2006年5月1日月曜日

新しいものにも耳を傾けてみた

 

Green day "Amrican Idiot", Snow Patrol "Final Straw", The Stil "Logic Will Break Your Heart", The Strokes "First Impressions Of Earth"

greenday1.jpg・Green dayはただうるさいだけのパンクと思っていたのだが、Amrican Idiotでその認識を改めた。なかでも“Boulevard of broken dreams”はいい。「壊れた夢の並木道」なんて訳すと昔の歌謡曲のようなニュアンスになっておもしろい。

誰もいない道を歩いている
ぼくが知っているたった一つの道
どこへ行くのかわからない
でも、それがぼくのホームだから、ひとりで歩いている

・ネットで見つけた“Boulevard of broken songs”というのをダウンロードしたら、GreendayのほかにTravisやOasis、それにEminemやAerosmithまでが一緒に歌っていた。途中からそれぞれの持ち歌に変わったりしていて、題名(broken songs)どおり、何の歌だったかわからなくなる感じがした。どこかでやったライブなのだろうけれども、GreendayとTravisの組み合わせは不思議と違和感がなかった。

snowpatrol1.jpg・そんな曲を聴いて、そういえばTravisの新しいアルバムが出ても良さそうな時期だなと思っていたら、Amazonから「Travis を以前お買い上げのお客にお勧めがあります」というメールが来た。Snow Patrolという変なバンド名でスコットランドのグラスゴー出身のようだ。で、ものは試しと"Final Straw"を注文した。「ホーム」がキーワードに使われている一節があった。

これはとても些細なことだが
ぼくには生きている自覚がある
ここの場所のすべてがホームのように感じられる
けっして選ばないような名前と一緒に
最初の一歩を踏み出そう、25の子どものように "Chocolate"

stills1.jpg・ついでに似たようなバンドで評判もいいので"The Still"の"Logic Will Break Your Heart"も一緒に買ってみた。こちらはカナダのモントリオール出身のようだ。確かに、両方とも、静かでメロディ重視だから聴きやすい。ただし、歌詞にはかなりラディカルなものがある。何しろアルバム・タイトルが「論理が君の心を傷つける」なのだから。

僕らはみんな中流階級だから、安心を感じる必要がある
でも、来週化学工場が爆発、なんてことも待ってもいる
不安も哀しみも感じるな
M-16(拳銃)一丁で
アメリカの過去という動揺を感じてしまうのだから "Lola Stars and Stripes"

・アマゾンが勧めるように、確かに、どちらも静かで、シンプルで、メロディアスで、ぼくには聴きやすい。歌詞などにも工夫があるし、主張もある。けれども、誰かに、何かに似ているという感じがあって、新鮮な感じはしない。しかも、聴いただけではどこの国から出てきたバンドなのかということもわからない。
strokes1.jpg・似たような印象は、去年買った"The Strokes"にも感じた。ニューヨーク出身でポスト・パンクなどというレッテルがついているようだ。また新しいイギリスのバンドかと思ったから、ニューヨークとは意外な感じがした。しかし、そういわれれば、ギターの刻み方はルー・リードを思い起こさせるし、サウンドの感じはREMにも似かよっている。ネットで、レビューを探すと、ビートルズを彷彿させるとか、ボブ・ディランの影響などという記事にも出くわした。だったら、新しいものなどわざわざ聴かなくてもいいかという気にもなる。しかし、そういってはお終いかなとも思ってしまう。
・ネットでディランがRadioheadの"Creep"を歌っているファイルを見つけた。何をやってもディランはディランだが、曲は間違いなく"Creep"だから、何ともおもしろい。そのRadioheadがU2やPinkfloydをやっているファイルなどもあって、それを聴いていても、やっぱり奇妙な混じり合いに新鮮さを覚える。
・誰かに、何かに似ている。でも、ちょっとちがうところもある。その微妙な差異を楽しめれば、最近の若いバンドも捨てたものではない。なにより、ぼくにとっては耳障りなやかましさがないのがいいし、ことばに興味が持てるのがいい。

2006年4月24日月曜日

かわいいとクール

 

四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま文庫),D.パウンテン、D.ロビンズ『クール・ルールズ』(研究社)

・はやりことばはその都度気になる。けれども消えていくスピードが速いから、なぜと考える機会を逃すことも少なくない。そんな中で「かわいい」は、例外的に長生きしていることばである。ただし、ぼくは「かわいい」におもしろさは感じなかった。使われ方に「なぜ」と疑問を持つものがない気がしたし、ことば以前に「かわいいもの」自体が氾濫していて、ことば以上にうんざりしていたからだ。
・四方田犬彦の『かわいい論』には大学生にしたアンケートの分析がある。「かわいいの反対語は何ですか?」という質問に対する回答には、1)同義反復(かわいくない)、2)肯定的形容詞(美しい、など)、3)否定的形容詞(醜い、など)、4)希薄さの形容詞(ふつう、など)があって、「かわいい」もなかなか含蓄のある使い方をされているのだ、ということに気づかされた。
・この結果によれば、「かわいい」は単に不細工なものや醜いものの反対というだけでなく、「美しい」や「きれい」、あるいは「賢い」といった肯定的な意味をもつはずのことばとも対照される。さらには、それは良くも悪くもない「普通」の状態とも区別されている。このような傾向をまとめて四方田は「かわいい」の輪郭を次のようにまとめている。
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それは神聖さや完全さ、永遠と対立し、どこまでも表層的ではかなげに移ろいやすく、世俗的で不完全、未成熟な何物かである。だがそうした一見欠点と思われる要素を逆方向から眺めてみると、親しげでわかりやすく、容易に手に取ることのできる心理的近さが構造化されている。P.76

・「かわいい」と感じる対象は「保護を必要とする、無防備で無力な存在」であり、そこには「対象を自分より下の劣等な存在と見なして支配したい欲求」が認められる。さらには、支配できないものを無力化させることで「かわいい」ものに変形させてしまうといった工夫もある。それは、著者によれば、「ノスタルジア」と「ミニュアチュール」で、それを仲立ちするのは「スーヴニール」だということになる。

われわれの消費社会を形成しているのは、ノスタルジア、スーヴニール、ミニアチュールという三位一体である。「かわいさ」とは、こうした三点を連結させ、その地政学に入りきれない美学的雑音を排除するために、社会が戦略的に用いることになる美学である。p.120

・「かわいい」は「ノスタルジア」として「歴史」を隠蔽し、「ミニュアチュール」として「実物」を歪曲させる。それは現代の消費文化のエネルギー源であり、また日本人の感覚に古くから根づいてきたものでもある。それはきわめて日本的なものでありながら、同時に「文化的無臭性」を特徴とする新しい文化商品としてグローバルに輸出されている。こんな指摘に納得したら、欧米で盛んに使われている「クール」が気になりはじめた。

・「クール」も「かわいい」同様、例外的に長続きしている流行語だ。『クール・ルール』によれば、それは、表紙になっているジェームズ・ディーンがヒーローになった50年代から目立って使われるようになったが、その源流はアフリカ系アメリカ人が身につけた処世術としての態度や心持ちにあるということだ。
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<クール>は、奴隷や囚人や政治的反体制派など、反抗心を露わにすると罰せられる反逆者や敗北者によって培われた態度だった。そのため<クール>はその大胆な反抗を、皮肉な無関心という壁の裏に隠し、権力の中枢に真正面から立ち向かうのではなく、むしろそこから距離を置いた。50年代以降、この態度が芸術家や知識人に広く取り入れられ、それによって<クール>が大衆文化に浸透していった。p.31

・「クール」は50年代のビート族やジャズ・ミュージシャンからはじまって、60年代のヒッピー・フェスティバルでも、70年代のパンク・パーティでも、あたかもはじめてうまれたことばのようにして使われてきた。そして、80年代以降になると広告産業のコピーとして派手に利用されるようになる。著者はその理由を、「クール」ということばにある「社会のしきたりに対する反抗的な態度」と「強い仲間意識」、さらには自己満足的な「個人主義」という意味合いにみつけている。
・彼らによれば、「クール」を支えるのは「ナルシシズム」「皮肉な無関心」、そして「快楽主義」の三本の柱である。それは、時に時代に反抗する精神の表象になり、また時には、消費文化を個性的にリードする鍵になってきた。対抗文化が反社会的で反物質的な主張と態度を取ったにもかかわらず、それが70年代以降の消費社会を生みだす源泉や原動力になった理由が「クール」ということばにこめられているといわけである。
・この意味では「かわいい」と「クール」は。現代の消費文化を扇動する二本の柱ということになる。日本的なものとアメリカ的なもの、女的なものと男的なもの、無力なものと、力をちらつかせるもの………………。このように違いのあるものが、二頭立ての馬車になっている。改めて、現代の文化状況にそんな図をかぶせると、なるほどと思い当たる部分がたくさん見えてくる。

2006年4月17日月曜日

遅い春は一気にやってくる

 
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河口湖から御坂トンネルを越えて甲府に行く137号線は、季節ごとに風景が変わって見応えがある。冬は、甲府の街の先に雪を被った南アルプスがみえたが、今は一面の花模様だ。桃の花が絨毯を敷き詰めたようにひろがる景色は壮観だし、なにより色っぽい。まさに桃源郷である。
そんな景色を見ようと出かけたが、途中の黒駒では桜が満開で、小高い山の上の寺が気になって立ち寄ることにした。廣徳禅寺という名だが、入り口にりっぱな石像があった。「珍棒大明神」。なるほどとしばし眺めたが、その周辺には桜の大木が並んでいて今まさに満開。どれもこれも見事である。訪ねる人は少なくて、もったいないほどだが、寺にはそのほかにもスモモや桃の林があり、境内にはツツジや椿、あるいは梅の木があって、どれにも花がいっぱい咲いていた。まさに百花繚乱である。 

 

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天気はあいにく曇り空。しかし、今にも咲きそうな桃の花の向こうにみえる御坂山系はなかなかいい。甲府盆地は今、桃の花の満開で、これから少しずつ上に上がっていく。この寺のあたりは、今はスモモが満開で、あとは茶色が目立つが、あと1週間もしたら桃色になり、1ヶ月もしたら緑一色になる。夏には桃、スモモ、秋にはブドウと果物が豊富にみのる一帯である。雨が多すぎたり、温度が低かったりといった年にならないように。
   

137号線は河口湖から御殿場に向けては138号線になる。山中湖から篭坂峠を越えると静岡県に入る。自衛隊の大きな駐屯地のある須走から富士山を周遊するスカイラインを通り、有料の南富士エバー・グリーン・ラインを下ると、広大な演習場に隣接した「富士サファリ・パーク」がある。
 
photo35-11.jpgそれほど行きたかったわけではないが、ものは試しと出かけてみることにした。雪を被る富士山を背景に象やライオンの放し飼いというのは、何とも奇妙な風景だ。しかし、富士をキリマンジェロと思えば、そうでもないか、という気にもなった。

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photo35-13.jpg 園内は車に乗ったまま周遊できる。ドアや窓は絶対に開けないこと。当たり前の話だが、猛獣たちがあまりにものんびりしているから、ついつい近づいてさわってみたいなどと思う人がいるのかもしれない。ここは昨秋、飼育員がライオンに殺される事件があったばかりだ。だからというわけはないのだろうが、ジープに乗った監視員があちこちにたくさんいて、維持管理、運営するのは大変だと感じた。のんびりした動物ばかりだったせいだろうか。猛獣に驚きや興奮といったことは少なくて、ほかにもよけいなことばかり考えてしまった。冬のあいだは動物たちは閉じこめられたままなのか、とか、経営が行き詰まって動物の行き場がない、などといったことがないようにとか、ゴールデン・ウィークの混雑はものすごいことになるのだろうなどなど………。

2006年4月10日月曜日

野茂とイチロー

 

・WBCでの日本の活躍で、今年は春から野球を満喫した。韓国に連敗して「もうおしまい」と思ったところで生き返ったから、注目度はいっそう増したようだ。審判のおかしな判定、というよりはそれ以前に、中立国の審判をおかないという奇妙な大会への批判などもあって、改めて、野球のローカルさを露呈したが、アメリカが必ずしも強いわけではないことが証明されて、おもしろかった。

・ただし、「感動をありがとう」とか、日韓のナショナリズムをめぐるやりとりなどには閉口である。たかが野球、されど野球。それ以上でも以下でもないのに、やっているのは選手たちで、それ以外は見て楽しんでいるにすぎないのに、例によってメディアは騒ぎすぎで、それに乗って浮かれる人たちが多すぎる。何で帰国した選手たちを成田まで迎えに行こうなどと思うのか。ぼくは理解に苦しんでしまう。自分自身のまわりには何も夢中になるものがないのか、メディアに登場したものでないと心やからだが動かされないのか。そんな傾向がやたらと目立つ昨今である。

・とはいえ、ぼくも試合以外の野球関連のテレビ番組をよく見た。関心をもったのはイチローの豹変ぶりである。アメリカに行ってからの彼は、まるで孤高の武道家のように振る舞ってきた。それが、日の丸を背負ってはしゃぎまわったから、おやおやどうした心境の変化かと興味を感じた。王監督に敬意を示し、代表選手とのあいだに一体感を自覚する。勝つことに飢えていたのか、本当は意気投合できる仲間が欲しかったのか、とにかく、彼についての印象が様変わりしたことは間違いない。

・2月にBSでイチローと矢沢永吉の対談番組があった。タイトルは「ヒーロー〜」だったと思う。うんざりして途中でチャンネルを変えてしまったが、二人のナルシストぶりや、自分をヒーローだと信じて疑わない姿勢には呆れてしまった。人にはできない何ごとかをなした人間には、そのことを自慢して語る資格がある。かれらから伝わってくるメッセージは、その一点に尽きたが、お互いよく似た者同士であることがよくわかった。

・イチローはこの冬に、テレビドラマにも登場したようだ。役者としてのイチロー。ぼくはドラマは見ていないが、それは大いに可能性があると思った。彼はかっこうよくありたい、他人から羨望のまなざしで見つめられたい、ということをつねに意識してふるまっている。そんな特徴は以前から感じていたが、矢沢との対談で、そのことを確認し、WBCのはしゃぎぶりではっきりと確信した。実はぼくは、デビューした頃から、彼が大嫌いである。それは、ずっと、野茂に対する敬愛の気持ちと対照をなしてきた。

・野茂は去年デビルレイズで日米通算200勝を達成したが、7月には解雇されて、その後のシーズンをヤンキースのマイナーで過ごした。先発ピッチャーに穴が空けば、出場のチャンスもあったのだが、マイナーの試合ばかりでシーズンを終えた。メジャーで長年活躍した選手がマイナー落ちするのは屈辱である。プライドを気にする人ならとても堪えられることではない。しかし、野茂は例によって飄々として、メジャーで投げられるように頑張るとだけ言いつづけた。マイナーの選手であれば、練習や試合の後にグラウンドを整備したり、移動がバスであったり、食事がハンバーガーだけだったりする。しかし、野茂はそのことにつらさやみじめさを感じているそぶりは見せない。「借金かかえて大変だったんだよ。頑張ったんだよ」と自慢げに話す矢沢永吉とは大違いで、野茂の口からは、「メジャーでもっと野球をやりたいから」という以外のことばは出てこない。

・野茂は今年、なかなか所属先が決まらず、メジャーのキャンプが始まってずいぶんたってから、ホワイトソックスとマイナー契約を結んでキャンプ地に出かけた。ホワイトソックスは去年のワールド・チャンピオンで投手力のよさには定評がある。ローテンションに入りこむ可能性が一番厳しいチームをなぜ選んだのか。理解に苦しむが、ほかに受け入れてくれるところがなかったとしたら、ずいぶん見くびられたものだと思った。

・野茂はそのキャンプでも目立った成績を残せずに、シーズンをマイナーではじめた。果たしてメジャーにあがれるのか、マイナーで投げつづけるのか。メディアはほとんどなにも伝えてこないから、すでに忘れられた存在になってしまっている。しかし、ぼくはそれを見捨てられたなどというふうには思わない。野茂は、瞬間的なヒステリーと記憶喪失症が常態化したメディアからは無関係なところにいて、誰がどう思うかなどということは気にせず野球を楽しんでいる。こういう人を現代の「ヒーロー」というのだと改めて感じた。 (2006.04.10)

2006年4月3日月曜日

古本屋さんからのメール

 

・「アマゾン」で本を探して、古書で買い求めることが多くなった。品切れ本が多いのが一番の理由だが、新品に比べて安いのも大きな魅力になっている。傷みがひどいものなど一度も届いていないから、使う頻度はますますふえそうだが、驚くのは、読んだ痕跡がほとんどないような本が多いことだ。帯やカバーももちろんついているものが多い。これはぼくにはとても考えられないことである。
・ぼくは本を買うとまず、帯を捨ててしまう。これは売れるまでの広告としてあるものだと思うし、本棚に並べて出し入れしているうちにどうせ破けてしまうからだ。第一、読んでいるときには邪魔になる。以前には、硬表紙の外側に薄紙のカバーがかかっているものがあったが、これも読みはじめる前に外して捨ててしまっていた。
・で、読みはじめると、書き込みをし、マーカーやボールペンで印をつけ、さらに付箋を貼り、頁の角を折ったりもする。手を洗ってから読むといったことはしないから、読み進むと本の下部(地)に読んだところだけ手あかがつく。習慣でどうしてもそうしてしまうのだが、汚れていくのが読んだことの証のように感じられてしまうから、いまさら改める気にもならない。
・こんなことを意識したのは、ユーズドの本の様子が「多少使用感あり」とか「書き込み少々」「日焼けあり」などと説明されていたからだ。当然、その汚れの程度によって、同じ本でも値段がちがってくる。だとすると、ぼくのもっている本は、古書店に持ちこんでも安く買いたたかれてしまうものばかりになる。売る気はないが、買うばかりで研究室も家も本で溢れかえって整理に困るほどだから、ぼちぼち処分することも考えなければならないのだが、どれもこれも二束三文では、いちいち選択して古書店に持ちこもうなどとは思わない。
・アマゾンでユーズド本を買うと、売り主からメールが届く。大体古書店であることが多い。ネットではどこにある店かはわかりようもないから、メールに書いてある住所を見て驚くことが少なくない。札幌から鹿児島まで、注文するたびにまちまちで、こんどはどこから来るか、楽しみだったりもし始めている。そんなメールに「処分したい本があったら引き取ります」などと書いてあると、読んだ本の汚さがいっそう気になったりもするのである。
・もっとも、蔵書には買っただけで、読んでないものや一度もあけてない本もかなりある。そのときは必要と思ったけど、結局読まなかった本、読みはじめたけどつまらなかった本、むずかしくて放り出してしまった本。そういうものなら売ってもいいし、きれいだから、それなりの値段をつけてくれるかもしれない。思いがけず高値がついているのがあるかもしれない。そんなことも思って、すでにもっている本の値段を調べたりもするようになった。もっとも、本棚の整理をやろうという気まではおこっていない。
・古書店からのメールには、「お探しの本がありましたら、お申しつけください」などとも書いてある。それが鹿児島だったり福島だったりすると、大丈夫か、と思ったりするけれども、欲しい本が日本全国から探せるというのは、何とも便利になったものだと思う。しかし、それはまた、ネットやブック・オフのような古書のチェーン店ができたことによって、本屋さんの商売が、店頭だけでは成り立たなくなったことも意味している。
・京都に住んでいる頃は、特に探している本がなくても古書店はよくのぞいていた。京大や同志社の周辺には専門書がおいてある店がいくつもあった。大阪に出かけることが多くなった頃には梅田のガード下にある梁山泊や有名な天牛といった店にもよく出かけた。たまに東京に出かけたときには神田の本屋街に行くのが決まりだった。けれども、今は古書店はもとより、本屋自体に出かけることがない。
・ぼくのようにアマゾンなどのネットで買い物をする人が増え、一方で、大型の書店が目立つようになっている。そんな意味では、ネットでの商いは、街の小さな本屋さんが生きのびる数少ない道の一つなのかもしれない。だったら、なるべく古書で買おうか。きれいな本が安い値段で来るんだから、新品を買う必要もないし。今日届いた本は、新潟からやってきた。何となく、楽しい気がするのは、どうしてだろうか。

2006年3月28日火曜日

森にも春が来た

 

forest50-3.jpg・昼の気温が10度を越えるようになって、毎日、午後の2時間ほどを外で過ごすようになった。やるべきことはまず、薪割り。この冬は10月後半からストーブを使い始め、12月からは一日中つけっぱなしにしたから、薪の消費量は例年の5割増しにもなった。いつまでも暖かい秋が、一気に真冬になり、それが1月中旬まで続いた。それに、灯油の価格も5割増しで、例年通りのペースで使うと毎週1万円近くになってしまう。最後まで持つかどうか心配だったが、家の暖房は薪中心で行くことにした。いつもより多めに乾燥させておいたのが正解だった。
・で、燃やしたら、乾燥させるための棚に薪を補充する。これを春先にやっておかないと、十分に乾いた木にならない。毎年の春休みの日課である。割って乾かす木は今年も十分にある。東京の植木屋さんが提供してくれた木を、去年の夏から大学の帰りに車に積んで、何度も運んだからだ。スバルのワゴンは足腰が丈夫で荷台も広い。しかし、高速道路を走るから屋根までいっぱいではなく、バックミラーが使えるほどにして積んだ。すでに15万キロを走っているが、快調に走ってくれる。20万キロまでは働いてもらおうと思っているが、壊れなければ、25万でも30万キロでも乗るつもりだ。

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forest50-4.jpg・木が豊富であることと、スプーンや孫の手、あるいは表札などをつくる木工にちょっと飽きたこともあって、今年は外に何か作ろうと思った。入り口に門柱を立て、門番をおく。とは言っても、追い払うためのではなく歓迎のためのもの。材料は白樺で、門柱は穴を掘って左右に2本ずつさしただけだが、なかなかいい感じになった。その脇には、あちこちで見かけたものをまねて、まず2匹こしらえた。チェーンソーで切って、釘で打ちつけるだけの、ごく簡単なものである。鹿か山羊のつもりだったが、できあがってみるとどう見ても犬。で、角を生やしたのは一匹だけにした。ついでに、去年バルコニーを作りかえたときに外した柱をつかって茶色の犬をもう一匹。しかし、これは子馬にみえてしまう。

forest50-6.jpg・パートナーが工房の入り口に「かわいい犬」が欲しいというので、こんどは最初から、犬のつもりで作った。耳も尻尾もつけたから、一番それらしいが、どれも感じが出ていてなかなかいい。こんな調子でいくと、春休み中にもう4,5匹増えてしまうかもしれない。
・実は本当は、生きた犬が欲しい。茶色か黒のラブラドール。パートナーからムササビがいるから駄目と言われてきたが、そのムササビが最近やかましかったり、複数になったりして、手に負えなくなったらと心配になりはじめてきた。後は、留守をするときにどうするか、という問題が残っている。長期の旅行はしばらくしないつもりだから、何とか説得したいのだが、生き物を飼ったことがない人を説得するのは、何ともむずかしい。

2006年3月21日火曜日

シエスタという生活スタイル

 

Spain35.jpg・旅行者にとってシエスタという習慣はありがたくない。午後の3時頃になると店という店が閉まってしまう。にぎやかだったとおりが閑散とするから、無警戒でぶらぶら歩くこともできない。旅行ガイドの『地球の歩き方』には、スペインの治安の悪さがしつこく書かれていたが、その時間帯は夜以上に午後から夕方にかけてだった。マドリードやバルセローナではシエスタを取らない店も多いと書いてあったが、どうしてどうして、通りが軒並み休み、なんてところも結構あった。


Spain260.jpg・じゃあ、スペイン人は一体いつ働くのか?なんて文句も言いたくなったが、暗くなる頃には、また店が開き始めて、深夜遅くまで開いている。スペインでは昼食は2時過ぎ、夕食は8時過ぎからが普通で、サッカーも、その夕食をすませた10時過ぎから開始なんてことになる。しかし、夜更かししても、昼寝をしているから、朝寝坊ということもないようだ。ホテルの前の大通りは夜が明けるまえからラッシュ状態で、人びとの往来も始まる。朝の8時から2時まで働けば6時間。一休みしてまた数時間というのだから、けっして怠け者ではない。それで、食事にも睡眠にも十分な時間がとれるのだから、生活の仕方としては理にかなっている。冬はともかく、スペインの夏は暑い。マドリードは50度にもなるという。とても働けるような環境ではないのである。

Spain301.jpg・そんなことにちょっとしたカルチャー・ショックを感じたのだが、ふと自分の普段の生活を振り返って、ほとんど同じであることに気がついた。ぼくは食事をすると、横になって眠りたくなる。だから、外食はあまり好きではない。家にいるときには、昼食の後にごろり、夕食の後にごろりとして、数分から場合によっては数時間も寝てしまうことがある。もちろん、その分、夜の睡眠時間は短くなる。アー、同じリズムだ、と思ったら、妙に親しみを感じるようになった。そういえば、ぼくは立ち食いの蕎麦とか、お湯を差したりレンジでチンするだけの食べ物は好きではない。おいしいと思わないし、食べることをないがしろにしているように感じてしまう。

Spain302.jpg・オーウェルの『カタロニア賛歌』(岩波文庫)には、負傷して担ぎ込まれた病院での話があって、いかにもスペインではありそうだと納得してしまった。

・朝6時頃の朝食はスープ、オムレツ、シチュー、パン、白ワイン、コーヒーからなり、昼食はこれよりもさらに量が多く、民間人の大半がひどく食料に困っているときにこうなのだ。スペイン人は軽い食事などというものを認めていないようだ。病人にも健康な人と同じ食事を与える…………いつでも同じ濃厚な、脂っこい料理で、なんでもオリーブ・オイルにひたしてあった。(201p.)

Spain304.jpg・確かにそうだ。何でも量が多いし、何にでもオリーブ・オイルがかかっている。けれども、イギリス人だってかなりの大食いだし、何にでもバターが入っているように感じた。バターの代わりにオリーブ・オイルをパンに塗るのは、むしろあっさりしていて、身体にも良さそうだ。トマトをペースト状にしたジャムなんてのもあって、なかなかおもしろい。それに、肉ばかりじゃなくて、魚料理も豊富にある。簡素な朝食を「コンチネンタル」と称して、「イングリッシュ・ブレックファスト」を自慢にしたりするが、食べることについては、明らかに、イギリスよりはスペインの方が豊かだ。

Spain140.jpg・スペインのホテルではどこでも、朝食バイキングのメニューは豊富で、ぼくは朝から腹一杯食べた。で、昼食はミルクたっぷりの「カフェ・コン・レチェ」だけ。別に昼食をけちったわけではない。それだけ、朝のメニューが食欲をそそったのだ。生ハム、スモーク・サーモン、トマト、果物、それに何種類ものデザート………………。オーウェルが言うように、スペインでは当たり前の朝食メニューなのかもしれない。けれども、スペインでは昼が一番の食事なのだという。そんな大食いの割にアメリカで見かけるような巨漢を見ることが少なかった。栄養のバランスがいいのか、時間の使い方が健康的なのか。

Spain9.jpg・食後のデザートも、その量は半端ではない。「クレマ・デ・カタルーニャ」はバルセロナの代表的なデザートで、皿一杯のカスタード・クリームの上に、砂糖を焼いてつくったキャラメルの板が乗っている。おいしいけど甘いし、量が多い。これでは、身体に悪いのではと心配するけれども、メインの料理にはほとんど甘みがないから、全体として糖分過剰ということはないそうだ。そう言えば、日本で外食をしたり、出来合いの料理を食べて思うのは、何でも甘い、甘すぎることだ。だから、最初の頃は食べるものがみなしょっぱく感じた。塩分の取りすぎではないか、と思ったが、ヨーロッパでは長寿の国に入るというから、実際にはそれほどではないのかもしれない。

・シエスタについて書くつもりが食事の話ばかりになってしまった。しかし、おいしく、楽しく食べ、消化する時間をたっぷりとり、そのエネルギーをまた楽しいことに費やす。仕事はあくまで、そのためにやらなければならないこと。こういう人生観をもって生きるというのは、何と豊かなことか。そういう意味で言えば、現在の日本人の生活は何ともみすぼらしい。