2002年5月27日月曜日
メールがあたりまえになって
2002年5月20日月曜日
富士吉田のうどん
・富士吉田はぼくが住む河口湖町の隣にある。もうすぐはじまるワールド・カップに出場するカメールーンがキャンプをはる。町にはカメルーンの国旗が目立っている。しかし、観光客や釣り客でにぎわう河口湖とは対照的に富士吉田の町はいつでも閑散としていて、メイン・ストリートの商店街はシャッター通りと呼ばれている。実は、キャンプをはる国は、最初はナイジェリアのはずだった。それが、平塚にさらわれて、あわてて隣国のカメルーンと交渉したのだ。
・前に「観光地の光と影」でも書いたが、この周辺で買い物をしても、領収書はほとんど出ない。何かを頼んでも、口約束では守られないことが多い。要するに、顔見知り相手の関係が主だから、赤の他人同士の関係を保証する契約という発想がないのだ。詳細はよくわからないが、ナイジェリアに逃げられたというニュースを聞いたときに、ぼくは「やっぱりな」と思った。きちんと契約書を交わしてなかったんだろう。
・そんなわけで、富士吉田の将来をかなり心配してしまうのだが、ただ一つ、気に入っているものがある。「富士吉田のうどん」である。山梨県を代表する食べ物は「ほうとう」で、観光客相手の店には欠かせない。「ほうとう」は「きしめん」と同じ形をした、平たいうどんだが、うどんとちがって塩がふくまれていない。具と一緒にぐつぐつ煮込んでつくるから、麺は溶けるようにやわらかくなってしまう。カボチャをいれるから、つゆもどろっとする。はじめての人には食欲をそそるものにはみえないかもしれないが、なれると、これはこれでなかなかおいしい。もっとも、観光客相手の店ででる「ほうとう」は、つゆはすんでいて、カボチャも溶けてはいない。ぼくは、それは「ほうとう」ではないと思うが、そうでなければ、はじめての人には食べにくいのも事実だ。
・富士吉田の町には「ほうとう」を食べさせる店はすくない。対照的に「うどん屋」はたくさんある。しかも昼時だけ商いをしている店がほとんどで、どこの店も、客でいっぱいだ。もちろん、観光客はいない。地元の人たちが昼食を取りに来ているのである。閑散とした感じの町で、「うどん屋」だけがにぎわっている。最初は何とも奇妙な気がした。
・奇妙に思ったのはそれだけではない。店構えがそれらしくないのだ。「うどん屋」らしくないというのではなく、そもそも店には見えない。外側から見ると看板がなければ、普通の民家と変わらないし、玄関を開けても、まるで人の家に上がりこむ感じ。たいがい畳の部屋で、小さな折り畳みのテーブルがいくつか並んでいる。メニューもシンプルで暖かいのと冷たいの、それに天ぷらやタマゴ、ワカメなどのトッピングが何種類か、店によっては「かやくご飯」がある。値段は300円前後。観光客相手の「ほうとう」は1000円前後するから、その安さにも驚いてしまう。
・肝心の味だが、出汁には煮干しが使われていて、調味料は醤油と味噌。薬味には唐辛子をごま油と味噌で練った摺種と呼ばれるもの。辛いが、ちょっといれるとつゆに独特のコクと風味がでる。特徴はそれだけではない。最初に食べて驚くのは、その麺の堅さだ。「ほうとう」とはちがって極太の麺はコシということばでは表現できない独特の感触がある。暖かい汁ではなく、冷たいタレで食べると、その堅さはいっそう増す。大げさではなく、噛みきるという感じなのだ。正直言って「何だこれは」と思ってしまう。けれども、その感触が何となく忘れられなくなる。薬味の大根下ろしとわさび、それに鰹節のトッピングの組み合わせがなかなかいい。暖かい季節になってからは、ぼくはもっぱらこの冷たいうどんばかりを注文している。
・忘れてはいけないのがゆでたキャベツ。これがどこの店のうどんにも入っている。うどんにキャベツと聞くと、多くの人はその意外な取り合わせに「えっ?」と思うだろう。しかし、慣れるとこれもまたやみつきになる。こんな味を覚えてから、家でうどんを食べるときには、必ず、ゆでたキャベツをいれるようになった。薬味も店で分けてもらったから、それらしい味になっている。ただ、うどんだけは手に入らない。スーパーで買う「讃岐うどん」では、もはや何とも頼りない。地元の「うどん」も売ってはいるが、たいがいはゆでてあるから、その堅さはほとんど失われている。だから、ときどき富士吉田まで「うどん」を食べに出かけたくなる。
・富士吉田では周辺に来る観光客を取りこもうと、この「うどん」を名物にする動きがでている。「富士吉田うどんマップ」などもできていて、観光ガイドの雑誌にも紹介されはじめている。町の活性化にはかなりいい武器になると思う。けれども、名物になりはじめたら、「ほうとう」とおなじように、味や体裁、それに値段も変わってしまうのではないか。そんな心配をしてしまう。ともかく、一度食べてみる価値のある「うどん」であることはまちがいない。(写真は『ガイドのとら 富士山麓』から借用)
2002年5月13日月曜日
「聞く」ことのむずかしさ
人の話がちっとも面白くない。………得心する、その通りだと心から納得する、なるほどと心から唸る、黙って聞いているだけで心地よい、そんな納得の仕方がなくなった。しかしそれでも、人の話を聞いている時は、うんうんと相槌を打って解ったような顔をしている。実はこれがいけない。こちらがそんなふうに相槌を打つものだから、相手はますます熱心に話してくる。
自己の同一性、自己の存在感情というのは、日常的にはむしろ、(眼の前にいるかいないかとは直接関係なしに)他者によって、あるいは他者を経由してあたえられるものであって、自己のうちに閉じこもり、他者からじぶんを隔離することで得られるものではない。他者から隔離されたところでは、ひとは<自己>を求めて堂々めぐりに陥ってゆく。
2002年5月6日月曜日
連休中に見た映画
2002年4月29日月曜日
高原の花
・河口湖に越してから3度目の春。今年は暖冬のせいで、植物の目覚めは例年になく早かった。東京のサクラが彼岸には満開になって、おやおやと思っていたら、わが家の庭でも片栗が葉を出し、紫の花を咲かせた。蕗の薹もつぎつぎに出て、春の季節のはじまりは完全に半月は早い。例年ならゴールデン・ウィーク前に満開になるはずのサクラが4月に入るとすぐに咲き始めた。陽気も妙に暖かかった。
・片栗の花は毎年一つ二つと増えている。以前には群生していたのが荒らされたようだが、このぶんでは数年後にはまた群生するかもしれない。そんな楽しみを感じさせてくれた。荒らされたといえばたらの芽。芽が出てもうすぐ食べ頃というところで誰かに摘まれてしまう。しゃくにさわるから、袋をかぶせてとりにくいようにしたり、家のまわりを探しまわる人がいると外に出てうろうろしたりした。おかげで、今年も何度か天ぷらにすることができた。
・庭には数種類のサクラの木がある。なかでも一番きれいなのは小さなピンクの花をたくさん咲かせる富士桜。葉と同時に白い花を咲かせる大島桜は車の上一面に花びらや葉を散らすから、朝の出勤時にはその葉や花をまき散らして車を走らせることになる。バックミラーごしに見ると、舞っていく花びらや葉が渦を巻いて車から離れていく。「行ってらっしゃい」と言っているような気がして「行ってきまーす」と言いたくなった。
・付近の山にも何種類もの桜があって、それが時間をずらせて花を咲かせる。しかし、今年は一斉にといった印象が強い。おなじ頃に、地面も緑色に変わりはじめた。そしてじっと目を凝らしてみると、小さな花があちらこちらにぽちぽちとある。パートナーが植物図鑑を調べて名前をみつけた。「ヒトリシズカ」「ギボウシ」「イカリソウ」「ツリフネソウ」「オダマキ」「リンドウ」「ホトトギス」「ムスカリ」「エキナセア」「カモミール」………
・もちろん野生のものばかりではない。この家の前の持ち主はここを別荘として使っていたが、植物の手入れをていねいにしていたらしい。この時期になるとそれがよくわかる。残念ながら去年出ていたチューリップは今年は出なかったが、これから咲く花が楽しみだ。
・ぼくらが新しく植えたのは松の木を伐採した後の「樅」と「白樺」。そのあいだに置いた「ライラック」が今年始めて花を咲かせた。今年はさらに「三つ葉ツツジ」を買ってきた。それから白樺の根元に「クロユリ」と「岩レンゲ」、そして「ウスユキソウ」。去年山からとってきた山椒の木も数本根づいて新芽を出し始めた。森の中の土はもともと肥えているが、念のために、落ち葉を集めて堆肥にしたものをまいた。
・新しく始めたのはその他に、「向日葵」と「コスモス」。秋にあちこちから採取した種を日当たりの良さそうなところをみつけて何カ所か種をまいた。芽がでているところとそうでないところが極端だが、その理由はまだわからない。もう少ししたら、芽のでないところにもう一回種を植えてみようと思っている。うまくいけば、夏には家のまわりに大きな向日葵やコスモスのの花畑が出現する。
・ところで、ムササビはいまも住み続けている。その他に、時折野ネズミもリビングを徘徊する。庭には蛇に蜂。もちろん野鳥は何種類もうるさいほどに鳴いている。にぎやかで華やかな季節になった。というわけで、連休中はどこにも行かず庭や周囲をうろうろしてすごしている。
2002年4月22日月曜日
TVCMソング集、映画音楽集
・東芝EMIで宣伝の仕事を担当している水越さんにプロモーション用のCDをたくさんいただいた。彼とは去年龍谷大学で催したシンポジウム「ビートルズ現象」でご一緒した。彼の話は、ビートルズのおなじみの曲を集めた「ビートルズ1」をヒットさせた、その裏話が中心だった。
・アルバムとしてのCDは基本的にはミュージシャンが一つの作品としてつくりあげる。デビュー・アルバムから始まって、2作目、3作目と出していって、それぞれの音楽的な世界が明確にされていく。あるいはシングル盤でデビューして、何曲かヒットさせた後に、それがまとめてアルバムになるということもある。さらに、どんなミュージシャンも数年たって持ち歌がたまると、その中から比較的ポピュラーなものを集めて「ベスト盤」を出す。
・好きなミュージシャンのアルバムをすべて買えばベスト盤はいらないはずだが、そこに未発表曲とか別テイクなどをいれることがあるから、ファンはその曲だけのためにやっぱり買わされてしまう。また、ライブ盤なども出てくるから、同じ歌や曲をいくつも買って持つということになる。買わされる側にとってはちょっとしゃくにさわるところだが、商品化の可能性をたえず考えている売る側にとっては、独自の企画でリメイクしたものをいかにして売るかということは死活問題なのである。
・水越さんからもらったCDのなかには、そんな企画ものがいくつかあって、それが割と売れているという話を聞いて興味をもった。たとえば「Super
song in
Vision」はテレビCMに使われた歌ばかりを集めたアルバムで、聴いているとCMそのものが頭に浮かんできて、それぞれのミュージシャンのアルバムで聴いているのとは違う印象をもった。
・テレビを見ていて、ときどき「おや?」と思うような曲や歌を耳にすることがある。企業や製品のイメージにあっていたりいなかったするし、時にはCM制作者の趣味が見え隠れしたりする。ぼくは民放の地上波はめったに見ないから、CMにふれることは少ないし、邪魔だと思ってるからすぐにチャンネルを変えたりするのだが、聴きなれた曲には思わず耳を傾けてしまう。最近のものだとロキシー・ミュージックの"More
than This"(トヨタ「クルーガー」)、イエスの"Owner of Lonely
Heart"(日産「バサラ」)などがあって、このCDにもちゃんとおさめられている。
・このTVCMソング集を聴くと、自動車のCMにクラシックなロックが使われていることに気づく。三菱自動車「レグナム」がレオン・ラッセルの"Song
for
You"、スズキ「ワゴンR」がデヴィッド・ボウイの"Starman"、その他にもダイハツ「ムーヴ」がクイーン、トヨタ「プレビス」がシカゴ、ホンダ「VAMOS」がシーカーズとずらずら並んでいる。そういえば、ぼくが乗っているレガシーのCMもロッド・スチュアートなど、クラシックなロックが使われていた。これは、車とロックの関係から考えたらいいのか、それともユーザーの世代との繋がりなのか、あるいはcM制作者の趣味なのか、おもしろい傾向だなと思った。
・いただいたものの中には、ほかに恋愛映画の主題歌ばかりを集めた"Love
Ring
Cinema"というのもあった。それには、わりとあたらしい「タイタニック」から「男と女」や「禁じられた遊び」といった古いものまで20曲ほどがはいっている。それぞれはよく知っている曲で、好きなものが多いのだが、つなげて聴くとかなり違和感を感じたし、笑ってしまう場合もあった。
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ぼくは映画のサントラ盤はよく買う。最近の映画はロックをいくつも挿入させるものが多いし、その選曲などが映画の魅力の一つになっているものも少なくない。「トレイン・スポッティング」はその典型だし、ヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュの映画には音楽が不可欠だ。
・まったく別の曲や歌を自分がつくる作品のなかで一つにする。それが映像と一体化して一つのコンテクストを構成する要素になるとき、個々の曲や歌は、まったく違うものとして再生する。映画の挿入歌(曲)やCMソングのおもしろさは、たぶんそこにあるのだろうと思う。
・そのCMソングや映画音楽をさらにコラージュして一枚のCDにおさめる。それは、たぶんウォークマンの普及以降、多くの人がそれぞれにやってきたことだと思う。MDやパソコンを使っての編集がますます容易になっているから、パーソナルな形では当たり前なやり方なのかもしれない。
・だから、一人一人が自分の趣味にしたがってつくるものなのではという気がするが、そういう傾向があるからこそ、レコード会社が商品化を考える余地が生まれるのかもしれないとも思う。「個性」はたぶん、商品にとって重要な付加価値の要素なのだろう。
2002年4月15日月曜日
『文化社会学への招待』の紹介
『文化社会学への招待』(世界思想社、2000円)は井上俊さんが京大を退官されるのを記念した論集として企画されたものです。編者は亀山佳明、富永茂樹、清水学さん。彼らをふくめて、著者たちはすべて、井上さんを師と仰ぐ人たちです。ぼくは同志社大学大学院で3年間、井上さんの授業を受講しました。その後も公私に渡ってお世話になり、多くのことを教えられ、強い影響を受けました。30年近くたって、退官記念論集に名を連ねるのには、何か感慨深いものがありますが、実はそんなに時間がたったとは思えないのです。何しろ井上さんは還暦を過ぎたというのに、外見的には出会った頃のイメージそのままなのですから。教え子の頭が白くなってしまっているのですから、もういやになります。せめて書くものだけは、井上さんより年寄りじみないようにと心がけています。
この本は、そんな井上さんの人柄のせいか、どこか儀礼的で堅苦しい記念論集とはひと味違うものになっています。義務や義理でというのではなく、もっと積極的に書く。おもしろい内容の本ができあがったのは、彼を慕う著者たちの思いのせいかもしれません。ぜひご一読ください。
目次;
◆ I 遊びとメディア
第1章 遊びにおける「離脱」と「拘束」……『丹下左膳余話・百万両の壺』をめぐって…… 長谷正人
第2章 『リング』あるいは秀逸なメディア論としてのホラーについて 西山哲郎
第3章 デジタル・メディアのなかの文学 岡田朋之
第4章 遊びの躍動 桐田克利
◆ II 子どもとジェンダー
第5章 双子の夢からさめるとき……吉野朔実と横顔の少年少女…… 清水学
第6章 孤児物語をめぐる考察 細辻恵子
第7章 性別化されたディスクールを超えて 伊藤公雄
◆ III 歴史と物語
第8章 大正のユートピア 河原和枝
第9章 物語のなかの他者性 小林多寿子
第10章 生きづらさの系譜学……高野悦子と南条あや…… 土井隆義
◆ IV 記憶と他者
第11章 記憶の重層……パトリック・モディアノ『新婚旅行』その他…… 富永茂樹
第12章 消失の技法……ポール・オースターの世界…… 渡辺潤
第13章 漱石と親密性……ある悪夢の選択…… 阪本俊生
第14章 他者の発見あるいは倫理の根拠……夏目漱石『道草』をめぐって…… 亀山佳明
◆ コラム
『遊びの社会学』を読んだ頃 吉見俊哉
ハッピー・マニア、あるいは「恋愛結婚」の終焉 近森高明
招かれざる客 永井良和
不思議な都の夏目漱石 門中正一郎
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12月 26日: Sinéad O'Connor "How about I be Me (And You be You)" 19日: 矢崎泰久・和田誠『夢の砦』 12日: いつもながらの冬の始まり 5日: 円安とインバウンド ...
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・ インターネットが始まった時に、欲しいと思ったのが翻訳ソフトだった。海外のサイトにアクセスして、面白そうな記事に接する楽しさを味わうのに、辞書片手に訳したのではまだるっこしいと感じたからだった。そこで、学科の予算で高額の翻訳ソフトを購入したのだが、ほとんど使い物にならずにが...
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・ 今年のエンジェルスは出だしから快調だった。昨年ほどというわけには行かないが、大谷もそれなりに投げ、また打った。それが5月の後半からおかしくなり14連敗ということになった。それまで機能していた勝ちパターンが崩れ、勝っていても逆転される、点を取ればそれ以上に取られる、投手が...