点措置」に変わった。そうまでしてなぜ、オリンピックを開催したいのか。その理由が全くわからないが、一度始めたことはやめられないという、日本の権力組織が繰り返す愚行の一つだと思えば、それなりに納得がいく。

・一度始めたらやめられない理由としてよく指摘されるのは、日本の集団や組織に共通して見られる「村」という特徴である。「村」とは日本に伝統的にあった「有力者を中心に厳しい秩序を保ち、しきたりを守りながら、よそ者を受け入れようとしない排他的な社会」で、現在でも「同類が集まって序列をつくり、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり、利益の分配を図ったりするような閉鎖的な組織・社会」として、よく見受けられるものである。

・福島の原発事故から10年過ぎてもなお、原発を電源の基本に据えようとするのが「原発村」の政策である。古今未曾有の大惨事を起こしながら、なおやめようとしない体質は、第二次世界大戦に突き進み、原爆を投下されるまで負けを認めなかった愚行のくり返しそのものである。そしてこの「村」体質は、「五輪」にも共通している。

・五輪を強行すればコロナの感染者や死亡者が増えることは分かりきっている。その規模がこれまで以上のものになるのはもちろん、日本発のコロナ株となって世界中に広まる危険性も指摘されている。しかし、そうならないための対策はお粗末で、ただ「安全・安心」と呪文のように繰り返すだけである。菅首相はG7で各国首脳からの支持を得たと言ったが、その多くは、おそらく、開会式にやって来ないだろう。

・危険であることや、行動制限が厳しいことを嫌って、多くの選手が参加をやめると予測される。それで無観客ではあまりにお粗末と思っているのか、日本人の観客を入れ、地味な種目には小中学生の動員も考えているようだ。参加する各国選手には、夏の猛暑や多湿に慣れる時間もないから、日本人のメダル・ラッシュになると言う人もいる。何しろ観客も日本人だけなのである。

・それで国中が熱狂すれば、感染者や死者が増えても、選挙に勝てるようになる。そのためにはオリンピック終了と同時にパラリンピックを中止にして、衆議院を解散して選挙に突入する。政権の本心がこんなことにあるとすれば、あまりに利己的だが、政権自体もまた「村」組織なのだから、十分ありそうなことである。それを批判すべきメディアもまた、村社会なのだから救いようがない。

・とは言え、オリンピックの開会までにはまだ1ヶ月ある。その間に感染者が増えはじめて、中止の声が国の内外から起こったらどうするのか。始めたけれども途中でやめる。一番やってはいけないが、また一番ありそうなこと。その時「政権村」や「マスコミ村」はどんな対応をとるのだろうか。

2021年2月1日月曜日

感染より世間が怖い

 年々減り続けていた自殺者数が、昨年は増加に転じました。今までは比較的少なかった若い女性の数が増えているのが、大きな特徴のようです。原因はやはりコロナ禍で、もともと女性はパートなどの低賃金で働く割合が多かったのに、仕事を減らされたり首を切られたりして困窮してしまっているのです。東京新聞によれば、全国では推計で90万人がそんな状況にあるようです。

「自助・共助・公助」を相変わらず言い続けている首相は、そう言った休業補償のない人たちへの援助については「生活保護」があるからそれを使えと言いました。しかし、この制度を使うのには、大きな壁があるようです。まず、自力で生活してきた人には、コロナ禍がなければ縁のない制度だったという点です。次に申請をすれば、親族に対して援助ができるかどうかを確認する「扶養照会」が送られることにあります。

「生活保護」を受けること自体が自尊心を傷つける要因になるでしょうし、親や子どもに知られたのでは、その気持ちはますます大きくなってしまいます。それなら死んだほうがましと考えたとしても、不思議ではない気がします。要するに「生活保護」は 生活できなければ国が恵んでやるから、そのつもりで申し出ろという態度の制度なのです。

コロナ禍での特別支援を渋る国は、自殺まで考え、実行してしまう人が急増していることに、何の責任も感じていないかのようです。生活が困窮した時に国や自治体の支援を受けるのは、憲法に定められた国民が人間として生きるための権利です。しかし恥を忍んでお恵みを頂戴するという仕組みになっていることを、政治家はもちろん、世間一般にも常識化されてしまっている気がします。

コロナ禍で感じる不安について朝日新聞が行った調査では、「感染したら、健康不安より近所や職場など世間の目の方が心配」と答えた人が7割近くあったという記事がありました。感染したら後ろ指を指される、ネットに晒され自警団にひどい目に遭う。そんな恐怖の方が、感染して苦しむよりも辛いというのです。感染者は日ごろの行動が悪いせい、ウィルスをまき散らす迷惑な奴。そんな意識の蔓延が「世間」という形でのさばっているのです。

政府は感染者の入院拒否に罰金と懲役を科す法律を提案しました。国会で懲役の部分は削除されましたが、ひどい政権だとつくづく思いました。施行されたら、積極的にPCR 検査を受けようと思う人は少なくなるでしょう。そもそも、陽性だと判定されても、多くの人は入院できずに、自宅で療養するしかないのです。

自宅や施設、あるいは路上で容体が悪化して死んだ人が12月以降急増しています。その半数以上は、死後に陽性であることがわかった人たちでした。自覚症状があってもなかなか検査が受けられないことが未だにあるようです。けれども、感染していることを恐れて検査を受けようとしない人が増えているとしたら、コロナ禍は、それこそ「世間」の中に沈み込んで、やがて大爆発ということにもなりかねないのです。

2020年12月21日月曜日

運転免許証とマイナンバー

 

・70歳を超えると、運転免許証の更新には事前に、高齢者教習が義務づけられています。更新時の講習と教習所内での運転が課されていて、10月に受けました。アクセルとブレーキの踏み間違いや、前進と後退の確認など、高齢者が起こす事故にありがちなケースの点検でした。運転操作の間違いは不意に起こります。パニックになって何をしているのかわからなくなって、ブレーキではなくアクセルを踏んでしまう。バックに入れずに前に突っ込んでしまう。それをする危険があるかどうかは、短時間の教習で確認するのは不可能です。一応確認しましたという意味しかないように思いました。

・僕はこの6年ほど無事故無違反だったので「優良運転者」になりましたが、70歳を超えるとゴールドにはなりませんでした。しかも次回の更新は3年後で、今度は認知症のテストもあるようです。年齢で区切るのは仕方がないとは言え、もう少し個々の運転能力や健康状態をチェックして認定してほしいなと思いました。

・以前に「高齢者の自動車運転について」で書きましたが、高齢者の交通事故は加害者より被害者になることの方が圧倒的に多いです。また加害者としても、70歳代後半から80歳代は多いですが、その数は10歳代から20歳代とあまり変わりません。それが目立つように思えるのは、メディアが大きく取り上げて、免許証の返上を勧めるからにほかなりません。これは明らかに「キャンペーン」を意図した情報操作です。僕を含めて団塊世代が高齢者になりましたから、免許保有者の数も急増しています。しかし、事故件数そのものは、むしろ減少傾向にあるのです。メディアはこういう実体を無視して報道しているのです。

・ところで、マイナンバーカードを免許証と一体化させようという動きが出始めています。そうすれば、更新はネットでできるようです。何とかマイナンバーカードを普及させようとする政府の狙いですが、果たしてどんなメリットがあるのでしょうか。そもそもマイナンバーは導入時こそ、いろいろ使われましたが、ここ最近で必要になった記憶がありません。コロナ禍による特別給付金でも、マイナンバーによる申請の方が給付が遅かったといった不手際もありました。

・国民を管理したいためだけで、どんなことに便利に使えるかが欠けた制度のまずさは、すでに住基ネットが証明しています。運転免許証だけでなく、健康保険まで含め、将来的にはカードをなくしてスマホに収めるといった構想もあるようです。ここに小中学生の成績まで管理しようとする計画まであると報じられました。言語道断ですが、デジタル化の遅れた政府機関や自治体が、また多額のお金を使って、業者に下請けさせ、結局中途半端になる。無駄遣いもいい加減にしろといいたくなります。

・車についてもう一つ。脱炭素化をめざして、2030年とか35年以降は、ガソリン車の販売を禁止するといったことも言われはじめました。ガソリンをまき散らして走ることについては、僕もやましさを感じています。ですから次は電気自動車にしようかと考えています。しかし、日本の自動車業界は、まだ本腰を入れて開発をしているようには見えません。ハイブリッドで何とか生き延びようという思惑が、世界で通用するかどうかわかりません。また水素燃料についての開発もあるようですが、日本だけのガラパゴス自動車になる危険性もあるようです。安価で燃費のいい軽自動車は日本だけで普及していますが、一体これをどうするつもりなのでしょうか。

・田舎に住む高齢者にとって、移動手段としての自動車は必須アイテムです。運転出来ないような身体になったら老人ホームに移るでしょうが、それまでは、今の暮らしを続けたいと考えています。おそらく、今乗っている車は5年後には買い替え時期になるでしょう。その時に快適に運転出来る自動車が普及していてほしいものだと思います。もちろん、安全機能も、今以上に充実させたものを期待します。

2020年11月9日月曜日

「知」に敬意を払わない人に

 

・大阪都構想が否決され、トランプが落選しました。嘘や脅しがまかり通る政治が、少しだけ、ましになるかもしれません。それにしても、「知」に敬意を払わない人たちが、これほど大手を振ってのさばる世界が、これまであったのでしょうか。息を吐くように嘘をついた安倍前首相に代わった菅首相も、早期に退陣して欲しいものだと思います。学術会議をめぐる問題は、言い訳のきかない暴挙なのですから。

・もっとも、「知」に敬意が払われなくなった傾向は、ずいぶん前から感じてきました。大学で学生と接していて、「知的好奇心」を示さなくなったと思い続けてきたからです。「この授業は、この本は、一体何の役に立つのか?」そんな疑問の声を聞いてびっくりしましたが、やがて学生の疑問は、「この講義は就職の役に立ちますか」になりました。リーマンショックの頃だったと思いますから、もう十年以上になります。

・今大学は就職予備校化していますが、そこで教えている多くの先生は、就職とは全く関係のない「知」の探究者です。専門は違えど、自分が疑問に感じたこと、わからないことを明らかにしたい。そのために、先行する研究書や論文を読み、調査や実験を重ね、実態を明らかにしたり、理論化することに時間とエネルギーを使う。それを主な仕事と考えています。そして、大学の講義やゼミは、そんな研究をもとに、学生たちにそれぞれ「知的好奇心」を自覚させて、自分なりのテーマをもって学ばせる場だったはずなのです。しかし、今はずいぶん違います。

・そんな学生たちの意識の変容は、大人たちを反映し、大人たちによって作り出されたものでしょう。「知」などは役に立たんし、金にもならん。そんなへ理屈をこねる道具や、それを使う人間は邪魔だから、消してしまえ。そんな風潮が蔓延してしまっているのです。学術会議に対する菅首相の対応は、その顕著な例でしょう。メンバーとして不適格だとして任命しなかった人たちについて、首相はその業績をほとんど知らないのです。ただ政権に批判的な奴らだからというのは、無知をさらけ出した無謀で無恥な行為です。彼はおそらく、ソクラテスの「無知の知」も知らないのだと思います。

・何の役に立つかわからない文学や哲学、あるいは人文科学などはなくていいし、政権の批判ばかりする社会科学も減らすべきだ。あるいは、自然科学だって、成果がすぐに出るものを重視すべきだ。文科省の中にこんな方針が見え隠れするのも確かです。維持費ばかりかかって役に立たない古い文化財は処分してもいい。それよりカジノやレジャー施設の方が金になる。地方自治体には、こんな政策を公言し、実施しているところも少なくありません。「維新」が支配する大阪府や大阪市は、その顕著な例でした。

・コロナ禍で活動できない芸術や文化に対する支援や補助も、微々たるものでしかありません。「ノー・アート、ノー・ライフ」。文化や芸術、そして知は、生きるための心の糧として、人びとにとって欠かせないものでしょう。しかし、「知」に敬意を払わない人には、そんな発想がないようです。そして「知」の軽視はまた、「民主主義」の無視にも繋がります。アメリカは、選挙結果を認めず法廷闘争に打って出ようとするトランプに厳しい目を向けることでしょう。バイデンとハリスの勝利演説を聞いて、壊れかけた民主主義を建て直すのは、やはり「知」の力だと思いました。

2020年7月13日月曜日

レジ袋とストロー

 

・レジ袋が有料化されるというニュースに驚いた。もうとっくに有料化されているじゃないかと思ったからだが、経済産業省の通達で、制度化されたということだった。今まではスーパーなどで自主的にやっていたのだと、改めて認識した。しかし、レジ袋を有料化するという動きには、既に20年以上の歴史がある。レジ袋一つで、何でこんなに時間がかかるのかと思うが、実は、僕はずっとレジ袋の有料化には疑問を呈して批判してきた。

・その理由は、2007年に書いた「レジ袋は必要です」に尽きる。プラスチック・ゴミの中でレジ袋が占める割合は極めて低い(2%)のに、相変わらずレジ袋しか槍玉に上がらないという点についてである。もっとも数年前からストローが加わって、使うのをやめたカフェやレストランが出てもいる。しかし、レジ袋とストローだけでプラスチック・ゴミがなくなるわけではないから、どっちにしても典型的な「スケープゴート」であることは変わらない。

・とは言え、プラスチック・ゴミが環境に与えている害を軽視しているわけではない。むしろ逆で、もっと徹底的に規制すべきだと思っている。道を歩いていて、あるいは車に乗っていて目立つのはポイ捨てされたペットボトルや空き缶だし、スーパーの買い物でゴミになるのは、肉や魚を入れたトレイだし、生鮮食品から乾物まであらゆるものに使われているビニールの袋等々である。わが家ではクズカゴにレジ袋を入れて使っている。3日も経てばゴミでいっぱいになるが、そのほとんどは石油由来のプラスチックやビニールである。

・もちろん、ここ20年ほどの間に、ゴミの選別が進んで、再利用出来るものも多くなった。新聞、雑誌、段ボール、そして発泡スチールなどは処理業者のところに持っていくことにしているし、スーパーにはペットボトル、アルミ缶、スチール缶、瓶、牛乳パック、そして発泡スチールのトレイなどを選別して受け入れる箱が用意されている。しかし、再利用出来ずにゴミ袋に入れるものはまだまだ多い。収集されたゴミは焼却場で焼かれるから、二酸化炭素その他の物質を大気に排出する。

・経済産業省のホームページにはレジ袋の有料化について「普段何げなくもらっているレジ袋を有料化することで、それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとする」と書いてある。今さら何を言っているのかと思うし、消費者の責任に転嫁しているから腹が立つ。プラスチックの容器を使って製造・販売する製造業者や販売業者には、何の規制もないままなのである。

・レジ袋の変わりにトートバックを使いましょう。こんな呼びかけを受け入れて、わが家でも数年前からトートバックを使い始めた。しかし、生ものや冷凍ものをいれたりするから汚れることが多い。定期的に洗ったりもするし、何年か使って捨てたりもしているが、コロナ禍で、ウィルスを運びかねないことが指摘されたりもしている。その意味では極めてタイミングの悪い制度だと思う。その点を考慮して、終息するまで延期するといった柔軟さがないのが、日本のお役所仕事の悪弊だというほかはない。

・コロナ禍といえば、外食が規制されて店はテイク・アウトで販売するようになった。当然、プラスチックの容器や包装ラップが大量に使われて、それがゴミとして捨てられているはずだが、そのことを指摘する声は皆無だと言っていい。使わなければ店はやっていけないし、食べたいものが食べられなくなってしまうかもしれないが、それはご都合主義と言うものである。せめて容器をすべて紙製にするといった対応ぐらいはすべきだと思った。

・プラスチックがゴミとしてどれだけ環境に悪影響を及ぼしているか。そのことに真摯に向き合えば、レジ袋やストローで何とかなる問題ではないことはすぐにわかるはずである。「スケープゴート」にしているのは、やる気がないことの証明にしかならないのである。世界からの批判に推されて石炭火力発電は縮小させると言うが、原発は使うと言う。どちらも政策に、根本的にどうするかという理念がない証でしかないのである。

2020年6月15日月曜日

安全と安心

 

・コロナ禍が落ち着いて、終息宣言も出された。人びとの生活が少しずつ元に戻ってきているが、誰もがおっかなびっくりといった状態に変わりはないようだ。新しい生活様式が上から推奨されているが、それで果たして本当に安全なのか不確かだし、経済活動も社会活動も、結局のところどうしたらいいのか、本質的なところは何もわからないのが現状だろう。その根本的な原因は、「安全」と「安心」の曖昧な関係にあるように思う。

・「安全」とは危険でないことを意味する。それは客観的な事実やデータに基づくもので、コロナで言えば、感染の恐れがない状態になることである。もちろん、100%とはいかないから、どこかで線引きが必要になる。これまでの例で言えば、新型インフルエンザの感染者数と死者数程度ということになるかもしれない。日本では毎年1割が感染し、1000人程度の死者が出ていたのに、それで三密を避けろとか、営業を自粛せよとかは言われなかったからである。ここにはもちろん、ワクチンが開発されて、希望者には全員、それが投与されることが必要になる。

・しかし、そうなるのは早くても来年以降のようだから、これから第二波や三波に備えて、より「安全」な状態にもっていくことが喫緊の課題になる。どうしたらそれが可能になるのか。おそらく、三密を避けた生活様式の励行や、人の集まる場でのマスクや距離の取り方ではないように思う。それらは結局、客観的な根拠のない対処法で、何となく「安心」を感じることに過ぎないからである。つまり「安心」とは、あくまで主観的に心が安らぐ状態のことであって、実際に「安全」であるかを確認するものではないのである。

・街中でマスクをつけない人を見かけたり、他県ナンバーの車とすれ違うと、何となく「不安」を感じてしまう。みんなが自粛をしているのに、営業している店や、海や山にでかけるのはけしからん。そんな空気が蔓延して、誰もが、その標的になるまいと萎縮をしてしまっている。政府や自治体、それにメディアがそれを推奨したりするから、誰もが「不安」の払拭に敏感になっている。何しろ「自粛警察」なる勝手な取り締まりが横行したりもしているのである。

・これは日本人が陥りがちな、良くない精神状態だと思う。たとえ「安全」であっても、けっして「安心」できるわけではないし、「安心」したからといって、必ずしも「安全」なわけではない。そこに無自覚になって「安全・安心」とひと括りにしてしまっている。ましてや「安心感」なるものは自己満足や自己納得以外の何ものでもないのである。

・コロナに安全に対処する方法は、感染者をできる限り多く見つけることで、「PCR検査」や「抗体・抗原検査」を大量に迅速にすることに尽きると思う。現在いくつかの大学で行われている「抗体・抗原検査」では被験者の0.7%ぐらいに陽性反応が出ているようである。極めて少ない数字だが、しかし、日本の人口では80万人ということになって、公表されている感染者数の50倍もいることになる。ちなみに、東京都の3月と4月の死者数が合計で、過去5年の平均値より1481名多かったそうだ。コロナによる死者数は、同時期で119名とされているから、実際には10倍以上多かったということになる。感染者数や死者数の報告がいかにいい加減なものかを如実に表していて、こんな数字で「安心」したり「不安」になったりするのはばかげたことだと感じてしまう。

・ウィルスの感染力が弱まるのは人口の6割以上の人に抗体ができた時だと言われている。スウェーデンの方針は、それを目指して、ほとんどの制限を設けなかったようだ。それでもとても6割には達しないし、死者数も多いから批判されること多いようだ。しかし、経済活動にそれほどの支障は起きなかった。日本はお粗末な政策にもかかわらず、理由の定かでない要因(factor x)で死者数が抑えられている。ところが「不安感」を煽って、経済活動や社会活動が恐ろしく停滞させてしまっているのである。

・皆保険制度が徹底している日本では、年一回の健康診断が義務づけられている。この時に、わずかの血液採取で済む「抗体・抗原検査」を行えば、かなりの人の感染状態がわかるはずである。何より優先すべきことが、そこにお金と人員をつぎ込むことであるのは自明なのである、「安心感」ではなく「安全」であることを徹底させて、不要な自粛をやめること。それができるかどうかが、日本の未来を左右するように思うが、多分、「go to キャンペーン」や「オリンピック」を電通と結託して決行しようとしている政権では難しいだろう。

2020年5月4日月曜日

コロナ後のライフスタイル

 

・コロナ汚染を鎮静化するためには、人びとの濃厚接触を避けなければならない。だから家から出ないようにというのが、緊急事態宣言の趣旨である。控えるように要請されたのは、満員電車に乗って仕事に行くこと、繁華街に出かけること、密閉空間でのイベントを中止すること、観光地に旅行などしないこと等々である。要するに、どうしても避けられない場合を除いて、家に留まるようにという要請である。仕事もできない、学校にも行けない、外食やレジャーを楽しむこともできない。ないない尽くしで既に数週間、そしてこれからも長期間、過ごさなければならないのである。

・要請には補償が伴う。当たり前の話だが、日本の政府は明確にしていない。不良品で調達先も怪しいアベノマスクや、PCR検査の異常なほどの少なさに見られるように、政府の対策はめちゃくちゃで、この先どうなるのか、不安というよりは恐怖感さえ持ってしまう。しかしそんな状況でも、考えてしまうのは、今回の騒動が一時的なもので、終息すれば以前と同じように復活して再開されるというのではないだろうということだ。

・パソコンとインターネットをつかえば、ある程度の仕事や勉強はできる。だから、毎日通勤通学しなくても、週に何日かは在宅で仕事や勉強をすればよい。そうすれば、移動の時間は減るから、交通機関や繁華街の人ごみは緩和される。週末や祝日に高速道路や観光地や娯楽の場が混雑することもない。自由に使える時間が増えることになるから、忙しさを理由に便利なものばかり求めていた発想が変わるようになる。外食や出来あいのものを買うのではなく、家で自分で作る。もちろんこれは衣食住のすべてに渡るようになる。要するに、ライフスタイルの大きな変化がもたらされるはずなのである。

・僕は自分の研究テーマとしてずっと「ライフスタイル」を掲げてきた。僕が最初に出した本は『ライフスタイルの社会学』(世界思想社、1982年)だったし、その後も『シンプルライフ』(筑摩書房、1988年)、そして『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社、2007年)と続けてきた。これらの中で一貫して主張してきたのは、仕事ではなく生活を中心に据えること、便利さを求めてお金で消費するのではなく、出来ることは自分でやってみること、性別に伴う既存の役割に疑いを持って変えていくことなどだった。残念ながら世の流れは、仕事や便利さを求める方向を加速させたし、男女の役割にも大きな変化は見られなかった。

・それでも、僕はマイノリティでもかまわないと思ってきたが、コロナ騒動は、僕が言ってきた「ライフスタイル」の変革を実現させるのではないかという可能性を感じさせる。もちろん、主に都会で成立していた多くの仕事は失われるだろう。しかしそれは、地方へのUターンを加速させて、農業や漁業、あるいは林業を活性化させる可能性に繋がる。何しろ日本の食料自給率は減少する一方で、従事者の多くは高齢者なのである。

・世界中でロックダウンが行われて、空気や水の汚染が著しく改善されたようだ。これを機会に、地球の温暖化を阻止することについて、もっと本格的に取り組む機運が強まることも期待したい。そもそもウィルス騒ぎの原因は、森林を伐採して道路をつくり、農場や工場を造ったことにある。動物の世界を狭めて、人間との接触が起きれば、動物の世界で留まっていたウィルスが人に感染することは避けられない。環境破壊や汚染と、ウィルスの流行は強く繋がっているのである。現実には、もう手遅れかもしれないといった危機感を持って、見直す時に来ているとしたら、ウィルスは強烈な警鐘だと言えるかもしれない。


2020年4月20日月曜日

コロナ禍に思うこと


・ここのところ毎週、コロナ禍について書いています。欧米では猛威を振るっていて、全世界で感染者数が200万人を超え、死者も10万人を超えました。他方で中国や台湾、そして韓国などの隣国は終息に向かっているようです。台湾では、無観客ながらプロ野球が開幕しましたし、韓国では、国会議員の選挙が行われました。ところが日本では、これから急増するのではと危惧されています。

・ 日本の感染者数と死者数の少なさには、ずっと違和感を持ってきました。理由はPCR検査自体の桁外れの少なさにありました。たとえば東京では3月末から感染者数が激増して200人近くになった日もありましたが、検査実施人数は多くても一日に500人といったところでした。つまり、極めて陽性の可能性が高い人にかぎって検査をしてきたのです。

・これでは、陽性だけど無症状という人の数はわかりませんし、熱や咳などの症状がある人のなかに、どれだけ感染した人がいるのかもわかりません。日本の感染者は1万人を超えたところですが、この数字はほとんど意味がありません。死者数についても、肺炎で亡くなった方の検査をしていれば、その数はずっと増えているはずです。何しろ日本では毎年、誤嚥性も含めて肺炎で亡くなっている人が13万人もいるのです。

・WHOが検査を勧めるよう警告を発し、世界中のほとんどの国が検査に力を入れているのに、なぜ日本だけが検査を抑えているのでしょうか。感染者が増えたら軽症の感染者の入院で病院がパンクしてしまうというのが、一番の理由のようです。しかし、中国は武漢に数千床の病院を数日で作りましたし、他の国でも、体育館やイベント会場、そしてホテルなどを軽症の患者用に用意するところが多くありました。

・クルーズ船での集団感染騒ぎから2ヶ月が過ぎているのに、政府は何をやってきたのでしょうか。感染者を入院させるベッドが不足しているとか、医師や看護師が装備するマスクや防護服が底をついたとか、今さら何を言っているのかと思います。感染拡大を予測して用意をしてこなかったのでしょうか。マスクは店頭でも相変わらず品薄です。だから首相の提案で一軒に2枚の布製マスクを配布というのですが、いったい何を考えているのかと呆れてしまいました。

・その首相は緊急時多宣言を4月6日に出しました。外出を極力控え、密な接触を避けるようにという要請で、仕事はテレワークを、食事の提供は持ち帰りやケータリングを、そして歓楽を目的とする営業は自粛をといったものでしたが、それに伴う、売り上げや収入減の補償については、ほとんどなしというものでした。欧米の国ではすでに補償の給付が始まっているところが増えていているのですが、多くの批判にもかかわらず、日本の政府は30万円だの10万円だのと、もたもたうろうろしています。

・世界一斉のコロナ禍で何よりはっきり見えたのは、各国のリーダーの姿や言動でした。芸術活動も含めて素早く補償などを宣言したドイツのメルケル首相。自ら感染して入院したことで、目が覚めたように真剣になったイギリスのジョンソン首相。台湾の蔡総統の対応は見事でしたし、韓国の文大統領の指揮は決然としていました。その他、ニュージーランド、アイスランド、ノルウェイなど、女性のリーダーが目立っています。それに比べて日本の安倍首相は、専門家会議から進言があったわけでもない小中高の一斉休校を突然出したり、効果の薄い布マスクを配ったりと、何をしているのかという感じです。

・ところがそんな政権でも、未だに4割前後が支持しているのですから、この国はどうなってしまったのかと唖然とするばかりです。一番の原因は、本気になって批判をしたり、実態を正確に報道する気のないメディアにあります。こんな様子を見ていると、なぜ日本が無茶な戦争を始めて、原爆を落とされるまでやめられなかったのか。3.11で原発をなぜ止められなかったのか。その理由がわかる気がしました。このままではアジアはもちろん、欧米が鎮静化してもなお、日本は深刻な状況のままだということになりかねない気がします。アベノリスク、アベノウィルス。このことに一刻も早く気づくべきです。

2020年3月23日月曜日

世界の終わりの始まりのよう

 

・WHOがパンデミック宣言をした途端に、世界中が新コロナウィルスで大騒ぎをし始めた。発生源の中国は沈静化し始めたようだが、イタリアやスペインを始めとして、ヨーロッパが感染の急増とその対策に追われている。悠長に構えていたアメリカも慌ただしくなった。急増に苦慮していた韓国は、検査体制の強化によって増加の押さえ込みに成功するかのように見える。台湾は入国管理や検査、あるいはそれに応じて起こる問題をあらかじめ想定して対応する体制を整えて、感染者数が増えないようにしてきた。世界の国々の対応はさまざまだが、日本はどうか。

・検査数は韓国とは桁違いに低い。感染者数も死亡者数も比較的少ないが、実態とはずいぶん違うのではないかと疑問を持つ人が多い。オリンピックを中止にさせないために数を少なく見せかけようとしていたのかもしれない。しかし、感染は世界中に広がって、終息がいつになるのかわからない現状では、世界中からアスリートや観客が集まるオリンピックができるはずがない。それでも関係者は口をそろえて予定通りに開催を目指すと言っている。一度始めたら止められない。そんな悪癖がまた顕著になっている。

・ドイツのメリケル首相は第二次大戦後最大の世界的な危機だと言っている。そこには感染者数や死者数の増加だけでなく、経済の世界的な混乱や人間関係やコミュニティなど、社会の崩壊といった危険性が含まれている。と言うよりは、経済や社会への影響の方が、より大きな問題であることは明らかなのである。そういう認識からは、オリンピックの開催などはもってのほかになるだろう。オリンピックは中止か延期。安倍政権にとっては、それをいつ表明するかが問題で、気にしているのは政権の延命だけなのではと言いたくなる。

・このままでは世界が終わる。そういう認識にたって発言し、行動をしている政治家がどれほどいるのだろうかと思う。温暖化による気候の変動や、プラスチックなどによる海洋汚染など、地球規模での喫緊の課題に対して本気になっている国の指導者はきわめて少ないことからも明らかだ。そもそもトランプ大統領は温暖化自体を認めていないし、石炭火力発電を推進する日本は、最悪の事例として批判されている。ここ数年の台風や大雨による大被害を受けていても目覚めないのだが、3.11と原発事故を経験したのに原発を止めないのだから、止められないという悪癖はどこまで行っても治らないのかもしれない。

・世界が終わる前に日本が終わる。日銀と年金機構が必死に支えても株価が大暴落をしている。このまま行けば経済破綻だろう。もっとも政治は森加計から桜、そして検事の定年問題とやりたい放題で、法制度も官僚組織もがたがただし、メディアにはそれを批判する力が失われている。新コロナウィルスに対する政策も支離滅裂だが、世論の半数はそれを支持していて、政権の支持も同じぐらいある。ほかに適当な人がいないからと政権を許してきたが、止められない、止めさせられない症候群は行くところまで行かなければ治らないのかもしれない。