・辺野古の埋め立てを止めるために、アメリカ政府の誓願サイトへの署名が20万以上になった。モデルのローラやクイーンのブライアン・メイの呼びかけが大きな反響をよんだと言われている。ぼくも早い時期に署名をした。ラジオやテレビがこれをニュースとして扱ったのは、ローラの呼びかけがあって10日間で10万を超えた頃からだったが、テレビやネットには、それに対する批判や誹謗中傷が溢れた。安部べったりのお笑いタレントが、テレビで「タレントは政治発言をするな」といったのには、あきれかえってしまった。こういう発想をする人たちは「政治的発言」は権力に反対することであって、賛成するのは政治的ではないと考えているのだろう。太鼓持ち的態度はそれ自体が政治的なのにである。
・ローラに対してはCMを降ろせとか使うなといった暴言もあったが、テレビ出演やCMで稼ぐタレントたちにとっては、これが一番怖い言葉なのだと思う。民間放送はCMによって成り立っている。だからスポンサーの意に沿わない番組や出演者は、批判されたり、降ろされる危険性がある。それを恐れ、過剰に忖度する空気が、テレビ局全体を包んでいる。NHKは視聴料によって成り立っているから国民の方を向くべきだが、もうすっかり安部チャンネルになって、政府の公共機関に成り下がっている。だからテレビ局全体が太鼓持ちだと言っていい。
・テレビCMは視聴者にモノやサービスの購入を誘う目的で作られている。「欲しい」「手に入れたい」といかに思わせるか。CMのメッセージはその事に尽きている。そしてその役割を担うのがタレントたちということになる。当然だが、自分では欲しくなくても、いいと思わなくても、大げさに、買わせよう、手に入れさせようとしてどんな演技も注文通りにしなければならない。
・テレビはCMを見せるためにある。番組そのものはあくまで、CMを見てもらうための付録に過ぎないのだ。しかしぼくはそのCMを見たくない。必要の無いもの、興味の無いものを誘惑してくることが気に入らないのはもちろんだが、ただ仕事のために、「買え、買え」と連呼するタレントの無責任さに腹が立つことが多いからだ。彼や彼女たちは、自分が勧める商品に、どれだけの責任を感じているのだろうか。おそらく、そんなことはまったく考えていないのだろうと思う。
・他方でテレビはマスメディアとして、ジャーナリズム機関としての社会的役割を持っているとされている。あくまでタテマエだが、少なくとも数年前までは、そんな役割を標榜するような番組もあったし、いいたいことが言える雰囲気もあった。しかし、数少ない報道番組が中止になったり、キャスターが交代したりして、批判色の薄い内容になってしまっている。「政権に楯突く奴はテレビから出て行け!」こんな言葉が、公然と発言されるようになったら、テレビはもうおしまいだろう。
・テレビは政権とスポンサーの太鼓持ち。しかも、お馬鹿タレントやイエスマンばかりを集めたバラエティ番組で時間を埋めるしか能がなくなっている。大宅壮一がテレビを「一億総白痴化」と批判したのは、テレビが普及し始めた1950年代後半のことだが、その警鐘が半世紀以上経って、本当に蔓延してしまった。もちろんぼくは、こんな地上波のテレビは、ほとんど見ていない。