内田樹『下流志向』講談社文庫
・単位とか成績に関係なく、自分の興味や関心に従って勉強する。そんな姿勢の見える学生が少なくなった。それは一つには、就職難という状況がある。たとえば僕の所属する学部では数年前に「企業コミュニケーション」という専攻を新たに作ったが、学生の希望がここに集中して、僕が担当する「現代文化」専攻は激減した。もちろん音楽好きや映画好き、あるいはアニメやファッションに関心があるという学生は今でも少なくない。けれども大学での勉強は就職に役に立つものを選択する。よく言えば、将来のことを考えた学生の選択だが、その分、余裕がなくなった学生の態度に、物足りなさを感じることが多くなった。
・内田樹の『下流志向』には「学ばない子どもたち、働かない若者たち」という副題がついている。ずいぶん前から話題にされていることでそれほど目新しい指摘ではないのだが、読んでいて、教育の場が子どもたち、そして学生たちにとって消費の場になっていて、彼や彼女たちは自らを「消費者」として認識しているのだという解釈には、思い当たることもあって興味を持った。
・消費者は大事なお客様だから、売る側は買ってくれるのなら、あるいは買いそうなら、相手が4歳の子どもだろうが、ボロをまとったホームレスだろうが、分け隔てなく丁重に対応する。消費者はお金を使う人間で、その評価は使うお金の額にあって、年齢や人格や社会的属性にはないからである。
・現代の子どもたちは、その社会的活動を「労働」ではなく「消費」としてスタートする。消費するものは何であれ「商品」であるから、消費者が何かを買う時には、「それが約束するサービスや機能が支払う代価に対して適切かどうか」が重要になる。だからこそ、モノを作り売る側、サービスを提供する側は、その魅力やお買い得であることを宣伝し、説得し、消費者を神様のように扱いもするのである。
・現代の高度な消費社会では「教育」も商品として買われるものになっている。そのことは大学にも当てはまるから、どこでも商品価値を高めようと懸命だ。ブランド力を高めるため、サービスや機能を充実させるため、そして何より宣伝に努めるために教職員に求められることが多くなった。最近の就職難を反映して、その力点はますます、就職に役立つ資格や技術や能力の獲得に向いているから、大学のカリキュラムのなかにキャリアアップの科目がどんどん増えて、何の役に立つのかわからない講義が減らされる傾向も顕著になってきた。
・大学が消費の場であるとすれば、そこに通う学生たちにが履修しなければならない科目に対して「この授業は何の役に立つのか」と問うのは自然なことである。けれども大学の授業は、これまで、「何の役に立つか」という問いを考慮せずに設けられ、続けられてきたものがほとんどだった。内田はその理由を「学びとは、学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考慮される」ダイナミックなプロセスであることに見つけている。
学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命なのです。
・もちろん、就職に役立つ資格や技術や能力を獲得しようと学べば、学びの主体は別の人間になる。けれども大学とは、もともと、何の役に立つかではなく、わからないことをわかるようにする、というよりは何がわからないかを見つけに行く場であったはずで、その意味や意義の希薄化は、大学そのものの存在を見失うことにもなりかねないのである。
・一昔前に大学はレジャーランドにたとえられたことがあった。学生が勉強しなくなったことを指摘してつけられた比喩だが、そこにはまだ知と戯れる余地が残されていたように思う。それさえ希薄になった大学を今、たとえるとすれば、それはコンビニをおいてほかにはない。消費者としての大学生とコンビニとしての大学。僕のように「就職しないで生きるには」を実践して大学の教員になった者には、この変容は何より居心地の悪さでしかない。