2002年12月2日月曜日

HP開設6周年!


・自前のHPを開設して6年がたった。そんなになるのかという気もするし、まだそんなもんかとも思う。いずれにしても、ずいぶんな量のHPになった。毎週1回の更新を、ほとんど休みなくつづけたから、レビューやコラムの数は300本を越え、貼りつけた画像は1200枚になろうとしている。アクセス・カウンターももうすぐ10万になる。まさに、塵も積もれば山である。もっともこの数字は、東経大に移籍した1999年4月からだから、3年8カ月でということになる。通算では13万超というところだ。


・HPを公開したのは1996年11月。最初のコラムはルー・リードのコンサート・レビュー(大阪フェスティバル・ホール)で、ブック・レビューは長田弘の『アメリカの心の歌』(岩波新書)からだった。ちょうど『アイデンティティの音楽』の構想を立てて、少しずつ書きはじめているところだったから、それ以降も音楽関係のコラムがかなり多い。


・勤務していた大阪の追手門学院大学では、1995年から学内でインターネットが使えるようになっていた。1年間、内外のホームページを探索しては、新しいメディアをおもちゃにしていたが、自前のメディアを作りたいという気持がじょじょに湧いてきた。で、法政大学の平野秀秋さんに刺激されてHTMLを勉強した。それが96年の夏休み。大学のサーバーには教員のページはまだ一つもなく、「情報センター」にも、HPについての規定ができていない時期だったから、催促して特例として試験的に公開、という形で11月に開店した。一人では気恥ずかしいから、同僚の原田達さんを誘い、ついでに社会学科のHPも作った。


・この6年のあいだにインターネットは大きく様変わりした。大学で教員だけが使っていたものが、今では職員も学生も使うようになって、さまざまなやりとりをメールで済ますようになった。回線が細いために画像は極力小さくということになっていたのだが、ブロードバンドの普及で大きな画像も動画も珍しくなくなった。ミニコミのような個人のメディアとして面白いと思っていたのだが、もうすでにビジネスの道具として認識されている。学生たちが卒論や修論のテーマにするのも珍しくない。携帯の普及とあわせると、この6年間のコミュニケーション手段の変化はものすごいものだったと思う。


・それで便利になったことはずいぶんある。新聞はもちろん、テレビよりも早くニュースを知ることができる。それも国内ばかりでなく世界中のサイトから入手できる。何を買うにも、わざわざ出向かなくてもよくなった。ぼくにとっては何より英語の本の購入だが、その気になれば何でも変えてしまう。このHPについて言えば、何といっても未知の人からの反応やそこから発展する関係だろう。


・もっともいいことばかりではない、HPの更新が日課になって、その分読書量が半減した。やってきたメールに返事を書く時間もかなりのものだ。もちろん、ネット・サーフィンが日常化して、用もないのにあちこちぶらぶらしたりするから、それにとられる時間もばかにできない。携帯ほどではないが、こんなもの別になくてもいいのではないか、と思うこともしばしばである。


・今、このHPには毎日100人ほどの人がやってくる。だから週1回の更新をさぼることは難しい。それが励みにもなっているが、また、重荷に感じるときもある。最近では書評欄で紹介してくださいといって出版社から本が送られてくるようになったが、ほとんど無視している。卒論の時期になると他大学の学生から「卒論が読みたい」というお願いが来るが、これもほとんどお断り。副収入が得られるバナー広告をなどという誘いももちろん無視。


・これは個人のページだから、書くテーマは自分で見つけたもの、探したもの、買ったもの、気づいたこと、したこと、考えたことに限定する。不親切だと言われるかもしれないが、そうでなければ持続は無理。最近そんな思いがますます強くなるばかり。しかし、こんなページでよかったらこれからもご贔屓によろしく。

2002年11月25日月曜日

THINK EARTH PROJECT『百年の愚行』(紀伊国屋書店)

  20世紀が人間の歴史の中で特別で異常な時代だったことはあきらかだ。20世紀の初めには15億程度だった人口が2000年には60億人になった。まさに人口爆発で、中国では子どもの数を制限する「一人っ子政策」が厳しく行われたが、それでも人口は13億人に達している。しかも、アジアやアフリカでは、この人口増加の勢いはいまだに衰える気配はない。
一方で20世紀は戦争の世紀ともいわれる。二つの世界大戦と無数の小さな戦争。20世紀に起こった戦争は、6000人以上の死者が出たものだけで165件、犠牲者の総計は1億8千万人ともいわれている。さらにスターリンの粛正やナチのホロコーストに象徴される虐殺の数々や、飢饉や戦争による餓死をあわせると、その数はさらに拡大する。そしてもちろん、戦争や飢餓による死者は、現在も地球上のあちこちで増え続けている。
この、人口急増と大量の死者に象徴されるように、20世紀はあらゆる意味で「マス」の時代だった。「マスメディア」「大衆社会」「大衆文化」、そして「大量生産」。都市が巨大化し、一カ所に数千万人もの人が集中した。そこで消費されるモノと大量にでるゴミ、もちろん生産や流通の過程ででる産業廃棄物や排気ガスも桁違いに増え、資源の消費量も極端に肥大化した。しかし、大量生産・大量消費の形態は21世紀になっても継続したままだ。
今中国は経済成長のただ中にあって、たとえば車の需要が急増している。13億人もいる国で人々が車を持つことが当たり前になったらエネルギーや公害はどうなるか。想像するだけで空恐ろしい気がするが、これから産業化しようとする人口の多い国は他にもたくさんある。ちなみに2000年度の自動車の生産台数は5562万台。この数字は1908年にT型フォードが作られてから30年間の累計生産量に匹敵する。このペースで行けば、1年間に1億台の生産といった数字ももうすぐのことだろう。
20世紀の後半から毎年1500万ha以上の熱帯林が減少した。絶滅しかかっている生物の急増、砂漠化、温暖化、オゾン層の破壊と、地球環境の変化はすさまじい。そのあいだに、電気の総発電量は1930年からの70年間に48倍に増え、化石燃料(石炭・石油・天然ガス)の消費は20世紀後半の50年間で4倍にふえた。
『百年の愚行』は写真によって記録された20世紀の足跡を集めたものである。上に書いたような状況がさまざまな写真によって具体的に示されている。「タンカーからの石油流出」「水俣湾に流れ込むチッソ工場の廃液」「酸性雨で枯れた森」「鉱山からでる廃棄物や廃液による汚染」「動物の密猟」「原子力発電所の事故」「原爆のキノコ雲」「投下される爆弾の雨」「破壊された町」「殺される捕虜」「地雷に足を吹き飛ばされたこども」「収容所に積まれた死体の山」「餓死する難民」………
もちろん、戦争も飢餓も、あるいは自然破壊も人間の歴史とともにずっとあったはずのことだ。そしてそれが映像として記録できたのも、また20世紀の特徴である。映画監督のアッバス・キアロスタミはそのことを「『映像』がこの百年の人間の愚かさと人類史全体の愚かさの違いを決定づけている」という。20世紀になって人間は、その愚かさはもちろん、あらゆることを映像として永遠に残るものに変換させるようになった。彼はまた、その映像が「自らの妄想を増幅させるもの」として人間を虜にしたという。写真、映画、テレビ、インターネット………。映像は記録するものであるだけでなく、それ以上に人間の夢や欲望、野心をかきたてるものでもある。
このまま行けば確実に、人間の世界は破綻する。そのことに不安を感じながら、また自覚しないようにしている。クロード・レヴィ=ストロースは「人権の再定義」を再構築する作業が必要だという。権利の行使にはその犠牲になるものがともなう。だから「権利」には「義務」が不可欠なのだが、20世紀は「権利」の行使とそれを巡る競争や戦いが繰りかえされてきた。人間が特権的に権利を行使できる存在ではないこと、権利にともなう義務を果たすこと。レヴィ=ストロースはそれを「人権の再定義」と呼んでいる。
確かにそうだろう。けれども、またわたしたちは、義務が、権利と違って自覚しにくく、行使しにくいものであることをよく知っている。ほっといても何とかなる、目をつぶって見なければ、忘れてしまえばいいと思うずる賢さをしたたかに身につけている。いったいどういうきっかけがあれば、すなおに義務に目を向けるようになるか。『百年の愚行』は一瞬だけでも、そのことに気づかずにはいられない時を作り出す本だと言えるかもしれない。

2002年11月18日月曜日

K's工房の作品

 


・家の北側に工房を作って2年になる。40歳をすぎて陶芸に目覚めたパートナーの仕事場だ。ここで、せっせと製作している。作品は各地の展示会に出かけて売る。この2年で、松本のクラフトフェアをはじめ、駒ヶ根や琵琶湖の長浜、あるいは新宿などに出かけてきた。photo26-6.jpeg


・河口湖周辺には陶芸家はもちろん、ガラスや石、紙や木といったさまざまな材料で作品を作る人たちがいる。そんな人たちが集まる催しも、河口湖や富士吉田にはいくつかある。作ったものは人に見てもらいたい。できれば買ってほしい。数は多くはないが、作品を介した人との出会いも生まれた。photo26-7.jpeg


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・そんな人たちの中から、いくつか東京のギャラリーとの繋がりもできて、作品を常備している店もできはじめた。彼女の世界はゆっくりとだが、広がりはじめている。バブルの時代はともかく、今はもの作りの人には状況は決してよくはない。イメージ作りをし、手間暇かけて製作する。しかし、できあがった作品には、それに見合う値段はなかなかつけられない。


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・工房には地元の人たちが陶芸を習いにやってくる。興味を感じて何人もの人が来たが、なかなか持続する人は少ない。今は富士吉田のKさんが一番熱心にやってきている。



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・対照的に、体験教室にやってくる人は増えている。東京や横浜付近からの人が大半で、多くはホームページで探し当ててくる。カップル、職場の同僚、あるいは学生(時代の)仲間、家族………。



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・そんな人たちが3時間ほどで作る作品は、個性的でなかなか面白い。パートナーも楽しそうにやっているが、その後の作品の管理(乾燥)や素焼き、釉薬掛け、本焼きには、相当の神経を使っている。せっかく作った作品を壊すわけにはいかないからだ。

2002年11月11日月曜日

薪集め

 

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forest20-1.jpeg・ 唐松の葉が落ちたら、木のてっぺんに大きなスズメバチの巣。この森にはかならず毎年、どこかに巣ができる。今年もストーブを焚く季節になった。外は寒いが中は暖かい。風が吹き出すエアコンと違って、薪の火は静かにじんわりと暖まる。一度味わったら、やめられない心地よさだ。だからこそ、薪は十分に用意しておかなければならない。

・というわけで、これから来春までに燃やす薪は、この春から夏にかけてせっせと割って家のまわりに積んできた。調達したのは去年の話である。で、今は次の冬のための木を探し歩いている。家のまわりの倒木はほとんどとりつくしたから、車で出かけたときには、きょろきょろしてめぼしいものを見つけなければならない。 ・毎週一回買い物に行くスーパーへの通り道に、この夏伐採した木の山を見つけた。何日も積んだままになっているし、持ち主はわからないから、子どもが来たときに、広葉樹だけいただくことにした。ワゴンの後部座席を倒して、10本ほどを積んだ。そうしたら息子に「これって盗木とちゃうか?」といわれてしまった。確かにそうかもしれない。しかし、直径10〜20cmほどでまがりくねった広葉樹は薪にする以外には使い道がない。だいたいそのまま放置されて腐るのが普通だ。「だからいいのだ!」とは言ってみたが、はっきり指摘されると、やっぱり何となく後ろめたい。

forest20-5.jpeg・湖畔の道路にトンネルを造る工事をしている。その近くに白樺林があって、伐採された白樺をひろって、木工の材料につかってきた。その林に、道路を広げるためか、伐採のしるしの赤いテープが貼られていて、気になっていた。そうしたら10月の末にきれいさっぱり切り倒されて、ちょうど車で運べるほどの長さに揃えて積んであった。これはいいと思って翌日現場に出かけると、数人の人がトラックに積み終わったところ。で、「それください」とは言えなかった。県の土木課か東電の仕事だと思うから、頼めばもらえたかもしれないが、ちょっと遅かった。前から狙っていたから本当にがっかり。


・木工用の白樺がもう残り少ない。で、気を取り直して少し遠出をして探すことにした。そうしたら、山道からちょっと離れたところに広葉樹を伐採した木の山。砂防ダムを造るので伐採した木のようだ。パートナーと一緒だったからとりあえず7本ほど積んで帰ったが、気になって仕方がない。何しろ木の山の下の方に白樺が3本ほどあったのだ。で、翌日、ひとりでまた出かけた。今度は助手席も倒して運転席以外にびっしり積んだ。もちろん、白樺もだ。それでも木の山はまだまだ半分以上残っている。これは後数回来なければと思うと、何となくうきうき、わくわくしてきた。

forest20-2.jpeg・というわけでせっせと運んだかいがあってご覧の通り集まった。これで次の冬も大丈夫かなという気もするが、割って積んでみなければ安心はできない。残りの木も雪が積もる前に取りに行かなければ、と考えているが、頑張ったせいか、からだのあちこちが痛い。


・こうやって集めた木をチェーンソウで30cmほどにカットして、斧で半分か四半分に割る。それを積んで1年以上乾かして、やっとストーブで燃やすことができる。薪ストーブは暖をとる前に何度も汗をかく。赤い炎と温もりはまさしく汗の結晶で、そう思うからいっそう暖かさも増してくる。わが家に来る客人は助っ人のつもりで薪を割る。けれども、薪割りは燃やすのに次ぐ楽しみだから、ぼくはそれを分けてあげてやってると思っている。


・台風の風が強くて付近でも松の大木が何本も倒れた。地区の管理人さんがカットして、それを知らせてくれた。当然、さっそく運んだが、実は松はあまりうれしくない。最初の頃は、どんな木でも喜んで集めていたのだが、松は、脂があるからストーブには火力が強すぎるし、煤も多い。ストーブを傷めるからつかわない方がいいようだし、木質が疎で燃焼時間も短い。それに比べると、木質が密で硬い広葉樹はゆっくりと長く燃える。そういうことに納得してからは、松はあまりうれしい木ではなくなった。とはいえ、そんな贅沢を言ってはいられないから、松も集めている。


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・大木になった松は風をまともに受けて折れやすいから、わが家の木も切ってしまいたい気になっている。かわりに白樺や桜、楓、ポプラなどを植えてみたい。そんな広葉樹の森を想像してみるけれど、森になるには植えてから少なくても20年ほどかかる。その時ぼくはいくつになるのかと考えると、想像力はとたんに萎えてしまう。森の時間は確実だが、人間の思惑など無視するほどゆっくりしたものだ。

2002年11月4日月曜日

研究室とネット環境の変化

  • 夏休み明けに新しい研究室に引っ越した。今までの1.5倍の広さだが、鍵型の変わった間取りになった。従来の3部屋を2部屋にしたためだが、有効に使うためには、ちょっと工夫が必要だった。院のゼミは研究室でやっている。だから10人ぐらいは楽に座れるテーブルと椅子がほしい。そう思っていろいろやったのだが、右図のように幅の狭い縦長にせざるを得なかった。折り畳み式のテーブルを2本つなげて、そのうえにちょっと幅の広い板を乗せ、テーブル・クロスをかけた。板は家の近くのDIYの店で買い、カンナをかけ、角をとってから車で運んだ。
  • ついでに、殺風景なドアに名札と居所知らせをはった。どちらも白樺の木で、もちろん手作りのものだ。我ながら、なかなかのできだと自惚れている。残念ながら、これに気がつく人は少ない。
  • もう一つほしかったのが横になれる椅子。朝早く起きて夜まで授業や会議ということがあるから、時折、横になりたくなる。で、リビングで使っていた籐の長椅子をもちこんだ。向かいには備えつけの机とパソコンラックを並べたから、そのあいだは椅子を置くのがやっとだ。狭い。
  • そう思うと、鍵型の出っ張りが何ともじゃまくさくなる。実は改装工事で2倍の広さの部屋もできているのだが、勤続年数順でそこには入れなかったのだ。しかし、次の機会にはそろそろ希望がかなってもいいはずだ。
  •  

  • 今年は研究費がたくさんもらえたから、マックを買おうと思っていた。新型の登場と部屋の改装が重なったから、あわせて生協に注文した。G4でデュアルの1ギガを積んだ機種と液晶の22インチを購入。研究費の大半はそれで使ってしまったが、大きくてきれいな画面とOSXは素晴らしい。新しいソフトを買う余裕はもうないが、ぼくが一番利用するAdobeのDTPソフトのIn DesignはすでにOSX対応で、A4で2頁が完全に表示できる。おもわず「スゲェ!」とつぶやいてしまった。今まで使っていたソフトも、OS9が自動的に立ち上がってつかうことができるし、付属のソフトも使いやすいから、買い直す必要はないかもしれないと思っている。メール・ソフトもなかなかいい。何より、一度もシステムエラーが起こっていないのが、マックにしては画期的だ。
  • アカウントをもう一つもらい、ハブをつけて、今まで使っていたPower Bookも横に並べてつかっている。これをインターネット専用にしてG4で作業をと思っているのだが、プリンターもスキャナーも来年の研究費待ちだから、しばらくは宝の持ち腐れになってしまう。
  • 大学のネット環境はどんどんよくなるが、わが家はというと、いまだにブロードバンドになる可能性は見えてこない。ADSLはNTTから遠すぎるし、ケーブルの敷設工事の予定もない。ファイル添付されたジャンク・メールがあると、それを受け取るだけで数分もかかってしまう状況は、もう我慢の限界を超えているが、選択肢がないのだから、これはどうしようもない。ただ、アメリカからのジャンク・メールで毎日一杯のAOLは契約をうち切った。京都からずっとつかっていた、すっきりしたアドレスともさよならした。
  • もう一つPDA。Viser-Edgeを買って1年になるが、老眼が進む目にはモノクロ画面が見にくくてつかいにくかった。で、カラー版の発売を待っていたのだが、Viser自体が店頭から消えてしまう状況になった。Handspring社は日本から撤退するつもりなのかもしれないが、キイボードやGPS(モデム内蔵)などの付属品も買ったから、他社の機種に乗り換えるのもしゃくにさわって、つかいつづけている。Palmにすればよかった、Clieでもよかったのに、などと考えては後悔している。只今、買い換え思案中。
  • もっとも、これはあくまで手帖であってネットにつなぐ道具ではない。簡単なメールは携帯の方が安いし、長いものやファイル添付はパソコンでないとダメだ。PDAという道具は結局、電話機能を付属させなければ、中途半端なものとして消えてしまうのではないか。1年つかってみてそんな感じがしている。
  • 最後に携帯だが、相変わらず、ごくプライベートなやりとりにしかつかっていない。ぼくのもっている機種は半年前にでたものだが、広告で0円になっていた。今は写真のとれるやつが大人気らしい。ぼくはあれは痴漢を誘発する道具だと思っている。ワン切りの次は覗きの社会問題化か?などと、自分でつかうようになっても携帯については悪い印象が消えない。これはたぶん、電話機能をもったPDAがでるまで改まらないだろうと思う。それなのに、Handspring社はなぜ日本でつかえるTreoを出さないのだろうか。障壁はやっぱりNTT?
  • 2002年10月28日月曜日

    アメイジング・グレイス」はどこから来たのか?

     

    ・「アメイジング・グレイス」はアメリカ人、とりわけ黒人たちの心の歌として歌いつがれてきた。おそらく、一番多くレコードやCDになった歌でもある。NHKのBSで、その歌の由来をたどる番組を見た。今までいろいろな人の歌う「アメイジング・グレイス」を聴いてきたが、はじめて知ることが多くておもしろかった。

    Amazing grace, how sweet the sound
    That saved a wretch like me
    I once was lost but now I'm found
    We blind but now I see

    ・ この歌の作者はジョン・ニュートン。1725年生まれ。英国国教会の牧師で自作の賛美歌を集めた歌集を出版している。曲はアイルランド民謡から採られたようだ。イギリスの白人がつくった歌がなぜアメリカの黒人たちに歌いつがれるようになったか。それはニュートンの経歴に関連している。
    ・ニュートンは若い頃、奴隷船の船長としてアフリカでつかまえた多くの黒人を、船に積んで運ぶ仕事をしていた。奴隷は人間ではなく家畜だったから、排泄物は垂れ流しのままの船底に押しこまれた。病気や飢えで死ぬものが多かった。
    ・そんな仕事のなか、彼の船は嵐に遭い難破しかかる。沈没しかかる船のなかで神にすがってお祈りをする。九死に一生を得た彼は、その経験をきっかけに信仰心に芽生え、今までの自分を懺悔する気持をおぼえる。「神は私のような卑劣な者(wretch)を救ってくれた」という「アメイジング・グレイス」の歌詞のゆえんである。
    ・番組はそこから別の話に移るのだが、実際にはニュートンはそのあとも16年間、奴隷船の仕事をつづけている。彼が牧師になったのは39 歳で、「アメイジング・グレイス」がつくられたのは、さらにその数年後のことのようだ。改心というのは物語のように劇的におこるわけではないということなのか、あるいはことばに表すのにはそれだけの時間がかかるということなのか。そのあたりにかえって新たな興味をもった。

    ・こうしてできた「アメイジング・グレイス」はアメリカに移住したアイルランド人たちのなかで歌いつがれる。アパラチア山脈のあたりで、カントリー音楽の発祥の地でもある。その歌がミシシッピー川に届き、南下してニューオリンズに行き着く。運んだのは綿摘みや農作業をするために南部の農場に買われた奴隷たち。キリスト教を信仰する彼らの心をとらえたのは、何よりこの「神は私のような卑劣な者(wretch)を救ってくれた」だったという。 wretchには卑劣の他に哀れな者という意味もある。
    ・不意に拉致され、船に乗せられ知らない土地に連行された。そこで牛や馬と一緒に生き物の商品として売られ、牛や馬と同じように働かされ、生活させられた。「アメイジング・グレイス」は、そんな絶望的な境遇に希望を感じさせてくれる歌として歌いつがれてきたのだという。

    ・米国南部に住む黒人たちは20世紀になると北部に移動をしはじめる。メンフィス、セントルイス、シカゴ、そしてニューヨーク。ブルースとジャズがたどった軌跡だが、それはまた、「アメイジング・グレイス」が広まっていった道筋でもある。
    ・アメリカはさまざまな理由で生まれた土地から離れてきた人たちによってできた国である。夢を求めてきた人、追われてきた人、そしてむりやり連れてこられた人。そのさまざまに異なる境遇や思いをもった人たちの間で、またさまざまな種類の歌や音楽が人びとの心の支えや、楽しみのもとになってきた。
    ・「アメイジング・グレイス」はその多様な人びとや音楽の間を、垣根を越えて口ずさまれた。ジャンルを越え、立場や境遇を越える歌。素晴らしい歌だが、これが必要とされたのは社会が悪夢のようだったからだ。いい歌が引きずる暗い歴史。もちろん、「アメイジング・グレイス」は今でも歌いつがれているから、これはけっして、昔を懐かしむ歌ではない。

    2002年10月21日月曜日

    「トリビュート」という名のアルバム

     

    "Hank Williams;Timeless"
    "Good Rockin' Tonight; The Legacy of Sun Records"
    "Kindred Spirits; A Tribute to the Songs oF Johnny Cash"
    "Return of the Grivous Angel; A Tribute to Gram Parsons"

    tribute1.jpeg・別に集めようという意図があったわけではないが、ここのところ「トリビュート」と名のついたアルバムを何枚も買った。要するに、いまはもう死んでいない偉大なミュージシャンを偲んで、強い影響を受けた人たちが集まって好きな歌を歌ったものである。ぼくはこの種のアルバムは好きだ。捧げられた人に対して関心があれば、参加しているミュージシャンもまた、好きな人たちが多いことが普通だからだ。

    ・ハンク・ウィリアムズはカントリーのジャンルでは伝説的なミュージシャンだ。ロカビリーといったジャンルが一時もてはやされたが、ロックンロールの誕生に橋渡し役をした人だといってもいい。参加しているのは、ボブ・ディラン、シェリル・クロウ、ベック、マーク・ノップラー、エミルー・ハリス、トム・ペティ、キース・リチャーズ、ジョニー・キャッシュ他。各自がハンク・ウィリアムズの持ち歌を歌っているが、ハンク・ウィリアムズそのままの人もいれば、独自の歌にしてしまっている人もいる。だから、誰かわからないままに聞き流す曲もあれば、誰かがすぐわかるものもある。

    tribute2.jpeg・そういう存在感の強さと言うことでいえば、やっぱりディランにかなう人はいない。どんな歌を歌ってもディランはディランでしかない。そんな気持をあらためて強くした。実はディランはその他のアルバムにも顔を出していて、それぞれに、自分のではない歌を歌っているのだが、どれもやっぱりディランの歌としてしか聴けないものに変わってしまっている。

    ・2枚目はサン・レコードに対するトリビュートだが、要するにエルビス・プレスリーに捧げられている。ここへの参加者は、ポール・マッカートニー、ジェフ・ベック、クリッシー・ハインズ、ジミー・ペイジ、ジョニー・アリディ、エルトン・ジョン、トム・ペティ、ヴァン・モリソン、ブライアン・フェリー、エリック・クラプトン、シェリル・クロウ他。ポール・マッカートニーはエルビス本人と聞き間違えるほどだが、ディランはやっぱりディラン。そんな違いがとてもおもしろい。

    tribute3.jpeg・3枚目のジョニー・キャッシュは最近亡くなった。多くのロック・ミュージシャンとは違って低くて太い声で歌う無骨な感じの人だった。参加者はボブ・ディラン、リトル・リチャード、ブルース・スプリングスティーン、スティーブ・アール、ジャネット・カーター他。スプリングスティーンもやっぱり、しっかりスプリングスティーンだが、黒人のロックンローラーのリトル・リチャードがジョニー・キャッシュの持ち歌をロックンロールにしてしまっているのにはかなわない。ディランはここでもディランだ。こんなだから、他の二枚に比べて、いろんなサウンドが錯綜した感じになっている。もちろん、それはそれで面白い。

    ・最後はグラム・パーソンズ。彼は若くして死んだカントリーのミュージシャンで、前記した3人ほどには知られていないが、早すぎる死ということもあって、彼を偲ぶ人もまた多様だ。死因はドラッグ。ジミ・ヘンドリクス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンが相次いで死んだ時期と同じだった。バーズのメンバーだったこともあって、カントリー・ロックの草分けといった役割をした人として語られることが多い。参加しているのはエミルー・ハリス、クリッシー・ハインズとプリテンダーズ、ベック、スティーブ・アール、シェリル・クロウ、デビッド・クロスビー他。

    tribute4.jpeg・どのアルバムもそれぞれに味わいがあっていい。けれども、このような企画が相次ぐということは、それだけ、あたらしい音楽やミュージシャンが少ないということでもある。このコラムでも、もう何度も書いているけれども、本当にあたらしい音楽やミュージシャンがでてこない。21世紀になっても音楽は、完全に行き止まりの袋小路に突きあたったままだ。だから当然後戻りする。
    ・4枚のCDをくりかえし聴いて楽しみながら、同時に思うのは、音楽のこれからの動きだ。音楽をつくり、発信、受信する技術がこれほどに高度になった時代はこれまでなかったのに、あたらしい音楽が生まれない。これは大いなる皮肉のようにも思えるが、また当然の帰結のようにも感じられる。