2019年1月21日月曜日

テレビは太鼓持ちの世界

 

henoko.jpg・辺野古の埋め立てを止めるために、アメリカ政府の誓願サイトへの署名が20万以上になった。モデルのローラやクイーンのブライアン・メイの呼びかけが大きな反響をよんだと言われている。ぼくも早い時期に署名をした。ラジオやテレビがこれをニュースとして扱ったのは、ローラの呼びかけがあって10日間で10万を超えた頃からだったが、テレビやネットには、それに対する批判や誹謗中傷が溢れた。安部べったりのお笑いタレントが、テレビで「タレントは政治発言をするな」といったのには、あきれかえってしまった。こういう発想をする人たちは「政治的発言」は権力に反対することであって、賛成するのは政治的ではないと考えているのだろう。太鼓持ち的態度はそれ自体が政治的なのにである。

・ローラに対してはCMを降ろせとか使うなといった暴言もあったが、テレビ出演やCMで稼ぐタレントたちにとっては、これが一番怖い言葉なのだと思う。民間放送はCMによって成り立っている。だからスポンサーの意に沿わない番組や出演者は、批判されたり、降ろされる危険性がある。それを恐れ、過剰に忖度する空気が、テレビ局全体を包んでいる。NHKは視聴料によって成り立っているから国民の方を向くべきだが、もうすっかり安部チャンネルになって、政府の公共機関に成り下がっている。だからテレビ局全体が太鼓持ちだと言っていい。

・テレビCMは視聴者にモノやサービスの購入を誘う目的で作られている。「欲しい」「手に入れたい」といかに思わせるか。CMのメッセージはその事に尽きている。そしてその役割を担うのがタレントたちということになる。当然だが、自分では欲しくなくても、いいと思わなくても、大げさに、買わせよう、手に入れさせようとしてどんな演技も注文通りにしなければならない。

・テレビはCMを見せるためにある。番組そのものはあくまで、CMを見てもらうための付録に過ぎないのだ。しかしぼくはそのCMを見たくない。必要の無いもの、興味の無いものを誘惑してくることが気に入らないのはもちろんだが、ただ仕事のために、「買え、買え」と連呼するタレントの無責任さに腹が立つことが多いからだ。彼や彼女たちは、自分が勧める商品に、どれだけの責任を感じているのだろうか。おそらく、そんなことはまったく考えていないのだろうと思う。

・他方でテレビはマスメディアとして、ジャーナリズム機関としての社会的役割を持っているとされている。あくまでタテマエだが、少なくとも数年前までは、そんな役割を標榜するような番組もあったし、いいたいことが言える雰囲気もあった。しかし、数少ない報道番組が中止になったり、キャスターが交代したりして、批判色の薄い内容になってしまっている。「政権に楯突く奴はテレビから出て行け!」こんな言葉が、公然と発言されるようになったら、テレビはもうおしまいだろう。

・テレビは政権とスポンサーの太鼓持ち。しかも、お馬鹿タレントやイエスマンばかりを集めたバラエティ番組で時間を埋めるしか能がなくなっている。大宅壮一がテレビを「一億総白痴化」と批判したのは、テレビが普及し始めた1950年代後半のことだが、その警鐘が半世紀以上経って、本当に蔓延してしまった。もちろんぼくは、こんな地上波のテレビは、ほとんど見ていない。

2019年1月14日月曜日

平成とは

 

・もうすぐ平成が終わる。平成とはどんな時代だったのか。メディアにもそんな特集を組むものが出始めている。戦後の経済成長によって豊かな国になったのに、昭和から平成への変わり目を頂点にして下降線をたどり続けた30年だった。それが一般的な見方のようで、ぼくもそう思う。落ち込みは経済が一番だが、政治の劣化は目を覆いたくなるほどで、少子化や格差の拡大による社会の疲弊も無残というほかはない。

・4万円に届こうかという勢いだった株価が1万円を割り、アベノミックスで2万円に回復したとは言え、実態は日銀や年金機構が買い支えるというインチキなものである。日本の企業を支える大株主が日銀や年金機構だというのは、いびつで危険な状態である。国の予算の4割を借金でまかなうのも、今では常態化してしまっている。そのために、国と地方の借金は平成元年には250兆円だったのが、30年には1100兆円を超えた。なぜ財政破綻をしないのか不思議なほどの額になっているのである。

・テレビでは相変わらず「日本のここがすごい」といった特集をやっている。しかし、経済成長をリードした家電業界は、すでに見る影もなく衰退しているし、好調だと言われる自動車にも陰りが見え始めている。平成の30年はまたパソコン、インターネット、そして携帯からスマホへといった大きな変化があった時代だが、「ガラパゴス」という閉じた発想によって、日本は完全に取り残されてしまった。

・「グローバリズム」や「少子高齢化」といった現象に、政治はまったく対応できなかった。選挙制度を大きく変え、民主党が政権を取ったりしたが、その事がかえって、政治の混迷や横暴を招く結果をもたらした。優秀だと言われた日本の官僚組織の劣化は、特にここ数年ひどいものになっている。借金財政なのに防衛予算だけが大幅に増大し、福祉や年金が削られている。団塊の世代が退職をして高齢化していく時期を迎えても、ほとんど何も対策が採られていないのである。

・少子高齢化がやってくるのは何十年も前から分かっていたことだから、今になって騒いでも後の祭りというものである。労働者の不足を補うために外国人をもっといれようとしても、その対応策はほとんどとられていない。そもそも、移民としては認めないという身勝手なものになっている。格差社会をさらにひどくするものだから、人権無視や犯罪の増加といった社会不安も増すばかりだろう。

・平成のはじまりには、ソビエト連邦がロシアになり、ベルリンの壁が崩壊して、冷戦構造も終結した。中国の改革開放が本格化し、自由と民主主義を求める波が天安門事件で粛正されたのも、平成元年のことだった。EEC(欧州経済共同体)がEU(欧州連合)になったのが1991年。世界が大きく変わることを実感させる出来事が続いた。この30年で世界の人口は1.5倍に増え、世界の名目GDPも3倍以上になった。この増加をリードしたのは、中国やインドなどのアジアとアフリカ諸国だ。

・ユーゴスラビア紛争が起こり、連邦が解体する内戦になり、中東の混迷のきっかけになった湾岸戦争が始まったのも平成のはじまりだった。ニューヨークの貿易センターに旅客機を衝突させた9.11事件があって、アメリカがイラクのフセイン政権を倒し、リビアやシリアなど多くの国に波及して内戦状態になった。多くの難民が出て、豊かなヨーロッパに押し寄せた。それを嫌うナショナリズムの高まりが、極右の政治家や政党を生み出してもいる。改めて振り返ると、昭和から平成への変わり目が、世界的に見ても大きな変化をし始めた時期だったことが分かる。

・最後に個人的なことに目を向けてみよう。平成の30年はぼくが大学の専任教員として働いた年月でもあった。途中で大学を大阪から東京に代えたが、この30年はまた学生の気質や大学という場に大きな変化があった時期でもある。大学が勉強する場であることは、ぼくが学生の頃から薄れ始めていたが、レジャーランドと揶揄され、また就職予備校へと変貌していく過程は、ぼくにとっては居心地の悪さが募っていく変化でもあった。

・今は退職し、70歳になって、これから老後と言われる生活をするようになった。今の生活がいつまで続けられるか。それはぼく自身の心身の変化に関わる問題だが、同時に、日本や世界の政治や経済、そして社会や文化がもたらす変化とも関わってくる。それにしても、両面に渡って、何とも先が見えにくい。そんなことを改めて感じてしまった。

2019年1月7日月曜日

閑人になって1年

 

hima2.jpg・仕事を完全に辞めて、年齢も70になった。自分が70なんて、ピンとこない気もするが、これはもう事実なんだと受け止めるしかない。去年の今頃は四年生の卒論集ができて、学生と最後のゼミをやっていた。週一回だったが、まだ仕事を続けている感覚はあった。しかし、それも1月には終わって、毎日が日曜日になって、ほぼ1年が過ぎた。

・毎日が何をしてもいい日だというのは、ぼくにとっては気楽だった。することは色々あって、それはすでにずっと続けてきたことばかりだからだ。たとえばパートナーと二人で暮らす生活では、昼食はぼくが作ると決めている。メニューは麺類が主で、蕎麦、うどん、ラーメン、焼きそば、パスタ、そしてお好み焼きやピザといったものだ。蕎麦とうどんには蕎麦粉を使ったかき揚げ天ぷらをつけるし、お好み焼きやガレットも、主に小麦粉ではなく蕎麦粉を使う。他に揚げ物やカレーやシチューなどを作って夕飯にすることもある。だから外食をすることはほとんどない。

hima1.jpg・田舎生活をして、できることは自分でやることにしてきたから、家のメンテナンス、たとえば大工仕事やペンキ塗りなどはずっとやってきた。秋になれば屋根にたまった落ち葉落としがあるし、冬は雪かきもある。それに何より毎年やらなければならない一番の大仕事は、半年ほど使うストーブの薪作りだ。原木をチェーソーで切って、斧で割る。そんな作業に日に数時間で3ヶ月ほどかかる。どれもこれもこれから歳を取って、いつまで続けられるか心配なほどの重労働だ。
・もう一つ日課になっていることに自転車がある。乗り始めてすでに10年ほどになるが、昨年も100日ほどで2000km以上を走った。山歩きはパートナーのリハビリをかねて、軽いところから初めて週一回ぐらいはやるようにした。ぼくにはちょっと物足りないが、それでも最近では6kmで4〜500mぐらい登るコースができるようになった。

hima3.jpg・こんなふうだから、閑人になったからといって退屈で困るといったことはない。もちろん、こんな生活ができるのは勤め人と違って、週3日しか出校しないし、夏や春に長い休みがあった大学教員の仕事をしてきたからでもある。退職して、さて何をして毎日を過ごそうか、と改めて探す人とはずい分違うだろうとは思う。しかし、教員仲間でも、ぼくのようなライフスタイルをしてきたのは例外だったから、辞めていく人たちの多くは、研究生活を続けるようだった。もちろんぼくは、すでに宣言したように、教員を辞めると同時に研究者であることも辞めた。1年経って、やっぱり何か研究しようかなどとはまったく思わないから、ぼくにとっては天職などではなかったと改めて実感している。

・仕事を辞めたら孤独になる。だから、人と接する機会をつくって孤立しないようにすべきだ。こんなアドバイスをする人が多い。しかし、ぼくにはその必要性はあまり感じられない。河口湖にはオートバイや自転車、そしてトレッキングをグループでする人たちが良く来る。大会などもあって、大勢の参加者に驚いたりもしている。しかしぼくは参加したいなどと思ったことはない。仲間と連んで何かをやるというのは、もう子どもの頃から好きではなかったのだ。何をするのも一人、あるいはパートナーと二人。これでいいじゃないかと考えている。

hima4.jpg・もちろん、人恋しくなって街中に出かけるなんてこともない。最近では東京に行くのは、両親がいる老人ホームか孫に会う時ぐらいで、他には何も用事がなくなったし、特に行きたいとも思わなくなった。繁華街を歩いてウィンドー・ショッピングをしたり、赤提灯を覗くことも、昔から好きではなかったし、今でもやりたいと思わない。好きなドライブで出かけるのも、空いているウィークデイに限って、街中ではなく山の中や海が多いのだ。

・僕等は二人揃って、団体行動や人づきあいが好きではない。だから無理に人とつきあう必要はないと思っている。しかし、こんな生活がいつまで続けられるのかと不安に感じることもある。体力が弱ったら、病気になったら、あるいは一人になってしまったらどうするか。その時になったら考えようではなく、いろいろなケースを想定して準備しておく必要はあるのかもしれない。

・閑人になってつくづく思う。暇こそが最高の贅沢なのだと。秋に大量に採った栗でおせちの栗きんとんとマロングラッセを作った。誕生日のケーキにはガトーショコラに挑戦した。材料をけちらず、手間暇かけて作る。これが食と住についての僕等のポリシーだ。「ドゥ・イット・ユア・セルフ」。手間を省き、サービスを提供されることにお金を使うのは、決して贅沢なことではない。ほんとうは楽しいことなのに、お金を払って放棄しているとしか思えないからだ。

2019年1月1日火曜日

今年もよろしく

 

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御坂山塊新道峠から富士山と河口湖を望む


いやはや、世界はどうなることか
このまま進めば、第三次世界大戦が起こるのでは
そんな不安が大げさな危惧に終わればいいと思います
昨年の正月に安部とトランプの退陣を祈願しましたが
今年もまた、懲りずに祈願することにします

完全に仕事を辞めて、毎日が日曜日の生活が日常になりました
世の中の情勢とは裏腹で
我が家は平穏無事な1年でした
東京に出かけるのは
老人ホームに親を訪ねるのと、孫に会いに行く時だけ
70歳にもなって、隠居生活も板についてきたようです

このホームページも3月には丸20年になります
アクセス数も増えもせず、減りもせず
定期的にご覧になっている方々には感謝の気持ちで一杯です
週一回の更新を面倒に思うこともありますが
訪ねて下さる方がある限りは、休まずに続けねばと思っています

今年もどうぞよろしくお願いします
それでは

2018年12月31日月曜日

目次 2018年

12月

24日:John Prine "The Tree of Forgiveness"

17日:A.R. ホックシールド『壁の向こうの住人たち』

10日:紅葉と暖冬

03日:『ボヘミアン・ラプソディー』

11月

26日:自動車を巡る騒動について

19日:米国の中間選挙について

12日:最後のジョーン・バエズ

05日:マイケル・ムーア『華氏119』

10月

29日:見田宗介『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書)

22日:戸隠・鏡池

15日:栗と薪

08日:沖縄と原発

01日:大谷君で久しぶりのMLB 三昧

9月

24日:言葉づかいが気になります

17日:フレッド・ピアス『外来種は本当に悪者か?』

10日:夏の終わりに

03日:何より駄目な日本

8月

27日:ボキャヒン、高音、わざとらしさ

20日:Chavera Vargas

13日:オリンピックはやっぱりやめましょう

06日:白神山地

7月

30日:佐々木裕一『ソーシャルメディア四半世紀』

23日:暑い!暑い!

16日:あからさますぎる情報操作

09日:ひどい政権をいつまで野放しにするのか

02日:<続>ジャック・ロンドンを読んでいる

6月

25日:ロジャー・ウォーターズとスティング

18日:自転車、車、山歩き

11日:寄る年波

04日:スポーツにまつわる不可解なこと

5月

28日:最近見た映画

21日:ジャック・ロンドンを読んでいる

14日:CDではなくYouTubeで

07日:千客万来のゴールデンウィーク

4月

30日:母の日記

23日:薄汚い政権の末路

16日:大谷の活躍にびっくり!

09日:司馬遼太郎『空海の風景』

02日:やっと春

3月

26日:退任記念号が出ました

19日:車と音楽

12日:政権が倒れない不思議

05日:「そうですね」に違和感

2月

26日:四国遍路その2

19日:四国遍路中です

12日:厳冬の日々

05日:記憶と記録、カズオ・イシグロの世界

1月

29日:日本発のアフリカと南米の音楽

22日:先生卒業

15日:『カズオ・イシグロをさがして』

08日:今年の卒論

01日:Happy New Year !!

 

 

 

2018年12月24日月曜日

John Prine "The Tree of Forgiveness"

 

prine3.jpg・ジョン・プラインはもう70歳を過ぎている。"The Tree of Forgiveness"のジャケットには、ご覧のように禿げあがって頬のたるんだ彼の顔が大写しになっている。裏は長年使ってぼろぼろになったギターだから、知らない人ならとても買う気にはならないだろう。実はぼくも買うかどうか迷った。何しろ彼は下のデビュー・アルバムのジャケットのように、格好いい好青年だったのである。しかし、昔からなじみがあって、あまり歳の違わないミュージシャンは、やっぱり買うべきだ。何しろ、引退したり、死んでしまったりする人がたくさんいるのだから、現役のうちはつきあわねばと思った。そう言えば、ぼくが持っているプラインのアルバムは、昨年出た"For better or Worse"を除けば、70年代のものばかりだった。

prine4.jpg・ジョン・プラインは1971年にデビューしている。しかしぼくが彼を知ったのはベット・ミドラーが歌ってヒットさせた「ヘロー・イン・ゼア」の作者であることを知った時からで、もうレコードがCDに変わってからだった。「ヘロー・イン・ゼア」が子どもを育て、年老いた夫婦を歌ったものであるように、彼の作る歌にはどれも物語があり、ベトナム戦争に反対するなどメッセージ性も強かった。ギター一本であまりバックもつけずに淡々と歌う曲を、ぼくは通勤途中の車の中で良く聴いた。

・"The Tree of Forgiveness"には、この名のついた曲はない。「寛容の木」とか「ご勘弁、あるいは、ごめんなさいの木」といった意味だろうが、これは「ぼくが天国に着く時」というアルバムの最後に収められた曲の中に出てくるナイトクラブの名前である。彼はそこで神様と握手をして、ギターを持ってロックンロールをやる。酒を飲み、かわいい娘とキスをし、ショウ・ビジネスを始める。そんな歌である。どの歌も主人公は老人になった彼自身で、先だった仲間を歌い、妻に限りない愛を求めたりする。多くの歌は共作で、フィル・スペクターなんていう懐かしい名前もある。バックでコーラスするのはパートナーのフィオナ・プラインの他にブランディ・カーライルなどがいる。


・つねに自然体。一人の自由な姿勢をくずさない。そして、時代の気温を親しい旋律にとどめて、ひとの体温をもつ言葉をもった歌をつくる。ほんとうに大事なものは何でもないものだ。かざらない日常の言いまわしで、なかなか言葉にならないものを歌にする。(長田弘『アメリカの心の歌』岩波新書)

・だから、今の自分の素顔を正面から写し出す。ディランもスプリングスティーンも一目置く希有なフォークシンガーだが、だからこそ格好もつけず、驕りもせず、隠しもしない。こういう人が元気でいるのは、アメリカにとって数少ない一つの光明と言える。もちろんぼくも、こうありたいものだとつくづく思った。

2018年12月17日月曜日

A.R.ホックシールド『壁の向こうの住人たち』(岩波書店)

 

hockschild1.jpg・A.R.ホックシールドは『管理される心』(世界思想社)の著者である。「感情労働」という概念を使って、主に接客サービスを仕事にする人たちが、外見だけの「表層演技」をするだけでなく、心のこもった「深層演技」を求められることに注目したものである。日本では「真心サービス」などと言われて、当たり前にする態度のように思われてきた。しかし、顔なじみならともかく、一見さんばかりの客に「真心」を持って接していたら、自分の心そのものが病んでしまう。そんな現代の病理に光を当て、原因を突きとめ対処する道具として、「感情労働」や「深層演技」はきわめて有効なものになった。「真心」を持って接する仕事は、介護や看護といった職種の中で、今後ますます必要になるものである。それだけに、ただ単に心を込めればいいとして片づけてはいけない問題だと思う。

・ホックシールドの研究スタイルは、インタビューを基本にしたものである。『管理される心』では主にフライト・アテンダントを被験者にしていたが、『壁の向こうの住人たち』でも、その内容の大部分は聞き書きされたものである。

hockschild2.jpg・壁の向こうの人たちとは、ホックシールドとは考えの違う、アメリカの右派、とりわけ「ティー・パーティ」と呼ばれ、トランプ大統領誕生に力を発揮したグループである。U.C.バークレーに所属して、リベラルであることを自認する彼女からすれば、とんでもない考え方をする人たちだが、その考えを一方的に批判するのではなく、一体なぜ、何を根拠にそんな考え方をするのかを突きとめようとした。そのためにフィールドに選んだのはジャズの町ニューオリンズで知られるルイジアナ州である。

・ルイジアナ州は綿花や大豆、サトウキビ、それに牛などを生産する農業州であるが、同時に石油や天然ガスの埋蔵量が豊富で、その油井やガス田、あるいは精製業が経済的な基盤にもなっている場所である。しかし、州の財政は厳しく政府からの多額の補助金をうけている。最近では度々巨大なハリケーンに襲われたし、メキシコ湾の油田から原油が大量に流出する事故も起きた。

・ルイジアナはアメリカの中でも貧しい州だが、ここに住んで「ティー・パーティ」を支持する人たちは、援助を含めて連邦政府の介入を批判する。石油その他の産業による海や川や土地の汚染が顕著なのにもかかわらず、環境保護運動にも反対する。直接被害を受けている人たちも、その加害者である企業の告訴はもちろん、非難することもない。そういった企業は、何より雇用を創り出してくれるものだからだ。当然、石油の消費に批判が向けられる「温暖化」も信用しない。失業率が高くて、失業保険や生活保護を受ける人も多いのだが、そういった人たちへの批判も手厳しい。

・リベラルの立場からはきわめて矛盾の多い態度だが、ホックシールドはその考えの根拠になるものを「ディープ・ストーリー」として描き出した。アメリカは自由や夢を求めて移り住んできた人たちによってできた国だ。そんな人たちが列を作って並び、勤勉さやフェアな競争によって上に、先に進もうとしてきた。多くは敬虔なクリスチャンで、開拓民やカウボーイの伝統を今でも大事なものとしている。

・だから、平等意識の高まりによって自分の前に割り込んでくる人たちには我慢がならない。黒人や遅れてやってきた移民、難民、そして女性やLGBTを公言し始めた人たちだ。もちろん、彼や彼女たちは差別意識を公言したりはしない。そうではなく、政府が決めた法律によって、自分たちが不当に列の後ろに追いやられてしまっていることに腹を立てているのである。アメリカ初の黒人大統領の登場が「ティー・パーティ」の人たちに強い危機感を抱かせたことはもちろんだし、次が初の女性大統領ではたまらないと思ったこともうなづける。だからこそ、トランプに光明を見出し、飛びついたのである。

・「ディープ・ストーリー」」は、リベラルから無知蒙昧なレッド・ネックと馬鹿にされ、経済的にも文化的にも「異邦人」のような扱いを受けていると感じてきた人たちが共有する物語である。トランプは、そんな自分たちこそ、本来のアメリカ人なのだという思いに火をつけた。ホックシールドはトランプを支持する何人もの人たちと長時間つきあって話を聞くことで、彼や彼女たちを理解し、壁を透明なものする努力をしてきて、そこから、壁そのものに穴を空けるにはどうしたらいいかを考えている。壁は強固で崩れそうにないが、ホックシールド自身が取った態度のなかにこそ、その突破口があるように思った。