2017年12月31日日曜日

目次 2017年

12月

25日:寒い暮れ

18日:U2 とStereophonics

11日:新しい車

04日:伊藤守『情動の社会学』

11月

27日:『オン・ザ・ミルキー・ロード』

20日:不倫とセクハラ

13日:やっぱり、紅葉と薪割り

06日:Jackson Browne とVan Morrison

10月

30日:立憲民主党に

23日:黒部峡谷と飛騨

16日:河合雅司『未来の年表』他

09日:「バリバラ」知ってますか?

02日:ドタバタの季節?

9月

25日:卑劣な解散に怒りを

18日:中川五郎『どうぞ裸になってください』

11日:再び、青木宣親選手に

04日:光岡寿郎『変貌するミュージアム・コミュニケーション』

8月

28日:NHKの抵抗?

21日:空梅雨明けから雨ばかり

14日:愚かすぎる東京オリンピック

07日:鳥海山、月山、そして蔵王

7月

31日:李下に冠?

26日:サウンドトラックから知ったミュージシャ

19日:ロバート・D.パットナム『われらの子ども』

12日:ホビット

05日:周辺をプチ山歩き

6月

26日:表現と印象

19日:青木宣親選手に

12日:最近買ったCD

05日:ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上下)』

5月

29日:NHKは大罪

22日:大工仕事と自転車、カヤック、山歩き

15日:安部デンデンに

08日:忖度と印象操作

01日:木こり、大工、ペンキ屋仕事

4月

24日:『海は燃えている』

17日:Bob Dylan "Triplicate"

10日:村上春樹とポール・オースター

03日:遅い春

3月

27日:京都散歩

20日:最後の教授会

13日:K's工房個展案内

06日:『沈黙』

2月

27日:Roll Columbia

20日:リチャード・セネット『クラフツマン

13日:久しぶりのぎっくり腰

06日:最後のゼミ

1月

30日:2017年の「真理省」

23日:トランプ就任と「世界の片隅」

16日:祝!!50周年 NGDB

09日:今年の卒論

01日:ボブ・ディラン『はじまりの日』他

2017年12月25日月曜日

寒い暮れ

 

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forest146-2.jpg・今年の冬は最初から寒い。早朝の気温は12月に入ってずっと零下が続いていて、-7度なんて日もあった。さすがに昼間には4、5度まで上がるが、とても自転車に乗る気にはなれない。実際、11月は湖畔のもみじ祭に人が集まって控えていたし、たまに出かけてパンクをしたりして、ほとんど出かけなくなった。こうなると、再開するのは来年の三月末ということになるだろうと思う。

・代わりに午後の1、2時間、ほぼ毎日、薪割りをしている。原木を買っているストーブ屋さんに在庫がなくて、太い木ばかりがやってきた。最大では直径が70cmもあって、チェーンソーで玉切りするのも一苦労だった。それでも毎年買う8㎣の玉切りは済んで、薪割りも6割ほどまでやった。仕事始めは寒くてジャンパーを着ていても、次第に汗をかくほどになる。一枚一枚と脱いで最後はTシャツ一枚になるのだが、休憩時にはまた着込まないとすぐに寒くなる。

・大学は週一回だが、12月の前半はゼミの卒論集作りで忙しかった。パソコンをにらんでの作業だから、肩は凝るし目もしょぼしょぼする。その意味では、薪割りはリフレッシュにはちょうどいい。卒論集もいよいよ最後で、30年近く続けてきた仕事もこれでおしまいだ。さて最終号の中身はどうか。来年早々には出来上がるから、またここで紹介する予定だ。

・もう一つ、学部の紀要で僕の退職記念号が来年の3月に出る。型どおりではなく、僕の著書の書評集にした。お世話になった人や院の卒業生に書いてもらったが、この編集も自分でやった。この記念号についても、出版されたら、ここで紹介しようと思う。こうして、一つひとつ、けじめをつけていくと、少しずつ、仕事の終わりに近づいていることを実感する。「やれやれ」とは思うが、さみしさはない。本当にさみしくなるのは、大学に行かなくなったり、家での作業がなくなったりしてからなのかもしれない。

forest146-3.jpg・新しい車は、機能がいろいろあって、それらを試して面白がっている。32ギガのSDカード一杯に音楽を入れたし、iPhoneも接続できる。高速道路ではステアリングが勝手にレーンを維持しようとして動くから、力を込めてそれに逆らってみたりもする。キーをもって近づくと、LEDのライトが点灯するから、まるで「お待ちしてました」と言われたような気にもなる。2月には長期間のドライブ旅行を計画しているから、その時までには、必要なものは使いこなせるようにしておこうと思っている。

・その車で、浜名湖の北にある月という村に行った。天竜川沿いで、源氏の落人が祖先らしい。秋野不矩美術館により、往復は新東名で110kmの制限速度を経験した。トラックは80kmで追い越し車線は110kmどころではない車が走っているから、車線変更に忙しかった。
・先日は八ヶ岳の清泉寮まで行ってカレーを食べた。間近の八ヶ岳は富士山同様に雪がほとんどない。ずっと晴天で、日本海の雪もここまでは届かないようだ。

2017年12月18日月曜日

U2とStereophonics

 

U2 "Songs of Experience
Stereophonics "Scream above The Sounds"

u2-1.jpg・U2のニュー・アルバムは3年ぶりである。タイトルは"Songs of Experience"。前作が"Songs of Innocence"で、対になるアルバムのようだ。U2のオフィシャル・サイトによれば、イギリスの詩人「ウィリアム・ブレイクによる詩集『無垢と経験の歌(原題:The Songs of Innocence and of Experience)』からインスピレーションを受けている。」ということだ。ブレイクは18世紀から19世紀にかけた生きた人だが、現代の詩人や作家、そしてロックミュージシャンに与えた影響がかなり強いといわれている。

・『無垢の歌』から3年経って、やっと連作になる『経験の歌』の発表ということになる。ジャケットはボノとジャッジの子ども達のようだ。前作について僕は、それ以前の作品に比べて印象が薄いと書いた。それは今度のアルバムでも一緒だ。悪くはないが、後に強烈に残るものがない。バンドを結成して40年もたてば、若いときのようなエネルギーはなくなる。そんなところかもしれない。もっとも、ブレイクの詩は「自分が死んだかのように書いたもの」と言われている。だから、収められた歌には、家族や友人、ファン、そして自分自身に宛てた手紙に形を取ったものが多いようだ。

・とは言え、このアルバムでU2が引退するわけではない。すでに新作を機に世界中を回るツアーが企画されている。ボノはパラダイス文書に名前が載って、「脱税」の疑いがかけられている。アフリカの貧困問題に積極的にかかわっているが、他方で巨万の富を手にし、ホテルを経営したり、投資活動もしている。そういったことに対して偽善者呼ばわりする批判も多い。しかし、U2とは長年のつきあいだから、僕はすべてを受け入れて、これからも注目し続けようと思っている。

stereophonics6.jpg・ステレオフォニックスの"Scream above The Sounds"は10作目のアルバムだ。デビューしてから、ほぼ2年に一枚新作を出し続けていることになる。南ウェールズの小さな村クムアナン出身の4人組で、メンバーはすでに40歳代になっている。その前作のアルバム・タイトルは"Keep the Village Alive"だった。特にその村についての歌は見当たらないから、初心を忘れないといった気持ちの表明だったのかもしれない。ヘビーなロックだが、どのアルバムもどことなくもの悲しげで、歌にはストーリーがある。それはこのアルバムでも同じだった。

・で、新作もなかなかいい。2015年の「パリ同時多発事件」の直後に作られた歌、グループを脱退し、まもなく死んだ仲間のことを歌った曲など、リーダーのケリー・ジョーンズが作る歌は、素直でわかりやすい。


俺たちの名前が知られる前
俺たちは燃えていた
俺たちの名前が知られる前
俺たちには欲望があった
俺たちの名前が知られる前
俺はおまえを失った (Before Anyone Knew Our Name)

2017年12月11日月曜日

新しい車

 

outback2.jpg・今月の1日に新しい車が来ました。スバル・レガシーとしては四台目で、前車と同じアウトバックです。色は赤、緑がよかったのですが、現在のラインアップにはありませんでした。赤とは言ってもワインカラーで、最初に乗ったレガシー・ワゴンと似た色です。乗り換えるつもりはなかったのですが、車検を通すのに60万円ほどかかると言われて、仕方なしに決めました。仕事も辞めましたから、今までのように月に2500kmも走ることはありません。走行距離は17.4万kmで20万kmまでは乗るつもりでした。

outback3.jpg・3台目は中古でした。すでに4万kmほど走っていましたから、僕が乗ったのは13万kmほどでした。購入時にアウトバックはすでに大きなモデルチェンジをしていて、僕はそれが気に入りませんでした。だから旧型で緑色の車を探して購入したのでした。それだけに、この車には愛着がありました。特に大きな故障もなく軽快に走っていたのですが、いくつもの部品の劣化が指摘されました。一番大きかったのはライトの明るさが基準以下に落ちていて、系統すべてを取り替える必要があることでした。乗っていて不都合に感じたことはないのに、改めて、日本の車検の厳しさを感じました。

・ただし、車を手放してから新車が来るまで2ヶ月ほどかかりました。ちょうどマイーナー・チェンジをしたばかりだったことや、スバルが新車の検査で不正をしていたことが発覚して、すぐに納車というわけにはいかなかったのです。スバルは実直で技術重視の会社だと言われていますから、評判をずいぶん落としたかもしれません。検査は資格のある人が行うことになっています。スバルは見習いにさせていたようですが、日産とは違って、資格者が立ち会ってやらせていたようです。それがダメだというのですが、僕は、その制度そのものが、すでに意味のないものになっているのではないかと思いました。

outback1.jpg・車が一台しかなかった2ヶ月間、特に不便は感じませんでした。ですから、二台はいらないのではないかと思うようになりました。しかしもう一台のXVは、デザインとオレンジ色はパートナーのお気に入りですが、長時間乗っていると腰が痛くなります。ロードノイズを拾って車内がうるさいですし、オーディオも貧弱です。加えて、カーナビの地図をネットで更新しようとして、なかなかうまくいかず、結局SDカードを壊してしまいました。そんなこともあって、不便ではないけど、新しい車が待ち遠しいという気にもなっていました。

・新車はかなり大きくなりましたから、車幅を気にして乗り始めています。しかし、オーディオはこれまでにないほどいい音がしていますし、追突防止やレーンキープ、あるいはアクセルとブレーキの踏み間違い防止など、ずいぶん賢くなっています。ボタンが多くて、まだまだ使いこなせていませんが、年寄りには安心感を与えてくれる装置がついています。僕はもちろん、パートナーが乗り慣れたら、XVは手放して、一台で済ますようになるかもしれません。さてこの車で何歳まで運転するか。あるいはまた、乗り換えるかもしれませんが、その時にはもう電気自動車が当たり前になっているでしょう。

2017年12月4日月曜日

伊藤守『情動の社会学』(青土社)

 

ito1.jpg・「情動(affect)」は日常使われることばではない。一般的には「感情」や「情緒」が普通だろう。英語では「エモーション」。そんなつもりで読み始めたら、なかなか難しい。この本で使われている「情動」は、自分で意識して表出される「感情」とは違って、その元になる意識以前の身体的なものである。それをさぐるために検討するのは、ウィリアム・ジェームズの「純粋経験(pure experience)」やホワイトヘッドの「原初的感受(primary feeling)」といった概念で、どちらかといえば、「感情」よりは「知覚」と関連するものだ。なぜ、意識できる「感情」ではなく、その元にある「情動」に注目する必要があるのか。著者はその理由を次のように書いている。


・現在のデジタルメディアの特性がいかなるものであり、それがどのような社会的機構を構築しているのか、そしてその機械機構のなかで知性と感性と欲望、そして情動がいかに算出されているのか。本書が試みているのは、このことを解明すること、あるいは解明するために諸概念を手繰り寄せ、実際の分析に手さぐりながらも活かしていること、そのことにかぎられている。(pp.17-18)

・デジタルメディアで飛び交う情報は、人間の歴史上かつてないほど膨大で多様なものになっている。しかし、その機械機構を支えているのはAppleやGoogle、FacebookやTwitterといったごく限られたもので、それらが感覚知覚を管理し制御するテクノロジーとして進化してしまっている。デジタルメディアを利用する人たちは自由気ままに利用していると思う一方で、感覚機能までコントロールされてしまっている状態が現実化しているというのである。それは「コミュニケーション資本主義」と呼べる社会の実現である。

・たとえば、形あるものの本質が設計図であり、生き物の本質がDNAであるように、情報の本質は、表に現れた部分ではなく、その奥に隠されたところ、つまり「情動」にある。著者が訴えたいのは、何よりこの点にある。そして、このような理論的整理をした上で分析するのは、3.11の大地震と福島原発事故と、その後に現れた石原慎太郎と尖閣諸島の購入、そして安倍首相のオリンピック招致での演説である。


・石原発言は、多くの人々の政治意識を、原発問題から領土問題へ、放射能汚染というリアルな脅威から日中の緊張関係が及ぼす脅威へ、とシフトさせる転換点を創り出したのである。言い換えれば、情動の集合的な編成が、リアルな脅威への不安から、自ら作り上げた偽装の脅威へとシフトしたことを意味している(pp.146)

・尖閣といい、オリンピックといい、正しい言動ではないとわかっていながら、それを黙認し、さらに好意的に受け止めようとする。著者はその理由を「不安のなかにあるからこそ、閉塞のなかにあるからこそ、その状況を一変させ不安を払拭させたいとする欲望」に火をつけたのだと言う。萎縮と自粛に囚われたマスメディアの追随と、SNSによる憎悪や嫌悪、あるいは賛同やナショナリズムのことばの拡散が、現実の厳しさを隠蔽し、国威発揚や希望の未来に共振する現象を作りだしている。

・このような主張には、もちろん、異論はない。しかし、「情動」がいわば人間が自覚し発散するあらゆる「感情」や「知覚」の元になるものであるとすれば、喜怒哀楽や優劣(競争)の意識、そして欲望や嫉妬、あるいは「認識」や「知覚」と「情動」の関係は、もっと多様な側面に向かう必要がある。それは途方もない作業を必要とするはずである。

・著者はまた、現在が、近代化が勃興し始めた19世紀と酷似していると言う。新聞や雑誌が生まれ、都市に溢れた人々の集まりを、「群衆」や「公衆」と名づけて注目したタルドに依拠しながら、デジタルメディアが日常的に使われるようになった今日的状況を、「ベクトルが反転したかのように、近代の諸制度から弾き出され、かつ同時に諸制度を食い破るような、その意味で(群衆と公衆という)両義性を体現する集合的な主体の生成」という事態だとみている。

・このような指摘もまた、興味深いものだと思う。しかし、19世紀に続く20世紀もまた、けっして安定した社会だったわけではない。その間に登場した写真や映画、電話やラジオ、そしてテレビといった多様なメディアもまた、それぞれに「情動」に訴えかける特徴を持っていたはずである。そのような側面を含めて、これからの仕事をどう展開するのか。ちょっと無謀に思えるほどに、野心に溢れた内容だと感じた。


2017年11月27日月曜日

『オン・ザ・ミルキー・ロード』

 

journal3-169-1.jpg・去年の9月に久しぶりに映画を見に行って以来、たびたび出かけるようになった。ただし、映画館はその時々で甲府、三島、新宿と、まったく違っている。シネコンがあちこちにできたとは言え、マイナーな映画は、どこでもやるわけではない。だからその時によって、東に北に南と車で出かけることになる。今回は三島の「サントムーン」で上映期間が短かったから、日時が限られていた。日曜日でショッピングセンターは一杯の人だったが、見た映画の観客はわずか13名だった。しかも同世代の人ばかりで、若い人はいなかった。スクリーンをいくつも持つシネコンがあちこちに作られていればこそだと思う。

・「オン・ザ・ミルキー・ロード」は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のエミール・クストリッツァが監督する、戦時下の農村を舞台にした喜劇映画である。特に場所は明らかにしていないが、ユーゴスラビア分裂後の紛争地であることは間違いない。戦争中で銃撃戦があり、大砲の音が鳴り、ヘリが上空を旋回するなかで、村人たちは何ごともないかのように働いている。泣き叫ぶ豚を屠殺場に引っ張り込み、殺処分した後の血をバスタブに流し込むと、アヒルたちが次々飛び込んで、羽根を真っ赤にする。すると虫がたかってきて、アヒルたちはそれを次々食べ始める。卵をひたすら割る人たちがいて、空襲警報が鳴ると卵を抱えて家に避難する。そんななかで、主人公の男がロバにまたがり日傘を差して牛乳を調達に出かけるのである。

・映画は最初から、えーっと驚くようなシーンが続く。出くわした熊にミカンを食べさせたり、こぼれたミルクを飲みに来た蛇に絡まれたり、なついいているハヤブサが時に彼の右肩に、時に頭の上を旋回したりする。村の男たちも女たちも豪放磊落で、飲み食い、大騒ぎをし、歌を歌い踊るが、そこは同時に戦争中の場所で、突然空爆や銃撃戦が始まるのである。物語はイタリアから逃げてきた美しい女と恋に落ちた主人公が、その女を追いかける兵士たちから逃れて、女と一緒にさまよう展開になる。主人公を演じたのは監督自身で、共演の女優はモニカ・ベルッチだ。

・ユーゴスラビアは第二次大戦後に、チトー大統領によって独自の社会主義を基本にして、東にも西にも距離を取る立場を取る国になった。しかし、その死後、以前からあった民族や地域的な対立が起こり、ソ連が崩壊し、東欧諸国が非共産化すると、ユーゴスラビアからスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、内戦状態になった。隣人同士が殺し合うその様子は長期化とともに悲惨さを極めたが、6つの共和国になって終結したのは2006年のことで、戦争は15年も続いたのだった。

・クストリッツァは、これまでにも第二次世界大戦からユーゴスラビアの分裂と内戦にいたる壮大な物語を描いた『アンダーグラウンド』(1995)で、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得している。もっともこれは2回目の受賞で、最初はまだ20代だった85年の『パパは出張中!』である。他にも『黒猫・白猫』でヴェネツィア国際映画祭で監督賞、初の長編作の『ドリー・ベルを覚えている?』ではヴェネツィアで新人賞を得ている。ジム・ジャームッシュやジョニー・デップが敬愛し尊敬する監督のようだ。僕はこの監督のことをこれまで何も知らなかった。

・クロアチアやスロベニアは最近では、日本人旅行者の訪れる観光地として人気になっている。自然はもちろん、その歴史や人々の気質など、日本とはずいぶん違うようだ。この映画を見て、そんな違いも実際にこの目で見て確かめたいと思うようになった。そのためにもこの監督の映画をもっと見ることにしよう。

2017年11月20日月曜日

不倫とセクハラ

 

・テレビや週刊誌は、もっぱら不倫とセクハラの報道で賑わっている。視聴者や読者が喜ぶからなのかもしれないが、もういい加減にしろと言いたくなる。と言って、そんなものにつきあって、見たり読んだりしているわけではない。週刊誌の見出しやテレビの番組欄を見ているだけで、反吐が出てきそうになるのだ。もっと報道すべき大事なことがたくさんあるじゃないかと思うし、性倫理を盾に弱い者いじめをする心理がおぞましい。そして何より、権力にとって邪魔な者を執拗に追いかけるくせに、権力の側についた者については、知らん顔をする。そんな姿勢があまりに露骨過ぎるのである。

・伊藤詩織さんが元TBSワシントン支局長の山口敬之にレイプされたと訴えている事件は、新聞やテレビではほとんど取りあげられていない。ジャーナリスト志望の彼女に近づいて、酒や睡眠薬を飲ませてレイプした事件は、警察の捜査で逮捕直前までいきながら、警視庁本部の刑事部長(中村格)の指示で中止されて不起訴になり、再審請求でも「不起訴相当」という判決が出た。山口は安倍首相お気に入りの記者だから、上からの力が働いたのだろうと言われている。しかし、彼女が本(『ブラック・ボックス』文藝春秋)を出しても、外国特派員協会で発言をしても、メディアはほとんど取りあげない。タレントの不倫どころではない、れっきとした犯罪なのにである。

・他方で、不倫ごときで執拗に取りあげられる人もいる。衆議院議員の山尾志桜里に対する週刊誌の取材は現在でもしつこく行われているようだし、議員が不倫などとんでもない、といった論調が相変わらずよく聞かれる。しかし、不倫は犯罪ではない。道徳心や倫理観を盾にすればもっともらしく聞こえるが、性に対する意識は人それぞれでいいし、議員としての能力に関係するわけでもない。そもそも、本人はずっと否定し続けているのである。そして何より、ここにも政権にとってやっかいな奴は叩いてしまえといった意図を感じざるを得ない。

・アメリカでは有名な映画プロデューサー(ハービー・ワインスティーン)が長年にわたって大勢の女優にレイプや性暴力を含むセクハラをくり返してきたことが明るみに出て、あらたに被害を名乗り出る女優が続出している。さらにそれを機に、有名なスターの性的スキャンダルが次々に話題にされるようになっている。力のある者がその地位を利用して行うセクハラはアメリカでも、明るみに出にくいことだった。そんなことを改めて実感した。

・こんなニュースが飛び込んできたら、テレビや週刊誌は、日本ではどうかと騒ぎはじめても良さそうなものだが、やっぱり力ある者には弱いのか、そんな話題はとんと聞かない。かつての映画スターたちの武勇伝の中に、セクハラと言うべき行いが数限りなくあったのではないか。あるいは現在の芸能界で、自らの地位を利用してセクハラ行為を強制する者がかなりいるのではないか。そんなことは容易に推測できるが、おそらく、踏みこんで取材をしようなどという人はいないのだろう。

・伊藤詩織と山尾志桜里。奇しくも同名の二人だが、僕はどちらも頑張って欲しいと思う。地位や権力を笠に着たセクハラに、泣き寝入りせず訴える姿勢が当たり前になるべきだし、有能な女の政治家として現政権を揺るがす力を持っていると期待できるからである。

・それにしても、日馬富士の暴行容疑に対する新聞やテレビの報道ぶりはあきれかえる。