・「情動(affect)」は日常使われることばではない。一般的には「感情」や「情緒」が普通だろう。英語では「エモーション」。そんなつもりで読み始めたら、なかなか難しい。この本で使われている「情動」は、自分で意識して表出される「感情」とは違って、その元になる意識以前の身体的なものである。それをさぐるために検討するのは、ウィリアム・ジェームズの「純粋経験(pure
experience)」やホワイトヘッドの「原初的感受(primary
feeling)」といった概念で、どちらかといえば、「感情」よりは「知覚」と関連するものだ。なぜ、意識できる「感情」ではなく、その元にある「情動」に注目する必要があるのか。著者はその理由を次のように書いている。
・現在のデジタルメディアの特性がいかなるものであり、それがどのような社会的機構を構築しているのか、そしてその機械機構のなかで知性と感性と欲望、そして情動がいかに算出されているのか。本書が試みているのは、このことを解明すること、あるいは解明するために諸概念を手繰り寄せ、実際の分析に手さぐりながらも活かしていること、そのことにかぎられている。(pp.17-18)
・デジタルメディアで飛び交う情報は、人間の歴史上かつてないほど膨大で多様なものになっている。しかし、その機械機構を支えているのはAppleやGoogle、FacebookやTwitterといったごく限られたもので、それらが感覚知覚を管理し制御するテクノロジーとして進化してしまっている。デジタルメディアを利用する人たちは自由気ままに利用していると思う一方で、感覚機能までコントロールされてしまっている状態が現実化しているというのである。それは「コミュニケーション資本主義」と呼べる社会の実現である。
・たとえば、形あるものの本質が設計図であり、生き物の本質がDNAであるように、情報の本質は、表に現れた部分ではなく、その奥に隠されたところ、つまり「情動」にある。著者が訴えたいのは、何よりこの点にある。そして、このような理論的整理をした上で分析するのは、3.11の大地震と福島原発事故と、その後に現れた石原慎太郎と尖閣諸島の購入、そして安倍首相のオリンピック招致での演説である。
・石原発言は、多くの人々の政治意識を、原発問題から領土問題へ、放射能汚染というリアルな脅威から日中の緊張関係が及ぼす脅威へ、とシフトさせる転換点を創り出したのである。言い換えれば、情動の集合的な編成が、リアルな脅威への不安から、自ら作り上げた偽装の脅威へとシフトしたことを意味している(pp.146)
・尖閣といい、オリンピックといい、正しい言動ではないとわかっていながら、それを黙認し、さらに好意的に受け止めようとする。著者はその理由を「不安のなかにあるからこそ、閉塞のなかにあるからこそ、その状況を一変させ不安を払拭させたいとする欲望」に火をつけたのだと言う。萎縮と自粛に囚われたマスメディアの追随と、SNSによる憎悪や嫌悪、あるいは賛同やナショナリズムのことばの拡散が、現実の厳しさを隠蔽し、国威発揚や希望の未来に共振する現象を作りだしている。
・このような主張には、もちろん、異論はない。しかし、「情動」がいわば人間が自覚し発散するあらゆる「感情」や「知覚」の元になるものであるとすれば、喜怒哀楽や優劣(競争)の意識、そして欲望や嫉妬、あるいは「認識」や「知覚」と「情動」の関係は、もっと多様な側面に向かう必要がある。それは途方もない作業を必要とするはずである。
・著者はまた、現在が、近代化が勃興し始めた19世紀と酷似していると言う。新聞や雑誌が生まれ、都市に溢れた人々の集まりを、「群衆」や「公衆」と名づけて注目したタルドに依拠しながら、デジタルメディアが日常的に使われるようになった今日的状況を、「ベクトルが反転したかのように、近代の諸制度から弾き出され、かつ同時に諸制度を食い破るような、その意味で(群衆と公衆という)両義性を体現する集合的な主体の生成」という事態だとみている。
・このような指摘もまた、興味深いものだと思う。しかし、19世紀に続く20世紀もまた、けっして安定した社会だったわけではない。その間に登場した写真や映画、電話やラジオ、そしてテレビといった多様なメディアもまた、それぞれに「情動」に訴えかける特徴を持っていたはずである。そのような側面を含めて、これからの仕事をどう展開するのか。ちょっと無謀に思えるほどに、野心に溢れた内容だと感じた。