俺は苦しみ、疲れてしまった、ここ、アビジャンで
俺は殴られ、苦しんできた、ここ、アビジャンで
アビジャンのゲットー、トレッシヴィルで
俺はアスファルトのボス
アビジャン、プラトー地区、大蔵省の前で
ナマ(自動車)を見張ってるんだ
俺の縄張りに入った自動車に手をだすな
俺の見張る自動車をだれも傷つけたりはしなかったぜ
俺は苦しみ、疲れてしまった、ここ、アビジャンで
俺は殴られ、苦しんできた、ここ、アビジャンで
アビジャンのゲットー、トレッシヴィルで
俺はアスファルトのボス
アビジャン、プラトー地区、大蔵省の前で
ナマ(自動車)を見張ってるんだ
俺の縄張りに入った自動車に手をだすな
俺の見張る自動車をだれも傷つけたりはしなかったぜ
・今年のグラミー賞の主役はサンタナだった。クラプトンにディランとここ数年は大御所ばかりが目立っている。僕にとってはなじみがある人たちで悪いことではないが、逆に言えば、新人や若手に元気がないのである。というよりは新しい波が全然やってこない。実際、僕はRadio
Head以来、新しいミュージシャンに興味を感じていない。ロックは20世紀の音楽で終わるのかもしれない。そんな気持ちになってしまう。ところが久しぶりに「あー、いいな」と思うバンドに出会った。Stereophonics。最初に2枚目の"Performance
and cocktail"を買ったが、気に入って、すぐにデビュー・アルバムの"Word gets
around"も手に入れた。で、毎日必ず一回は聴いている。
・きっかけはゼミの学生の報告だった。イギリスのウェールズの音楽について、その社会背景を中心に論文を書きたい。そんな内容の中で紹介されたのが、このバンドだった。イギリスのロックと言えば、リバプールやロンドンがあるイングランド、それにアイルランド、あるいは最近ではスコットランドも注目されている。しかし、ウェールズは仲間外れで大したミュージシャンは出ていない。そんな認識だったが、そんなことはないという話だった。「へぇ、そうなの」と思い、タワー・レコードで見かけた際にそれほど期待もしないままに半信半疑で買ってみた。
・ライナーノートによれば、Stereophonicsのデビューは1997年である。ところが日本での発売は契約の関係で1年も遅れたらしい。しかし、すでに日本にきてコンサートもやったようだ。「ステレオフォニックスが描写する世界には、些細な噂がうずまく小さな町があり、行き過ぎる人々、男と女、セックス、老人、アルコール、皮肉、ぬぐえない過去、不幸にもいまだに少年のままの『青年』、閉ざされた明日などが微妙に関わり合いながら現れては消えていく。嫌というほど見慣れた風景に隠された、そんな感情の物語。」たとえば、"Local
boy in the photograph"は鉄道に飛び込み自殺をした少年の話のようだ。
友達たちは土手に花を添えて、写真に映った少年の最後の姿について、何時間も酒を飲みながら話をする。彼は23のままで、最後に彼の服が見つかった場所を、今も列車が通り過ぎていく。
工場での一日が終わったら10分きっかりで、のどの渇いた犬のように酒を飲み始める。週末は何も食べないし、寝もしない。..............俺は仕事のために生きているんじゃない。週末を楽しく過ごすために働いている。
・例年だと、定期試験に続いて入試の監督と緊張と退屈が入り交じったつらい時間を過ごしていたのだが、今年は入試業務からは解放された。というか、秋と暮れに面接を担当したことで勤めは果たしたとされた。大学のやり方の違いだが、去年まで勤めていた大学では、原則としてすべての入試に全員が参加という決まりだった。それが東経大では分担でおこなわれている。どう考えたって、これの方が合理的だ。できれば、教授会ももっと簡素化して欲しいと思うのだが、どういうわけか、この点に関しては無意味な手続きや儀式が多すぎる。一長一短、なかなかうまくいかないものである。
・それはともかく、残り少なくなった京都での生活をゆっくり過ごすことができた。で、カウチポテトで映画三昧。Wowow、BS2、ハイビジョンと、探していくと次々とおもしろそうな映画をやっている。
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まず『女と女と井戸の中』(The
Well)。オーストラリアの農場に父親と住む中年女性が若い女の子を家に住まわせる。音楽や踊り、あるいは衣装。単調な生活が一変する。不機嫌だった父親が死ぬと、小さな小屋を残して農場を売却してしまう。大金が転がり込んで、二人はヨーロッパ旅行に想いをはせる。ハネムーンのようなひとときだが、泥棒が入って金がなくなる。ところが偶然、その泥棒を車でひき殺してしまう。死体を井戸に。金はない。人は殺した。落ち込む中年女性。金をもって家から出る娘でラスト・シーン。行ったことはないがオーストラリアの一風景を見た気がした。
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『沈黙のジェラシー』(HUSH)は息子を溺愛する姑のジェシカ・ラングが嫁のグウィネス・パルトロウをいびりだそうとする話。お腹にいる孫を自分のものにしようと画策するさまは鬼婆のようですごかった。しかし、母親とのつながりよりは妻を選んだ男の心理描写はいかにも単純で、ジェシカの恐ろしい演技だけが目立った映画だった。
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ハリウッド映画はお金がかかっていて映像は迫力があるが、相変わらず何でも「愛」で片づけてしまう。そんな映画が『シティ・オブ・エンジェル』と『遙かなる大地へ』。前者はV.ヴェンダースの『ベルリン天使の歌』の焼き直しで、ニコラス・ケイジとメグ・ライアン。公開時にいろいろ批判されたが、オリジナルに比べてずいぶん薄っぺらだなと思った。天使が女医に恋して人間になるが、女医がトラックに轢かれて死んでしまう。残されたケイジは人間としての喜びや悲しみ、痛み、それに何より愛を知った喜びの尊さを訴えて終わる。しかし、アホみたいと感じてしまうしかない話のように思った。
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『遙かなる大地へ』はアイルランドからアメリカに移住した若者がオクラホマに自分の土地を見つける話である。出演はトム・クルーズとニコール・キッドマン。美男美女で実際の夫婦。これもやっぱり愛のドラマだった。アメリカへの移住と夢を求めた西部や西海岸への移動は、実際にはとんでもない苦難の道で、僕はそのことを『オレゴンへの道』で知った。大陸を移動するためには当然、食料や水などの確保に多額の金がいる。病気や事故、喧嘩、あるいは賊に襲われるといったこともある。僕は主演の二人よりは、簡単に死んでいくちょい役の人たちの人生の方が気になった。
・『レディ・バード、レディ・バード』はイギリス映画で次々と生んだ子どもを福祉施設に取られてしまう女の話。彼女は父親に性的虐待を受けたという幼児体験を持つ。父親の違う4人の子どもをもうけたが、男の暴力とみずからの母親としての能力をなさを理由に子どもを取り上げられてしまう。その後パラグアイから亡命してきた男と知り合い、子どもを生むが、それもまた取られてしまう。それによってますます荒れる女。映画は、親子の愛を奪う社会の制度を疑うが、しかし、子どもにとっては、実母か里親か、どちらが幸せになるかはわからない。愛こそはすべてといったハリウッド映画とは違って、愛ゆえに泥沼におちていくプロセスがよく描かれていると思った。
・月並みだが、やっぱり地味な映画の方がいろいろ考えさせられる。見ていてしんどくなるが、しかし、親子の問題が原因の殺伐とした事件が多発する最近の風潮と重ね合わせると、愛を謳歌して納得などという話にはつきあえない気がしてきてしまう。
・地味な映画といえば、親子の愛をテーマにしたものをもう一つ。『推手』はコンピュータの専門家になった中国系アメリカ人が白人の女性と家庭を作り、父親を台湾から呼ぶという話である。父親のアメリカに対する、そして奥さんの中国に対するカルチャー・ショック。家族を大事にする中国的な伝統と、個人主義のアメリカ。そのズレをめぐって食い違いや諍いがおこる。互いが努力して、そのためによけいに溝を広げてしまう。そんな関係の描写が見事だった。
・1年のうちでこんなふうにして映画をつづけて見るのは何度もない。のんびりしたが、寝転がってばかりいたせいか、またぎっくり腰になってしまった。やれやれ........。
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